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オグリキャップ

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90年、有馬記念

オグリキャップ復活
ラストラン

はいる。
そう思った。

JRA2011年 有馬記念 CMより 


オグリキャップとは、日本の元競走馬、元種牡馬である。地方競馬出身、第二次競馬ブームの立役者として、同じく地方競馬出身で第一次競馬ブームの立役者となったハイセイコー較されることが多い。
称はオグリ」「オグリン」「芦毛の怪物」等。1994年桜花賞オグリローマンは半

競走馬としての通算成績は32戦22勝(中央20戦12勝、地方12戦10勝)

な勝ち
1987年:ジュニアクラウン(地方重賞)、中盃(地方重賞)、中日スポーツ杯(地方重賞)、ジュニアグランプリ(地方重賞)
1988年:有馬記念(GI)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GII)、高松宮杯(GII)、毎日王冠(GII)、ペガサスステークス(GIII)、毎日杯(GIII)、京都4歳特別(GIII)、ゴールドジュニア(地方重賞)
1989年:マイルチャンピオンシップ(GI)、毎日王冠(GII)、オールカマー(GIII)、
1990年:安田記念(GI)有馬記念(GI)

1988年JRA賞最優秀4歳1989年JRA賞特別賞1990年JRA賞最優秀5歳以上年度代表馬NARグランプリ特別表に選出。
1991年には顕彰馬に選出されている。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
オグリキャップ(ウマ娘)」を参照して下さい。

※本稿では当が活躍した時期に合わせて齢を旧表記(現表記+1歳)としてあります。

血統

1985年3月27日北海道の三石町(現在の新ひだか町)稲葉牧場で生まれる。ダンシングキャップホワイトナルビーシルバーシャーク

ダンシングキャップイギリスフランスで20戦5勝だが、重賞では成績を残していない。日本では種牡馬としてオグリキャップ以外にもそこそこの成績を挙げ、またダートでも走ることから地方でも好成績を上げた。
ホワイトナルビーで8戦4勝。産駒地方中心だが15頭すべてが勝ち上がるという、優秀な繁殖牝馬だった。
シルバーシャークアイルランド産で、フランスで活躍。ムーラン・ド・ロンシャン賞、イスパーン賞、アベイ・ド・ロンシャン賞などを制した名であった。

日本ではあまり有名ではない血統であり、ライト競馬ファンからは三流血統とも評されることもあった。だが、ダンシングキャップ(つまりオグリキャップの)はネイティヴダンサー。生涯成績22戦21勝・2着1回、「灰色幽霊グレイゴースト」の異名をとった伝説的名である。オグリキャップのはこの祖の隔世遺伝とも言われている。

ホワイトナルビー岐阜化学メーカー社長小栗孝一の持ちであり、稲葉牧場息子稲葉裕治との縁で同牧場に預託されていた。1984年小栗オーナートウショウボーイの種付けを希望していたのだが、そちらの予定がかずに断念。代打として選ばれたのが、笠松競馬で優秀な種牡馬成績を残していたダンシングキャップだった。小栗オーナーはセリに出された場合の想定価格を稲葉牧場に支払ってホワイトナルビーを購入していたが、後のオグリキャップである「ホワイトナルビーの85」の価格は250万~500万円程であったとされている。

怪物との日々

怪物との日々

と挫折と
熱狂と失望と
そしてあの
奇跡のような結末。

常識も退屈も
すべてを吹き飛ばす
怪物に魅せられたら。

競馬には一生を懸けて
追いかける価値があると
教えてくれたのが彼だった。

JRA名馬の肖像オグリキャップ exit

1985~87年:当歳~3歳

生まれつき右前脚が大きく外向し、なかなか立ち上がることもできなかったホワイトナルビーの85は、事に成長するようにと幼名「ハツラツ」と名付けられた。ホワイトナルビーの出が良くなく、時には授乳拒否することもあったが、ハツラツは食欲旺盛ですくすくと成長していく。

小栗オーナーに購入され、ホワイトナルビーも管理していた鷲見厩舎に入厩したハツラツは、冠名オグリ」との名「キャップ」を合わせた名を与えられ、1987年5月19日笠松競馬場デビューデビュー戦と4戦マーチウショウに敗れたものの、蹄叉腐乱の治療に成功した5戦からは7連勝(うち重賞4勝)を達成。6戦からは「アンカツ」こと安藤勝己コンビを組んだ。

「他軽トラックなら、高級乗用車だ」
「オグリキャップは全身がバネ。キャップが走ったらレースにならんて」

鷲見勇(調教師)

「どえらいだね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」
重心が低く、前への推進がケタ違い。あんな走り方をするに巡り会ったのは、初めて」

安藤勝己

8戦地方開催競走・中京競馬場1200の中盃を勝利して芝コース適性も明したことから、様々な人が中央移籍を薦めるようになる。中央馬主資格を持たず、そもそも自分のを手放したくない小栗オーナーはそれを渋るが、最後には最も熱心に説得してきた名古屋玩具会社社長五十2000万円で権利を売却する。

1988年:4歳

1月10日ゴールドジュニア(地方重賞)を制したオグリキャップは、地方通算12戦10勝2着2回・8連勝中という実績を掲げて中央競馬へと乗り込む。頂点(キャップ)をが始まろうとしていた。

それは、笠松競馬の人々との別れも意味していた。佐オーナー希望三輪勝装蹄師が中央競馬への同行を特例で認められる一方、鷲見師は東海ダービー制覇の悲願が断たれたことに激怒し、小栗氏が誘った最後の関係者記念撮を拒否したという。

