ウィルコ・ズィーレンベルグ 単語

ウィルコズィーレンベルグ

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ウィルコ・ズィーレンベルグ(Wilco Zeelenberg)exitとは、オランダ出身の元・MotoGPライダーである。

1966年8月19日生まれ。

ホルヘ・ロレンソライダーコーチを長年務めて、ホルヘのチャンピオン3回獲得に多大な貢献をした。

2019年現在は、ペトロナスヤマハ(セパンレーシングチームの最大排気量クラス部門)exitチーム監督を務めている。
 

レーサーとしての経歴

4歳でバイクに乗り始め、モトクロスのレースを続け、80ccのロードレースに転向

1966年8月19日オランダライスヴァイクexitで生まれた。

父親が作ったバイクに乗り始めたのは、僅か4歳のことである。成長するにしたがってモトクロス(起のある土の路面をジャンプしながら走っていく競技)のレースをするようになった。14歳にはモトクロスの若手向け全大会に出場している。

ラン・フバーツexitという人物に出会い、ロードレース(舗装された路面を走る競技)に転向した。1983年17歳)にはオランダ選手権の80ccクラスレースに出て、優勝したハンス・スパーンexitの後ろの2位になった。ハンススパーンは、1989年1990年の2年連続でMotoGP125ccクラスランキング2位になったオランダの名ライダーである。

1985年(19歳)のオランダGPに出たのが、MotoGP初参戦である。このときは80ccクラスに出場した。

1986年(20歳)にも4戦ほどMotoGP80ccクラスにスポット参戦し、そのうち1戦で5位に入った。

1987年(21歳)は80ccクラスフル参戦したが、二桁順位ばかりだった。

1987年まで乗っていた80ccマシンは、ポルトガルカザルexitというバイクだった。
 

MotoGP250ccクラスの中堅ライダーとして活躍する

1988年(22歳)からは250ccクラスに転向した。1988年オランダ選手権でヤマハマシンに乗って走り、チャンピオンになった。

1989年(23歳)は「サムソンシャープ・レーシング」というチームからMotoGP250ccクラスに参戦して、ホンダバイクに乗ってポイント獲得を繰り返した。「サムソン」はsamsonと書き、おそらく人名だと思われる。

1990年(24歳)と1991年(25歳)がウィルコのレース人生で最高の2年となった。このどちらも「サムソンシャープ・レーシング」所属で、ホンダマシンに乗っている。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
日本 アメリカ合衆国 スペイン イタリア ドイツ オーストリア ユーゴスラビア オランダ ベルギー フランス イギリス
1990年 3 3 22 3 1 4 3 re re re 8 8 9 5 ランキング5位


 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
日本 アメリカ合衆国 スペイン イタリア ドイツ オーストリア オランダ フランス イギリス
1991年 3 4 2 re 5 3 3 4 3 7 5 5 re 4 re ランキング4位


 

成績が低迷し、引退

1992年(26歳)は250ccクラス実質スズキワークスであるTech3に移籍して、スズキマシンを走らせたが、最高成績が4位でシングルフィニッシュが精一杯だった。ちなみにTech3を率いるエルヴェ・ポンシャラルとは、18年後に最大排気量クラスヤマハ営で再会することになる。

1993年(27歳)はまたチームを移籍して、アプリリアマシンを走らせることになった。しかしここでも、シングルフィニッシュが精一杯の成績に終わった。

1994年(28歳)はホンダマシンを使うチームに移籍した。ここでも9~10位あたりの結果が続いたが、オランダGPで3位表台に上がっている。

1995年(29歳)は1回だけ代役参戦しただけで、この年をもってMotoGPから離れた。



1995年(29歳)からはヤマハマシンに乗ってスーパースポーツ世界選手権(4スト600cc改造して行う選手権。2スト250ccマシンマシンの大きさが似ている)に参戦するようになった。

1997年(31歳)は1勝してランキング9位。1998年(32歳)は0勝でランキング8位。1999年(33歳)は1勝してランキング9位。2000年(34歳)は0勝でランキング20位。イタリア語版Wikipediaexitに戦歴が載っている。

2000年をもってレース活動を終えている。
 

指導者としての経歴

1997年頃からライダー指導の仕事を始める。2001年にヤマハ入り

1997年頃から導者としての活動を始めた。「ウィルコ・ズィーレンベルグ・レーシング」というレーサー向け教室を開き、ライダーを育成している。生徒の中には、マイケル・ファンデルマークexitオランダ人。スーパーバイク鈴鹿8耐で活躍中)もいる。レーシングスクールの場所はスペインカルタヘナexitにあり、初心者からプロレーサーまで、あらゆるレベルライダーに教えるよう努めていた。

