インダス川流域に起こったインダス文明は世界4大文明の一つ。インドは日本では古くから天竺と称され、また日本、中国、インドを合わせて三国(三国無双、三国一の美人)などと呼ばれていた。
日本人でインドという国を知らない人はいないだろうが、その割りには文化、歴史はほとんど知られていない。その理由は地理的な距離というのもあるが、その歴史のあまりのカオスさも主因の一つだろう。
インド史は中国と違い歴史上統一王朝がほとんど誕生せず、中央アジア、西アジアからの軍事的、文化的流入により複雑な歴史模様を描いている。結果異なる文字を用いた征服王朝は過去の史書を受け継がなかった。
さらにインドの伝統的な世界観は過去から未来へ一方向に進む時間軸ではなく、過去と未来が循環して繰り返される輪廻思想が主軸としてあり、史書の編纂に熱心ではない。過去も未来も同じことが続くなら記録を残す必要はないだろうという考えである。
さらにインドにおいて文字を記述するフォーマットとして主流であったのは紙や羊皮紙ではなく貝葉であった。
これは葉を簡単に加工したもので製造が容易だが記録媒体としては保存期間が短く環境が整った場所であっても100年程度しか持たずボロボロに崩れてしまう。これらはインドの辺境ネパールなどの寒冷地においてよく保存されたが、インドのほとんどは熱帯であり過酷な環境と虫食いにより多くの資料が失われてしまった。
結果としてその歴史の古さの割に歴史として詳細を語ることが出来ず「史書なきインド」と呼ばれるような状況になっている。
紀元前2300年〜紀元前1800年頃にインダス川流域にインダス文明が起こった。ここに住んでいたのはドラヴィダ人(それ以前に別民族が住んでいた説もある)。インダス文明の有名な遺跡にはインダス川上流のハラッパー、中流のモヘンジョダーロがある。
インダス文明では高度な都市が築かれ、下水設備まで完備されていたという。一方でエジプト文明のピラミッドのような巨大建築物がないことから強権政府がなかったことが伺える。彩文土器や印章も発見されているが、それに描かれたインダス文字はいまだに解読されていない。
紀元前1800年頃、インダス文明は衰退し、ガンジス川へ文明が波及する。
紀元前1500年頃にイラン高原(現在のアフガニスタン辺り)に住んでいたアーリア人が南アジアに侵入する。アーリア人は牧畜や農耕を営む武力に優れた遊牧民であった。彼らは紀元前1000年頃にインダス川からガンジス川に移動。鉄器を用いて先住のドラヴィダ人を駆逐する。アーリア人は支配したドラヴィダ人をシュードラに組み込んだものと思われている。
インドに定住したアーリア人には神へ讃歌を捧げる文化があり、これをヴェーダと呼び、その中で最古のものをリグ=ヴェーダと呼ぶ。これはインドにおける最古の歴史書であり、このことからこの時代のことをヴェーダ時代と呼ぶ。ヴェーダには宇宙の神秘が描かれており、これをもとにした世界観をウパニシャッド哲学と称する。
また彼らの社会には色を意味するヴァルナ制度と呼ばれる身分制度があった。上から順にバラモン(司祭)、クシャトリア(貴族・戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)があり、その下に不可触民の被差別身分があった。これをポルトガル人はカーストと呼び、今でも有名な有名なカースト制度として広く知られるようになった(ただし現在のインドのカースト制は中世以降に広まったものであり、ヴェーダ時代のそれとは区別されるものである)。
紀元前6世紀頃、人口が増加したガンジス川流域で都市国家が乱立(十六大国時代)。最初は16だった諸国はやがてヴァツァ国、ヴァンティ国、ガンジス中流域のコーサラ国と下流のマガダ国の4つにまで淘汰されていった。コーサラとマガダの中間にシャカ族のカピラ国というコーサラの属国があったが、この国の王子にゴータマシッダルダ、いわゆるお釈迦さまも誕生している。
コーサラとマガダの争いは最初はコーサラが優勢だったが最終的には鉄資源を豊富に持っていたマガダ国が北インドを統一する。当時のマガダ国シャイシュナーガ朝の王ビンビサーラはラージャグリ(ラージキル)に都をおき、富国強兵に努めていた。その甲斐あって息子のアジャータシャトルの代にはコーサラ国を倒すにまで至る。アジャータシャトルは父を獄死させたともいわれるが、後に仏教に深く傾倒し熱心な保護者となったという。その後、マガダ国はウダーイン王のときにパータリプトラに遷都をする。