「中央の芝に合わなければに戻す」という条件でキャップを送り出した小栗氏だったが、幸か不幸か、結局キャップは彼の元に帰ってくることはなかった。小栗氏は後に中央馬主資格を取得し、キャップの半オグリローマンを中央へ送り込むのだが、それはまた別の話である。

笠松から来た「葦毛の怪物」

オグリキャップは栗東トレーニングセンター瀬戸口勉厩舎に入厩し、騎手には佐オーナー希望関西トップ騎手河内洋が選ばれた。中央にべると一段レベルが落ちる笠松競馬出身とはいえ、さすがにその圧倒的な戦績は競馬ファンに知れ渡っており、注度は高かった。中央移籍初戦はいきなりの重賞3月6日ペガサスステークス(GIII)だが、2番人気で出走、あっさり優勝する。

(レース前)「なんでこんなに人気なんだろう。たかがじゃないか」
(レース中)「ナメて実況していました」
(レース後)「これは自分の見方がまちがっていた、こいつは噂どおりだ」

回想杉本清(アナウンサー)

その勢いで3週間後の毎日杯(GIII)も制し、通常ならクラシック三冠に挑戦する流れに入ったのだが、中央馬主資格のない小栗氏はクラシック競走の出走登録など当然行っていなかったため、皐月賞日本ダービー菊花賞への出走は不可能だった。

皐月賞を制したのは毎日杯でオグリキャップの4着に敗れたヤエノムテキ。この結果に、当時は競馬評論家としても名を挙げていたマルチタレント大橋巨泉を中心に「何故本当に強いが『強いを決めるレース』に出られないのか」とクラシック登録制度に対する抗議が上がる。後のオグリブームも相まってJRAも方針転換し、1992年からは追加登録料を払えば追加登録を認めるようになった(99年にテイエムオペラオーがこの制度を使って皐月賞に出走、優勝を果たしている)。

結局日本ダービー出走がわなかったオグリキャップは、賞不足・外産・同じような登録漏れの連中が向かう「裏街道」路線へ乗り込み、する。5月京都四歳特別(GIII)(河内騎手が同日に東京で行われたNHK杯に行ったので南井克巳が騎乗)、6月ニュージーランドトロフィー四歳ステークス(GII)と、四歳限定重賞ペガサスSから数えて4連勝。特にNZT四歳Sでは同年の安田記念ニッポーテイオーよりも速いタイムを計時し、まさに桁違いの量を見せつけた。
さらに7月高松宮杯(GII)10月毎日王冠(GII)で、歴戦の古をも粉砕し、メジロラモーヌとの日本タイ記録(当時)である重賞6連勝を達成。

毎日王冠で古の一線級を相手に、スローペースを後方から大外って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない
どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい

大橋巨泉(タレント)

芦毛頂上決戦~昭和最後の名勝負~

初のGI挑戦となる天皇賞(秋)でオグリキャップを待ち構えていたのは、昨年覚醒し、今年の天皇賞(春)宝塚記念を制した一歳年上の芦毛タマモクロスであった。「芦毛は走らない」と言われていた当時、どちらが勝ってもそれぞれの記録達成となるこの一戦は大いに喧伝され、既存の競馬ファン以外にも注された。前戦を制し、レース展開への対応を評価されたオグリキャップは一番人気に推されるが、追込一辺倒のこれまでと違い先行策をとったタマモクロスに届かず、中央移籍後初の敗北(2着)を喫する。

この年の9月、佐オーナーには脱税の容疑がかかり、一審で有罪判決が下っていた。馬主資格の返上は避けられないと見た佐オーナーは、せめてそれまでにタマモクロスを打倒しようと決意したのか、彼を追ってジャパンカップ(GI)への出走を決める。オグリキャップは日本最強タマモクロス凱旋門賞トニービンに次ぐ3番人気に推されるが、勝者は9番人気アメリカ代表ペイザバトラー。その上タマモクロスにはまたも届かず、3着に終わる。 

タマモクロスは本年の有馬記念(GI)引退レースとすることが発表された。佐オーナーはとうとう騎手の交代に踏み切り瀬戸口師を通して関東の名手・岡部幸雄上に迎える。翌年には馬主が代わっていそうな営からの依頼ということで、競馬に集中したい岡部騎手やんわりと断ったが、やはりオグリキャップには乗ってみたかったらしく「1度だけ」という条件で承諾。営もタマモクロスえるべく、岡部騎手の提案で中山競馬場で走ったことのないオグリキャップを現地で練習させるスクーリングを実施(輸送の負担を考えてあまり行われないのだが、オグリはピンピンしていたとか)するなどして準備を進める。
そして本番、遂にオグリキャップは初めてタマモクロスに先着し、優勝。見事にGI初制覇を果たすとともに、中央競馬最強の座をタマモクロスから受け継いだのであった。また、これは瀬戸口師にとっても調教師15年にしての初GIであった。

なお、クビにされてしまった河内騎手はもう一頭のお手サッカーボーイに騎乗し、4着入線(スーパークリーク失格で繰り上げ3着入賞)を果たした。オグリキャップとのコンビはここまでとなったが、後の1990年安藤勝己は「河内さんが乗っていた頃が、オグリキャップのいい面が出ていたと思う」とっている。

彼はアメリカでも通用する。芝、ダートを問わずだ。(中略)まだ成長する余地を残しているし、それにドッシリ構えているタイプで、環境の変化にも十分に対応できる強い精を持っている