2000年レース活動を辞めて、2001年からヤマハに就職した。テストライダーを務めつつ、テクニカルレーシングコーディネーターという肩書きでヤマハスーパーバイク世界選手権の活動に協力するようになった。このとき、マッシモ・メレガッリexit2011年からMotoGP最大排気量クラスヤマハワークス監督になったイタリア人)と知り合い、一緒に仕事をしている。

この項の資料…記事1exit記事2exit
 

ヤマハのスーパースポーツ世界選手権参戦チームの監督になる

2008年からヤマハの経営するチーム監督を務めることになった。そのチームスーパースポーツ世界選手権(4スト600ccを走らせる)に参戦するチームだった。

2008年ブロック・パークスexitファビアン・フォレストexitの2人だった。

2009年カル・クラッチローという24歳の若手選手と、ファビアン・フォレストの2人だった。カル・クラッチロールーキーイヤーでいきなりチャンピオンを獲得した。


2009年末に、MotoGP最大排気量クラスに参戦するヤマハワークスの中で異変が起こっていた。ホルヘ・ロレンソチームを率いる監督であるダニエレ・ロマニョーリが、退職してしまったのである。このため、ウィルコはダニエレ・ロマニョーリの代わりとしてヤマハワークス入りすることになった。
 

ホルヘ・ロレンソチームの監督となり、ライダーコーチになる

2007年までのヤマハワークスは、「監督1人、ライダー2人」という体制だった。

2008年からのヤマハワークスは、ヴァレンティーノ・ロッシチームホルヘ・ロレンソチーム分割し、ヴァレンティーノ・チームにはダヴィデ・ブリヴィオ監督が就任し、ホルヘ・チームにはダニエレ・ロマニョーリ監督が就任することになった。「監督2人、ライダー2人」という、しい体制になったのである。

先述の通り、2009年末にダニエレ・ロマニョーリヤマハワークスを退職することになったので、ウィルコ・ズィーレンベルグがその代わりに入った。


ホルヘ・ロレンソチーム監督となると同時に、ライダーコーチとなった。ライダーコーチとは、ライダーになりきってライダー視点で物事を考え、ライダーが上手く走れない時になったら自分の意見を差し出してマシンセッティング議論を深めさせる、そういう役割の人のことである。

ライダーコーチMotoGPで最も最初に導入したのは2000年代中盤のダニ・ペドロサとされる。ダニライダーコーチになったのはアルベルト・プーチだった。

ダニ・ペドロサライダーコーチを導入して上手くいっているのを知り、ホルヘ・ロレンソライダーコーチを起用した。一番最初はアレックス・デボンexitだった。アレックスの日本語版Wikipediaexitを見てもわかるように、2006年2007年アレックスレギュラー参戦できずにアプリリアテストライダーをしていたのだが、このとき、アプリリアから参戦するホルヘ・ロレンソライダーコーチを務めていた。ちなみに、アレックスとホルヘはマネージャーダニ・アマトリアインexitで共通しており、ホルヘにとってもライダーコーチを頼みやすかったようである。

2008年2009年のホルヘはライダーコーチしの状態で走っていた。更なる飛躍のためホルヘはライダーコーチが欲しいと思うようになり、ウィルコ・ズィーレンベルグにライダーコーチとなるよう依頼したのである。

ウィルコはライダーコーチとしてまさしく最適任であり、2010年以降のホルヘの大躍進を見事に支えることになった。

この記事exitウィルコがライダーコーチ仕事の一端を語っている。「ホルヘが上手く走っているときは、意見を出さない。ホルヘが上手く走れない区間を探し出し、その区間でより速く走るにはどうしたら良いか、ひたすら考え、ホルヘとクルーチーフの間の議論に参加し、自分の意見を出す」という内容のことを喋っている。

この記事exitウィルコは「私の役割は、もう1人のホルヘになること」と語っている。また、あるコーナーを3速ギアで走っていたホルヘに「2速ギア走ってみたらどうか」と進言してみたり、「バレンシアサーキットの最終コーナーケーシー・ストーナーは1速を使っているみたいだ。ケーシーに勝ちたければ、々もあそこを1速にすべきだ」と進言したりしたことが紹介されている。まさしく、もう1人のライダーとして、ホルヘに違ったアイディア提供していたのである。


また、2009年までのホルヘは典的な勝ちたがりライダーで、1位になれないとダメ、と言わんばかりに1位に向かって猛突進していくライダーだった。ウィルコはホルヘのそういう性格をある程度抑制すべきと考えて「1位にならなくてもいい。2位を重ねればチャンピオンになれる」と繰り返し教えていた。この記事exitや、先ほど紹介した記事exitで、ウィルコのそういうアドバイス紹介されている。


