イヴァン4世(1530~1584)とは、ロシアのリューリク朝のモスクワ大公、ロシア史上最初の公式なツァーリである。
通称イヴァン雷帝。
イヴァン4世はルーシ国家であるリューリク朝のうち、モスクワ大公の血縁にあたる。祖父イヴァン3世は1462年に大公になると各家門に分裂していたリューリク朝の諸公国を次々と併合し、1480年にはキプチャク・ハン国の後継者である大オルダーのアフマト・ハン軍を撤退させ、タタールのくびきの終焉を告げる転機を起こした人物であった。
さらにイヴァン3世はビザンツ帝国の皇姪ゾエと婚姻関係にあり、それまでビザンツ帝国とキプチャク・ハン国にのみ使われていたツァーリを自称するようになった。そして彼の死後、息子のヴァシーリー3世も他のリューリク朝諸公国を併呑していったのであった。
1533年にヴァシーリー3世が没すると、息子のイヴァン4世はわずか3歳で大公位につく。当然幼い彼に親政は行えず、オフチーナ=テレプネフ=オポレンスキー公と結んだ彼の母、エレーナ・グリンスカヤが実権を握ったのである。エレーナによってヴァシーリー3世の弟ユーリー公、アンドレイ・スタリツキー公、エレーナの伯父ミハイル・グリンスキー公は投獄されたのであった。
しかし1538年、エレーナは死去。直後オフチーナ=テレプネフ=オポレンスキー公も逮捕され殺害。その後に起きたのはシュイスキー家とべリスキー家の権力闘争であった。この「貴族支配」の時代は1547年まで続き、中央権力は弱体化。イヴァン4世の人格形成にも影響を与えたといわれている。
1547年のイヴァン4世のツァーリ戴冠はついに、対外的にはルーシが独立した君主であること、対内的には「皇帝」であること、また今後親政開始を行うこと、といったものを告げる儀式であった。
1549年に彼は正教会と母方のグリンスキー家、グリンスキー家の失脚後は妻の実家ザハリン家の協力を得て、選抜会議(イーズブランナヤ・ラーダ)を開始した。アレクセイ・アダーシェフ、シリヴェストル、マカーリーといった人々が中心的な役割を果たした「選抜会議」政府は行政機関の創出、地方行政改革、銃兵隊の整備など、様々な施策を行っていったのである。1550年代のリューリク朝はこれらの諸改革によって格段に強化されていったのである。
さらに依然として領土拡大が図られた。その相手は東のカザン・ハン国、西のリヴォニア帯剣騎士団である。カザンの併合には成功したものの、そのことはイスラーム教徒を帝国の中に含むこととなり、またリヴォニア侵攻はデンマークやポーランド・リトアニアとの戦いの末に失敗してしまったのだ。
こうして戦争の長期化が継続されると、イヴァン4世はアダーシェフら改革政府の責任に処した。この結果「選抜会議」は崩壊し、実権はザハリン家の手に移る。しかしこのことは門閥貴族諸家門の対立を引き起こし、長期戦の影響による経済危機も目立ち、政治経済は混乱していくのであった。
そんなさなかイヴァンは家族、貴族、士族、廷臣らを引き連れクレムリンを立ち去ってしまう。この首都退居に狼狽したのはモスクワ市民であった。彼らはイヴァンに復位を乞い、「裏切者」を自由に処罰し、「望むがままに」支配を行うという条件で帰還させたのである。そして成立したのは皇室特別領(オプリーチニナ)である。オプリーチニナではツァーリが専制的に支配することができ、それ以外の国土(ゼームシチナ)と区別されたのだ。
このオプリーチニナ政策がどれほど成果を上げたかわからない。しかしこの時代の特徴的な点は「裏切者」に対する弾圧と処刑、つまりテロルであった。まずゼームシチナの指導的貴族、フョードロフ=チェリャドニンや府主教フィリップ、イヴァンのいとこであるウラジーミル・スタリツキー公、さらに1570年のノヴゴロド侵攻などの徹底的なテロルが行われた。さらに矛先はオプリーチニナを治めるオプリーチニキにも向けられ、バスマノフ、チェルカスキー公、ヴャゼムスキー公らが相次いで処刑され、1570年夏には国政責任者100名以上が処刑されたのである。
しかしこのような暴力的手法での統治は、1571年のクリミア軍のモスクワ攻撃をオプリーチニキ軍が阻止できなかったことから、翌年には廃止されたといわれている。しかしその後も、犠牲者数は少なくなり、大規模な処刑は行われなくなったが、テロルは横行していった。
