アルトマルク(給油艦)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が運用した給油タンカーである。1938年11月14日竣工。開戦劈頭は装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの随伴タンカーとして活躍。アルトマルク号事件ではイギリス軍に襲撃されるも拿捕を免れた。1940年8月6日にウッカーマルクと改名。1942年11月30日、横浜港で停泊中に爆発事故を起こして沈没。
ドイツ海軍が建造した高速給油艦デイトマーシェン級5隻のうちの3番艦。2万トンを超える巨体を持っているが、表向きは1万トン級の艦隊給油艦として建造される。ドイツ海軍は海外の補給基地を持っておらず北大西洋の作戦にはタンカーと給油船の助力が必要不可欠と言えた。このため1930年代半ばよりディトマーシェン級の設計を開始。研究と洋上給油の訓練を重ね、スペイン内戦で集中的に洋上給油を行って得られたノウハウを活用し、誕生したのがディトマーシェン級であった。9隻が発注されていたが実際に就役したのは5隻のみ。仮装巡洋艦への改装も検討されていたようだが装甲の薄さが足を引っ張って断念している。
常にタンカー不足で悩まされていたドイツ海軍にとってディトマーシェン級は宝石のように希少だった。民間船舶では出せない高速、装甲巡洋艦の活動期間を大幅に延長出来る積載能力、損傷した艦を支援するための曳航装置まで持っており、状況に応じてタンカー、工作艦、弾薬運送船、病院船など多種多様な姿に七変化した。したがって非常に高性能だと言える。
船名の由来はザクセン=アンハルト州の歴史的な景勝地アルトマルク(Altmark)地方から。後にウッカーマルク(Uckermark)と改名する。ウッカーマルクはドイツ北東部ブランデンブルク州の地名が由来。同名の特設給油艦がいるためか混同されやすい。姉妹艦はディトマーシェン、ノルドマルク、フランケン、エルムラント。
要目は排水量2万858トン、全長178.25m、最大幅22m、喫水9.3m、最大速力25ノット(46km/h)、乗組員94~208名。開戦劈頭は丸腰だったが、すぐさま20mm高射機関砲2基を装備。最終時の兵装は1936A型駆逐艦に使用されている中口径15cm TbtsK C/36砲3基、37mm高射機関砲2基、20mm高射機関砲4基、機関銃8丁。積載能力は燃料7933トン、弾薬972トン、物資790トン、予備部品100トン。記録が散逸しているのか排水量が7000トン級だったり、最大速力21ノットだったりと資料によってスペックがバラバラだったりする。
開戦劈頭はアドミラル・グラーフ・シュペー専用の補給艦として活動。シュペーが大戦果を挙げる手伝いを行った。ところが1940年2月16日、シュペーから託された299名の捕虜をアルトマルク号事件でイギリス海軍に奪還され、自身も拿捕されそうになるも、座礁していたおかげで辛くも助かった。1941年1月からはベルリン作戦に参加するシャルンホルストやグナイゼナウの支援艦となる。燃料補給以外にもHX-114船団の先頭グループを発見する武勲を挙げ、2隻に16隻撃沈という花を持たせた。1942年9月9日に封鎖突破船になって日本へ派遣され、11月28日に横浜へと到着。そして11月30日に爆発事故を起こして沈没した(横浜港ドイツ軍艦爆発事件)。
1936年6月15日、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船社のキール造船所で750番船として起工。トロシフAの仮称で建造が進められた。1937年11月13日に進水した際にアルトマルクと命名され、1938年11月14日に竣工を果たした。船長には65歳のハインリヒ・ダウが就任。1939年春頃、中部大西洋で巡洋戦艦グナイゼナウや数隻の軍艦とともに大規模な演習に参加。