紀元前4世紀にギリシアの覇者アレクサンドロス3世がインドに侵入。アレクサンドロスは退却するものの北インドでは混乱が起こり、マガダ国のシャイシュナーガ朝はナンダ朝に政権を簒奪される。そのナンダ朝もチャンドラグプタに滅ぼされ、紀元前317年頃、都をパータリプトラとしてマウリヤ朝が建国された。チャンドラグプタはギリシア勢力を一掃し、インドからイラン高原にまで勢力を伸ばす。
マウリヤ朝は3代目アショーカ王のときに最盛期を迎える。アショーカは東南のカリンガ王国を滅ぼしインド南部に勢力を拡げ、ここに初のインド統一がほぼ成し遂げられた(南端部は支配が及んでいない)。
長い戦乱に心疲れたアショーカ王は、後に熱心な仏教徒になった。王は釈迦の足跡を自ら辿ったり、第三回仏典結集を行い、釈迦の伝承を伝える支援をした。またスリランカへ息子マヘンドラを派遣し布教活動も行った。アショーカは法(ダルマ)による徳治主義政治を行い、ジャイナ教など他宗教にも寛容な政治を行っていた。しかし彼が死ぬとマウリヤ朝も衰退の兆しを見せ始める。
紀元前180年頃、マウリア朝はプシアミトラ=シュンガに倒されシュンガ朝が成立する。シュンガ朝は南方のカリンガ王国と西方のバクトリア国から攻撃を受けながらも何とか持ちこたえていたが1世紀前半に滅亡する。この滅亡と同時期、1世紀頃インド西北にクシャーナ朝が興る。この国は匈奴に追いやられたイラン系の月氏の国家であり建国者はクジュラ=カドフィセス、首都はプルシャプラ。次世代のヴィマ=カドフィセスの代にインダス川を越えてガンジス川に至る地域を支配し、インドだけでなく中央アジアにもまたがる大国家となる。
2世紀頃、クシャーナ朝はカニシカ王の下で全盛期を迎える。東の後漢、西のローマ帝国と二大国に挟まれたクシャーナ朝は貿易の中間地点として高い利益を生み出していた。
クシャーナ朝ではギリシャ文化の影響を受けたガンダーラ美術が発展。またカニシカ王は第4回にして最後の大規模な仏典結集=整理統一事業を行い、サンスクリット語による総合的仏典集を作った。これにより大衆救済を旨とする大乗仏教が成立した。この大乗仏教は中央アジアからシルクロードを通って中国、朝鮮、そして日本にまで到達する。一方で大乗仏教と対をなす、厳しい修行による自己救済を旨とする上座部仏教はインド南部へと拡がっていった。
同時期、インド南部ではサータヴァーハナ朝(別名アーンドラ朝)が領土を拡張していた。この国はシムカと呼ばれる人物が建国を宣言したらしいが、実質的な創立者は三代目国王のシャータカルニ1世であると言われる。彼は首都をプラティシュターナ(パイタン)に定め、後にクシャーナ朝と同じように東西の季節風貿易で大いに栄えた。が、サータヴァーハナ朝も3世紀には徐々に衰退し始める。
320年にチャンドラグプタ1世がグプタ朝を起こす。彼はマガダ地方のパータリプトラの小権力者にすぎなかったが、名門リッチャヴィ族の王女を妃に迎え、勢力圏を拡大。自らを「諸王の中の王」という意味のマラダジャディラージャと呼び、即位の年の320年を元年としてグプタ紀元という暦を制定した。インドの古代はこのグプタ朝をもって完成を果たす。
グプタ朝二代目のサムグラグプタは北インドを支配下におさめると、デカン地方南部にまで遠征軍を派遣する。三代目のチャンドラグプタ二世は、グジャラート地方を制圧し、自らを超日王という意味のヴィクラマーディティアと称した。グプタ朝はこの時期に最盛期に至る。彼は各種、金銀貨幣を発行し、西域との貿易を行い国内を発展させた。またチャンドラグプタ二世の治世下では東晋から法顕が来訪している。
グプタ朝はチャンドラグプタ二世の後も4代続けて優秀な王が即位したが、その後は王権振るわず支配地域はマガダ地区周辺に限られた。5代王のスカンダグプタ王の頃には北からは中央アジアのエフタルが圧力を強めており、結局5世紀の半ばにグプタ朝は滅んだ。
7世紀前半、北インドにハルシャ・ヴァルダナがヴァルダナ朝をたてる。ハルシャ王はヒンドゥー教徒であったが仏教も厚く保護した。西遊記の三蔵法師こと玄奘が唐からやってきたのもこのヴァルダナ朝。当時のインドには5世紀に建てられたナーランダー寺院があり、仏教徒はそこに留学生を受け入れいていた。
