アントーニオ本多とは、日本のプロレスラーである。本名は本多宗一郎。ニックネームはアントン。
武蔵野美術大学では演劇と学生プロレスに没頭。卒業後もそれを続けていた所、DDTプロレス内の一ブランドであったマッスルに「イタリアからやってきたと自称する胡散臭いプロレス留学生役」を与えられデビューする。ちなみにこの頃の彼の体型は現在のようなプロレスラー体型ではなく、かなり細い。故によく動画内では「キモイ」などと言われる。
その後はマッスルだけでなくDDT本隊のリングにも上がるようになり、現在ではDDTのリングに欠かせない存在となっている。(ただし、所属はDDTではなくフリーランス。なのに、DDTの芸能部には正式に所属している。)
さらに後述記事にもあるように、みちのくプロレスや大阪プロレス、WWFなどで活躍したレスリング・マイスターことディック東郷に師事してからはレスリングの技術面や試合運びの面でも高い評価を得るようになった。2010年に新木場1stRINGで開催されたNEVER.4において、1年以上の長期離脱から復帰した天山広吉の復帰戦の相手を勤めたことからも、その評価のほどがうかがえる。
DDT以外では過去にプロレスリングFREEDOMS、DIAMOND RING(旧・健介オフィス)、紅白プロレス合戦などにも参戦。2022年現在はDDT所属の高梨将弘が現場監督を務める我闘雲舞(チョコレートプロレス)にもレギュラー参戦している。
ここではプロレスリングFREEDOMS、プロレスリング・エルドラドならびに3人以上で構成されるDDTプロレスリング内ユニットについて記す。
※なお、モンスターアーミーは最初、ヤス・ウラノ、アントーニオ本多、マサ高梨、佐々木大輔、星誕期、火野裕士で結成されたが、DDT武道館大会後の全ユニット解散命令によって、一度解散している。その後、アントン、佐々木、火野、星誕期によって再結成された。
※SUKIYAKIはエルドラドのユニット。Ken45°と佐藤豪(佐藤豪志、豪)はすぐに脱退している。
※小鹿軍団はFREEDOMS内のユニット。当初はご兄弟、アントン、アブ小、怨霊からスタートして一時はダムズを席巻したが、末期はアントン、大家、あおいちゃんだけという感じに落ちぶれた。
アントンのレスラー人生において、欠かすことのできない存在が、師匠であるディック東郷である。
2005年、DDTで東郷が新たなユニット「キューバ軍」を作ろうとしたとき、マネージャーとして抜擢したのが、まだマッスル戦士であって、プロレスラーとしては微妙な立ち位置のアントンだった。レスリングによる会話は饒舌だが、口べたでマイクアピールは得意じゃない東郷にとって、移動中にマッスル4のDVDで見たアントンの姿はユニットのフロントマンに最適だったのだろう。
これはマッスルにこそ参加しているものの、レスラーとしても表現者としても閉塞感に満ちていたアントンにとっても願ったりかなったりの話であった。彼はキューバ軍のマネージャーとしてしゃべりで活躍するだけでなく、東郷がコーチを務めていたDDTの合同練習にも積極的に参加。さらに練習だけではなく、控え室や巡業での会話でも師匠のアドバイスを受けて、しだいにレスラーとしての幅を広げていった。マッスルではアントニオ猪木のオマージュレスラーでしかなかったアントンが、ダスティ・ローデスやジェリー・ローラーを意識したアメリカンスタイルへと変貌を遂げたのは、東郷の様々な教えがあったからである。そしてそれが、一つの形として結実したのが、マッスル史に残るベストバウトと名高い、2006年のマッスルハウス2でのアントーニオ・本多対フランチェスコ・トーゴー戦。拳と拳によって奏でられた卒業試験であった。