さらには、ホルヘのスタート練習に付き合い、ホルヘのスタート技術向上に大きな貢献をした。2009年までのホルヘはスタートが遅くて苦労していたのでexitウィルコはホルヘのスタート練習に付き合うことにした。ヤマハ信号機を作ってもらい、ホルヘはヤマハYZF-R64スト600ccスーパースポーツ世界選手権で使用される)に跨がり、ウィルコは片手でストップウォッチを持ってタイム計測し、もう片手で信号機を操作し、何度もスタート練習をした。その甲斐あって2010年の中頃からホルヘのスタートが速くなった。(記事1exit


2010年シーズン末にヴァレンティーノ・ロッシヤマハワークスを離れてドゥカティワークスに入り、それと同時にダヴィデ・ブリヴィオヤマハワークスを退職した。このためヤマハワークスは体制を立て直すことになった。2007年以前の「監督1人、ライダー2人」の体制に戻すことを決め、チーム監督としてマッシモ・メレガッリexitを起用した。ウィルコ・ズィーレンベルグの肩書きは、ホルヘ・ロレンソ専属のライダーパフォーマンスアナリストというものになった。その肩書きのまま、2016年シーズン末まで働き続けることになった。(この記事exitや、それを翻訳したライディンスポーツ2017年8月号12ページに、ヤマハワークス体制変更のことが書いてある)
 

2017年からマーヴェリック・ヴィニャーレスのライダーコーチになるが、解任される

2016年をもってホルヘ・ロレンソヤマハワークスを離れてドゥカティワークス入りすることになった。ウィルコは、ヤマハに引き立てられてきたという経歴があるので、ヤマハに忠義を尽くすため、ホルヘに付いていかずヤマハワークスに残留するを選んだ。

2017年から2018年までのウィルコは、マーヴェリック・ヴィニャーレスライダーコーチを務めていた。

ところが、マーヴェリックは「自分とウィルコの相性が悪い」と思ったのか、ウィルコを解任して新たなライダーコーチとしてフリアン・シモンを雇いたいexitヤマハワークスに要望するようになった。これが、2018年6月頃の出来事である。

マーヴェリックの要望をヤマハワークスも了承し、ウィルコは2018年をもってマーヴェリックライダーコーチを退任することになった。

ウィルコは、2019年から新たにヤマハ営に加わるセパンレーシングチームexitに加入することになった。セパンレーシングチームの最大排気量クラス部門(通称:ペトロナスヤマハ)のチーム監督に就任することが、2018年6月頃に決められた。
 

ファビオ・クアッタハッホの抜擢を主張し、大成功を収める

2018年6月頃のセパンレーシングチームは、最大排気量クラス部門のライダーの人選に悩んでいた。

ダニ・ペドロサを起用する方針で話を進めていたが、ダニは7月12日のドイツGP記者会見で引退を発表してしまったexit。このため、他のライダーを探さねばならなくなった。

このとき、「ファビオ・クアッタハッホがいい」と主張したのがウィルコ・ズィーレンベルグだったexit。ファビオは20152017年まで低迷し続けており、2018年6月17日カタルーニャGPで長い低迷から脱出してやっとキャリア優勝を飾っていたライダーである。キャリア僅か1勝のライダーを大抜するのは奇異な感じがしたが、ウィルコが強く推すのでペトロナスヤマハの首も考えが傾き、8月にはファビオと契約することになったexit

ウィルコの見るに狂いはなく、ファビオは2019年シーズン開幕戦から大活躍をすることになった。

ファビオのことは20132014年CEV(若手向け選手権)時代からを付けていた。また、2015年ヤマハワークスの中で将来有望なライダーかと問われたときに、ウィルコは「ファビオ・クアッタハッホが有望だ」と答えたという。(この記事exitが出典)



ちなみに、2019年シーズンからのウィルコはライダーコーチの職務から退いており、チーム監督仕事に専念している。2019年のペトロナスヤマハに在籍するライダーコーチは、トゥーライフ・ハーテルマンexitという人物である。
  

その他の雑記

ウィルコの英語の発音は上手いexitウィルコはオランダ語話者で、オランダ語ドイツ語は酷似している。オランダ語ドイツ語英語と似た感じの言語なので、オランダ語話者やドイツ語話者が英語綺麗に喋る光景は多く見られる。

1994年頃生まれの息子がいる。2011年頃はオランダ内選手権を走る二輪レーサーだった。ただ、MotoGPに参戦するほどレース活動に傾倒しておらず、学業をこなして資格を取得することを優先していたという(この記事exitが出典)。

カル・クラッチローとは2009年スーパースポーツ世界選手権をともに戦った間柄である。同選手の記事には、ウィルコの名前がたびたび出てくる。

ウィルコとカルはどちらもTech3に在籍していて共通点がある。Tech3在籍時のカルはチームの倉庫を訪れて、Tech3の歴代マシンを眺めていたexit。その中にウィルコが乗っていたスズキマシンがあるのを見つけて、ウィルコに「これ覚えている?」とリプを飛ばしたりexit試しに跨がってみたりしていたexit
  

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