エンヴェル・ホッジャ(Enver Hoxha)(1908年10月16日~1985年4月11日)とは、アルバニアの独裁者である。20世紀のご時世に国家を鎖国したことで知られている。
1908年にオスマン帝国統治下のアルバニア、ジロカストラで生まれる。当時のアルバニアはオスマン領内でも貧しい地域だったが、商家であったホッジャの生家はそれなりに裕福であり、アルバニアが独立した後の混乱の中で幼少期を過ごすこととなったホッジャ少年であったが、無事に高等な教育を受ける事ができた(当時のアルバニアの識字率は5%程度であったと言われる)。
やがて、ホッジャは大学に通うためにフランスへと渡ったが、そこで共産主義に触れフランス共産党に入党し、政治活動に身を投じる(ちなみに奨学金滞納で大学を卒業できていない)。…が、すぐに過激な闘争を始めた訳でもなく、ベルギーのアルバニア領事館で働きながら大学で法律を勉強したあとに、地元に帰って中学校の先生になる。
転機となったのが1939年のイタリアのアルバニア侵攻である。征服されたアルバニアでファシスト党への入党を強要されたが、それを拒否したホッジャは無職にされてしまう。ここでファシストの横暴を身を以て味わった事こそがホッジャの人生を大きく変えた。
ホッジャはタバコを売りつつ密かに地元の共産主義者と語らって地下活動をしていたが、アルバニアには統一組織もなく、先行きは見通せなかった。そこでアルバニアの共産主義者に手を貸したのが、隣国ユーゴスラビアのチトーであった。
ユーゴ共産党から組織化のノウハウを提供され、結党されたアルバニア共産党とパルチザンは急速に力を付けていった。そしてホッジャはアルバニアにおいて貴重なインテリ層であり、中央委員から書記長へと昇進していく。
そして1944年11月の時点で共産パルチザンはドイツ軍追放に成功し、国家の中枢を掌握。WW2終結後は国王を国民投票によって追放し、国名をアルバニア人民共和国に改名。第一書記長に就任し事実上の国家元首まで成り上がった。
こうして全権を掌握したホッジャであったが、アルバニアの憲法や法律は様々な点でユーゴスラビアの影響を強く受けており、また経済でもユーゴスラビアへの依存度は非常に高かった。しかし、1948年にスターリンとチトーが激しく対立し、ユーゴスラビアは東側から追放されてしまう。するとホッジャは
と宣言し、ユーゴスラビアと国交を断絶し激しく批判。党名をアルバニア労働党へと改名して親ユーゴの党員を粛清し、以後はソビエト連邦の援助を受ける。
しかし、スターリンが死ぬと跡を継いだフルシチョフはスターリンを路線を激しく糾弾して過去の路線を明確に否定する。これにはスターリンのスネ夫忠実な賛同者だった東欧諸国の指導者たちも動揺したのだが、ホッジャは毅然とこう述べた。
と宣言し、ソビエト連邦と国交を断絶し激しく批判。親ソビエトの党員を粛清し以後は中華人民共和国の援助を受ける。
次にホッジャは毛沢東の思想に強く共鳴し、1971年には周恩来と共謀して国連決議で中華民国の追放と中華人民共和国の国連入りの決議案を提出して審議入りさせ、入念な根回しもあってこれを成立させることに成功している(いわゆるアルバニア決議)。しかし、鄧小平の時代になると改革開放を推し進める中華人民共和国の姿勢に大国化の野心が有るとしてこう批判した。
更に、似たような独裁体制であったルーマニアのチャウシェスクや北朝鮮の金日成なども全て修正主義者であるとの批判をぶつけてこれらすべての国家との国交を断絶。もはや世界に友好国・主要貿易国が皆無になるという異常な外交状態に陥った。
もはや全ての安全保障や協調の蚊帳の外となってしまったホッジャが選んだ結論は全ての国境の道路や港の外国からの出入りを拒絶する鎖国であった。更に国内に17万基ものトーチカや巨大な核シェルターを建造して侵攻に備え、国民に銃器を配り臨戦対戦を敷く。
また、無宗教国家を宣言してイスラム教・キリスト教など全ての宗教を秘密警察を用いて徹底的に弾圧を加えて宗教施設を封鎖。ラマダンの日にわざと豚肉を国民に支給して、食べない人民がいれば村八分にするように命じるなどの異様な政策を敷く。
1970年代も後半になると持病の糖尿病や心臓病が悪化して体力が衰えてきたが、長年自身がナンバー2に置いてきた側近を信用できなくなり粛清したりして権力維持に固執した。しかし、80年代に入るとついに体力も限界となり、忠実な後継者と見込んだラミズ・アリアに権力を引き渡し、1985年4月11日に亡くなった。享年76。
忠実なホッジャ路線の継承者と思われたアリアであったが、実のところアルバニアの窮状は十分理解しており、ホッジャが死ぬと反対派に急進的な行動を起こさせぬよう慎重に改革を行っていく。
鎖国の解除、近隣諸国との国交の回復、言論統制の緩和、観光目的の入国の許可、政治犯の釈放などを行って国際社会への復帰を図っていたが、1990年代に入ると民主化を求める学生デモが発生し、アリアはこれと話し合って、民主化や結党の自由に言及した。