岡部幸雄

小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシ

河内洋

1989年:5歳

1989年1月7日昭和天皇崩御。平成時代の始まりとなったこの年、JRAは新キャッチコピーとして見るたび、新しい競馬ですを掲げ、マスコットキャラのターフィーを登場させる。ミスターシービーシンボリルドルフの活躍で作られた下地に、タマモクロスとオグリキャップという雑草の活躍が火をつけ、ハイセイコー以来の熱狂が始まろうとしていた。旧来の競馬ファン馬券を外して絶する新規勢と自分たちを揶揄して『買うたび、悔しい競馬です』と笑っていたのだが。

2月22日、佐オーナーは1年間で3億(というのは当時の発表で、実際は2年で5億5000万)円の契約で、オグリキャップをヒダカファーム代表・近藤俊典へ売却。自身は馬主登録を抹消し、第二審の前日に控訴を取り下げた。恐ろしい価格もさることながら、競走馬引退後には所有権を佐氏に戻す条件が付いていたため「名義貸しじゃないのか」と各方面から突っ込まれた。近藤オーナーは24年間のオーナーブリーダー活動で一度も重賞を勝ったことがなく、文字通りオグリキャップにを賭けたのである。なお、佐氏はしばらく後に自社からオグリキャップぬいぐるみを発売し、さらに大けしている。転んでもただでは起きないとはこのことである。

肝心のオグリキャップはというと、1月1988年度のJRA賞最優秀4歳を受賞。しかし2月に右前脚の球節を捻挫して産経大阪杯を回避。4月には右前脚に靭帯を発症し、結局シーズンを全休する。
『フラガール』で有名な福島県浜通りいわき湯本温泉にある競走馬総合研究所・常磐支所(総研。現・競走馬リハビリテーションセンター)で湯治・プール超音波治療を受けたオグリキャップの調教は順調に進んだ。繫靭帯炎は屈腱炎と並んで「競走馬」とも称される難病のはずなのだが……。たくましいのはも一緒だったようだ。

「オグリローテ」~激戦の秋~

近藤オーナー岡部騎手めて騎乗依頼を出したが断られ、最終的に騎手は昨年のライバルタマモクロス戦であった「豪腕南井克巳に決定した。9/17の産経賞オールカマー(GIII)で復帰したオグリキャップはレコード勝ち復活アピールする。
その後は天皇賞(秋)へ直行予定だったが、あまりに旺盛な食欲から太め残りが懸念され、当初の復帰戦予定だった毎日王冠への出走が挟まれる。何しろオグリキャップの食欲ときたら、レース帰りに道草を食い(直喩)寝床の藁すらかじるほどだったというのだから……。

10/8(前走から3週)の毎日王冠本番では、同じ地方大井競馬場出身のイナリワン突。今年から中央にやってきたこの6歳は、若き天才武豊コンビを組んで天皇賞(春)レコード勝ちした上、宝塚記念も連勝する大暴れを見せていたのだ。しかし、スーパークリークが復帰したことで武騎手はそちらへ戻ったため、この日は柴田政人との新コンビ初戦であった。
レースは最終的にイナリワンとオグリキャップがゴール直前で抜け出し、火の出るようなデットヒートのままゴールイン。89年中央競馬の名レースと名高いこのレースは、ハナ差でオグリキャップに軍配が上がり、毎日王冠史上初の2勝&連覇達成となった。

さぁメジロアルダンか!メジロアルダン!? イナリワン!? オグリ!?
三頭並んだ!三頭並んだ! そして二頭になった!
並んで、並んでゴールイン!並んでゴールイン

フジテレビ 堺正幸アナウンサー

次走・10/29(3週)の天皇賞(秋)では、同期菊花賞スーパークリーク(と皐月賞ヤエノムテキ)と対決。初めてGIを勝ったスーパークリークに跨る武騎手は、前年の有馬記念オグリタマモに手も足も出なかった上に斜行失格となった屈辱をはらすべく燃えていた。
一番人気で出走したオグリキャップだったが勝負どころでヤエノムテキに進路をカットされ、猛然と追い込んだもののクリークとクビ差の二着に敗退。レース後にクリークを睨みつけたまま、南井騎手から促されても帰ろうとしなかった様子は、よしだみほの『馬なり1ハロン劇場』でもネタにされた。そしてこの年の秋天皇賞を連覇した武騎手の元には、過激派オグリファンから大量の嫌がらせ手紙が届いたのであった。

続く11/19(3週)のマイルチャンピオンシップ(GI)では、因縁の武騎手と、その武邦彦調教師が手掛けた安田記念バンブーメモリーと対戦。先行逃げ切りを図るバンブーメモリーとの間に、もはやこれまでかという差をつけられるも、残り100mから猛然と追い込みハナ差交わしてゴールインという、日本競馬史に残る末脚を炸裂させた。秋天の敗因は自分の騎乗にあったと考えていた南井騎手は「なんて偉いなんだろうと思うと、どうしようもなく泣けてきた」と感じ入り、ながらに勝利インタビューに臨んだ。杉本アナの名実況が、このレースにおける両者両の立場をこれ以上なく鮮明に描写している。

内か外か僅かに内かー! 僅かに内オグリキャップかバンブーメモリーか!
負けられない南井克巳! 譲れない武豊 この二頭の一騎打ちになりました!

