アルバニア王国とは、1928年から1946年にかけて存在した国家である。
アルバニアとは、イタリア南端から見てオトラント海峡を挟んだ先にあるバルカン半島西部の国。1912年に一度独立したが、第一次世界大戦の影響で無政府状態と化し、そしてイタリア軍やフランス軍、ハンガリーオーストリア二重帝国軍に占領されて滅亡した。国家再建を望む国民は国際連盟に窮状を訴えたが、列強の思惑が絡んで事が進まなかった。
戦争終結後の1919年12月、イタリアの保護国となったが独立を望むアルバニア国民が反発。1920年3月に暫定政府を首都ティラナに設置し、憲法を定めた。国民の強い反発にイタリアは折れ、全面撤退。悲願の独立を勝ち取り、同年12月には国連に加盟。領土保全も認められた。1922年、軍司令官のアフメド・ゾクー(「ゾクー」は「ゾグー」または「ゾグ」とも表記される)が首相に就任し、アルバニア王国が誕生した。
ゾクー政権は、隣接するユーゴスラビアと良好な関係を結んでいたが、北部の領土問題が表面化して次第に悪化。ユーゴスラビアがフランスに接近している事を知ったゾクーは、対抗のためイタリアに急接近。経済援助を受け、イタリアへの依存度が増加。1926年にはティラナ条約を結び、自らイタリアの保護国になってしまう始末だった。翌年には防衛同盟が結ばれ、イタリアの影響力が増した。
せっかく勝ち取った独立を放り捨てたゾクーに、国内は大いに反発した。これを押さえるため、ゾクーは独裁政治を敷き、1928年に王政へと移行した。この頃から共産主義者を中心とした反ゾクー運動が活発化する。この年、フィエル州パトス市にてヨーロッパ最大級の油田が発見される。自国で産油できないイタリアはすぐに飛びつき、イタリア石油公団を設立して管理下に置いた。そして翌1929年に世界恐慌が発生すると、アルバニア王国も経済危機に陥る。支援を求めた相手は勿論イタリアであった。援助を受けたアルバニアは盛り返し、繁栄を極めた。しかし…。
当時の世界は、帝国主義が主流となっていた。またヨーロッパではヒトラー総統率いるナチスドイツが英仏を振り回し、奪われた失地を巧みに奪還していた。これをつぶさに見ていたイタリアのムッソリーニ政権もまたドイツを真似て、アルバニアの併合を狙っていた。アルバニアは産油国であり、産油ができないイタリア国内の需要約3割を補う重要な場所だったのだ。さらにアルバニアに対しドイツが影響力を強めている事から、ドイツに奪われる前に併合してやろうと上陸作戦を計画した。用意周到な事に、イタリアはミュンヘン会談に参加して併合を英仏に認めさせていた。
1939年3月、ナチスドイツがチェコスロバキアを解体したのをきっかけにイタリアも行動を開始。4月6日、イタリアはアルバニア王国に最後通牒を突きつけた。翌7日から上陸が行われ、国土が戦場と化した。アルバニア軍は非常に脆弱で、戦闘はわずか5日で終了。ゾクーはイギリスへ逃亡し、失脚。議会はゾクーの王位を剥奪し、イタリア王リットリオ・エマヌエーレ3世が新たな王として就任した。
イタリアの植民地と化したアルバニアは、宗主国と歩調を合わせて国連を脱退。第二次世界大戦が勃発した1940年6月10日には英仏に宣戦布告し、枢軸国入りを果たす。10月28日、イタリアがギリシャに侵攻したためアルバニア軍も攻撃を開始した……のだが、アルバニア兵の士気は総じて低く、戦う前から投降したりパルチザン化するなどイタリア軍以上のお荷物状態だった。一応ギリシャを降伏させ、得た領土はアルバニアに編入された。1941年6月22日に独ソ戦が開幕した時にはソ連に宣戦布告し、同年12月8日に大日本帝國が真珠湾攻撃を行った時にはアメリカに宣戦布告を行った。
1943年9月にイタリアが降伏すると、今度はドイツ軍に占領された。一部のアルバニア人は武装親衛隊に入隊したり、対独協力を行った。ところが1944年11月、パルチザンとソ連軍の侵攻を受けて降伏。同月28日に共産党による暫定政府が樹立された。
終戦後の1946年、王政が廃止されてアルバニア人民共和国が成立。ソビエトの影響を色濃く受けた共産政権が誕生し、アルバニア王国の歴史は幕を閉じた。
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最終更新:2024/04/25(木) 17:00
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