ヴァルダナ朝はハルシャ王の死後間もなく崩れた。短命の王朝であった。それ以降、北インドでは統一王朝は出現せず、ラージプート族の中小国家が活躍するラージプート時代に突入する。ラージプートとはラージャ(王)とプトラ(息子)を組み合わせた造語で、王族という意味。ラージプート族は尚武の気風が強く、そして一族としての連帯感がほとんどなかったので国内は戦乱にあけくれていた。
ラージプート系のうち早期に国家を構成したのはイラン方面からパンジャーブ地方に侵入してきたグルジャラ族である。彼らは南方デカン地方にまで至り、6世紀には独立を果たしていた。旧サータヴァーハナ朝領を支配下に治め、ヴァーターピを都として前チャールキア朝をたてる。
しかしこれは8世紀のなかばに同じくラージプート族のラーシュトラクータ朝にとって変わられてしまった。この王朝は当初ナーシク、9世紀初めからはマーニアケータを都にしていた。ラーシュトラクータ朝は、アモーガヴァルシャ一世のときに全盛期を迎える。
これより少し時代を戻しておよそ725年頃にラーシュトラクータ朝と同じくラージプート系グルジャラ族がグジャラート地方にグルジャラ=プラティハーラ王朝を創始し、一世紀のうちにヴァルダナ朝を滅亡させる。この王朝は北インドをほぼ制圧し、ボージャ一世の治世に最盛期を得る。
以上のラーシュトラクータ朝とグルジュラ=プラティハーラ朝にくわえて、ベンガル地方のパーラ朝の三国時代が約2世紀続いた。しかし10世紀末から11世紀にかけてこの鼎立関係も崩れ、分裂抗争の時代を再び迎える。まず南のラーシュトラクータ朝が衰亡期を迎え、復興を果たした後チャールキア朝によって973年に滅ぼされた。
10世紀後半にアフガニスタンで成立したガズニ朝の7代目国王マフムードはインドに度重なる侵攻をしかけた。1019年の攻撃ではグルジャラ=プラティハーラ朝の首都のカナウジが一日にして陥落。既に武を尊ぶ風土を失っていたプラティハーラ朝の王は逃げ出し殺された。
マフムードの打ち続く遠征によってラージプート社会は大きく動揺する。かつてのグルジャラ=プラティハーラ朝の支配地域にはラージプート系の小王国が分裂し、互いに相争った。またマフムードの攻撃を受けていなかった南のデカン地方でも後チャールキア朝が後チョーラ朝と抗争を続けていた。
その後ガズニ朝は滅亡するが、それに取って代わった新興のゴール朝の王ムハンマドはインドへの侵略を更に強めていった。ヒンドゥー教徒はイスラームの攻撃に対して団結を固め、インド侵入の要地タラーインでムハンマドとの一大決戦に望み、3000頭の象と20万の大軍を動員して見事ゴール朝を撃退することに成功する。
しかしゴール朝のムハンマドは健在であり、彼は退却後再びインドへ攻撃をかける。そして再度タラーインでの決戦に臨み、今度はイスラーム側が完勝を得る。ゴール朝は破竹の勢いで東に進み、ビハール、ベンガルなどインドの主要地域をことごとく陥れた。ムハンマドが死去するころには北インドはほぼムスリムの手に落ちていた。これをもってインドのラージプート時代は終わる。以降北インドではイスラーム国家が続くことになり、その点から1192年のこのタラーインの戦いのインド史上における意義は大きい。
デリーを占拠したムハンマドは宮廷奴隷出身のアイバクにここを任せ、自らはガズニに凱旋した。その後、ムハンマドが死ぬとアイバクは1206年に独立し、デリーを中心に奴隷王朝を興す。この奴隷王朝を初め北インドには以後短命なイスラーム国家が5代続く。これらをまとめてデリースルタン王朝と呼ぶ。デリーを中心とした、スルタン(イスラームの君主)の王朝というわけだ。
王朝 | 建国〜滅亡 | 建国者 |
奴隷王朝 | 1206~1290 | アイバク |
ハルジー朝 | 1290~1320 | ジャラールッディーン |
トゥグルク朝 | 1320~1414 | トゥグルク |
サイイド朝 | 1414~1451 | ヒズル・ハン |
ロディー朝 | 1251〜1526 | バハロール |
奴隷王朝を倒したジャラールッディーンは奴隷王朝の大臣であった。ハルジー朝が内紛で衰退していくと次にハルジー朝の将軍であったトゥグルクが争いを治めてトゥグルク朝を興す。
