エジョフが消された写真 単語

エジョフガケサレタシャシン

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エジョフが消された写真とは、ソビエト連邦粛清された政治家ニコライ・エジョフの存在が抹消された写真のことである。

現代では、写真そのものが世界的なインターネット・ミームとなっている。

解説

1930年代ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)で撮された写真独裁者ヨシフ・スターリンを中心とした写真として開されたものだが、本来写っていた人々のうち、悪名高い人物ニコライ・エジョフの姿が、エジョフの失脚・粛清後に跡形もなく消されたかたちで流布された。

現代では、ソ連史に残る恐怖“大粛清”を徴する写真として、あるいはソ連公式記録でしばしば行われた不都合な存在の抹消拠として知られ、“大粛清”の推進者であったエジョフ自身が粛清されて抹消されるというアイロニーとともに歴史趣味者のネタにされている。

写真は運河の歩くソ連の幹部たちを正面から写したもので、軍帽を被って歩いている筆ソ連共産党書記ヨシフ・スターリン。画面の左端には男が2人おり、そしてスターリンの向かって右隣、もっとも運河沿いを歩いている軍帽の小男が当のニコライ・エジョフである。穏やかな運河のには門らしき構造物が面を横断しており、両に四が建てられている(被写体の詳細は後述)。

そしてエジョフ失脚後の写真exitでは、運河沿いを歩いていた彼の姿が全に消えている。失脚し粛清された人物が写っていると、ソ連政府にとって不都合だからである。

なんということでしょうのみごとな技により、美しいを湛える運河の風景が視界いっぱいに広がります。そこには、反革命・人民の敵・クーデター陰謀者は存在しません。

エジョフの背後になっていた面もなんだかいい感じになっており、当時の写真印刷の画質もあいまって加工感を覚えさせない。もともと写真役はスターリンなので、エジョフが消えても運河を視察するスターリン題としたスナップショットとしても実のところ意外と自然……なのだが、最初の写真を見てからだと、あからさまに右側がぽっかりといている違和感はなくもない。

再発見と現代の受容

20世紀前半に閉鎖的なソ連で生まれた写真であり、何の変哲もない共産主義プロパガンダ写真として消えていってもおかしくなかったこの写真は、イギリスデザインデヴィッドキング1997年に出版した著書"The Commissar Vanishes: The Falsification of Photographs and Art in Stalin's Russia"(コミッサールの消失スターリンロシアにおける写真と絵画の改竄)をきっかけに“再発見”される。エジョフ自身も「消えたコミッサール」と呼ばれるようになった[1]

そして現代では、悪名高い1930年代ソ連の“大粛清”を物語写真として知名度を高め、当時のソ連恐怖政治を揶揄するインターネット・ミームとして世界的に広まった。

日本語圏では消しゴムマジックで消してやるのさだの、不祥事綺麗に存在が消されることをエジョフ呼ばわりするだのと擦られているいっぽう、ミームとしての広がりはけして日本語圏に限られたものではなく、英語投稿も少なくない。もともとフォトショ加工めいたよくできた抹消のされ方だったせいか、なにかと雑コラコラージュ素材にもなっており、エジョフの末を想起させる今どきの人物(当記事で具体例を挙げるのは避けるが)を題材にしたオマージュ画像なども作られている。

特に生成AIによる画像加工が容易になって以降は、わざわざもう一度エジョフを消させたり、逆にスターリンの方を消させたり、あまつさえエジョフを増やしたり、その他もろもろなんでもありの悪ふざけSNS上で続出している。こらっ、Grokエジョフ消す具じゃありま……

イーロン・マスク認。

ニコライ・エジョフについて

話題の消された人、ニコライ・イヴァノヴィチ・エジョフ(Николай Иванович Ежов、Nikolai Ivanovich Yezhov)は、ソビエト連邦政府政治家である。身長151cmの小男で、この写真が撮された1937年には内務人民委員(内務大臣に相当)を務めていた。内務人民委員部(NKVD)はソ連内の保安を一手に担う部署であり、悪名高いソ連秘密警察国家保安委員会(KGB)の前身。つまり当時のエジョフはソ連秘密警察の長官であった。

スターリン独裁のもとエジョフは、1930年代後半に250万人の逮捕者と数十万の被処刑者を出した“大粛清”(“大テロル”)という政治弾圧を揮し、エジョフシチナエジョフ時代)と呼ばれた。要するに彼もたいがいロクでもない恐怖政治の手先ではあったのだが、ソ連社会のあらゆる層に巨大な損を与えたすえにスターリンの信を失い、1938年に失脚。やがて逮捕されて様々な反ソ・反革命陰謀の罪状を“自”させられたうえ、1940年2月銃殺刑となり自ら大粛清犠牲者の列に並ぶこととなった。