関西テレビ 杉本清アナウンサー

まぁもね……こんな強い乗せてもらって、この間負けましたからね。
オグリにね、借りは……ね、まだ半分しか返していないですけどね。
来週のね、ジャパンカップでね、倍にして返したいと思います!(場内大歓)

南井克巳

89' JC~南の国から来た葦毛馬~

オグリキャップはバンブーメモリー(を置いてスーパークリークの背へ戻った武騎手)と共に、11/26(1週)ジャパンカップへ向かった。かくして89年JCは、オグリクリーク、イナリ、バンブーら中央のスターホースが集結し、地方からはオールカマーで対戦した南関東ロジータも参戦、更に前年優勝ペイザバトラーが再び来日するなど、オグリキャップにとっては因縁渦巻くレースとなった。ヤエノムテキが泣いている

オールカマーからJCまで、3か重賞5戦。しかも東京京都東京の輸送を挟んでいるマイルCS出走前、瀬戸口師は「これで結果が悪いと非難されるやろが、このには常識が通用せんのや」とった(そしてその通りだった)が、流石にこのローテーションにはマスコミ競馬評論家のみならず、「オグリの走りをもっと観たい」ファンからも苦情が寄せられるようになった。藤井幸介ライターは「人の欲にまみれた使い方」と痛非難し、ファンからは「近藤が何としてもトレード代を回収するべく、全休した競馬の分としてマイルCS出走を懇願したのでは」と邪推された。
東京競馬場に戻ってきたオグリキャップは相変わらず食欲旺盛だったが、ある日の調整前、しく飼い葉から首を上げて「ある」をじっと見つめる「事件」があったという。


レースイギリスイブンベイ暴走アメリカホークスターがそれを猛追し、人智をえたハイペースが現出(1800m通過タイムが当時の1800m日本レコードを上回っていた)。普通ハイペースレースでは差し追い込みが有利」とされるものだが、この「」が頭に何個ついてもいいほどのハイペースは追走するだけでもやっとのもので、後方待機勢にポジションを入れ替えるほどの余はとても残っていなかった。なにしろ逃げイブンベイホークスターがそれぞれ6着と5着に残ってしまっているのである。後方勢から辛うじてペイザバトラーが3着に突っ込んだのは、さすが前年の優勝というところであろう。

オグリキャップは4番手を追走。東京競馬場の長い最終直線はの精限界を試す死地となり、こらえきれなくなったたちが一頭、また一頭と脱落していく。しかし先行したオグリキャップは崩れない、どころか豪腕・南井の40連発とも言われるステッキの連打に応えて加速さえする。だが同じくこのハイペースに崩れることのなかったもう一頭の、あの時オグリキャップがじっと見つめていたニュージーランド代表・ホーリックスにはどうしても届かない……!

最後はクビ差敗れたものの、走破タイムは勝ったホーリックスと同じく2.22.2で、これは1999年更新されるまで世界レコードだった。ホーリックス南半球最速なら、北半球最速はオグリキャップというわけだ。

(オグリキャップが決着後もホーリックスの前に出ようと走ったことをして)
あの勇気の意味で「Race Horse」と呼べるでしょう。Best-Looking Horseであり、Best-Race Horseです。一度でいいから、あんなに乗ってみたい

ランス・A・オサリバン(ホーリックス戦)

平成元年の終わりに

オグリキャップは堂々のファン投票1位で12/24(4週)の有馬記念へ進む。が、流石に「怪物」の覇気もここまでだった。かつての教え子の雄姿をみるべくからやってきた鷲見師は、近藤オーナー依頼でオグリキャップのパドック診断を行ったのだが、その答えは「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」。競馬ゲームですら稀なヘビローテでは理もない話である。まぁ、当時はこれより酷いローテを組まされたしくはなかったが……イクノディクタスとか何で死ななかったんだろう……。

レースでは終盤で伸びを欠き、レコードタイム優勝したイナリワンハナ差2着のスーパークリークから4身離された5着に敗退。その日のうちに福島の総研送りとなり、再びの温泉療養に入ることとなった。借りを返し切れなかった南井騎手は自ら戦の降を申し入れ、結果的にこれが最後の騎乗となった。

『見るたび、新しい競馬です』。そのキャッチコピーに間違いはなかった。オグリキャップにイナリワンスーパークリークを合わせた「平成三強」をはじめとするスターホース名勝負、そしてそれらに騎乗する武豊らの活躍は、新たに競馬に触れた人々に「新しい競馬」を見せつけ、10年間にわたる第二次競馬ブームを巻き起こしたのである。

1990年:6歳

89年での引退も示唆されていたオグリキャップだが、この年も現役続行が決まった(JRAが働きかけたともいわれるが定かではない)。

シーズン天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にはGI・アーリントンミリオンステークスへ遠征というプランが計画された。アメリカレースに出走すれば際賞ランキングにオグリキャップの名が残る。前オーナーの佐氏はこれを「に対する馬主責任」とっていた。

始動戦は前年に見送った産経大阪杯が予定されたが、調子が上がらずまたも回避。春天も見送りとなった。

宿敵・武豊との共闘

安田記念(GI)とアーリントンミリオンSの上には、これまで幾度となく死闘を演じてきた武豊騎手が招かれ、中央競馬でも群を抜くスターの「ゴールデンコンビ」に競馬界をえた注が集まった。一方で武騎手は『笑っていいとも!』に出演した際、タモリからオグリキャップの印を聞かれたときに「何考えてるかわからなくて、キライです!」と答えていたこともあり、元々ユタカアンチが多いオグリファンの中にはしい反発を示す者もいた。商売敵なので当然っちゃ当然の発言なのだが、当時のユタカさんは結構怖いもの知らずだった。

本番レースは「オグリキャップの生涯でも最高のパフォーマンス」とも称されるほどのもので、武騎手はほとんど何もしないまま、東京1600mのレコードタイムで快勝(2着ヤエノムテキ)。獲得賞シンボリルドルフを抜き、日本記録更新する。「オグリを南井に返せ」という恥ずかしい横断幕まで作ってきていた過激派は、負け惜しみのヤジを飛ばしていたそうだが……。

