イスラム(教)(إسلام islaam)とは世界三大宗教の一つに数えられる一神教の一つである。
正則アラビア語(後述)に従いイスラーム(教)と呼ばれることもあり、その言葉は「唯一のアッラー(神)への絶対的帰依」を意味する。ちなみに「平和」を表し挨拶にも使われるアラビア語サラーム(سلام salaam)もまたイスラムと同語源であり、「神威の下での平安」というニュアンスを持つと同時に、アッラーの99の美称の一つ(つまり平和=神そのもの)である。
いわゆるアブラハムの宗教の一つであり、ユダヤ教やキリスト教の流れを汲む。成立は西暦600年頃と主要宗教のうちでは比較的に新しく、セミリタイアして瞑想生活に入った名門商家ハーシムのご隠居ムハンマド(モハメッド、マホメッド、マホメットとも)が、40歳くらいの頃にメッカ近郊の山中にてアラビア語で神から啓示を授かったことから始まるとされる。
信徒はイスラームの行為者形であるムスリム、つまり「唯一のアッラー(神)に完全に帰依した者」と呼ばれる。信徒数はキリスト教に次いで世界第二位の16億人。なお、キリスト教の最大信徒数を擁するローマ・カトリック教会は約11億人であるのに対し、イスラム教最大の宗派であるスンナ派(後述)は14億人以上いるとされ、宗派ごとにみればスンナ派イスラム教が世界最大となる。
ムスリムの分布はアラビア半島から西は北アフリカ、東は東南アジアまで広がっているが、最大のイスラム教国はなんと中東ではなくインドネシア。また近年では欧州全土、とくに南ロシアにおいて増加している。
なお、日本国内には外国人を含め10万人のイスラム教徒がいるとされ、さらに日本人のイスラム教徒も1万人程いるとされる。[1]
スンナ派 | シーア派 |
---|---|
イスラムはもともと同じ1つの宗派であり、開祖であるムハンマドを中心として広まっていったが、後に様々に分派しており、大きく分けるとスンナ派(スンニ派)とシーア派に分けられる。
分布や信徒数でいうならばスンナ派の方が圧倒的な多数派である。シーア派は主にイラク・イランなどにおいて信仰されている。どちらの宗派もさまざまな分派が生まれている。
スンナ派 | シーア派 | |
---|---|---|
最高指導者 | カリフ (預言者の代理人) |
イマーム (預言者の後継者) |
指導者 | 小イマーム 大イマーム |
- |
イスラム法解釈 | 法学者 [4] が議論して法解釈決めるよ | 最高指導者による法解釈こそが正当だよ |
なお宗派でルールが異なる。スンナ派の指導者は「小イマーム」「大イマーム」、最高指導者・正当後継者は"預言者の代理人"を意味する「カリフ」としているのに対し、シーア派においては"模範となる者"の意味を持つ「イマーム」が最高指導者として扱われる。
スンナ派ではイスラムの法解釈やルール決定を複数の法学者らによる合議で決めるので代理人に過ぎないカリフには独断での法解釈やイスラム教の行く末を左右する権限はない。シーア派の場合は最高指導者イマームは預言者の後継者であるため、イマームによる法解釈が正式なものとされている。
ただ、同じ宗派であっても各学派や系列によって解釈が異なり、たとえばスンナ派の場合、中世において棄教はハンバル学派などほとんどの学派で死刑とされてきたが、ハナフィー学派では禁固刑に緩和すべきとしていた。現代でも各学派や指導者によって解釈に差異があるほか、現在ではインターネットの普及により宗派を問わずインターネットの掲示板や質問サイト等に解釈を求める動きも認められる。[5]
イスラムは、概要にあるとおり最初にムハンマド自身が神から啓示を授かり、その後家族や友人へと広がり、段々と勢力を伸ばしていった。ムハンマドが死んだときは、預言者の代理人として正当な指導者を選出するカリフ制度ができたといわれている。初代カリフには、彼の友であり近親以外の一番弟子であり(9歳の娘アーイシャをムハンマドに嫁がせたため)義父でもあったアブー・バクルが、共同体での合意により選出された。
しかしムハンマド個人に対する信義と忠誠を誓っていた派閥がアラビア各地におり、「俺らが忠誠を誓ったのムハンマドさんだから。お前じゃねーから。」とカリフ決定に納得せず離反しようとしたため、アブー・バクルはこれらと戦い鎮圧、イスラム教を再統一した。
分裂の危機にあったイスラム教だったが、初代カリフであるアブー・バクルの統一以降は2代目ウマル、3代目ウスマーンまでは少々不穏でありつつも再び勢力を拡大していった。