ちなみに戦略ゲームハーツオブアイアン2』日本語版では「ニコライ・イェズホフ」と翻訳されており(字表記を素直に読んでしまったものと思われる)、ローライズを担当したサイバーフロントやらかしたトンチキ訳の好例「いぇずほふ君」としてちょっぴり有名。イルハナテには勝てない。

写真の詳細

当該の写真1937年4月22日スターリン一行が完成を控えたヴォルガ=モスクワ運河を視察した際のもの。写る人物はスターリンのほか、防人民委員クリメント・ヴォロシーロフソ連元帥)、ソ連人民委員会議議長(首相ヴャチェスラフモロトフ、内務人民委員ニコライ・エジョフの4名。写真左端の軍帽がヴォロシーロフ、隣の山高帽がモロトフである。運河の建設には内務人民委員部が運営する強制収容所(グラーグ)の囚人20万人が動員されており、エジョフが視察に帯同したのも当然といえる。

発見できたかぎりでは、当該の写真の初出はソ連共産党の機関紙『プラウダ』1937年4月30日付exitの1面である。本体記事のない写真報道で、キャプションは以下の通り。

4月22日同志ヴォロシーロフモロトフ、スターリンおよびエジョフがヤフロマ付近のヴォルガ=モスクワ運河第3閘門を視察。

写真 N・ヴラシク[2]

写真 N・ヴラシク」とあるように、長きにわたりスターリンの警護責任者を務めたニコライ・シドロヴィチ・ヴラシクNikolai Sidorovich Vlasik、Николай Сидорович Власик)国家保安少佐[3](当時)の撮とされる[4]。おそらくは、ヴラシクの属する内務人民委員部を通して政府から『プラウダ』に提供された公式写真であろう。

このようにエジョフが最高権力者スターリンのすぐ隣に並んだ写真報道を通して公式発表されているということは、もしかすると当時のエジョフが権力と権威の絶頂期にあったことを示しているのかもしれない[5]。しかし結局、彼の地位はこの翌年末には失われ、やがて存在さえも写真から消去されるのである。

その「エジョフが消された写真」については、エジョフが処刑された1940年にはすでに発表されている。この年に刊行された、スターリン生誕60周年を記念した『プラウダ上掲載論文集("Сталин. К 60-летию со дня")の図版として、エジョフが消えたバージョン写真が掲載されていることが確認できる(С.Жук,"ВЕЛИКИй СТРОИТЕЛЬ" 図版) 。

撮影地

写真の撮地、すなわちエジョフが消された場所、あるいは消エジョフの聖地とも言うべき地点は、だいたいこのあたり(Googleマップ)exitヴォルガ=モスクワ運河第3閘門の西側である。

ヴォルガ=モスクワ運河(現代ではモスクワ運河と呼ばれる)はモスクワと北のヴォルガを結ぶ運河で、ヴォルガからは河川や運河を経てバルトカスピ海、アゾフ黒海へと繋がり[6]モスクワへの給も担うなどソ連首都を支える一大インフラとして建設された。運河には高低差をするため8つの閘門がおかれ、撮地「ヤフロマ付近のヴォルガ=モスクワ運河第3閘門」もそのひとつ。ヤフロマはモスクワから北に60kmほどに位置する町で、運河と第3閘門は町のすぐそばにある。

写真にも明確に写っているとおり、第3閘門のヴォルガ門両には建築家ヴラディミール・モフチャンが設計したい壮麗な画像exit)が建てられている。この屋根上にキャラベル像が載せられて閘門シンボルとなっているが、写真には画の都合で収まっていない(撮当時まだ存在しなかった可性もある)。このナチス・ドイツの侵攻(独ソ戦)により1941年に破壊されたものの、第二次世界大戦終結後に再建されて現代まで残っている。

なお、エジョフが消された写真としてWikipediaで使用されている画像exitウィキメディアコモンズアップロードされた画像)は、2025年3月現在「VolgaDon Canal(ヴォルガ=ドン運河)」での撮と称しているが、これは明確な誤り。当時の報道背景建築物の一致に加え、ヴォルガ=ドン運河の実質的な建設は1947年以降であって、エジョフ生存中にこれほど工事が進んでいたとは思われない。

スターリンの運河視察

スターリンの視察が行われた1937年4月22日は、約4年にわたる建設を経て運河がほぼ完成し、まさに稼働を開始しようという時期にあたる(ソ連の建ウラジーミル・レーニン誕生日でもある)。視察の直後には最初の船舶がヴォルガ側から運河の通過を始めており、『プラウダ』誌上でも以後1週間にわたって運河を行く最初の団の動向報道が続いている。そして1週間後の5月1日は、ソ連最大の祝日の一つ、労働者の祭典メーデーである。

