エリザベス1世 単語

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エリザベスイッセイ

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人物
エリザベス1世
基本情報
生年 1533年9月7日
生誕地 イングランドグリニッジ
1603年3月24日
イングランドロンドン
イングランド
職業・肩書 イングランド女王
備考・その他
人物テンプレートボックス

エリザベス1世Elisabeth I)とは大英帝国の礎を築いたイングランド女王である。生涯結婚しなかったため「処女王」と通称された。

概要

イギリスというと19世紀の世界帝国イメージが強いがエリザベスの勢範囲はイングランドのみの小さいものであり、現在イギリスの一部であるスコットランドとは敵対していた。また大陸には大フランススペインハプスブルク帝国等が相争っていた。

エリザベス1世はそのような欧州情勢の中、内の産業や文化(かのシェイクスピアもこの時代)を扶養し、太陽の沈まないといわれたスペイン無敵艦隊アルマダ戦で撃破しイングランド黄金時代を築いた。そのためイギリス史におけるもっとも偉大な人物の1人とされる。

イギリスはエリザベス1世、ヴィクトリア女王エリザベス2世などしく女性の名君を多数輩出している。

危うい即位

エリザベスが生まれたのは宗教戦争が過化した血なまぐさい時代であった。ルターの95カ条の論題から始まった宗教改革欧州の内外部に新旧宗教対立を引き起こしていた。イングランドではエリザベスヘンリ8世が男児を産まないキャサリン妃との離婚問題に関連してカトリック協会と対立を始める。ヘンリは新教徒ではなかったが上訴禁止法と国王至上法を制定することによってカトリック教会の内政干渉を排除して、イングランド権を確立する。そんなゴタゴタの中、ヘンリ8世は2人の妻となるアン・ブーリンとの間に女児ける。これがエリザベス1世であった。

しかしヘンリ8世は男児を生まないアン・ブーリンにも飽きて、これに罪を被せて処刑した(酷い)。の刑死に伴いエリザベス王女から一転して非嫡出子扱いになってしまう。ところでヘンリには前妻キャサリンに産ませたメアリというがいた。エリザベスからすると異に当たるメアリ追放の原因となったエリザベスのことを最初憎んでいたが、徐々にエリザベス情を注ぐようになっていた。互いに日陰の身である共感もあったのか、2人は姉妹としての交流を育んでいた。

ヘンリは3人の妻との間にようやく待望の男児エドワード6世を得てこれが王位を継ぐことになった。しかし少年で即位したエドワード世し、次にメアリメアリ1世として女王となった。メアリは旧教が強いスペインフェリ2世結婚内の新教を弾圧し始めたため、ブラッディメアリーと呼ばれ恐れられた。即位したメリアにとって王位継承権を持ち新教であるエリザベスは危険人物であったため、彼女濡れ衣を着せロンドン閉した。1558年、義の監視の中で明日の命をもしれない生活を送っていたエリザベスの元にメアリ訃報が届く。こうして彼女はエリザベス1世としてイングランド女王に即位することとなる。

統治

エリザベス国家議会の中から20人ほどのメンバーで枢密院を構成し、事実上の政府とした。その中で重きをなしたのはかの大哲学者F・ベーコン大法官ニコラス・ベーコンと、エリザベスから「私の精霊」とまで呼ばれた首席秘書官のウィリアムセシルである。この2人をはじめとした枢密院議員たちがエリザベスの治世の前半を担っていた。

彼女が一番最初に着手したのは危険を宗教問題についてである。彼女自身は新教に理解を示していたが、政策としては過度に新教に肩入れをすることはなかった。まず彼女は首長法と礼拝統一法を議会で可決させ英国教会立した。これは教義は新教のカルヴァン、制度や儀式は旧教のカトリックという両者の中庸を行くものであった。中途半端ともいえるこの路線は新旧両から批判を生み、これに反発した急進的な新教は後にピューリタンと呼ばれることとなる。エリザベスは治世当初は穏健に過ごしていたがやがて彼女は新旧両バランスをとるため新旧それぞれの閥を大勢粛清している。

