オリエント急行 単語


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オリエント急行とは、ベルギーのワゴン・リ社が運行していた西ヨーロッパトルコギリシャなどの中近東(オリエント)を結ぶ国際列車、またはそれを再現した観光列車である。アガサ・クリスティの名著「オリエント急行殺人事件」の舞台としても有名。

沿革(親玉)

1876年に設立されたワゴン・リ社の看板列車として、1883年にカレー~パリ~ミュンヘン~ウィーン~ブダペスト~コンスタンティノープル(イスタンブール)間で運行を開始(一部区間は旅)。1番列車の編成は寝台車2両・荷物2両・食堂車の5両編成で、寝台車食堂車は乗り心地の良いボギーが使用されていた。

当初は前述のとおり一部区間はを利用していたが、1889年にベオグラード経由でパリ~コンスタンティノープルが1本でつながり所要時間も82h→68hに短縮、1900年には別の急行列車の客が併結される形でフランクフルトブリュッセル、さらにはを介してロンドンまで拡大した。料金の高さゆえに利用客は当時の富裕層のみに限られたものの、それが逆に一種のステータスとして人気を博した。

しかし本列車1914年に運転を中止する。ほかでもない第一次世界大戦が勃発したのである。ドイツ南部オーストリアバルカン半島を経由する本列車はもろにを受けてしまった。

ドイツオーストリア敗北によって第一次世界大戦が終結したのち、1919年に本列車は運行を再開。ただしドイツオーストリア戦争でとても運行できる状態になかったので、パリヴェネツィアを結んでいた急行列車をベオグラードまで延長し、シンプロン・オリエント急行と改称する形での復活となった。ベオグラードオリエントなのかはわりと微妙な気もするが。ちなみにシンプロンとは、当時世界一の長さを誇ったシンプロトンネルのことである。

翌年にはイスタンブール乗り入れを再開し、また従来のドイツ経由路線も1923年復活、さらにはミュンヘンの代わりにアールベルクトネルを経由するタイプのオリエント急行も誕生した。

1930年代がオリエント急行の最盛期で、3ルート合わせ1日2本がカレーパリイスタンブールアテネ・ブカレストを結び、そこからさらにバグダッドやカイロまでが結ばれていた。オリエント急行殺人事件が刊行されたのもこの時期(1934年)である。

しかし今度は第二次世界大戦が勃発。本列車は区間を縮小したのち運休になった。

第二次世界大戦終了後に本列車復活するが、飛行機の台頭に加え東西冷戦で所要時間が伸びたこともあり人気は低迷。個室寝台のみで構成されていた姿も今は昔とばかりに開放寝台車や座席者も含む普通列車になってしまった。そして1962年イスタンブールアテネ行きのオリエント急行は止。一部寝台車のみがパリイスタンブールを直通する形になったが、TEEなどの高速列車の台頭もあって10年ほどで止。ブカレスト行きのオリエント急行はしぶとく21世紀まで残ったがウィーン止まりに短縮されたのちオリエントとは一体止になった。

沿革(観光列車)

上述のように本来のオリエント急行はもう残っていないのだが、かつてのオリエント急行を再現した観光列車が存在している。

世界のオリエント急行

そのほか、世界中にオリエント急行を名乗る列車が存在する。

オリエント急行に関連した作品(オリエント急行殺人事件除く)

その他ルポ作品など多数。

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本物のオリエント急行、およびそれベース観光列車映像はなし…なぜ。

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最終更新:2025/04/13(日) 08:00

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