アンリ4世 単語

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アンリヨンセイ

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アンリ4世<Henri IV>とはブルボン朝初代のフランス王である。

生涯(1553~1610)、在位(1589~1610)

生涯

ルターの宗教改革から始まるヨーロッパカトリックプロテスタントの戦いはフランスにも波及し、ユグノーと呼ばれる新教徒と旧教徒の戦いは40年にも及んだ。それを収めたのがこのアンリ4世である。その功績から彼は後の世に大王あだ名された。

彼はブルボン朝の初代ではあるが、このブルボンもヴァロワの分でありカペー朝の血筋を引くものである。ブルボン朝フランス大革命ルイ16世まで5代続き、その後も王政復古フランス王に返り咲いたり、スペインではブルボンの血筋がいまだに続いていたりする。

英雄色を好むの例に漏れず、一定の期間交際を続けた愛人の数は生涯に73人にも上ったとされる。

基本知識

登場人物

欧州史はとにかく同じ名前がたくさん出てくるのでややこしい。とりあえず以下の重要人物だけは区別しよう。

誕生

後のアンリ4世ことアンリ・ドゥ・ブルボン1553年にナバラガスコーニュ地方のポーで生まれる。

彼の生誕地はピレネー山脈の麓、フランスの南の端っこで、はっきり言えばド田舎であった。アンリ母親ジャンヌダルブレはかつて2歳で子をなくしていたので、彼女父親が今度こそは立男子になるようにと実家ガスコーニュでの出産を望んだのである。壮大な大地に囲まれたこの地に育つ屈強な男子は「ベアルネ(ベアルンの男)」と呼ばれ、アンリもそうなるように願ってのことである。日本に言ってみれば薩摩隼人と言ったところか。

父親アントワーヌ・ドゥ・ブルボン。こちらは遠縁ではあるがカペーの血統に連なる押しも押されもせぬ王族である。彼は都会であり、身重の妻の南行きに反対していた。しかし妻の実家アルブレもまたナバラという立な王であったため強くはできず、結局は義に押し切られてしまったようだ。このナバラは大スペインフランス圧迫されていたとはいえ、中央集権の進んでいた近世フランスにおいては最後の外様大名でありフランスにとって無視できない存在であった。

後に生まれたたちが北のブルボンの領地で育てられたのに対して、アンリ少年は南に留め置かれた。祖の死後にがナバラを継ぐが二人は基本的には北で暮らしており、アンリは両と会えない生活を送っていた。幼い頃のアンリは農民の子供のように帽子も被らず、ピレネー山脈の広大自然裸足で駆け巡りを追い、身分にこだわらずとも分け隔てなく接したという。

ユグノー戦争勃発とパリでの生活

当時、ヨーロッパを取り巻いていた新教と旧教の争いはフランスにも及んでいた。時のフランスフランソワ2世はわずか15歳であり、政治の実権を握っていたのは外戚のギゾーの一族であった。ギゾー一門は熱心な旧教であり、内の新教を弾圧していた。このとき新教であったためアンリ少年叔父逮捕されている。フランソワ2世が急死しシャルル9世が即位するとギゾー一門は失脚するが、途端にまた権争いが始まる。

摂政補となったのはアンリ父親アントワーヌと、王太后カトリーヌ・ドゥ・メディシスであった。この稀代の女傑カトリーヌが望むものは新旧中道路線であり、新教アントワーヌが政権を握ることは避けるべき事態であった。そこで彼女は以前からアントワーヌの下に送り込んでいた子飼いの女スパイ(遊撃騎兵隊と呼ばれた)を通じて彼を籠絡してしまった。こうしてカトリーヌは宮廷の導権を得るが、摂政となりが立つことを恐れて自ら『統治担当』と名乗るほどの石橋叩き様を見せた。

さらにカトリーヌはアンリ少年パリに呼び寄せ、王族や大貴族の子と共に最高の教育を受けさせた。これは将来のフランスを担う人材育成と行うと共に、要人の嫡男を手元において一種の人質とする狙いもあったとみられる。ともあれアンリ少年大都会での暮らしが始まり、両とも久々に再会することができた。

だがどうも両の間が不穏である。というのは浮気がバレて母親が頭にきているところに加え、カトリーヌのスパイに懐柔されアントワーヌが旧教に宗してしまったのである。アンリ少年は故郷でただひたすら新教だけを拝んでいれば良かった。だがパリに出て彼がにしたものは間での宗教的不和。さらにフランス国王は一応旧教であったが、先述の通り国王の手綱を握るカトリーヌは中道であり、一月で新教を認めるなどして複雑怪奇な中央情勢はアンリ少年を困惑させた。