エリザベスの内政に関しては貨幣政策と社会法が有名である。当時アメリカ大陸から流入してきたによってイングランド空前インフレに悩まされていた。これにはヘンリ8世が悪い貨幣を流通させたことも原因の一つであった。そこでエリザベスは自らの融代理人であったトーマス・グレシャムを登用して良貨を市場に出して英貨ポンドの価格暴落を食い止めた。歴史経済学でよく聞く「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャム法則はこのグレシャムから来ている。また女王は救貧法を定め、働けない貧困層に救貧院を用意し、働けるものには労働の場を与えた。この社会政策は後にエリザベス救貧法としてまとめられる。

独身であったエリザベスの元には数多くの婚が届いた。その補の中にはハプスブルク御曹司や、後にライバルとなるフェリ2世もあった。しかし新教であった彼女にはいずれも宗教の問題ですんなりとはいかなかった。その裏で彼女には政略婚とは関係に胸に秘めた人物がいた。それがロバード・ダッドリである。彼は既婚者であったにも関わらず女王から「ロビン」と呼ばれるほど懇ろになり枢密議員にも取り立てられた。その後、彼の妻はの死を遂げてダッドリは晴れ独り身になるが世間体を気にしたのか女王理性的に彼から身を引いていった。

スペインとの対立

イングランドを取り巻く際情勢は流動的でエリザベスにとって少しの油断もならない存在ばかりであった。

当時のスペインは、イスラムと長く回復運動を戦っていたで旧教のカトリックが強い勢を持っており、新教異端審問で容赦く弾圧されていた。スペインは自領ネーデルラント(現オランダ)でも同様の宗教弾圧と課税を加えたことによってこの地に火種が燻り始める。イングランドは新教を援助するためにここに介入を開始する。しかし当時のスペインは「太陽の沈まない」と言われた強で争いを挑むにはかなりの準備が必要とされた。

一方で北のスコットランドでも女王メアリ・スチュアートフランス王太子フランソワと旧教同士で結婚し、新教イングランドへの圧を強めた。夫が死去した後にメアリは再婚するのだが、この夫も不慮の事故死をしてしまう。メアリはこの事故の首謀者とされる人物と三回結婚をするが、この節操のなさにスコットランドの反メアリ起し、メアリイングランドへと亡命してきた。

メアリイングランドの血筋も引いていたので、非嫡出子のエリザベスより王位継承権と見ることもできるため、以後度々反エリザベスグループ輿として担ぎだされることになった。1569年には旧教の北部諸侯がメアリを担いて反乱を起こした。反乱自体は簡単に鎮圧されたもののエリザベスローマ教皇から破門の憂きを見る。それでもエリザベスメアリに軟禁とはいえ高待遇を与え、彼女スコットランド王位復帰に尽していたのは当時はスペインとの関係がそれほど緊していなかったからである。しかしその後の19年の間に際関係は状況を変えていく。

イングランドスペインの争点はに3つあった。エリザベスから私特許状を得た海賊ドレイクスペインを襲っていたこと。イングランドネーデルラントの新教ユトレヒト同盟を援助したこと。またイングランドが異教徒のオスマン帝国と接近したこともスペインを強く刺した。両国とものかかる戦争は避けたいところであったが、事態は抜き差しならないぬところまで至ってしまっていた。

1586年にメアリエリザベス暗殺に関与していた動かぬ拠が見つかった。旧教メアリすることはカトリックスペインをこれ以上ないほどの憤慨させることは想像に難くなかった。既に局地的な戦闘が始まっていたとはいえ全面戦争を回避したいエリザベスは最後まで迷ったがついにメアリ・スチュアートを処刑する。これに怒ったスペインイングランドへ向けて自慢の海軍、いわゆるアルマダ(無敵艦隊)を出撃させた。