その後も、aWoやイタリアン・フォーホースメンなどのユニットを通じて(ただし、メタルヴァンパイア時代を除く)アントンと東郷の師弟関係は長く続いた。それが袂を分かつようになったのは、東郷が佐藤光留を破ってKO-D無差別級王座に就いたときだった。「このベルトに挑戦したい奴はいつでも名乗りをあげろ!」という呼びかけに真っ先に応じたのが、アントーニオ本多。ディック東郷最後の弟子である。この年の2月に行われた神実況コンビのトークライブにゲスト出演したアントンに対し、シークレットゲストとして登場した東郷は「俺の中では引退する時期を決めています。それまでにアントン、最後のシングルをやりましょう。そのときは、思う存分パンチの撃ち合いをしましょう」と手紙に書いて読み上げた。アントンはそれを聞いて涙ながらに「あなたを越えて見せます」と誓った。時は来た。
この後、不幸にも東郷はケガをしてしまい、KO-D無差別級のベルトを返上してしまう。そしてその結果を受けて行われた、後楽園大会での暫定王座決定戦で、アントンはやはり東郷に心酔するGENTAROを卍固めで破り、KO-D無差別級暫定王者となった。ここで特筆すべきは、東郷と行動をともにするようになってから見せなくなった、アントニオ猪木の技で勝負を決めたことである。おそらく師匠を越えるため、それまで封印してきた技を切り札として解除したのだろう。かくして、アントンが「自分がやってきたことの答え合わせです」と語った、最初で最後のタイトルマッチが始まった……。
結論から言うと、アントンはこれまで教わってきた一点集中型レスリング、そして約束したパンチによる会話で師匠を追いこむも、それ以上のひらめきと技量を持つ東郷に敗れた。しかし、その後の控え室でアントンは「楽しかったです。すぐにでもまたやりたくなりました……。でも、今すぐにやっちゃいけないんだと思います」と満足げなコメントを残した。この後、ディック東郷は国内引退試合を終えてから世界のマット界へと旅に出て、アントンは今も日本で面白マッチからシリアスな試合まで、幅広いレスリングを披露している。
2012年8月1日の闘うビアガーデン2012・アントーニオ本多プロデュースデーのメインは、同じ東郷門下で友人である佐々木大輔とのシングルマッチだった。ともに師匠から受け継いだレスリングで向かい合った試合の結果は、クロス・フェースロックで佐々木がアントンを降した。試合後、2人は語った。佐々木「今日の試合、ボリビアに届いたかな?」アントン「もちろん、届いてはいないでしょう。しかし、何より大切なのは、届けようとする意気込みです。人生において届くより届かないことの方が多い。たとえ届かなくても、ボリビアにいる佐藤さんと世界中にいるFカップ以上の女性に届けるぜ!」と。そんな2人に、ボリビアから師匠はこんな心憎いメッセージを送っていた。
そして、東郷の引退試合には、アントンや佐々木、ヤスといった弟子たちが彼のレスラー生活最後を見届けるべくはるか遠いボリビアまで駆けつけた。その様子はこちらを参考に。
昨今のプロレス界では、かつての力道山と馬場・猪木のような師弟のエピソードはあまり聞かれなくなったが、アントンと東郷の師弟関係は、そうした中でも特筆すべき物語として、今後も語りつがれるだろう。
掲示板
9 ななしのよっしん
2015/02/21(土) 14:01:37 ID: dyKTl6Q7bV
>>8
それはつまり、アントンの記事としてアントンらしさをよく表現した記事という賛辞だな
10 ななしのよっしん
2015/05/09(土) 18:50:07 ID: qaMFM0y+gr
ただのカス
11 ななしのよっしん
2015/05/29(金) 11:59:08 ID: CcwQnF9UmT
>>8
まあ、ここはwikipediaじゃないんだからそこまで目くじら立てなくてもいいと思うぞ。
むしろ、こういうネタは向こうだったら要出典出されかねんしなあ
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最終更新:2024/04/20(土) 00:00
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