乗ってみると、予想どおり乗りやすくて、従順なでした。でも、不思議で、どこか人間みたいだなと思いました。全部わかってるみたいな感じで

武豊

ちなみに、このレースで武騎手平成三強の3頭全てでGI制覇を達成。また、平成三強全てに騎乗したのも武騎手一である。

挫折と、失望と

次走は宝塚記念(GI)ファン投票得票数・152,016票はここから32年後にようやく更新されたほどのレコード記録である。しかし武騎手はやっぱりスーパークリークの元へいってしまい(筋肉痛で回避)。南井騎手ヨーロッパ研修中だったため、関西ホープ岡潤一郎代打を務める。
阪神競馬場・全面修直前の最終開催日に行われたこのレースは、事実上のオグリ関西ラストランとなることから、入場者数は当時の宝塚記念レコード更新した。だが、レースでは中の順調さを欠き、一年後輩オサイチジョージの2着に敗退(3着ヤエノムテキ)GI初制覇のオサイチジョージ営が歓喜する一方、オグリ当てだった観客達には「しばらくの静寂」があったという。

レース後、オグリキャップは脚部不安(両前脚膜炎・右飛節軟種)を発症し、アメリカ遠征計画は白紙撤回。7月は総研で三度の療養に入る。温泉に入ればなんとか……なったのはまでの話だった。
ここから歯車が狂ったのか、秋天して8月末に栗東トレセンに帰厩するも、10月上旬にかけて次々と脚部故障を発症。更にテレビ局の1週間密着取材を受けたのだが、よりにもよって競走馬を知らない人間ばかりで編成された取材クルーの酷い取材攻勢(調子の悪いを厩務員が見ていない隙に人参釣りだす、厩務員の帰宅後も房にり付く、ライトを顔にガンガン当てる)に更なるダメージを受けてしまう。「あのオグリ飼い葉を食べなくなったレベルである。

上には、かつてハイセイコーに騎乗した大ベテラン増沢末夫が招かれるが、このような状態ではまともな調整ができるはずもない。前戦の毎日王冠も回避して、ぶっつけ出走の天皇賞(秋)は、初めて掲示板を外す6着に敗れる(1着ヤエノムテキ)。とうとうオグリキャップは、三度一番人気に支持されながら一度も秋天を勝つことができなかった。

営の要望で取材は自粛されたが、相変わらず調子の上がらないまま出走したジャパンカップでは……。混戦ではあったが、生涯一の二桁着順である11着に終わった。
もともと、に気合を乗せてやる気を引き出させる増沢騎手の騎乗と、とにかくに全で走るオグリとは相性が悪く、お互いの長所が打ち消されてしまっていた。だが、それも細な要素に過ぎないほどに、オグリキャップの状態自体が落ち込んでいたのである。瀬戸口師は後に「悪い時に乗ってもらって気の毒だった」と増沢騎手を気遣っている。

オグリキャップは終わった。燃え尽きたのだ――。
もがそう思い、晩節を汚さぬよう引退を望むも上がり始めた。以前から近藤オーナー深夜嫌がらせ電話攻撃を受けていたのだが、遂にはJRAに「オグリキャップの有馬出走を取り消さなければ、近藤の自宅と競馬場爆弾を仕掛ける」という脅迫状が送られてきた。
だが、営は引退レースとして出走を決断。近藤オーナーは関係者以外の厩舎立入をすべて禁止し、あの若き天才武豊に最後の騎乗依頼を出した。

「神様はいると思う?」「いるさ。中山で見た」

安田記念で素らしかった豊くんが乗って、それでも負けるなら、納得もいくのではないだろうか……。近藤オーナーはそう考え、断られた場合は有馬記念出走を取り止めるつもりだったのだが、武騎手突然オファーに困っていた。スーパークリーク繋靭帯炎引退し、が管理するオースミシャダイへの騎乗が決まっていたからだ。
しかし邦師は、2度といかもしれないこの機会を息子の成長の糧とすべく動いた。オグリに乗れ」と息子を励まし、オースミシャダイ馬主に頭を下げにいったばかりか、オグリキャップの併せの相手もさせたのである。なお、当時のユタカさんは武厩舎ではなく武田作十郎厩舎の所属である。邦師のばかぶり気遣いが伝わってくる。

また奇しくも、レース当日の中山競馬場昼休みには、オグリキャップと同じく宝塚記念で脚部不安を発症したイナリワン引退式が行われることになった。結局、平成三強が集ったのは前年の有馬記念が最後であった。

12月23日、新装なった中山競馬場17万7779人のみこんでいる。午前中から異様な雰囲気が漂っていた。も彼もが、オグリキャップを買うか買わぬか、踏み絵を前にしているようなのだ。
私は記者席から人で隙間のないスタンドをのぞき、あのポニーテールの若い女は来ているだろうかと思ったジャパンCの帰りに寄った居酒屋で、オグリキャップの惨敗をふりかえる仲間に、
「もう言わないで」
とわめき、ひくひくと頭をふるわせて泣いていた若い女だ。きっと、このひとの波の中で、若い女はオグリの雄姿をひたすら祈っているだろう。

吉川良(作家競馬コラム筆者)

