オペックホース 単語

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オペックホース

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オペックホースとは、1977年生まれの日本の元競走馬、元種牡馬である。栗毛

第47回東京優駿(日本ダービー)を制したダービー

・*リマンド、ホースジョー・*テューダーペリオッド

な勝ち
1980年:東京優駿(八大競走)

齢表記は当時のものに合わせて旧表記で記載しています。

デビューから皐月賞まで

3歳の中開催でデビューし、3着に破れるものの折り返し新馬戦勝利という上々の滑り出しで競走馬生活スタートさせたオペックホース。

さらに次戦のオープン戦は最後方から直線だけで全を交わすというパフォーマンスを見せつけ、翌年のクラシック補生の一頭として名乗りを挙げる。
その後、暮れの阪神3歳ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は混合、関西3歳王者決定戦とされていた) を4着、年明け初戦の毎日杯を5着と敗れるが、標とした皐月賞に出るための前戦として選んだ菜の花賞(800万以下条件戦)では名手・郷原洋行を背に10身差の圧勝。

迎えた本番の皐月賞ではオープン戦菜の花賞のレースぶりが評価され、重賞勝利ながら当日は3番人気

不良馬場の中で中団待機から直線で抜け出すものの、「重馬場」ことハワイアンイメージに競り負け、2着に敗れた。

栄光のダービー馬

皐月賞で敗れた後、オペックホースは標を切り替えて、次戦のオープン戦(2着)をたたき台に日本ダービーへ向かう。
皐月賞2着、そして肝心の皐月賞が「どう見ても重馬場専用です。本当にありがとうございました」という成績のハワイアンイメージということもあって、良馬場で行われたダービーは1番人気こそダービートライアルNHK杯を圧勝してきた「太陽王子」ことモンテプリンスに奪われたものの、2番人気レースに臨むこととなった。

後に「日の丸特攻」と呼ばれることとなるサクラシンゲキ逃げる中で、オペックホースは4番手のモンテプリンスマークするように5番手を追走。
直線で先頭に立ったモンテプリンスとの競り合いに持ち込むと、しい競り合いの末クビ差抜け出して優勝ダービー直前に亡くなっていた馬主の弔い合戦を制し、名手・郷原にダービージョッキー称号を与えると共に、自身も4歳世代の頂点に立った。 

ここまでの戦績は9戦4勝2着2回、日本ダービー制覇に皐月賞2着とダービーとしては抜きん出ていないものの特に恥ずかしい成績ではない。

そう、ここまでの成績だけを見たのなら。

史上最弱のダービー馬

になり、オペックホースは当然のことながら菊花賞すことになるのだが、休養明け初戦のオープン戦で勝ったインタースマッシュから1.8も離された6着と惨敗。初めて掲示板を外す敗戦にいきなり行きが怪しくなる。
いくら休養明けとはいえいくらなんでも負けすぎだろと思われたか、菊花賞ではフロック視されたわけではないダービーとしてはあんまりに低評価な7番人気。そしてオペックホースはその低評価に怒るどころか勝ったノースガストを脅かすこともできずに10着と惨敗してしまった。

調教師が「みんなの"気"が集まった気がする」と評した馬主の弔い合戦・ダービー走の反動なのか二戦連続で惨敗したオペックホースは暮れの有馬記念に向かわず休養へ。天皇賞春標に、5歳マイラーズカップで復帰することになった。

だが、休養を挟んでもオペックホースは勝てない。1歳年上のカツラノハイセイコとのダービー対決となったマイラーズカップで4着に破れたのを皮切りに、5歳シーズンは9戦して全敗。中には復帰2戦オープン戦朝日チャレンジカップの2着、有馬記念の4着と惜しいレースはあったもののとにかく勝てない。

有馬記念の手応えに辱を期した6歳シーズンに至っては、いいところがほとんどない惨敗続き。
ダービーの栄なんて地に落ちきってさすがに引退だろと思われた7歳時には日本中央競馬会種牡馬適正試験に落ちてしまうという踏んだり蹴ったりな展開で、とうとう地方競馬転出の話まで出てきてしまう。3連敗ぐらいだったらツヨシしっかりしなさい!って笑い話に出来たかもしれないけど。