3代目カリフにはクライシュ族の有力な一門ウマイヤ家であるウスマーンが選ばれる。だが自分の一族をメインにした政策ばかりとっていたため徐々にウマイヤ家への風当たりが強くなり、最終的にウスマーンは暗殺された。その後改めてカリフが選出され、ムハンマドの甥であるアリーが4代目カリフにつく。[6]
だがアリーとの後継者争いに敗れた、ウマイヤ家のムアーウィヤが「ウスマーンが殺されたのはアリーの一派による陰謀」として報復を叫びイスラム内で再び大きい対立が発生する。アリーが身内から分派した派閥ハワーリジュ派に暗殺されたことで5代目カリフに就任したムアーウィヤは、東ローマ帝国との戦争で手に入れた自らが総督を務めているシリアに、世襲制の王朝を開いた。これにより世界最初のイスラム帝国であるウマイヤ朝が誕生する。
ウマイヤ王朝はその後、国家として体制を整え強大な国力を有するようになる。他の派閥も恭順を誓っていきウマイヤが多数派となったためアリーを失ったアリー派は少数派へと転落した。しかしアリー派は「4代目カリフのアリーとファーティマとの子孫だけがイスラムを導く資格がある」としてムアーウィヤのカリフ就任を認めないスタンスを崩さず、アリーを支持する党派(シーア・アリー)がのちの「シーア派」に、慣行(スンナ)を重視するウマイヤを中心とした他の多数派が「スンナ派(スンニ派)」へと分裂していった。
ウマイヤ朝がカリフを選出ではなく世襲にしたことで今までのイスラムの体制とは明らかに変質しているため、一般的には"正統カリフ"とされているのは第4代アリーまでである。ちなみにイスラムにおいて現在正式に承認された最後のカリフは、オスマン帝国の皇太子であったアブデュルメジト2世(1868~1944年)。1922年のトルコ革命により共和制となり政教分離が行われた。その際にカリフ制も廃止された。
イスラム教の聖典であり、正則アラビア語の発音に従いクルアーン(القرآن al-qur'aan, 「朗唱すべきもの」)とも呼ばれる。ムハンマドが口伝した内容を文字に起こしたとされ、その言語は正則アラビア語(فصحى fuSHaa フスハー、「最も雄弁に物語る(アラビア語)」)と呼ばれ、古来よりイスラム諸地域の神聖な共通語として現在でも形を変えつつ通用し続けている(よって本項目でも随所にアラビア語を表記する)。
まあコーランはキリスト教徒にとっての聖書みたいなものだが、六信(後述)の一つになっていることからも判るように、それ以上に大切に取り扱われており、コーランを意図的に燃やしたりするだけで大騒動になるのは知っての通り。実際にぞんざいに扱わなくともそれっぽい描写が入ったアニメでさえ問題になることもある。また、コーランはアラビア語の詩的韻律の美しさにおいても大変高く評価されており、コーランが預言者が神から授かった人知を超えた奇跡であるということを示す要素の一つになっている。
イスラム教徒が守らなければならない事、信じなければならない事、行わなければならない事を纏めて六信五行という。シーア派にはイマームへの信仰を教義に据えた五信十行が存在する。
信仰告白とは、皆の前でイスラム教徒になると宣言することである。例えば家族や知人たちの立ち会いの下、聖職者の前で「لا إله إلا الله محمد رسول الله laa ilaaha illaa 'llaah(u), muHammad(un) rasuulu 'llaah(i) (アッラーを措いて他に神無し。ムハンマドこそアッラーの使徒なれ)」と唱えることでイスラム教に入信できてしまう。なお、この文句はサウジアラビアの国旗に図案化して書かれている。
礼拝は1日5回、聖地メッカの方向を向いて行う。どこでやっても良いが、金曜日の礼拝は一度は礼拝所に行くべきらしい。時間は日毎にずれ、メッカの方を向いて、立ったり座ったりしながら行わなければならないので、イスラム教徒には専用の時計(もしくは礼拝時刻がわかるアプリ)とコンパスと絨毯を持っている人が多い。
喜捨は、いわゆる施しのこと。キリスト教や仏教でも奨励されるが、イスラム教はそれ以上に大事。
断食はイスラム聖遷暦第9月ラマダーン(رمضان ramaDaan)に行うが、もちろん1ヶ月もの間に全く食えなくなるわけではない。つまり日の出から日没までの間の一切の飲食が禁止され、その間は唾液すら飲み込まない努力をする信徒もいる。ちなみに妊娠時や病気の時などには無理せず食べ、その原因が解消された時に行っても良いとされる。それにラマダーン明けは各家庭で盛大な祝宴が催されるので、痩せるどころか逆に太ってしまうとか。
巡礼は一生に一度、聖地メッカにお参りに行くことである。但し、他の4つと違い行うことが簡単ではないため努力義務となっており、実際には巡礼を済ませた者が尊敬されるという程度である。