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月2日、アルトマルクは3ヶ月分の補給物資を積載してドイツを出発。ドイツ海軍はイギリスやフランスとの戦争を見越して大西洋にUボートや装甲艦の配備を進めており、アルトマルクはドイッチュラント級装甲艦3番艦アドミラル・グラーフ・シュペーの支援を命じられていた。アメリカのテキサス州ポートアーサーで装甲艦用のディーゼル燃料9400トンを積載し、8月19日に出港。アドミラル・グラーフ・シュペーとの合流地点であるカナリア諸島南西海域に向かう。ドイツ軍がポーランド侵攻を開始した9月1日午前8時5分、カーボベルデ諸島近海の洋上でハンス・ラングスドルフ大佐率いるシュペーと初めて合流して燃料補給を実施。給油作業中、シュペーのアラドAr196水上機がカタパルトより発進し、周辺の警戒を行ってイギリス艦隊の不意打ちに備えた。自衛用として20mm高射機関砲2門を受領するとともに武装水兵20名、無線通信士2名、補給士官1名が乗艦。以降、南大西洋で通商破壊を行うシュペーの随伴タンカーとなる。
そして9月3日に英仏連合国がドイツに宣戦布告した事で第二次世界大戦が勃発。今より大西洋は戦場に転じた。中部大西洋に配備された装甲艦2隻は大々的に通商破壊を行って連合国の補給線をかき乱し、強大なイギリス艦隊を釣り上げる囮役を期待されていた。しかし、ヒトラー総統は連合国との和平を望んでいたため連合国の商船、特にフランス船舶への攻撃は固く禁じられ、シュペーとアルトマルクは主要通商航路から大きく離れた大西洋上への移動を指示されてしまう。9月11日、ラングスドルフ艦長が用心のため飛ばしていたアラドAr196が英重巡洋艦カンバーランドを発見、観測員シュピーリング中尉が母艦へ緊急警報を送った事でシュペーとアルトマルクは見つかる前に逃走する事が出来た。ちなみにカンバーランドはラプラタ川河口沖を哨戒中のヘンリー・ハーウッド代将の艦隊に合流するため航行しているところだった。翌12日に再びシュペーに燃料補給。
開戦から22日が経過した9月25日、ようやく海軍総司令部作戦部から海上交通破壊開始の命令が下り、アルトマルクがシュペーに燃料補給。翌26日、通商破壊戦に乗り出すシュペーから次の補給地点と日時を指定されて分離。シュペーと違って殆ど丸腰のアルトマルクは定期的に塗装を変えたり偽装用の国旗を掲げて中立船舶を装いつつ、通常の航路から遠く離れた場所で次の補給まで待機する。10月9日、ヴェルデ岬諸島西方でアメリカ商船デルマーに偽装中、英空母アークロイヤルの艦上機に発見されるも偽装が効いていたのか何事もなく飛び去って行った。その後、拿捕した英商船ニュートン・ビーチを引き連れたシュペーが現れ、空になった燃料庫に送油を受けると同時に英商船2隻から得た捕虜をアルトマルクに移送。ただ、アルトマルク側には収容体制が整っていなかったため、急いで船内に独房と警備員を用意して何とか間に合わせた。補給が終わるとシュペーはニュートン・ビーチの船底に穴を開けて処分。10月13日、シュペーは拿捕した英商船ハンツマンを引き連れてアルトマルクと合流し、ブラウン船長以下全員を船内に収容。アルトマルクからは80トンを超える補給物資がシュペーに移され、役割を終えたハンツマンは船底に穴を開けられて沈没。10月28日、インド洋西部での作戦に備えてトリスタン・ダ・クーニャ島沖でシュペーに燃料補給。燃料を満タンにしたシュペーはケープタウン・南オーストラリア航路に潜んで敵船を喰らい尽くすべく11月3日にインド洋へ突入した。
