イルクハナテ 単語

イルクハナテ

4.2千文字の記事

イルクハナテ(Ilkhanate)とは、13世紀の西アジアに勃興した謎の国家である。

概要

Paradox社による中世ヨーロッパ~アジアを舞台とする歴史戦略ゲーム『クルセイダーキングスII』の公式日本語版で発生した誤訳。謎の国家イルクハナテの正体は、本来は「イルハン朝」「イル=ハン国」などと訳されるべき西アジアの遊牧民帝国Ilkhanateのことである。

「イルクハナテ」という訳出は、上記したような歴史学的な定訳を選ばず、「~国家」「~体制」などの意で用いられる英語の接尾辞ate[1]も訳さずにローマ字読みしたことによって生じたと思われる。歴史知識のあるプレイヤーを困惑させた謎のイルクハナテ帝国は、日本語ローカライズを手掛けたサイバーフロント社(現存せず)が世に送り出した数ある迷訳の典型例として語り継がれている。

経緯

2012年2月にParadox社が発売した、十字軍時代のヨーロッパ〜西アジア(当時[2])を描く歴史戦略ゲーム『クルセイダーキングスII』。その公式日本語ローカライズ『クルセイダーキングスII【完全日本語版】』は同年9月、過去にも『ハーツオブアイアン2』など様々なParadox歴史戦略ゲームのローカライズを引き受けてきたサイバーフロントから発売された。

そのゲーム内で、プレイヤーはマップの右端近くの西アジアに姿を現した「イルクハナテ」を目の当たりにすることとなった。イルクハナテの勇姿を目に焼き付けてしまった当時の日本語版プレイヤーの様子を、日本語ファンサイト「Crusader Kings2 Wiki」exitのコメント欄から見てみよう。

  • イルクハナテという謎の部族が・・・ -- 2012-10-05 (金) 23:20:19
  • Ilkhanateのことですか?それは「イルハン朝」だと思いますが。英語で「-ate」という語尾は王朝の名前などを表すためのものです。 -- 2012-10-06 (土) 00:00:44
  • イルクハナテな・・・俺も見たときはたまげたぜ・・・ -- 2012-10-06 (土) 06:07:13
  • 信じられないと思うが、日本語版だとイルハンがイルクハナテと翻訳されてんのよ。 -- 2012-10-06 (土) 06:11:01

- Crusader Kings2 Wiki「連絡・コメント・雑談」コメントページexitより

歴史ファン的に欧州ほどメジャーとは言えない地域とはいえ、流石に「イルクハナテ」にはプレイヤーもハテナを浮かべている様子が見て取れる。明らかに、歴史上にイル=ハン国、あるいはイルハン朝などの呼び名で知られる「Ilkhanate」を文字通り読み下してしまったことで生まれた謎の勢力であった。あえて英語読みするとしても「イルカーネイト」くらいになりそうなものなのに、イルクハナテ。

なお、近隣には「ゴールデンホード」が居を構えていた(Golden Horde、キプチャク=ハン国とも呼ばれるジョチ・ウルス[3]のこと。Hordeは「幕営」を意味するモンゴル語の固有名詞で「オルド」[4]と読み、国家名として使うなら「ゴールデン・オルド」ないし「黄金のオルド」あたりが定訳)。

サイバーフロントの翻訳

サイバーフロント(CF)による外国製ゲームの日本語訳は、『ハーツオブアイアン2』における伝説的な「かかってこい!相手になってやる!」、独特の雰囲気を漂わせる被宣戦布告の報告「閣下、性根の腐ったブタ野郎の〜」、『シヴィライゼーション4』における「貴公の首は柱に吊るされるのがお似合いだ」など、プレイヤーの感情を刺激する多くの名訳文で知られていた。

だがそのいっぽうで、特にParadox製歴史ゲームで用いられる膨大な固有名詞データに潜む誤訳の多さでも悪名高いゲーム会社であったといえる。その多さは、『ハーツオブアイアン2』当時、日本語訳の修正を目的とするMOD制作の一環として作成された誤訳の一覧exitから明らかに見て取れる。このページを主たる参考として、CFによるParadox製ゲームの翻訳を見ると、おおむねフランス語とドイツ語とイタリア語とスペイン語とロシア語と中国語とポーランド語とハンガリー語と世界史と地理と固有名詞に弱い傾向があり、それらと比べるとラテン文字の英語読みには強いといえるだろう。

そう考えると、「CFの誤訳」と言われるものはたいてい、ローマ字読みか英語音訳的な、ごく素朴な誤訳である。特殊な国名や称号を理解していないとか、フランス語人名のhにハ行音を当てるとか、Haile Selassieを「ヘイル・セラッシー」と読んだりするのはそれで説明がつく。東経90度海嶺(Ninetyeast Ridge)に「ニネティースト海嶺」と当ててしまっている例などは極致だが、大体の日本人は東経90度海嶺を知らないと思われるので、発想として訳出がそうなってしまうことは理解の範疇にある[5]。