かつて同じダービーヒサトモ地方競馬で走った記録があるとはいえ、あちらは終戦後の混乱期でしかも一度繁殖入りしてからの復帰戦。
勝てないので地方競馬へ行きます」では栄ダービーの名に傷がつくばかりか、いくらなんでも近代競馬でそんなことをさせるのはかわいそうだというが上がり、結局地方転出の話は実現せずに終わった。

もっとも地方競馬転出を免れたところで、このままでは種牡馬になれないことには変わりがなく、オペックホースは現役を続行。を積み重ねるだけの日々を過ごした。
それでもなんとかしようと考えた調教師は「中山大障害を勝ったらもう一度種牡馬適正試験を受けるから買い上げてくれ」と競馬会に陳情し、障害競走調教を始める。

実際に調教を始めてみると、オペックホースは抜群の飛越を披露し、障害として桁違いのだったらしい。後は中山大障害に向け、障害レースに出るだけ……となったのだが、障害競走事実はどうあれ地競走でまともに走れなかった落ちこぼれのが集まるレースという印が強く、そんなところでダービーを走らせるということへの批判は日増しに高まって行くこととなる。
そして最終的には馬主批判に耐え切れず、障害転向は白紙撤回。現役最終年となる8歳シーズンGⅠを避けてローカル重賞を中心に出走するも全敗。
暮れのダート重賞ウインターステークスで故障し、引退することとなる。

ダービー以降引退までに積み重ねたはなんと32。32連敗はダービーとしてはコマツヒカリ1959年ダービー)の14連敗を大幅に更新する屈辱的な記録である(しかもコマツヒカリ引退ではなく東京杯勝利することで連敗を止めている)

引退後はなんとか種牡馬になれたものの、ダービーというよりも「ああ、あの32連敗の」という印が強く、最初の4年間で集まったは全部で15頭。いくら内種牡馬冷遇の時代とはいえ下のダービーにしては寂しすぎる数字である。
一年デビューした産駒に至ってはなんと1頭だけだが、この一の産駒であるベストダンディ地方競馬で活躍し、ダービーの意地を見せた。翌年には20頭の交配相手が集まり、後にオープンクラスで活躍するマイネヤマトナムラコクオー)を出した。

ちなみに・リマンドの代表産駒であるアグネスレディーアグネスフローラを通じて平成の史上最弱のダービーアグネスフライトに血をつないでおり、運命的なものを感じざるを得ない。

同世代の競走馬たち

この世代はローカル競馬まわりに出た皐月賞ハワイアンイメージ菊花賞後2戦しかしてない菊花賞ノースガストなど、クラシックホース地味な戦績だが、ダービーでオペックホースに後を拝したモンテプリンスアンバーシャダイが古になってから天皇賞有馬記念を制し、ダービーで4着だったサクラシンゲキは古になってからスプリンター賞を受賞。さらにダービーに出てすらいなかったキョウエイプロミス天皇賞勝利ジャパンカップ2着と活躍し、そもそもデビュー当時は地方だったヒカリデユールは中央移籍後天皇賞2着に有馬記念制覇で年度代表馬いた。
クラシックの活躍が立つ世代だった。

血統表

*リマン
Remand
1965 栗毛
Alcide
1955 鹿毛
Alycidon Donatello
Aurora
Chenille King Salmon
Sweet Aloe
Admonish
1958 栗毛
Palestine Fair Trial
Una
Warning Chanteur
Vertencia
ホースジョー
1965 黒鹿毛
FNo.16-g
*テューダーペリオッド
1957 栃栗毛
Owen Tudor Hyperion
Mary Tudor
Cornice Epigram
Cordon
ステップホース
1957 黒鹿毛
クモハナ *プリメロ
第参マン
ステップライト *ダイオライト
*ステップシスター
競走馬の4代血統表

クロス:Hyperion 5×4(9.38)、Son-in-Law 5×5(6.25)、FairwayPharos 5×5(6.25)

マンドは英国英国調教で10戦7勝。ホースジョー日本で25戦6勝。テューダーペリオッドは英国で17戦4勝。

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関連項目

脚注

  1. *オペックホースのホースジョーの半ホースマメールの玄孫
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