11月26日、英巡洋戦艦レナウンに偽装するための工作を行っているシュペーと合流。インド洋で通商破壊中にアラドAr196のシリンダーブロックに亀裂が入って飛行不能になったため以降は空中警戒は受けられなかった。いつものように燃料と物資をシュペーに補給した後、捕虜の交換を実施。船長や機関長といった幹部船員はシュペーに移送し、水夫や火夫はアルトマルクが収容、ダウ船長には都合の良い時に中立国の港へ立ち寄って降ろすよう指示が下った。11月29日に一度別れた後、12月6日に南アメリカ・南アフリカの中間地点で再び合流してシュペーに給油。
12月7日午前8時、ラングスドルフ艦長は次の合流地点を指定したのち、敵船が多く集まる南米のラプラタを目指して出発。ところがこれがシュペーとの今生の別れとなってしまった。イギリス海軍の待ち伏せを受けて損傷を受けたシュペーはウルグアイのモンテビデオに逃げ込むも、敵艦隊に出口を完全封鎖されて脱出の望みを断たれ、12月17日にモンテビデオ港内で自沈。2日後、アルトマルクの乗組員はニュースでシュペーの自沈を知った。この事はアルトマルクにも暗い影を落とす。シュペー乗組員を尋問して補給船(アルトマルク)の存在を掴んだイギリス海軍であったが、元捕虜から聞き込み調査を行ってもアルトマルクの船型がハッキリとしなかったため、大西洋を中心に大規模な捜索網を張った。ベルリンの総司令部から「イギリス海軍がアルトマルクを探している」と警告を受けたダウ船長は敵の警戒が薄い南への逃走を図り、ケープタウン南西で数週間息を潜める。
1940年1月24日、真水が不足してこれ以上隠れられないと悟ったアルトマルクはドイツ本国への帰投を決意。連合軍の哨戒を巧みにかわしながら頻繁に塗装を変え、ノルウェー商船ハウゲスンやアメリカ商船チリポに偽装しつつ赤道、北大西洋、デンマーク海峡を突破。ここでアルトマルクは連合軍の臨検を回避する目的で中立国ノルウェーの領海を通過しようと考えた。国際法では捕虜の移送目的で中立国の領海を通る事は合法と認められており、アルトマルクはシュペーから預かった299名の捕虜を乗せているので、中立国の領海を通れば連合軍も手出しが出来ないのである。仮に領海内で戦闘行為を仕掛ければ国際法違反となる。
2月14日、アルトマルクがノルウェーの領海内に進入。20mm高射機関砲は甲板の下に隠されたが本来の所属であるドイツの商船旗を掲揚していた。早速ノルウェー海軍の魚雷艇トリッグとスノッグから3回に渡って臨検を受ける。捕虜は見つかりにくい船倉に閉じ込め舷窓には覆いを付けてていたが、臨検のたびに大声を叫んだり壁を叩いたりして合図を送ろうとしたため、ドイツ人乗組員がウインチを動かす際の作業音や機械音でかき消した。ダウ船長が船橋以外の調査を認めなかったにも関わらず何故かノルウェー海軍は「異常無し」と判断して通行を許可(一部資料によるとノルウェー側は異常に気付いていたが中立を守るために敢えて黙認したとしている)。ところが同日深夜、ソーナビー基地から発進してきたイギリス空軍機がトロンヘイムに入港中のアルトマルクを発見・通報されてしまう。アルトマルク発見の報はウィストン・チャーチル首相の耳にも届き、捕虜を奪還するため本国艦隊から第4駆逐艦戦隊の駆逐艦コサック、イントレピッド、アイヴァンホーの3隻を派遣。2月15日正午、航空偵察によりイギリス軍はアルトマルクこそが探し求めていたシュペーの補給船と確信。