1575年イヴァン4世は玉座を降りてモスクワ公を名乗り、大公位にはチンギス・ハンの直系であるカシモフのハン、シメオン・ベクラートヴィチをつける。しかし翌年あっけなくイヴァン4世は復位し、シメオンは追い払われた。
そしてイヴァン4世の最晩年、ついにリヴォニア戦争が終結を迎えた。ポーランド・リトアニアのヤギェウォ朝が断絶して混乱しているさなか、領土拡張に一定の成功をおさめたものの、トランシルヴァニア公ステファン・バートリが王位につき、スウェーデンとともに攻撃を再開し、ロシアは敗戦を続けたのである。こうして、1582年ロシアはまずポーランドと、翌年にはスウェーデンと講和を結び、損害のみを残して終わったのである。シベリア進出が一定の成功をおさめた東方拡大とは一転して、無益な戦争であった。
こうしたなか1584年、イヴァン4世は亡くなるのである。
16世紀末から17世紀初頭にかけての時期は「動乱」時代と呼ばれている。イヴァン4世の死後ツァーリについたのは彼の息子のフョードルであった。しかし彼は自ら統治する能力を欠いており、妻イリーナの兄、ボリス・ゴドゥノフが専制をふるったのである。そして1598年にフョードルが没してリューリク朝が断絶すると、ボリスは自らがツァーリになったのであった。
ボリスは外交などに成果を上げ、統治は順調に推移していったはずであった。しかしあまりにも負の遺産が大きかったこと、事態の過酷な推移のために動乱を防ぐことはできなかった。というのも、大飢饉に対策を打ったにもかかわらず、全く効果がなかったのである。
こうしてボリスが怨嗟の的となると、1602年ついにイヴァンの息子で早世したはずのドミトリーを名乗る、偽ドミトリー1世が現れる。この最初の偽ドミトリーはポーランドから軍を率い、1605年にボリスが病死すると、クレムリンに入城。ツァーリとなったのである。
しかし何ら基盤を持たなかった偽ドミトリー1世がツァーリの座にとどまるというのも無理な話で、ヴァシーリー・シュイスキーのクーデターであっさり倒され、次はシュイスキーがツァーリ位についた。しかしシュイスキーにしたところで、アレクサンドル・ネフスキーの血縁にあったとはいえモスクワ大公、ツァーリとなったものなどいない家門であり、簒奪者には違いなかったのであった。
そしてプチヴリの軍司令官シャホフスコイ公が軍をあげる。反乱軍はやがてボロトニコフを旗頭とし、モスクワを包囲したが、反乱軍は亀裂。反乱軍に合流していたイヴァン4世の孫を名乗る偽ピョートル(イレイカ・ムーロメッツ)とともに捕らえられた。
しかし話はまだ終わらない。以前に倒されたはずの偽ドミトリーがまだ生きているという噂がささやかれだした。こうして現れたのだスタロドゥプで挙兵した偽ドミトリー2世である。彼はポロトニコフと合流しようとしたが、ポロトニコフの降伏を知ると、モスクワ包囲戦を行う。さらに混乱は続き、偽ドミトリー3世をはじめとする十数人のイヴァン4世の子や孫を称する僭称者たちが、次々と挙兵したのだ。
これに輪をかけたのが外国軍の介入である。はじめはシュイスキーの嘆願でスウェーデン軍が偽ドミトリー支配地域を解放していった、というものであったが、ポーランド王ジグムント3世自身がロシアに侵入し、シュイスキーと偽ドミトリー2世は早く自陣営に引き入れようと外交努力をしていったのである。
しかし1610年、シュイスキーが廃され七人貴族会議(セミボヤールシチナ)が成立、一方偽ドミトリー2世もあっけない最期を迎えると、ポーランド軍は入城。ジグムントの息子、ヴワディスワフ4世がツァーリ位についたのであった。
しかしジグムント本人が実際のところツァーリ位を欲しており、さらにポーランド軍の統制が乱れモスクワが混乱すると、反ポーランド闘争が開始された。リャザン軍司令官リャプノフ、トルベツコイ公、ザルツキーらが指導部を結成したものの、リャプノフの殺害でこの第1次国民軍は瓦解したのである。
しかし、混乱は続く。スウェーデンもツァーリ位を狙ってノヴゴロドを占領し、王子カール・フィリップをノヴゴロドでツァーリに仕立て上げたのである。危機が深まる中、ポジャルスキー公が率いる第2次国民軍が結成され進撃。1612年にようやくモスクワは解放され、空位となっていたツァーリ位にミハイル・ロマノフがついたのであった。こうしてロマノフ朝が成立したのである。
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