この困惑はフランス人の多くが抱くものであり、カトリーヌの宥和政策は限界を迎える。1562年、以後40年続くユグノー戦争の第一次が勃発する。宗教戦争の始まりはアンリ少年一家の和をも乱すこととなる。アントワーヌは妻を軟禁し、また息子にもカトリックへの宗を強制した(後にが戦死したために新教に戻っている)。

パリでのアンリ少年はカトリーヌから厚遇を受け、ナヴァー大学通学することとなった。得た学問自体は大したことなかったようであるが、ここでアンリは後の政に関わる多くの重要人物と関わることとなった。フランスシャルル9世(彼はアンリ少年の3歳年上にすぎない)や、後にアンリと相争うギーズアンリアンジュアンリ(後のアンリ3世)などなど。新教、旧教が入り混じった子ども世界はそのまま将来のフランス宮廷であった。田舎育ちで訛りの強い10歳のアンリ少年瀟洒フランス貴族社会ではなかなか苦労したようである。

1564年には中を巡るシャルル9世の大行脚にも同行している。解放後に南に帰っていた母親と再会したときには大を払ってまでアンリに帰郷をめたがカトリーヌは拒否した。そこで逆にジャンヌ息子に帯同してパリで一緒に住むこととなった。またこんなエピソードもある。カトリーヌはある高名な占い師がいると聞いてアンリ少年の将来を占わせた。その占い師こそあの有名なミシェル・ドゥ・ノートル・ダム1999年に人類が滅ぶと予言したノストラダムスである。ノストラダムスアンリ少年の体を検分して、

Ω<このかたは全てを受け継がれる
ΩΩ Ω<な、なんだってー!?

と予言したらしいが流石にでき過ぎているか。

ユグノー戦争(第二次〜第四次)

1565年、アンリ少年の故郷でキナ臭い動きが出始める。熱心な新教であった母親は支配地域に旧教禁止を出していたのだが、その地に隣接するスペインは強な旧教である。ナバラ宗教改革以前からスペインに何度も侵略を受けており、彼の地にとって対スペイン戦は独立戦争宗教戦争の両方の意味を持っていた。

当時のスペインは「太陽の沈まない」と呼ばれたヨーロッパ覇権国家である。カトリーヌ・ドゥ・メディシスとすれば大スペインとの戦争は回避すべきことであり、スペインとの関係を悪化させるジャンヌとその子アンリ少年が疎ましく思えてくる。かといってカトリーヌが二人を手元から逃すはずもない。そこで二人はカトリーヌのを欺いてパリから脱走し、本拠地のガスコーニュへと走った。すでに地元では旧教禁止に反発した旧教が叛乱を起こしていたが、故郷に帰ったアンリが出すると、次世代の王の登場に士気をくじかれた反乱軍は簡単に鎮まってしまった。

一方のパリでは新教が王を誘拐しようと企み(モー事件)、これに激怒したシャルル9世は新教の首に大逆罪を突きつけ第二次グノー戦争、半年ほどの間をおいて第三次グノー戦争が始まっていた。後者戦争においてガスコーニュ軍も参戦。ついにアンリもお飾りの大将ではない本当の戦争に身を置くことになる……かと思いきや、叔父が戦死したことで15歳アンリは新教の総大将祭り上げられ、また安全地帯に置かれてしまった。戦争は1570年に終結する。

1571年、アンリは王のマルグリッド(マルゴ)と婚約する。しかしこの女がなかなかの曲者であった。なんといっても男が最悪で、シャルル9世やアンジュアンリとの近親相姦の噂まであった。先の戦争期に終わったのも旧教側のリーダーギーズアンリ彼女との醜聞が流れたせいだとすら言われた。この頃、アンリジャンヌが病死するのだが、これもマルゴが殺したのではという聞すらあった。

とはいえ旧教の王のマルゴと、の後を継いでナバラ王に即位し新教リーダーとなったアンリ(以後ナバラアンリと呼ぶ)の結婚は両和解を内外に知らしめる大事な儀式であった。新教と旧教の両方の様式を折衷的に取り入れた変則的な結婚式は、しかし空前絶後の大失敗を迎える。

結婚式が終わった後の奮冷めやらぬパリで、新教の有人物であったコリニィ提督の暗殺未遂事件が起きてしまったのだ。これによりパリは別の意味で騒然とし始める。新教激怒し、もはや和ムードなど吹き飛んでしまった。新教の反撃を恐れたシャルル9世は混乱のまま「新教を皆殺しにしろ」と叫んだ。この号に応じて数千人のユグノーが惨殺された(サンバテルミ虐殺)。新教のナバラアンリも当然そのターゲットに上がる。アンリは義シャルル9世に命乞いをし、その場でカトリック宗してして何とか命を永らえた。この虐殺をきっかけに第四次ユグノー戦争が始まる。カトリックとなったナバラアンリも旧教側として参戦せざるをえなかった。