トゥグルク朝のときにモンゴル帝国のチャガタイ・ハン国から独立した英雄ティムール率いるティムール朝が北インドに攻撃を開始する。ティムール朝はトゥグルク朝を滅ぼし、ティムール朝の武将であったヒズル・ハンがデリー地区を占拠してサイイド朝を開いた。
サイイドとはムハンマドの子孫のこと。ヒズル・ハンもサイイドを名乗っていたのでサイイド朝と懐けられた。ちなみにサイードは単なる人名であり、サイイドとサイードは発音が似ているが完全な別物である。サイイド朝は弱体な王朝であり、建国直後から不安定な王権であった。4代目、アラー・ウッディーン・アーラム・シャーのときに権力争いが起きて、ロディー朝の始祖バハロールに禅譲が行われた。
ロディー朝も16世紀にティムール帝国の残党のバーブルに滅ぼされる。バーブルこそがインド亜大陸の雄、ムガル帝国の初代皇帝であった。
1526年、バーブルがパーニーパットの戦いでロディー朝を打破しデリーを制圧。ここにインド最大のイスラーム国家、ムガル帝国が建国される。ムガルとはモンゴルの訛であり、バーブルはチンギス・ハン家の娘婿の家系(チンギス・ハンの家系ではなかったのでハーンは名乗らなかった)を自称していた。
しかし2代目のフマーユーンの時にアフガニスタン系スール朝のシェール・シャーによってデリーは陥落し、一時ムガル帝国は滅亡する。しかしその15年後に復興し、三代目アクバルの下でムガル帝国は大躍進を遂げる。アクバルはムスリムであったが異教徒へのジズヤ(人頭税)を廃止し、ヒンドゥー教徒を妻に娶るなど宗教的宥和政策に努めた。その甲斐あって、北インドのヒンドゥー教勢力ラージプートを味方につけることに成功し、北インドを統一させた。また彼は首都をデリーからアグラへと移している。
5代目シャー・ジャハーンのときにはインドイスラム文化が花開く。その中でも一番有名なのが世界遺産にも登録されているタージ・マハルであろう。これはシャー・ジャハーンが亡き王妃ムムターズ・ハマルのために建設したものであった。
17世紀半ばの6代目アウラングゼーブ帝のとき、ムガル帝国は全盛期を迎える。しかし彼は熱心なスンニ派ムスリムであり、異教徒へのジズヤ(人頭税)を復活させ、国内にイスラムとヒンドゥー教徒の争いの種を蒔くこととなった。
特にインド西北のシク教徒やデカン高原のヒンドゥー勢力のマラーター王国が激しく抵抗し、ムガル帝国は弱体化していく。時を同じくしてヨーロッパでは大航海時代が始まっていた。西洋列強のアジア侵略はすぐ目の前にあった。
18世紀、西洋列強の先鋭であるイギリスがインドに武力攻勢をかけ始める。イギリスは数々の抵抗勢力を鎮圧し、1858年にはムガル帝国を滅ぼしイギリス領インドを成立させた。1877年には、ヴィクトリア女王がインド議会から初代皇帝に推戴された。
イギリスはインドを直轄地と藩にわけて、藩は藩王と呼ばれるイギリスに協力的な地方の支配者に治めさせた。インドは東インド会社を中心とした資本主義の餌食となり、原材料の供給地とされまた人民はイギリス人に支配されることとなった。インドから供給される香辛料などはイギリス本国を潤わせ、イギリスの至宝と言われるほどだった。
しかし一方でイギリスからの資本投下はインドの開発を大きく進め、また西洋から輸入された学問やによってインドにラーム・モーハン・ローイなどの新知識人を産むこととなった。彼ら新知識人はインドの解放と独立を訴えてイギリスへの抵抗の芽となった。
このようなインドの抵抗運動に危機感を覚えたイギリスは1885年にボンベイでインド国民会議をひらき、インドのエリート層との対話に応じた。インド国民会議に結集する人々から産まれた政治勢力を国民会議派と呼ぶ。
収まらない抵抗勢力にイギリスは1905年にベンガル分割令をだす。ベンガルは民族運動が盛んな地域であり、イギリスはムスリムとヒンドゥー教徒とお互いに憎ませてイギリスから目を逸らさせようとしたのである。
これに対抗すべく国民会議派はカルカッタにて4つのポリシーを発表する。
イギリスもこれに怒り、ムスリムの全インド・ムスリム同盟を支援してインド国内の対立を煽ったが、最終的にイギリスは世界大戦に備えてインドと妥協。1911年にベンガル分割令は取り消された。