2月16日14時50分にはスタヴァンゲル南方を航行しているところをイギリス空軍機に目撃される。16時頃、ノルウェーの魚雷艇に誘導されていたアルトマルクの視界に領海内へ押し入ってきた英第4駆逐艦戦隊の3隻が出現。手旗信号と発光信号を使ってアルトマルクを領海外へ追い出そうとするもこれを無視、次にアイヴァンホーが海岸側に回り込んで押し出そうとするがこれも失敗、痺れを切らしたイントレピッドが数発の威嚇射撃を行ったところアルトマルクが停船。しかしこれはダウ船長の巧妙な罠だった。駆逐艦が武装兵を乗せたディンギーを発進させたところでアルトマルクが急発進し、駆逐艦3隻を置き去りにして逃走。一杯食わされた慌てて3隻が後を追いかける。今度はアイヴァンホーが直接武装兵を乗り込ませようと接近。彼我の距離が約1mにまで迫った時、アルトマルクが左へ急旋回し、アイヴァンホーを振り切ると同時にイェッシングフィヨルドへ向かい、17時10分に到着。イェッシングフィヨルドは長さと幅が3kmしかない非常に小さなフィヨルドで数隻の船しか停泊出来ない場所だった。まずアルトマルクが投錨し、その両側をノルウェー海軍魚雷艇がガッチリ固めて武装兵の侵入を防ぐ。こうなってしまってはさしもの第4駆逐艦戦隊も完全にお手上げ。アイヴァンホーをフィヨルドの入り口に残して2隻は領海外へ脱出した。その後、戦隊旗艦のコサックがイェッシングフィヨルド内に突撃して強行接舷を図ったが、ノルウェー魚雷艇から魚雷発射管を向けられた挙句、「30分以内に領海から出なければ雷撃する」と警告を受けて何も出来ずに退散。18時45分に駆逐艦戦隊は領海から3海里離れた場所で待機する。
アルトマルクを取り逃がしたイギリス政府は外交筋を通してノルウェーに「アルトマルクの共同護衛」を申し出たが、「既にアルトマルクの調査は完了している」と繰り返して断固拒否。22時45分にコサックが再度フィヨルドに侵入して拡声器でアルトマルクの捕虜400名を解放する命令を受けているとノルウェー側に説明。対するノルウェーは「政府が査察を許可していない」と回答し、コサックがフィヨルド内に入ってきた事をイギリス海軍本部に抗議。進退窮まったイギリスはついに強硬手段に出る。
2月16日22時20分、単艦でフィヨルドを突き進んで来たコサックがアルトマルクに強行接舷し、武装兵が船内に乱入。銃撃戦によりドイツ人乗組員7名が死亡、パニック状態に陥った数名の乗組員がフィヨルドの冷たい海を渡って陸に向かおうとし、凍死した1名を除いて全員がイギリス軍に救助される。やがて武装兵が船倉の錠前を破壊して捕虜を解放。捕虜299名をコサックに乗せて翌17日午前1時に離脱した。イギリス軍はアルトマルクを拿捕してスコットランドの港まで曳航しようとしていたが、戦闘の最中アルトマルクが離脱を図った際に岩の上に座礁して船尾を損傷していたため、曳航を断念。生き残ったドイツ人乗組員とアルトマルクはフィヨルドに取り残された。一連の襲撃はアルトマルク号事件と呼ばれる。イギリスの国際法違反は勿論の事、スカンジナビアからの鉄鉱石輸送はドイツの生命線にも関わらず積極的に中立的立場を維持せず、ただ遺憾の意のみ示したノルウェーの対応にヒトラー総統は激怒。この事件がきっかけでノルウェー侵攻を企図するヴェーゼル演習作戦の発動に繋がった。また2月18日にはイギリス軍への報復のためアルトマルク作戦を実施し、巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、重巡アドミラル・ヒッパー、駆逐艦2隻をノルウェー沖に派遣したが、会敵する事無く2月20日に帰投している。