ユグノー戦争(第五次〜第七次)

停戦条約が結ばれた後にナバラアンリパリから逃げ出そうとするが、シャルル9世とカトリーヌがかつて新教リーダーだった男をそうやすやす逃すはずがない。そこでアンリは、強い野心のため冷遇されていた王アランソンフランソワと同盟を結んだ。2人は何度も脱走計画をたてては失敗を繰り返したが、やがてフランソワは脱出に成功しポリティーク(新旧の宗教にとらわれない政治を行う)を組織した。カトリーヌは残ったナバラアンリの所に美人美乳女スパイを送り込み、彼をメロメロにさせた。アンリはこの愛人にのめり込み過ぎて腎虚で体を壊すのではと言われるほどであった。

1574年にシャルル9世が崩御し、アンジュアンリアンリ3世としてフランス王に即位する。すでに第五次を数えるユグノー戦争も始まっていた。世間の戦争に集中し、愛人抜きにされたとナバラアンリへの警が薄くなる。だが彼はそんなことで志を忘れる人物ではなかった。間隙をついてついにパリを脱出したアンリは再び新教へと宗する。アランソンフランソワのポリティークと合流し、アンリ3世へと圧をかける。大人物のカムバック戦争は1576年に新教優勢で終わり、王となかんずく旧教ギーズアンリは悔しがった。休む間もく同年、第六次ユグノー戦争が開始される。ここでカトリーヌ・ドゥ・メディシスの外交手腕がり、アランソンフランソワが王側に寝返り、ナバラアンリは孤立。新教は後退を余儀なくされる。

カトリーヌにいっぱい食わされたナバラアンリを蓄えるために、本拠地とは別に自らの任地であったギュイエンヌ州で勢を伸ばしていた。この地でアンリは新教と旧教の両方にいい顔をして人気を得ながら、数々の愛人との放埓な生活を送っていたと言われる。あるときカトリーヌと正妻マルゴと例の愛人が訪ねてきたとき、アンリは色んな意味で会いたくないこの三人の女性から逃げ回っていたらしいが結局捕まってしまう。会談の後カトリーヌ・ドゥ・メディシスは戦争を止めるためにまた別の地に立っていき、マルゴは夫の元にとどまり旦那と同じく山ほどの愛人を作った。

だがカトリーヌの願い虚しく第七次ユグノー戦争が始まってしまう。火種はネーデルラントオランダ)であった。ポリティークリーダーアンジュフワンソワ(アランソンフランソワが領土の増加で名)がスペインからの独立を願うネーデルラント王座を狙ったのだ。こうしてフランススペインオランダを巻き込んだ戦争が始まる。ナバラアンリはこの戦争で多くの都市を陥して軍功をあげている。

フランス王への道

第七次ユグノー戦争が終わった1581年、ナバラアンリはモントーバン会議にて「全てのフランスの守護」に任じられ、自分の新教リーダーとしての地位を確認させた。本拠地ガスコーニュや任地のギュイエンヌではなく全フランスを名乗ることに彼の威勢が感じられる。そんな折にアンジュフランソワ死亡の通知が彼の元に届く。現アンリ3世には子がなく、今まで王位継承権第一位フランソワだったのだ。そんな彼が死んだ。では次の王はかというと外でもないナバラアンリであった。これで彼のフランス王への一気に開かれた。

この事態はフランス中に青天の霹靂となった。ナバラアンリは新教なのだから旧教としてはアンリの即位は絶対に認められるものではない。アンリ3世は義カトリック宗することを勧めるが無視された。もが戦争予感し始める。ナバラアンリはポリティークと再度手を結び、旧教リーダーギーズアンリ戦争の準備を始める。さらに度重なるセックススキャンダルのためにナバラアンリから見放されていた王妃マルゴが夫を裏切って、彼の本拠地で旧教を扇動しギーズアンリ営に加わった(先述の通り二人は元愛人同士である)。

ギーズアンリら旧教同盟はアンリ3世に「内での新教の禁止」と「ナバラアンリの継承権の効」を宣言することを強要した。ローマ教会もナバラアンリ破門した。ここまできたらカトリーヌ・ドゥ・メディシスがどう弁明しようが止まらない。ついに限界を迎えた内情勢は1583年に第八次ユグノー戦争を迎える。この戦争は、新教のナバラアンリアンリ3世、旧教ギーズアンリの3人のアンリが戦ったことからトロワ・アンリ(三アンリ)の戦いとも呼ばれる。新教(ポリティーク含む)、王権、旧教の三つ戦争である。

