オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン 単語

プリンツオイゲン

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オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン独:Eugen Franz von Savoyen-Carignan、1663年10月16日1736年4月24日とは、オーストリアの軍人である。通称プリンツ・オイゲン(オイゲン子またはオイゲン)。「和的としない戦争は、全て愚行である」

概要

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナンは、イタリアの名門貴族サヴォイアの分サヴォイア=カリ二ャーノ(後に本家を受け継ぎイタリアに)のまた分、サヴォイア=ソワソンフランス貴族)の五男として生まれた。なお、曾祖母フランスの傍系出身だったためフランスの血を引いており、彼自身は生涯爵位を持たなかったもののフランス宮廷において「子」(=Princeドイツ語でPrinz)の称号を帯びる権利を有していた。また、彼のランプルイ14世愛人でもあったので、ルイ14世息子ではないかという説もある。こうして書くと々しいがサヴォイア=ソワソンは官職も領地もその大半を失い、ランプ1680年に宮廷での権力闘争に負け(ルイ14世や夫やスペイン王妃殺の疑いをかけられた)宮廷を追放された上亡命しており、まぁ貴族と言って差し支えないような勢であった。

オイゲンは五男という生まれであるので、爵位を継げる望みがなく軍人として身を立てようと考えていたものの小柄だったこともあり、時のフランスルイ14世からは用いられず(職者になることを勧められたらしい)、折しもオスマン帝国の第二次ウィーン包囲が始まっていたこともあり、フランスを出奔しフランスの宿敵ハプスブルグ神聖ローマ帝国皇帝レオポルト一世に仕え、オーストリアの軍人となった。そして、その後の人生の大半は生フランスとの戦いに費やすことになった。フランスの血を引く「フランス絶対倒すマン」爆誕である。

オイゲンの軍歴は第二次ウィーン包囲に端を発する大トルコ戦争からはじまる。ハンガリー戦線において抜群の軍功を立てるなど活躍をしていたが、戦中の1688年にフランスに対する大同盟戦争が勃発しイタリア戦線へと転戦、又従兄弟のサヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ2世などと共にフランスと戦った。当初イタリア戦線の揮権はオイゲンになく、特に功績もなかったが、1694年に前年に元帥になっていたオイゲン揮権が移譲された。大同盟戦争終結後、戦功を認められトルコ戦線の指揮官に抜、ゼンタの戦いにおいて5万の兵で8万のオスマン帝国軍と対峙、ヨーロッパ側死者429名に対しオスマン側死者3万という大勝利を挙げ、一躍ヨーロッパ世界における英雄の位置へと躍り出ることになった。

その後、スペイン継承戦争で再びフランス対決。北イタリア戦線の指揮官として派遣され東部アルプスを越えイタリアに進出、フランス軍を打ち破り大戦功を上げるも兵站の悪化とフランス軍の持久戦法への切り替え(この時のフランス指揮官オイゲンのいとこヴァンドームルイ)もあり苦に陥った。その後ドイツ方面での戦況の悪化もあり、軍事委員会総裁に任命されオーストリアの軍権を握。イングランド軍の指揮官マールバラジョンチャーチルウィンストン・チャーチルの先祖)と協力しドナウ周辺のフランス軍を撃破、戦争が反フランス側有利に流れる契機を作った。その後イングランド軍と別れ北イタリアへ戻ったが劣勢に立たされることになる。ところが、イングランド軍がスペインネーデルラント(現ベルギールクセンブルク)方面でフランス軍を打ち破るとヴァンドームが引きぬかれ指揮官が交代、オーストリア軍は逆襲を開始し、ついにイタリアオーストリアの手に入った。

イタリアフランスから奪取したオイゲンネーデルラント方面へ転戦、再びマールバラと協力しフランス軍と対峙することになる。アウデナールデの戦いで驚異的な進軍速度を活かしフランス軍の混乱に乗じて勝利を得ると、リールの解放にも成功、ネーデルラントでのフランスの支配権を喪失させた。しかし、その後マルプラケの戦いで勝利したものの戦死者がフランス側の二倍という大損を負い、反フランス側の攻勢は停滞、イングランドフランスとユトレヒト条約を締結し講和するに至って、オーストリアオイゲンを全権代理としラシュタット条約を締結しフランスと講和した。この講和会議の際フランス側全権代理ヴァンドームに対しオイゲンは本から与えられた訓示をすべて開し、フランス側にもそれを迫るという思い切った奇策に打って出た。結果スペイン王位問題によってはじまった戦争の講和条約スペイン王位の取り扱いについて明記されないという新な条文になったがこれが功を奏しラシュタット条約事締結された。

スペイン継承戦争後は、オーストリア領になったネーデルラントの総督やオーストリアイタリアの副王を歴任し、また、墺土戦争で再びオスマン帝国を破りハンガリーの割譲を認めさせるなどした。晩年はポーランド継承戦争にも参戦したが、すでに70歳であり病をえていたこともあり、往時の鋭さはなく後手後手に回ったもののフランスがプリンツ・オイゲンの名前だけで恐れて大規模攻勢に出ず着状態のまま終戦を迎えている。なおこの戦争にはプロイセン王太子時代のフリードリヒ大王が参戦しており、彼は当時のオイゲンを「彼の体はそこにあったが、は去っていた」と辛辣に表現している。

1736年72歳でウィーン結婚しておらず子がかったため遺産ハプスブルグのものとなった。

プリンツ・オイゲンにちなんだ名前

オイゲンは「プリンツ・オイゲン」として第二次大戦中のドイツ海軍アドミラル・ヒッパー重巡洋艦3番艦の艦名になっていることは有名ではあるが、米軍接収後の「プリンツ・ユージン」まで含めると5カ軍艦の艦名に採用されている。

他にも、武装親衛隊第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」とかドイツオーストリア間の国際列車「プリンツ・オイゲン」というものがあった時期もある。また、大トルコ戦争に参加した兵士作詞したと言われる「Prinz Eugenius, der edle Ritter」(プリンツ・オイゲン、高貴なる騎士)exitと言う軍歌もある。

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