イギリス軍の襲撃に遭いながらも命からがら助かったアルトマルクはイェッシングフィヨルドを出発。デンマークを経由してキールを目指す。3月24日19時58分、往来する蒸気船に混じってゆっくりとキールへ向かっているところをU-3に目撃される。キール帰投後は造船所に入渠して修理を受けた。1940年8月6日、北ドイツの景勝地から名前を取ってウッカーマルク(Uckermark)に改名。ちなみにドイツ海軍には既に同名の補給艦がいた(1941年2月14日に自沈)。9月12日、北大西洋にいるアドミラル・シェーアに給油を行うためドイツを出発するも、カルムスンドで触雷損傷してキールに引き返している。アルトマルク号事件でイギリスに苦杯を嘗めさせられたアルトマルクに反撃の時は思いのほか早く訪れた。
1941年1月18日、ベルリン作戦に従って大西洋で通商破壊を行う予定の巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウを支援するため補給物資270トンを積載してキールを出撃。約110トンで戦艦が1ヶ月間戦える量なのでおよそ2ヶ月分に相当する。
3月11日、ウッカーマルクとエルムラントは2隻の巡洋戦艦と合流し、ウッカーマルクはグナイゼナウに燃料と真水を補給。荒れた海上での給油作業は困難を極めたようで、グナイゼナウに渡した送油ホースが船体とこすれて裂けてしまい、やむなく2本目の送油ホースを渡して対処。修復を終えた1本目の送油ホースを再度グナイゼナウへ渡したところ、今度は送油ホース同士がこすれて摩耗を早める事態になってしまったとか。続いて45mmのゴム製キャンバスホースを使って真水を供給。四苦八苦しながらも何とか補給作業を完了させた。この日、パリにある司令部から「以後7日間以内にHX船団に対する全作戦を停止すべし」という命令が届いた。インド洋で大戦果を挙げたアドミラル・シェーアが帰国の途に就いている事、アドミラル・ヒッパーがブレストからキールに回航されるという事で、下手にイギリス軍を刺激してはならないと言ってきたのである。ベルリン作戦終了までの僅か7日間、戦隊司令のリュッチェンス中将は少しでも戦果を挙げるため、戦闘能力が無い補給艦2隻を偵察役として連れて行くと決断。ウッカーマルク、エルムラント、シャルンホルスト、グナイゼナウの4隻は30海里間隔で間口の広い掃討隊形を作り、大洋の上に120海里からの刈り幅を設定して死に物狂いで獲物を探し求めた。
3月15日、ウッカーマルクがレース岬南方約200海里でHX-114船団の先頭グループを発見して通報。しかもHX-114船団には今まで散々悩ませてきた敵戦艦の護衛が付いていない格好の獲物だった。ウッカーマルクに誘導された2隻のリヴァイアサンは哀れな先頭グループに襲い掛かり、シャルンホルストは2隻撃沈、グナイゼナウは4隻撃沈と3隻のタンカーを拿捕する戦果を挙げた(うち2隻は回航中に英巡洋戦艦レナウンと遭遇して奪還されている)。捕虜となった敵船の乗員から「足の遅い第2グループが後からやってくる」との情報を得てドイツ艦隊の士気は向上。翌16日未明、ウッカーマルクとエルムラントは第2グループを発見してすかさず通報。シャルンホルスト、グナイゼナウは闇夜に紛れて堂々と船団内に入り込み、内側からHX-114船団を食い破って9隻の敵商船を撃沈。合計16隻(8万2000トン)を撃沈ないし拿捕する大戦果を挙げた。これはかつて味わった屈辱を晴らす最高の勝利だった。船団を蹂躙した後、水平線の向こう側から英戦艦ロドネイが出現。ロドネイは巡洋戦艦よりも優勢な火力を持っていたが、強かなリュッチェンス中将はロドネイの艦名を問う発光信号に対しイギリス軽巡エメラルドと偽り、ロドネイが砲撃を控えている間に逃走。見事安全圏まで逃げ切った。
ベルリン作戦によりシャルンホルストとグナイゼナウは、ウッカーマルクの支援もあって22隻(11万5622トン)の連合軍商船を撃沈または拿捕。連合軍の索敵網を掻い潜りながらドイツ占領下フランスへの帰路に就き、3月22日、捕虜200名を乗せてラ・ロシェルの外港ラ・パリスへ帰投。3月25日に遅れてエルムラントも入港してウッカーマルクに接舷した。