中山競馬場には「最後のオグリキャップの走りを見たい」大観衆が押し寄せた。過ぎにはくも収容限界に達し、JRA保安企画課は警察から警告を受ける。入場規制で通せんぼされたファンは門前で抗議するが、今更入ったところでスタンドどころかパドックにすらたどり着けず、馬券もまともに買えないのである。本馬場に入場するたちは異常な大歓に慄き、同じく引退レースを迎えるヤエノムテキが放するハプニングも起きた。オグリオグリうるさい観客にキレたのだろうか。秋天の時もレコードタイムで勝ったのにみんなオグリの話してたし。

当のオグリキャップはファン投票一位だったが、肝心の馬券は4番人気明らか応援馬券体で「勝つ」とは思われていない。パドックでもあまり覇気がなく、跨った武騎手もそのような印をうけたという。しかし手綱を引く池江敏郎厩務員は、秋天の時以上のを出すオグリキャップに「もしかしたら……」と希望を持った。
出走直前、若き天才はこれまで幾度も勝負し、そして一度は共に勝ったに「おい、お前『オグリキャップ』やからな」とを入れた。はそれに応えるかのように武者震いをしたという。


・期待・願い!
様々な思いが、幾重にも重なり、大きな援となって、中山競馬場き渡ります!
17万人の大観衆の前を、今! 第一コーナーに向かう16頭であります

フジテレビ 大川アナウンサー

レース逃げミスターシクレノンが出遅れ、先頭に立たされたオサイチジョージが消極的な逃げをうち、極端なスローペースで進行。凄まじい援に各は動揺し、微妙ペースを狂わせていくが、オグリキャップは終始動じず、中団を進む。

そして第3コーナーで進出し、

そして、オグリキャップが行った!オグリキャップが行った!
いよいよ、武豊が、最後のドラマ最後のドラマを作りに行った!

NHK 藤井康生アナウンサー

直線で先頭に立ち、

200を切って、オグリキャップ、オグリキャップ、
さ ぁ 頑 る ぞ オグリキャップ!!
オサイチジョージホワイトストーン、そしてメジロライアン
オグリだ、オグリだ! オグリキャップ!オグリキャップ――!

ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI) 白川次郎アナウンサー

追撃してくるメジロライアンホワイトストーンを抑えてゴール線を駆け抜けたのであった。

オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着!
右手を上げた武豊! オグリ1着! オグリ1着!
見事に、引退レース引退を飾りました!
スーパーホースです! オグリキャップです!!

フジテレビ 大川アナウンサー

後年、武騎手は「別に謙遜してるわけじゃなく、強いが走りやすいように走らせただけなんですよ」「奇跡でも何でもないと思う」と振り返っている。実際、出走には(当のオグリキャップも含めて)飛びぬけた実を持つはいなかった。展開が予期せぬスローペースになったことで、多くのが折り合いを欠く一方、オグリキャップは歴戦の経験と勝負根性を発揮し、最後までを温存できたのである。

しかし寒の中を集った観客達にとっては、それは紛れもない「奇跡復活」であった。オグリはまず勝てないだろう、事帰ってきて、思い出を作ってくれればそれでいい。そう思っていた中山競馬場の18万余の観衆が、どよめき、揺れる。何とも言えない歓は、いつしか「オ・グ・リ! オ・グ・リ!」の満場の連呼となり、ウイニングランを行うオグリキャップを包んだ。「はいる、そう思った」という後のJRAコマーシャルコピーは、決して誇ではないのだ。

二次競馬ブームは波に乗っており、同年の日本ダービーでは日本競馬史上初めて、優勝したアイネスフウジン中野栄治騎手を讃える「ナカノコールいた。そして暮れの有馬では、日本競馬史上初めて、優勝したを讃えるコールが起こったのである。このGI勝利勝利騎手を讃えるコールは、新たな競馬文化として定着していくのだった。

ありがとう。

駆けた全4万1100m。燃えた全41分166。
あの有馬記念、あのマイルチャンピオンシップ
念の天皇賞ジャパンカップ。そして復活有馬記念
数々の感動記録を残して怪物はターフを去っていった。
心に刻み込まれた栄と惜敗の全ドラマ。その感動は決して消えはしない。
オグリキャップ、これからも、そしていつまでも、
その名は心の中で永遠に走り続けていくだろう。
ありがとう。を、感動を、ありがとう。

JRA「ヒーロー列伝」No.29 オグリキャップexit

引退後・余談

91年1月引退引退式は京都東京の三か所で行われた。特にでは名古屋鉄道特別編列車「オグリキャップ里帰り記念号」を運行し、記念切符はほぼ売。競馬場には当時の町人口(2万3000)をえる2万5000+入場制限で締め出された1万5000人もの観客が来場したという。ウイニングランを担当した安藤騎手は場外の土手や防に取ったファンのため、向こう正面ではスピードを落として走った。

引退後は種牡馬となり、産駒の活躍が期待されたが、7月に喉嚢炎を発症。9月には大量出血する危篤状態から何とか回復するが、この一件と合わせて初年度産駒たちが走らなかったこともあり、持ち込まれる繁殖牝馬の質は落ちていった。その後も立った成績を上げることは出来ず、2007年種牡馬引退

そして2010年7月3日、繋養中の転倒による複雑骨折により、安楽死処分がなされ、「芦毛の怪物」は天国GIへと立っていった。同年の有馬記念開催日には、全レース終了後の中山競馬場において「最後のオグリコール」と銘打ち、あの90年有馬上映会が行われた。レース中のライアンコールの多さよ。最初に叫んだ人タイミングすぎだって!