戦争開始直後にナバラアンリ王妃マルゴの立てこもる都市を落とし、続く戦いでも旧教率いる王軍に圧勝した。追い詰められた旧教は、ナバラアンリが兵を休ませている間にパリに入し、アンリ3世を追放する。これに怒ったアンリ3世は刺客を放ち、ギーズアンリを暗殺した。敵を倒して得意満面であったアンリ3世であるが、ギーズ暗殺に旧教同盟は激怒しておりまたも窮地に立たされる。同時期にカトリーヌ・ドゥ・メディシスが死去して心細くなったこともあったのか今度はナバラアンリに接近した。同盟を組んだ王権と新教は、旧教を押し返すことに成功する。のだが今度はアンリ3世が暗殺されてしまう。これによってヴァロワ朝は断絶。王位はナバラアンリの元に転がってくる。ブルボン朝初代王アンリ4世、ときに35歳

アンリ大王

王位に就いたアンリ4世であるが、内の信任が得られていない。カトリックを懐柔するために、内の信教の自由は保すると宣言しても旧教同盟はを貸してくれなかった。旧教同盟はアンリの対抗としてシャルル10世を擁立し事を構えた。これに対しアンリ4世はあえて首都パリを放棄して各個撃破を狙ったのだが、スペインが援軍を出してくるし、当の本人が愛人の助言によって迷走してしまうのだから事態は容易ではなかった。

そこでアンリ4世は逆転の発想にでる。なんとアンリ4世自身がカトリック宗してしまったのだ。これによってカトリックは矛先を向けるものがなくなり、支配していたパリを捨てて代わりにアンリ4世が堂々と凱旋を果たした。とはいえフランス各地にはアンリ4世に反抗する旧教がいまだ大勢残っていたし、アンリカトリックになってしまって新教は当然不満である。そこでアンリ4世は買収と軍事の両軸の攻勢で、これらの勢を潰していかなければならなかった。また内の団結を図るために(内乱も収まっていないのに)スペイン宣戦布告することすら辞さなかった。

1598年にはようやく内も際情勢も落ち着いてきて、ナントの勅で新教に信仰の自由を与えることによって内乱はほぼ定。同年、スペインとの戦争も終結させた。こうして王に即位してから9年、足掛け40年にわたるユグノー戦争を収め、アンリ4世は大王の名に恥じない業績を作った。

アンリ4世は、戦争が終わり行き場をなくした兵士たちを常備軍として取り込み、あぶれたものは海外植民地に送り込んだ。1604年にはフランスインド会社がされ、1608年にはカナダのケベックが設立されている。政治では反抗的な大貴族より中小貴族を優遇し、また減税を行い農業再生を振した。だった財政は財務総監シュリーに立て直しを行わせた。この時にポーレット法という新規課税ができた。フランス中世より官職を売りにだしており、貴族たちはこれを慣習的に世襲売買していたのだが、同法によって課税の対となると共にこれが認されたのだ。ポーレット法によって財政は一息つけたものの、法貴族が勢を伸ばし、後世のフロンドの乱やフランス大革命の折に王を苦しめることとなった。

生活の方では、子のなかったアンリ4世は王妃マルゴと正式に離婚して嫡子を得ようとした。最初は愛人の一人を正妻にしようとしたが身分が低すぎて断念。1600年に名の息女マリー・ドゥ・メディシスと結婚し、翌年に嫡子のルイ(後のルイ13世)をけている。子どもは何人か得たものの気位の高いマリーとの夫婦仲は悪かったらしく、アンリ4世はあいかわらず愛人遊びに中になっていたようだ。

後の世の人に大王などと大げさに呼ばれてみても、アンリ4世の晩年まで内情勢は安定しなかった。クーデタの陰謀、暗殺計画が休む間もくアンリ4世のに入ってくる。そこでアンリ4世は内の不満を外に逸らすためにスペインとの戦争を再開し、自ら戦場に赴こうと計画した。その矢先である。1610年5月14日パリでの政務を終えて、陸軍に向かう途中、フランソワラヴァイヤックという修士に大王アンリ4世は刺殺され、その波乱に満ちた生涯を終えた。享年56歳。黒幕がいたとの疑いもあるが結局は宗教的動機からの単独犯とされた。下手人は拷問の後に裂きの刑でバラバラにされた。

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