インドはイギリス側にたって第一次世界大戦に参戦。イギリスの「戦争に勝ったら独立させてあげるよ」という約束を信じて多くのインド人が戦場の露と消えた。
しかし戦争が終わるとイギリスは約束を破り、逆にインドの民族活動家を令状無しで逮捕できるローラット法を制定する。インド人がこれに対してパンジャーブ地方で抗議集会をひらくが、イギリスはこれに発砲で答える。このアムリットサール事件では1000人以上の死者がでたという。
一応同年にインド統治法と呼ばれる自治権の返還が行われるも、実権はイギリスが握ったままであった。
そんな中で登場したのは弁護士出身のモハトマ・ガンディー。ガンディーは非暴力、非服従と唱えてイギリスへ対抗をしかける。ガンディーはヒンドゥーとムスリムとの協調を訴え、宗教的団結を全インド人に主張した。
1929年には初代インド首相となるネルーがラホール国民議会において完全独立(プールナ・スワラージ)を議決する。ガンディーも塩の行進と呼ばれる抗議活動を行い、イギリスへと圧力をかけた(塩は当時イギリスの専売制であった)。
イギリスはガンディーやネルーを発端とするインド民族活動の熱におされ、妥協を決意し円卓会議を開く。しかし二度に渡る開催にガンディーは出席を拒否する。1935年に新インド統治法が成立するが、これも中央財政、軍事、外交をイギリスが握ったままであるとする法案で、ネルーのいう完全なる独立とはほど遠いものであった。
第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは「戦争が終わったら独立させてあげるから」といってインドに参戦を促すが、インド人は当然のように拒否し、逆にクイットインディア運動と呼ばれるイギリス人排斥運動を開始する。イギリスはこれに対してガンディーを逮捕してインド人を更に激怒させた。また独立派のスバス・チャンドラ・ボースは敵の敵は味方理論でイギリスと敵対中のドイツに渡り、祖国の独立を夢見てイギリスに反抗しまくった。一方で親英派インド人も多数おり、北アフリカ戦線やマレー半島の防衛に参加している。1941年12月8日に大日本帝國が参戦してイギリスと敵対すると、ボースは日本への渡航を決意。支援を受けるためUボートに便乗してドイツを出発。マダガスカル島沖で伊29潜に乗り移り、日本へとやってきた。そして日本の後押しで自由インド仮政府を設立し、「チェロデリー(デリーを目指せ)」を合言葉にビルマからインドを目指した。途中で裏切ったビルマ国とは違い、自由インド仮政府は日本の降伏まで枢軸国側に立っていた。終戦直後、ボースはソ連に行こうとしたが飛行機事故に遭って死亡。
戦争が終わると1946年にボンベイでインド人水兵反乱が起きる。民族意識の膨張にイギリスはついにインドを放棄することを決意。1947年にインド独立法が制定され、翌年インドは完全独立を果たす。
しかしイギリスという共通の敵を失ったインドではヒンドゥーとイスラームの対立が再燃。仏教徒中心のスリランカも独立し、宗教融和と唱えるガンディーは身内であるはずのヒンドゥー教徒から暗殺され、ムスリムが多いパキスタンとは3度にわたるインド・パキスタン戦争を起こすこととなった。
掲示板
19ななしのよっしん
2021/03/10(水) 16:22:49 ID: +FpQ89EEvL
>>18
マウリヤ~ムガルは南部のほうを征服できていないし、ハノーファー朝とウィンザー朝は名前が変わっただけで実質同一なので、統一王朝はイギリス1つしかないと言えるかな。
そもそもインドが統一されてるのが当然という感覚がイギリス以前には存在してなかったように思える。民族も言語もバラバラなので、各地で王朝国家が分立してるほうが自然な状態。
20ななしのよっしん
2021/05/06(木) 21:44:39 ID: ktPxSEm6qn
21ななしのよっしん
2021/06/16(水) 22:17:51 ID: ABpMQaztA5
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最終更新:2023/03/31(金) 14:00
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