また、笠松競馬ではその功績を讃え、1992年オグリキャップ記念が創設された。

オグリキャップブーム

一頭のが走る。そして勝ったり負けたりする。それが競馬だ。そして、競馬ファンの前をたくさんのたちが通り過ぎていった。さまざまな記憶を残して。
だが、オグリキャップのようなに出会うのは初めてのような気がした。地方出身の? そんなはいた。強い? そういうもたくさんいた。その周りの人間たちがさまざまなトラブルを起こす残念ながら、そういうだってしくはなかった。
可愛いカッコいい、おかしなのある、個性的な走りを見せてくれる、気まぐれな……でも、オグリキャップは、そのどれとも違っていた。

高橋一郎(作家競馬コラム筆者)
オグリキャップ追悼コラムより

染みがなくともすれば「三流」とも評された血統、それまで活躍が少なかった毛、中央競馬より劣るとされる地方競馬出身……にも関わらず中央競馬の強たちを打ち倒し、さらにタマモクロススーパークリークイナリワンら強ライバルと数々の名勝負を演じたオグリキャップ。当時の人々はその姿を自らに重ね合わせ、さまざまな感情を抱いた。その感情はバブル景気と共に膨らみ(そして爆発し)、第二次競馬ブームを巻き起こしたのは先述した通りである。その経済効果は、一説には円にも達するとまで言われる。

オグリキャップのは「普段は競馬に縁のない芸能人オグリ名前を口にし、競馬興味を持たない主婦オグリ名前は知っている」とされたほど。佐氏の会社から発売されたぬいぐるみも、その後JRAの「アイドルホースシリーズ」としてされる定番ブランドへ成長した。引退後も「オグリキャップに会ってみたい」というファン産地を訪れるようになり、新たな観光需要を発掘するとともに、功労達の余生について考えられるきっかけにもなった。

第一次ブームは「競馬スポーツとして認められた」というほどの動きがあったが、第二次ブームは「競馬スポーツの域をえた大衆娯楽になった」と評される。特に「オグリギャル」(ユタカギャルでもあった)と呼ばれた女性ファンを獲得したのは大きく、競馬場の客層を大きく変えることになった。

流石現在は知名度こそ衰えたものの、それでも競走馬人気ランキングでは常に上位にランクインする、関連書籍が出版される、パチンコの題材になる、NHKドキュメンタリー番組[1]では競走馬はおろか人間以外で役として取り上げられる等、未だ人気サラブレッドとしての地位は揺らいでいない。近年では競走馬擬人化美少女企画ウマ娘プリティーダービー」やその漫画版などから現実競馬に触れたファンをも魅了し続けている。

その血の流れ

オグリキャップのサイアーラインは、上記の通り立った成績を上げていないこともあり、2022年時点で極めて危機的な状況にある。
1992年に生まれたノーザンキャップ(現役時代は中央で未勝利勝ちと500万下を2勝したが、900万下ではが立たず地方へ行くも勝てずに引退)が一の後継種牡馬であるが、2003年に用途変更されており、種付け自体2頭しかしていない。さらにその中で出生し血統登録に至ったのは、2001年生まれのクレイドルサイアーただ一頭のみである。
クレイドルサイアーは門別で2戦したが掲示板に入ることすらなく、2005年競走馬登録を抹消2013年種牡馬入りするが、血統登録に至れた産駒2020年生まれの2頭ののみである(2015年にも生まれたが、生後1日半で死亡)。
そして2022年5月、その内の一頭たるフォルキャップ門別競馬場にてデビュー。致命的な出遅れをかましつつも4着に入る今後が楽しみな競馬を見せた。彼の今後に期待したい。

経由の血はまだ残っているため、そちら経由で栄える可性は普通にある。

平成三強イナリワンスーパークリークは直接の後継種牡馬がおらず、すでにサイアーラインが断絶済み。芦毛ライバルであったタマモクロスサイアーラインも、ウインジェネラーレ(2004年日経賞)が後継種牡馬になるも、2頭しか産駒がおらず(1頭1頭)、2011年に用途変更になっている。一の産駒であるタケノシマント大井2011年に2歳でデビューし1戦0勝後2012年には登録抹消済み。その後の行方情報調したが不明である。生きていて去勢されていなければ後から種牡馬にすることは可だろうが…。

90年有馬こぼれ話

間違いなく日本競馬史上に残る伝説の名「場面」である90年有馬記念だが、フジテレビ実況解説席に座っていた大川次郎は後日、レースを「お粗末な内容」と評した。何しろ走破タイムは同日同条件開催の条件戦(グッドラックハンデ)より遅かったのである。誤解なきよう付け加えるが、この発言はあくまでレース全体についての話で、別にオグリキャップを貶めているわけではない。推しのメジロライアンが負けたことに不貞腐れているわけでもない。はずだ。

各社中継の実況も、その全てが「名実況」として話題に上がる。
NHK実況藤井アナは、最終直線ではおもわず立ち上がって実況していたという。
JRA公式実況であるラジオたんぱ白川アナは後年「『さあ頑オグリキャップ』と言いかけ、『特定応援はよくない』と間的に思い直し、出てきた言葉が『さあ頑るぞ』だった」と回想している。
フジテレビ実況ゴール前200m辺りでは「りゃいあん!らいあん!」のが混ざっているが、これは慶次郎氏の発言。ただでさえオグリびいきの和アナ全にオグリのことしか言わなくなったので、上がってきたメジロライアンを見落としているのではないかと叫んだそうな。そして和アナは武騎手左手を上げているのに「右手を~」と実況しているが、これは双眼鏡で確認していた=像を見ていた(ことを踏まえた実況を忘れた)ためである。