そして1991年に初めて実施された選挙では労働党が与党の座を守る事に成功したが、もはや一党独裁は維持できずアルバニア共和国へと国名を変更し、一党独裁体制は終焉する。それでも政治混乱は続き、年内に内閣が崩壊して翌1992年の選挙で野党アルバニア民主党に敗北して、戦後40年以上に渡った労働党政権はついに終焉を迎え、アリアも在任中の汚職を指摘され投獄された。
…のだがそのアルバニア民主党は国民をねずみ講にかけるという前代未聞の国家ぐるみの詐欺行為を働き、無一文となって怒り狂う民衆の受け皿として労働党あらためアルバニア社会党が武力闘争を開始して、国家は内戦状態となりアリアも脱獄するというカオス状態に陥り、国家の治安が崩壊。国連が介入してこれを仲裁するという事態にまで至った。
そして1997年の選挙では怒れる国民の受け皿となった社会党があっさり与党に返り咲いてしまい、アリアは釈放され本などを書いて余生を過ごして2011年に亡くなっている。
以後、中道左派に軌道修正したアルバニア社会党は2度下野したものの2020年現在も与党である。どうしてこうなった。
独裁者となってから行った国益よりもイデオロギーを優先した奇妙奇天烈な政策の数々で国際的な孤立を招いて国家の発展を遅滞させ、伝統的な慣習を破壊し、アルバニアのヨーロッパ最貧国の座を不動のものとした事については疑いようがなく、現在において評価は芳しくない。
ただ、アルバニア国家における貢献が皆無であったかと言うとそうでもない。まず、教師だけあって「すべての人民に教育を受ける義務がある」として無償の学校教育を徹底し、確立されていなかったアルバニア語の学校指導体制に先鞭をつけて識字率は一気に98%にまで向上した。また大学教育まで受けたインテリ層が増えたことで医者を確保できるようになり、医療費も無料であったことから平均寿命は王国時代の38歳から69歳まで一気に伸び、新生児の死亡も激減し人口は戦後まもなくから民主化移行までの間で3倍以上となった。そして、その増えた人口分をカバーするべく農業生産高も向上させており、農作物の完全自給も達成している。
更に部族・氏族レベルの小さなコミュニティに支配され、そもそも国家として統一感のなかったアルバニアに民族教育を施して共通する国家観を植え付け、強烈な男尊女卑の風土が色濃く残っていた(女性は両親からいかなる財産相続も認められていなかった)この地域において女性の地位向上・教育機会の確保と社会進出を促進し、ジャクマリャ(仇討ち制度)などの数百年前からの蛮習を厳しく弾圧して強権的に叩き潰し、近代国家としての法の支配を確立させた事は素直に評価できる点であろう。
2016年に行われたホッジャの評価に対する調査によれば45%の国民はホッジャの功績を支持したが、42%の国民はホッジャに批判的であったといい、ほぼ二分されている。多大な功と見過ごせない罪が交錯していてどちらが重いと見ているかは現在でも現地では評価の割れている所であるらしい。
オスマン帝国の統治時代のアルバニアは民族意識がなく、イスラム教徒はトルコ人で正教徒はギリシャ人であるとぼんやりと認識されていた。19世紀の後半からようやく独自の言語であったアルバニア語を中心として「アルバニア人」という自意識が芽生え始めたものの、新しく独立したアルバニア公国の国境に南部の正教徒は反発してギリシャへの帰属を表明したりと絶えず内戦の元であった。
ホッジャは「宗教」こそがアルバニアの統一された民族意識の形成を強く阻害しているものと認識して、戦後すぐにまずはギリシャ正教を土地や財産の没収で徹底的に弾圧する一方で、アルバニア語の正書法を南部で支配的だったトスク方言に定めて標準語とする政策を打ち、分離主義者の力を削ぎ落した。
また、イスラム教の締め上げはまずは戦後に国によって各地に開かれた学校から徐々に始まった。学校は全てが無神論をモットーとしており、学校で出される食事には豚肉や乳製品を意図してメニューに入れ、食べない児童は宗教的な背景を有しているものとして弾圧を受けた。
そして戦後20年余り経った1967年よりついに無宗教国家を宣言し、すべての宗教組織の閉鎖に踏み切り、戦後の順調な人口増加を支えた若年層は先述の学校教育と合わせ、宗教的な知識を全く得ることなく育っていくこととなった。
民主化以降のアルバニアは信仰の自由が保障されており、国民の多くは先祖よりの信仰を取り戻していったが、ホッジャの執念により徹底的に破壊された慣習までは元に戻らなかった。更に鎖国解除後に一気に諸外国の娯楽文化が押し寄せたことによってイスラム教徒も平気で豚肉や酒を飲み、クリスマスにはパーティをし、女性はヒジャブも被らずミニスカートで街を歩いて彼氏とデートを楽しんだり、メッカの方を向いて祈るという慣習自体をサボっていたりと信仰のスタイルは極めてルーズである。
結果として良く言えば「宗教の世俗化」をある程度達成出来ているのかもしれないがホッジャの政権時代に数々の不当な弾圧や犠牲があったということもまた忘れてはいけない。
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最終更新:2024/04/24(水) 16:00
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