アルマダ海戦

海賊ドレイクは元々奴隷商人であったがエリザベスから騎士(サー)の称号を授けられ、また世界一周航をも成し遂げた一流の乗りであった。エリザベスはそのドレイクに加えハワード男爵、ホーキンスなどベテランに艦隊を預けた。一方スペインレパント戦でオスマン海軍を倒した英雄サンタクルーズを起用する予定であったが、彼が死んでしまったため戦には素人メディナ・シドニア総司令官に任命された。彼は身に余るとして辞退しようとしたがフェリペは「イングランドに上陸してからが本戦だ」と反論して辞退を認めなかった。

両国にはに関しても大きな差があった。イングランドは長距離を積んだ新のガレオンで、スペインをぶつけて兵戦を挑む古代以来のガレーとしていた。さらにスペインフェリ2世メディナ・シドニアに細かく作戦を授けていたが、戦場においてこれが彼から臨機応変な動きを奪うこととなった。一方でエリザベスドレイクたちに自由揮権を与えていた。

1588年、スペイン艦隊はネーデルラントの自軍と合流をして英峡を北上し始めた。ついに両雄が視覚できるまで近づいたときスペイン艦隊は守備重視の三日月をとった。イングランド軍はこの堅にうかつに手が出せないまま一週間ほど追跡を続けたが、このままでは敵の作戦通りネーデルラントスペイン兵と合流されてしまうと考えた。ここでイングランドは5隻の味方に火を放ち相手にぶつけるという奇策を成功させる。混乱に陥るスペイン艦隊にイングランド艦隊の撃が襲いかかる。戦の趨勢はほぼ決まりスペイン艦隊はそのまま北に逃亡するしかなかった。本に帰還するためにブリテンを一周する過酷な航路の中でと座礁によって大勢のスペイン兵が命を失った。

このアルマダの敗戦によって欧州の勢図は大きく変わっていった。その後、スペインは体勢を立て直しイングランド勝利することも多かったが、結局全な優位を得ることはできなかった。ネーデルラントではユトレヒト同盟がスペインの支配するを次々と解放していき、ネーデルラント連邦共和オランダ)は独立国家として独り立ちを果たす。スペインは戦費支出の負債がつもり重なり、もはやヨーロッパの一流に名を連ねることはできなくなった。

女王の晩年

17世紀に入るまでにダッドリ、ドレイクセシルなどエリザベスを支えていた臣達は女王を置いて次々と遠行していった。代わりに台頭してきたのは次世代のロバートセシルウィリアムの次男)やエセックスロバート・デヴァルーやサー・ウォルターローリーなどである。女王は彼らに等に寵(パトロネジ)を与えて宮廷内の閥を操縦していた。しかしそのうちのエセックス伯は美丈夫で人気が高かったが高慢であり、アイルランド反乱鎮圧に名乗りを上げるも失敗し、最後にはセシルを除く名で反乱を起こしたがあっけなく敗死してしまった。する若者を失ったことはエリザベスの晩年に暗いを投げかけた。

エリザベス治世は黄金時代と呼ばれるが、それは後世に美化されているところが多かった。実際のイングランドではアイルランドでの反乱。独占特許状を乱発したことによるインフレ。疫病や自然災害。長引く戦争とその費用を賄うための重税によって内は不安を多く抱えていた。1601年に開かれた議会では政策への不満が爆発し大いに荒れた。ここでエリザベスは後に「黄金演説」を呼ばれる一世一代の名演説をして議員たちを感させたとされる。

1603年、エリザベスは一度も結婚しないまま55年にわたる治世と70年の生涯を終えた。後継者にはスコットランド国王ジェームズ6世イングランド王としてはジェームズ1世)が名された。彼はメアリ・スチュアート息子であった。ここでエリザベスの祖ヘンリ7世以来続いていたテューダーは終わり、スチュアートが始まった。エリザベスの振した産業は彼女の生前には成果を見なかったが、彼女の死後徐々に芽を始め市民革命を経てヴィクトリア時代に世界にまたがる大英帝国を築くに至る。

あれこれ

関連動画

関連項目

先代 イギリス女王 次代
メアリ1世
1553~1558
エリザベス1世
1558~1603
ジェームズ1世
1603〜1625

参考文献

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