馬券売上は当時のJRA記録となる480億3126万2100円を記録。これは約20万人が来場した同年の日本ダービーよりも多い。面いことに、大多数の馬券師は予想を外したわけだが、それを差し引いても換率は妙に低かったという。100円でオグリキャップの単勝馬券を購入したファン達は、それを550円に換せず、記念品として持って帰ってしまったのだ(かわからないが、とある女性ファン100万円を突っ込んだにも関わらずしなかった……という取材記録exitもある)。これをきっかけにJRA勝馬投票券の小革を行い、投票名の記載・当たり券のコピーセット投票券「応援馬券」の販売というサービスを開始した。

稲葉牧場のせがれ・稲葉裕治氏は88年秋天の際、生産者代表として初めて現地観戦に向かい、2年ぶりにハツラツと再会した。結局オグリが負けたのは知っての通りだが、裕治氏はその後4回の現地観戦全てでオグリが負ける様を見せつけられ、すっかり「自分のせいかも」と気に病んでしまった。とうとう、裕治氏はラストラン牧場テレビ観戦することにしたのだが、その結果、ゴールイン直後から鳴りく祝いの電話と訪問者対応に忙殺されることになる(染みの医が最初に電話してきたが、どう考えてもゴールイン前にダイヤルしたとしか思えないさだったという)。電話の一人である近藤オーナーはその嬉しい悲鳴を聞き「稲葉くん、やっぱり来なくてよかったよ」と笑って慰めた。
なお、稲葉牧場スタッフの代わりに生産者表台に立ったのは、初代オーナー小栗孝一氏であった。

ウイニングランオグリコールの後には「ユタカコール」もしっかり行われている。当時すでに武豊は「邦息子」ではなく「ユタカとタケパパ」と逆転して呼ばれるほどの人気を得ていたが、このレース以降はアンチ減し、取材に来るマスコミの雰囲気もどこか変わったという。あの場面であれほど完璧な騎乗をされては、最叩きようがないというもの。邦師の決断は正しかったと言えよう。
騎手はこのレース有馬記念初制覇となるが、翌91年の有馬では一転して驚きの惜敗を喫し、以後16年間有馬勝利から遠ざかる。「失礼かもしれないけど、オグリよりもあの時のダイユウサクの脚のほうが『奇蹟』でしょう」と回想している辺り、よほどショックだったようだ。

もう、毎年、あの有馬記念の話を聞かれますね。そのとき生まれていなかった人からもよく聞かれます。初めてお会いした人からも、あのレースの、その人なりの思いとかストーリーをよく聞きますし

みんなオグリキャップが好きですからね

武豊・26年後の回顧

血統表

オグリキャップの五代血統表
ネイティヴダンサー
クロスNasrullah 4×5(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)
輸入基礎シユリリー()
*ダンシングキャップ
Dancing Cap
1968 芦毛
アメリカ
Native Dancer
1950 芦毛
アメリカ
Polynesian
1942 黒鹿毛
アメリカ
Unbreakable
1935 青毛
Sickle
Blue Glass
Black Polly
1936 鹿毛
Polymelian
Black Queen
Geisha
1943 芦毛
アメリカ
Discovery
1931 栗毛
Display
Ariadne
Miyako
1935 芦毛
John P. Grier
La Chica
Merry Madcap
1962 黒鹿毛
イギリス
Grey Sovereign
1948 芦毛
イギリス
Nasrullah
1940 鹿毛
Nearco
Mumtaz Begum
Kong
1933 芦毛
Baytown
Clang
Croft Lady
1958 栗毛
イギリス
Golden Cloud
1941 栗毛
Gold Bridge
Rainstorm
Land of Hope
1950 黒鹿毛
Court Martial
Little Britain
ホワイトナルビー
1974 芦毛
北海道新冠町
FNo.7‐d
*シルバーシャーク
Silver Shark
1963 芦毛
アイルランド
Buisson Ardent
1953 鹿毛
フランス
Relic
1945 青毛
War Relic
Bridal Colors
Rose O'Lynn
1944 鹿毛
Pherozshah
Rocklyn
Palsaka
1954 芦毛
イギリス
Palestine
1947 芦毛
Fair Trial
Una
Masaka
1945 鹿毛
Nearco
Majideh
ヴァールビー
1969 黒鹿毛
北海道新冠町
*ネヴァービート
Never Beat
1960 栃栗毛
イギリス
Never Say Die
1951 栗毛
Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect
1952 鹿毛
Big Game
Netherton Maid
センジュウ
1963 黒鹿毛
日本
ガーサント
1949 鹿毛
Bubbles
Montagnana
スタールビー
1957 黒鹿毛
ハロウエー
クインナルビー
競走馬の5代血統表

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

JRA顕彰馬
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ -
セイユウコダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー -
トウショウボーイテンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ -
オグリキャップメジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー -
テイエムオペラオー - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロアジェンティルドンナ -
キタサンブラック
競馬テンプレート
JRA賞特別賞
優駿賞時代 1973 ハイセイコー(大衆賞) | 1978 テンポイント(マスコミ) |
1982 モンテプリンス(ドリーム) | 1983 アンバーシャダイ
JRA賞時代 1989 オグリキャップ | 1993 トウカイテイオー | 1995 ライスシャワー | 1998 サイレンススズカ |
1999 グラスワンダースペシャルウィーク | 2001 ステイゴールド | 2004 コスモバルク(特別敢闘賞) |
2007 ウオッカメイショウサムソン | 2009 カンパニー | 2016 モーリス | 2020 クロノジェネシス
競馬テンプレート

脚注

  1. *「プロフェッショナル仕事の流儀」2017年2月13日放送回よりexit
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