→神については「アッラーフ」を参照
唯一神教として有名なイスラムであるが、信仰告白لا إله إلا اللهを英語に置き換えると、no god but Allah(神は存在しない。ただし、アッラーを除いて)となり、最初に神の存在を否定することから出発している。
これには世界に存在するあらゆるものの神性を否定し、その前提に立った上でネガとして仮想される宇宙の造り主をアッラーと同定するという構造を持っていることと関係しており、「アッラーが宇宙を造った」ではなく「宇宙を造った御方がアッラーである」という言い方にした方が分かりやすい。そのため、この世で起こる全ての事象は神の意思であるという立場を取る。
神性の否定は預言者であるムハンマドにも徹底されており、コーランではムハンマドについて「飯を食い、市場を歩く人間」という記述が登場する。ただし、一部のスーフィーの間ではムハンマドが超越的存在として解釈されたり、シーア派ではお隠れになっている第12代イマームが審判の日に蘇るという信仰がなされていることもある。
アッラーは被造物である時間と空間、あるいは異次元のどこにも存在しておらず、それらの外に存在するものとして区分けされている。その姿は見えるわけではなく、被造物である人の姿をしているわけでもないとされる。それは、コーランにおいて「玉座に坐し給うお方」「手」などの記述が人間的であるとしてこの解釈を巡って論争が巻き起こるほどである。一方で、アッラーは意思を持った人格神であり、罪人を火獄に送る峻厳な神でありながら、専ら人間を赦し楽園に導く慈悲の神として描かれる。
また、日本神道などで称される神は宇宙を創造した絶対者という属性を持っているわけではないため、日本における多神教とイスラムにおける一神教は矛盾しないという見方もある。
戒律が厳しいことで有名である。これは「クルアーン」に次ぐ重要な第二の聖典「ハディース」がある為で、両者合わせての禁則事項はかなり多い。
しかしイスラームの戒律は「軽微なものが破られれば来世の天国への道が遠のいて(最後の審判で)地獄に落とされる可能性が高くなり、重大なものが破られればイスラーム法に則り現世で厳重に処断される」という趣旨が基本である。
つまり軽微なものに限って言えば破っても即バチが当たるといった性質のものではなく、また意図的な違反でなかったりやむを得なかった場合はノーカウントとされることになっている。
イスラム教国にはこれら戒律などを含めたイスラム法が存在し、またその取り締まりを行うための宗教警察が存在するのが普通である。不倫や同性愛などもビシビシ取り締まられる。
こうした国で最も有名かつ突き抜けているのが「我こそが聖地メッカの守護者である」と、ことある毎に主張する原理主義的サウード王家の国、サウジアラビアである……が前述の通り、徐々に「穏やかで開かれた国」へと方針が変わりつつあり、「イスラムだから」と決めつけてかからない柔軟な姿勢は重要である。
一般的には「剣か、コーランか」(戦争か、改宗か)と言う言葉で例えられるように、自らの主張を非常に暴力的に押し付けるイメージで見られる場合が多い。しかしこの言葉には続きが有り、実際には「剣か、コーランか、人頭税か」であって、たとえイスラム教徒の支配に下った国の民であっても、人頭税(ジズヤ)と言う別税を支払いさえすれば自らの宗教を信じ、その戒律に従い続ける権利が認められた。
そのため様々な制約はあったものの、イスラム王朝下のインドにおいてもヒンズー教は発達したほか、エジプトのコプト派、イラクのネストリウス派などのヨーロッパでは迫害されたキリスト教派、イランのゾロアスター教などの古代宗教も現代まで生き延びることが出来た。しかもその人頭税さえ、実際には商業推進のため免除される場合が多かった。
それでも多神教に対しては「コーラン以前の段階」と看做すことも多く、そのため古代仏教の一大拠点であったナーランダ大学を破壊するなどのことも時には有った。しかし、自分達と同じく「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒、キリスト教徒のことは「啓典の民」と呼び、一定の尊重を示し続けた。そのためキリスト教からの改宗者の子弟を中心としたイェニチェリ軍団は後にオスマン・トルコを事実上で支配し、キリスト教圏では迫害されていた時代にもイスラム圏のユダヤ教徒は安全に生活を送ることができた。