スターリンの運河視察については、視察翌日の4月23日付『プラウダ』紙1面exit同日付『イズベスチヤ』紙1面exitなどで報道されている。良い感じにプロパガンダ満載なのを許容しつつそれらの記述を総合し、適宜補足を加えたところ、視察の様子は以下のようなものである。

4月22日同志スターリン一行の視察には、マトヴェイベルマン(運河の建設責任者。1939年3月殺)とセミョーン・フィリン(作業にあたる強制労働収容所の責任者。1938年8月殺)が同行し、セルゲイ・ジュク主任技師。上述した1940年の論文の著者でもある)、アレクサンドル・コマロフスキー(中央地区工事責任者)が説明を担当した。

視察はモスクワの北にある運河上のイクシンスコエ貯池から始まり、運河に沿って北上しヴラヘルスカヤ(デデネヴォ)の第4閘門を訪問。そしてヤフロマに移動して第3閘門を訪れ、の欄干にもたれて荘厳なを眺めた(写真はこの時の撮か)。一行は門の稼働や分路のポンプ制御盤を視察し、ついでに同志スターリンがジュク主任技師をからかった。コワイ

同志スターリン政府が運河を視察したというニュースく間に運河沿いに広まり、建設作業員は大いに喜んだ。現場の士気も高まり、仕上げ作業は加速を見せたという。

写真の第3閘門はなくその前の第4閘門のものながらこの視察は映像としても記録されており、スターリンエジョフが並んで歩くシーンも残っている(当該部Youtubeリンクexit)。

写真の真偽

この写真は一般的には「エジョフが後から消された」とされているが、そもそもエジョフは後から写真合成されたのではないか、つまりエジョフのいない写真のほうがオリジナルなのではないかという意見がある。なんならば、そもそも写っている4人とも合成ではないかという説まで見受けられる(ただし上記映像や各種報道からして、影武者でない限り4人が視察を行ったことは間違いない)。

当時のソ連プロパガンダ写真のフォトモンタージュ技術の高さで知られ、この視察に関しても多くの加工写真が世に出されている。立たせたい人物だけピントを補正する、人物の輪を補正するといったレタッチ作業自体は当時のアナログ写真ではごく一般的だが、ソ連プロパガンダ写真では背後の余計な随行員(裏被りというやつだ)を消したり、背景や人物の配置を都合よく変えてしまったものも多い。

当該の運河視察に関しても、驚くほど全員クソコラっぽい集合写真exitを載せたプロパガンダ写真誌もある[7]せいで、最初の写真自体が合成の産物である可性は一概に否定しにくいものがある。また、視察の様子を写した別の写真exitからもわかるように、の欄干は成人男性の胸の下あたりまで届く高さがある。対してエジョフ写真の欄干は膝くらいまでしかないように見え、不整合を感じなくもない。

以上のように、オリジナルからエジョフが抹消されたという通説がもっとも自然な筋書きなのは前提として、最初からエジョフが合成、あるいは全員合成という異説を排除しきれない部分もある。しかし写真真実がどうあれ、最初はエジョフ入りで世に出た写真からエジョフが抹消された、という本質に変わりはない。いずれにしても、この写真ソ連粛清と改竄の歴史徴するものでありつづけるだろう。

関連動画

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *「コミッサール(комиссáр、Commissar)」はロシア語で、官僚行政官などを意味する。ソ連の文脈では通例「委員」と訳されることが多い。
  2. *"Товарищи Ворошилов, Молотов, Сталин и Ежов осматривают шлюз No 3 канала Волга—Москва у Яхромы 22 апреля. Фото Н. Власика"
  3. *Майор государственной безопасности。当時、内務人民委員部の幹部に与えられていた特別階級のひとつで、名称上は「少佐(Майор)」だが、ソ連赤軍陸軍)における旅団指揮官准将)級に相当した。
  4. *護衛として近似する立場柄ヴラシクはスターリンを撮する機会も多かったらしく、彼が撮したとされるスターリンのプライベートな写真も複数伝わっている。
  5. *この手の細な序列や儀礼に基づき、なかなか表に出ないソ連内部の複雑な権力関係の動きを分析する手法を、ソ連共産党の中枢であるクレムリン殿から取って「クレムリノロジー」と呼ぶ。
  6. *だからってモスクワを「五つのの港」と呼ぶのは理がある気がするが、当のソ連があまりにも堂々と「MOSCOW PORT OF FIVE SEAS」と称しているexitグラフ誌"USSR in Construction"1938年2月号)んだからしかたない。
  7. *リンク先はソ連の対外宣伝誌"USSR in Construction"1938年2月号exitの誌面。同誌(日本語で『ソ連邦建設』とも)は1937~1940年に発行された海外プロパガンダ向けグラフ雑誌で、クオリティの高いフォトモンタージュを多く掲載していたことでも知られる。当該の集合写真背景に人物を合成したというよりは背景そのものを差し替えた感がある。
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