問題は、翻訳を改めて調べて適切なものに直す「監修」が不十分と言わざるをえないことで、それにより生じた誤訳の責任はもちろんCF社にある。全世界にわたる言語・歴史・文化の監修を行うのはたいへんな労力だろうし、そもそもラテン文字圏なら固有名詞は文字そのままでよいところ、発音と慣例的な定訳を考慮して日本語を当てなければならない非ラテン文字圏特有の作業を余儀なくされてもいるわけだが、そこまでローカライズとして当然すべき仕事と言われれば仕方のないところではあった。

Ilkhan

イルハン朝は「イル=ハン国」などと呼ばれることもあるが、この「ハン」とは、モンゴル語で部族の長を意味する「カン」のことである。有名なチンギス・ハーンもカン(ハン、Khan)であった[6]。

この「ハン」を君主が称号として名乗った国を「ハン国」と呼び、12世紀以降ユーラシアを席巻したモンゴル帝国傘下の国家やその後裔の諸国にしばしば見られる。中央アジアのコーカンドを都としたコーカンド・ハン国、黒海に面するクリミアが中心地だったクリム・ハン国、ブハラを首都に20世紀まで存続したブハラ・ハン国などである。

イルハン朝も、チンギス・ハーンの孫フラグ[7]を祖とし、多数のハン国の緩い連邦のような存在であるモンゴル帝国を構成した大国のひとつである。しかしイルハン朝は、他のハン国と異なり「イルという地のハン国」ではない。「イル」は地名ではなく、「イルハン(Ilkhan)」でひとつの称号である。khanにくっついたイルIlの意味の解釈については複数の説があるようなのであえて触れないが、とにかくイルハン朝の君主は、称号として「ハン」ではなく「イルハン」を用いていたわけである。

このイルハンIlkhanの称号に、「~の職」転じて「~をトップとする国家・体制」のような意味で使われる英語の名詞語尾-ateを付け加えた英語表記がIlkhanateである。対して単なるハン国はKhanateであり、前述したブハラ・ハン国であればKhanate of Bukharaと記述される。イルハン朝も、Khanate of Ilは(本来の称号を無視してしまうので)無理としても、せめてIl-Khanateくらいの英語表記だったとしたら、よりによって「イルクハナテ」ではなく充分に許容できる範囲の翻訳になっていた、かも。

-ate

さて、前述した通り英語の名詞語尾-ateは、「~をトップとする国家・体制」を意味することがある。別にハン国やイルハン国に限ったことではなく、他にも少なからず存在する。英語で似たような使い方をされる語尾として「~の国家」のような意味になる-dom(王国Kingdom、公国Dukedomなど)があるが、同じ称号に対して双方が使用されることはなく、使い分けられている様子である。

せっかくなので、以下に主なものを例示してみたい。

語句 意味 語源 イルクハナテ式 備考
Caliphate カリフ制
カリフ国
カリフ
Caliph
キャリファテ CFはルーマニア王Carol II(カロル2世)をキャロル2世と訳した前例がある
Despotate 専制公国 専制公
Despot
デスポタテ 東ローマ帝国にあった地方領主の称号
Emirate 首長国 アミール
Emir
エミラテ 現代ではアラブ首長国連邦(UAE)を構成する首長国がこのEmirate。複数形Emiratesはエミレーツ航空で知られる。
Khanate ハン国 ハン、カン
Khan
クハナテ この記事の遠因
Palatinate 宮中伯領 宮中伯
Palatine
パラティナテ ドイツ西部のプファルツ地方の英語名でもある[8]
Shogunate 幕府 将軍
Shogun
ショグナテ 諸国の例に漏れず、日本の征夷大将軍統治も-ate化されている。徳川幕府はTokugawa Shogunate
Sultanate スルタン国 スルタン
Sultan
スルタナテ 現代の独立国家ではオマーンだけが公式英語表記をSultanate of Omanとして残している

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関連リンク

関連項目

脚注

  1. *本来、この場合の用法では「~の役職」を意味する名詞語尾で、転じてその役職をトップとする国家や体制を意味するもの。
  2. *発売時のマップはヨーロッパ西端からペルシャ近辺までだったが、2014年の拡張で中央アジア~インド東端までマップが拡張された。
  3. *チンギス・ハーンの長男ジョチを祖として成立した、モンゴル帝国を構成する遊牧国家。
  4. *ニコニコ歴史戦略ゲー的にはラッチと「うわわ…うわわ~」する場所として有名だが、別にそういう行為のためだけの場所ではない。
  5. *英語読みするなら「ナインティイースト海嶺」であろうが、場所がインド洋のどまんなかなので、英語っぽく見えるだけの現地語地名と考えてしまう余地はある。
  6. *ちなみにカン(ハン、khan)とカアン(ハーン、khaan)は異なる称号である。ちゃんと説明するとややこしいのでしないが、この記事ではカアンはもう出てこないので、ハンの意味だけわかっていれば大丈夫。
  7. *元寇で有名な皇帝フビライの兄弟。「フラグの西征」で知られる人。
  8. *プファルツ地方がライン宮中伯領だったことから。宮中伯がライン宮中伯の他に残らなかったために固有名詞化した。
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