1942年8月15日、極東の同盟国日本に向かうため封鎖突破船ヴェーザーラント(元エルムラント)とともにボルドーを出発。ロワイヤンからラ・パリスまで水雷艇T4とT10の護衛を受けた。ところが、暗号解析と航空偵察によってイギリス軍に動向を把握されていたようで、8月17日にオルテガル岬沖で空襲を受ける。強化された対空砲火で2機を撃墜、3機目を撃退する事に成功するも、一旦親枢軸中立国スペインのフィステーラに退避。間もなく作戦中止となって8月20日にボルドーへ帰投した。
9月9日、気を取り直してヴェーザーラントと再度ボルドーを出港。ビスケー湾に出るまでT10、T13、T14の護衛を伴った。封鎖突破船の行動予定は司令部しか知り得ない機密情報だが、誤射を避けるため航路付近を遊弋中のU-906にはウッカーマルクの通過が知らされていた。9月24日、同じく日本に向かう仮装巡洋艦ミヒェルに燃料補給を実施。連合軍が警戒を強める大西洋、喜望峰、インド洋を突破し、11月10日に日本占領下シンガポールへ入港。ここで日本陸軍の要請で5500トンのガソリンを積載するのだが、この時に説明の行き違いがあったようでウッカーマルク側は軽油を積載したものと勘違いしていた。これが後に最悪の事態を招いてしまう事となる。
11月23日、静岡県伊東沖で捕獲網艇まつ丸が合流して嚮導を開始。館山を経由して翌24日に川崎港でガソリンを揚陸し、11月28日に横浜へ回航された。
11月30日朝、新港埠頭第8号岸壁で係留中のウッカーマルクに修理を終えたばかりの仮装巡洋艦トールが横付けし、補給物資の移載作業を開始。
乗組員が昼食を食べていた13時46分、ウッカーマルクの船体が膨らんだように見えた瞬間、大きな爆発が発生。生じた爆炎は横付けしていたトールをも巻き込み、艦内に弾薬が誘爆して13時48分に大爆発が発生。この時、同じ埠頭内には南方戦線に送るための高射砲や野砲の弾薬を積み込んでいた第3雲海丸、中国人船員41名が油槽を清掃していた拿捕船ロイテンが停泊しており、その2隻を炎が巻き込んで更なる誘爆が引き起こされた。想像を絶する爆発により岸壁付近の上屋、倉庫、建物は倒壊し、1km以上離れた市街地に破片が降り注ぐとともに衝撃波が届いて窓ガラスが割れ、地震計が反応するほどの振動まで確認。その凄まじさたるや「1トン爆弾100発分」と評される。爆心地に近いウッカーマルク、トール、ロイテン、第3雲海丸は全損着底、死者はドイツ人62名、中国人36名、日本人5名の103名に及び、被害総額は3450万円と試算。こうしてウッカーマルクは遠く離れた友邦国の港で生涯を閉じる事になってしまった(横浜港ドイツ軍艦爆発事件)。
当初はスパイの破壊工作が疑われたが、実際は説明の行き違いからウッカーマルクがガソリンではなく軽油を積載していたと勘違いし、揮発性ガスが残留した油槽でドイツ人水兵がタバコを吸ってしまった事が原因とされる。異説ではタバコではなく貨物タンク付近の修理作業中に生じた火花が原因としているが真相は不明。ウッカーマルクは死者48名を出したが入港中だったため乗組員の全滅だけは避けられた。生き残った乗組員はトールの生存者とともに封鎖突破船ドッガーバンクに便乗して横浜を出発、帰国の途に就く。しかし道中で味方であるはずのU-43に撃沈されて大部分が助からなかった。
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最終更新:2025/12/07(日) 21:00
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