その反面、キリスト教徒は一貫してイスラム教を邪教として敵視し続けてきた。例えば中世欧州文学の名作として名高い「ローランの歌」はイスラム教徒への侮蔑と罵詈雑言に満ち、近世フランスにおいて編まれた百科全書派の辞書にも「ムハンマド=有名な ならず者」との表記が見られ、ほかにもムハンマドが黒ヤギに女性の上半身を接ぎ木したような外見のバフォメットという悪魔にされるなど、近代以前のヨーロッパの出版物においては様々な形で「異教徒」への悪意を見ることが出来る。
加えてエルサレム奪回の名目の下に行なわれた十字軍においては、実際の現場では商取引など戦争以外の様々な交流が行なわれたにもかかわらず、それを知らない一般民衆の間では「異教徒」であるイスラム教徒への憎悪が様々な形で煽られることとなった。その当時から受け継がれて来た『あいつらは狂信的、暴力的』との偏見は、イスラム圏を植民地として支配下に置いた時代の優越感と入り混じりながら現在まで続いているとされる。
またユダヤ教徒とは、中世から20世紀の半ばまでの非常に長い期間にわたって互いに良い関係を続けてきた。しかし第一次世界大戦の最中、当時パレスチナを支配していたイギリスが「バルフォア宣言」(1917)によってユダヤ人、「フサイン=マクマホン協定」(1915)によってアラブ人(パレスチナ人)の双方に、「/人◕‿‿◕人\ボクと契約して魔法少女味方になってくれたら、君の望み通りパレスチナをあげるよ」と囁いてしまった。それ以来、どちらにとっても非常に重要な聖地であるエルサレムを含むこの地域の帰属を巡り、両者の確執は一気に激烈なものとなってしまった。そのどちらも一歩たりとも引くことの出来ない険悪な関係は、未だに修復の目処が立たない。
ちなみに、イギリスはイスラム圏の東側でも似たようなことをしており、植民地化したインドの住民が自分に歯向かうことのないよう、ヒンズー教徒とイスラム教徒との対立を煽り続ける「分断統治」を徹底して行った。そのせいで現在でもイスラム圏とヒンズー圏の間では比較的、確執の起きやすい緊張した関係が続いており、特にインドとパキスタンにおいては、どちらも核武装国であることからその動向に世界の注目が集まっている。
意外かもしれないが、イスラム教は聖書を聖典として認め、キリスト教の開祖であるイエス(イーサー)を五大預言者の一人に数えており、また、ユダヤ教・キリスト教と共通しているノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)もその中に入れている。これはイスラムのアラーとキリスト教のエホバの神が同一の神と解釈しており、イエスらが伝えきれなかったか誤伝された預言を、最後にして最大の預言者ムハンマドが伝え直したとされているためである。
逆に大きく違うのは、三位一体説(父:神と子:イエスと聖霊は結局一心同体である、要するにイエスは神でもあるという考え)が主流でイエス自身が信仰されているキリスト教に対し、イスラム教はイエスを普通の人間と認識していることが大きく違う。イスラム教ではムハンマドも一介の(最上で最後とはしているが)預言者としてしか考えられていないが、これはムハンマド自身が「崇拝すべきなのは神である」とし「自分はその言葉を預かっただけのただの人間に過ぎない」と宣言するなど、徹底的に個人崇拝を否定し続けたためである。
ちなみにキリスト教は当然、ムハンマドを預言者とは認めておらず、コーランもデタラメと解釈している。またユダヤ教は、イエスとムハンマド、そのどちらも預言者として認めていない。
預言者と「イスラム教」「キリスト教」「ユダヤ教」の関係を分りやすく描けば次のようになる。
預言者認定 | イスラム教 | キリスト教 | ユダヤ教 |
---|---|---|---|
ノア | ● | ● | ● |
アブラハム | ● | ● | ● |
モーセ | ● | ● | ● |
イエス | ● | ● [9] | |
ムハンマド | ● |
また、上記以外にも西洋的な倫理観や価値観(個人主義や民主主義、人権問題、男女同権など)と対立することも多い。
例えば、イスラム教では条件によっては16歳未満でも結婚出来るとされ、比較的近代的な法体系を備えるマレーシアでも14歳の少女との結婚は条件を満たしていれば可能と判断された例がある。
つまり幼女と結婚できる。
預言者ムハンマド自身も56歳の時に3番目の妻アーイシャ(当時9歳)との婚姻を「完成」させたとされているが、それはさておき[10]。
またイスラム教国は一夫多妻制を認めている国も多く、この点も西洋諸国と対立している。
他にも、政教一致(近代国家は政教分離が基本である。但し世俗主義をとるトルコ、国教を決めていないインドネシアなど例外も多い)、死刑も含めた残酷な刑罰(鞭打ち刑、石打ち刑、報復刑)といった先進諸国が問題視しそうな物事は多い。
そのため「哲学や理念と言った点において、イスラムと西洋近代の価値観は必ずしも相容れないとは言えない」などの声明も欧米人を含む一部の学識者から出ているものの、そうした考え方は現実の政治的な動きに対して未だ大きな影響力を持つことの出来ない状態が続いている。
ジハード(جهاد jihaad)は日本語ではしばしば中二尤もらしく「聖戦」と訳されるが、これはほんの一面的かつ恣意的な解釈に過ぎない。アラビア語では「奮闘・努力」という日常的な言葉であり(例えばヒンズー教徒であるガンジーのインド独立に伴う活動もアラビア語では「ジハード」と訳されている)、宗教的な文脈においては「ムスリムとしての奮闘・努力」を指す。その行為者形複数ムジャーヒディーン(مجاهدين mujaahidiin)も宗教的な文脈において 「ムスリムとして闘い励む者たち」となるが、これにも「聖戦士」「イスラム戦士」といった中二病な物騒なレッテルを安易に貼るべきではなく、「闘士たち、努力家たち」という素朴な本義がある事を憶えておくべきである。
ジハードは大きく「内へのジハード(大ジハード)」と「外へのジハード(小ジハード)」の2つに分けられる。前者は内なる自己に対する努力であり、ムスリムとしての自身を高めていくことを目標とし、信仰者の日常行為の規範として非常に重視されている。後者は外なる他者に対する奮闘であり、アッラーの定めに従うイスラム法による秩序の拡大・浸透が目標となる。
だからこそ、異教徒であってもイスラム法に従って人頭税さえ支払っていれば今まで通りの宗教生活が保障されてきたのである。また、あくまでジハードの一手段に過ぎない「聖戦」にしても「異教徒が我々に戦いを挑んで不義を働いた場合に限る」とコーランに明記されているので、何でもかんでも戦いを吹っかけられるというわけではないのだ(その分、報復は執拗かつ容赦無いとも言えるが)。
しかし近年、ジハードは過激派イスラム教徒のテロの大義名分としてよく使われている。有名な例で「ジハードを行うと天国に行け、72人の処女を抱ける」というものがある。しかし、そうした主張については他のイスラム教徒から不適切であるという意見が出ることも多い。
また本来は(乱暴な例えだが)イスラム教徒版教皇とでも言うべき教主(カリフ)と呼ばれる教導的地位にある人物しかこのジハードは認定する事が出来ない。しかもこのカリフ位は、モンゴル帝国による侵略時に殺されて以来、新しい人物が立っていない。[11]にもかかわらず最近では、ただイスラム教徒であるというだけで時には聖職者ですらない人物が「聖戦」を唱えるなど、明らかに怪しい使用例も多く見られる。
また、先行きの見えない貧困者やまともな教育を受けない者たちに対し、過激派がテロや蜂起の決行を煽る為にこのような餌を使う例は古今東西に見られ、別にイスラム教に限った話でないことも心にとどめておく必要がある。
掲示板
4620 ななしのよっしん
2024/10/06(日) 02:29:15 ID: /2YVFZmLXm
>>1917 ジャレドダイアモンドの番組でも見ると良いよ。
なぜモンゴルはユーラシア大陸ほとんどを征服したのに、今や小国なのだろうか?なぜアフリカは人類発祥の地なのに文明の拡大が遅れ開発途上国が多いのか?なぜ新大陸は同上。
答えはモンゴルは馬がいたから、アフリカや新大陸には馬がいなかったかららしい。
その流れで言うとイスラム圏もアラブ馬とラクダの貿易で発展し軍事的にも強かったが、馬に適応しきったモンゴルにボコられ、次はヨーロッパの帆船に物流の主役を奪われ、またアジアの様に人口と教育ボーナスも無かったためにこうなった感じでは。
4621 ななしのよっしん
2024/10/06(日) 04:17:34 ID: 09T1Ui9jXl
ジャレドダイアモンドって調べないでかなり適当にものいうお人だからあんまり間に受けない方が良いと思う
これとか
https://
面白いけどね
4622 ななしのよっしん
2024/10/10(木) 17:04:10 ID: 1n2JYQVttB
ムスリムと言うだけで宗教に関心ない人と他の宗教信仰している人にとっての害悪にしかならないからな、統一や創価よりも余程質が悪い。
急上昇ワード改
最終更新:2024/10/14(月) 14:00
最終更新:2024/10/14(月) 14:00
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