オリンピック・マルセイユ(Olympique de Marseille)とは、フランス・リーグ・アンに所属するサッカークラブである。
本拠地はマルセイユ。ホームスタジアムはスタッド・ヴェロドローム。
|
1899年創設。リーグ・アンを9度、クープ・ドゥ・フランスを10度制覇した経験を持つフランスの強豪クラブである。フランスのクラブで唯一UEFAチャンピオンズリーグを制覇した経歴のあるチームでもある。一方で、CLにおいて史上最長となる13連敗という不名誉な記録を持っている。愛称はロエム (L'OM)、クラブのスローガンは "Droit Au But(ゴールへ一直線)" であり、エンブレムやユニフォームにその文字が窺える。
1990年頃に黄金期を向かえ、1992-1993シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは優勝を果たしたが、その後リーグ内で八百長が発覚。タイトルこそ剥奪されなかったものの、チャンピオンとしての権利は剥奪されたうえにペナルティとしてリーグ・ドゥに降格処分となった。
パリ・サンジェルマンとはライバル関係にあり、マルセイユとパリという化・民族性などが大きく異なる2都市の対立意識が根底にあり、両チームの対戦は「ル・クラスィク」と呼ばれて大変な盛り上がりをみせ、フランス中の注目を集める。試合におけるライバル意識の他に、互いのクラブへの嫌悪感情はピッチの外まで広がっていることから、サポーター同士の衝突が勃発し、怪我人が出ることも珍しくない。そのため、ダービー当日には普段の何倍もの警備隊が配置され、スタジアム周辺は緊迫した雰囲気が漂う。
また、オリンピック・リヨンとの対戦は「ショック・ドゥ・オランピック(オランピコ)」と呼ばれているが、ル・クラスィクのような暴動が起きることはなく、ダービーの結果は選手・監督・サポーター・会長同士のヒエラルヒーにつながるとされている。
フランスのクラブとしてはパリ・サンジェルマンFCと共に欧州でも最も人気のあるサッカークラブの一つである。しかし、近年は深刻な財政難を抱えており、オイルマネーによって世界屈指の金満クラブとなった宿敵PSGに大きく差を付けられている。
1892年、フランスのスポーツ指導者ルネ・デュフォール・ドゥ・モンミライユによって総合スポーツクラブとして設立される。設立後の5年間はSporting Club, US Phocéenne and Football Club de Marseilleと呼ばれた。1899年に、ポカイアからのギリシャ人が25世紀前にマッサリア(現在のマルセイユ)に入植したことに敬意を表して、古代オリンピックから単語Olympiqueを取ってクラブ名を「Olympique de Marseille」とした。
1898年からフランススポーツ競技連合に加盟。1920年代になるとフランス国内でも有数の強豪チームに成長しており、1924年にクラブ初のメジャータイトルであるクープ・ドゥ・フランス優勝を果たすと、1926年、1927年にクープ・ドゥ・フランスを連覇。1929年にはフランス全国選手権を優勝している。
1932年にプロチームとなりこの年創設されたディヴィジョン1(現在のリーグ・アン)に参入。1936-37シーズンに初のリーグ優勝を果たしている。その後、1934-1935シーズンと1937-38シーズンにクープ・ドゥ・フランスを優勝。1937年にホームスタジアムであるスタッド・ヴェロドロームが完成している。第二次世界大戦の影響でリーグはしばらく中止となるが、1947-48シーズンに二度目となるリーグ王者に輝いている。
1950年代に入ってチーム力が低下し始め、1951-52シーズンには降格寸前の危機に立たされるが、この年得点王となったグンナー・アンデションの活躍によって危機を脱している。しかし、その後も苦戦が続き、1958-59シーズンにはとうとう初の2部降格を経験。1960年代の前半はほとんど現在のリーグ・ドゥで過ごすこととなる。
1965年にマルセル・ルクレールが会長に就任。ルクレールは低迷するチームの再建に着手すると、1965-66シーズンに1部へ復帰。ルクレールはその後、ヨシップ・スコラブルとロジャー・マグナソンという強力な攻撃のデュオを獲得し、彼らの活躍によって再びリーグの強豪チームとしての地位を取り戻すことになる。1968-69シーズンにクープ・ドゥ・フランスを制し、26年ぶりのメジャータイトルを獲得すると、1970-71シーズンと1971-72シーズンにはディヴィジョン1を連覇。1971-72シーズンにはリーグ、カップの国内二冠を達成。特にスコラブルは1971年から73年まで3年連続で得点王に輝いており、この時代の黄金期に大きく貢献している。
しかし、栄光の時代はそう長続きせず、スコラブルとマグナソンの二枚看板が抜けてからチーム力は低下。ルクレールがリーグと外国人枠の問題で揉めた末に会長の座を追われたこともチームの混乱に拍車がかかり、1979-80シーズンに再びディヴィジョン2へ降格となる。その後は1980-81シーズンから4シーズンを2部で過ごすことになり、1983-84シーズンにディヴィジョン2優勝を果たし1部へ復帰するが、その後も低迷期は続いていた。
1986年、実業家のベルナール・タピがクラブを買収し会長に就任。タピは豊富な資金力によってアラン・ジレス、エリック・カントナ、ジャン=ピエール・パパン、ディディエ・デシャン、クリス・ワドル、エンツォ・フランチェスコリ、アベディ・ペレといったスター選手を次々と獲得し、低迷していたチームを欧州でも屈指の強豪チームへと変貌させる。1988-89シーズンに17年ぶりのリーグ優勝を果たすと、1991-92シーズンまでの間にリーグ4連覇を達成。パパン、ワドルが退団した1992-93シーズンにはルディ・フェラー、マルセル・デサイー、アレン・ボクシッチら新たな選手が加わったことでリーグ優勝を果たし、さらにUEFAチャンピオンズカップ決勝ではACミランを破り、フランスのクラブとして初の欧州王者に輝く。
ところが、1993年5月20日のヴァランシエンヌ戦での八百長が発覚し、1992-93シーズンのリーグのタイトルを剥奪されてしまう。また、一連のスキャンダルの首謀者と認定されたタピ会長の脱税も発覚。UEFAはチャンピオンズカップのタイトルは剥奪されなかったが、チャンピオンとしての活動を禁止されたためこの年のトヨタカップへの出場権が剥奪される。さらに、フランスサッカー連盟からは2部降格のペナルティが科せられる。これによって主力の大半はチームを去り、懲役判決を受けたタピはクラブから追放となる。
チーム解体状態となりながらも1995-96シーズンに2部で2位となり、1部へ復帰。新会長を迎え再スタートを切ると、1998-99シーズンにはロジェール・ピレス、クリストフ・デュガリーといった自国開催のワールドカップ優勝メンバーが加入。さらには、SDにフランツ・ベッケンバウアーを迎え入れる。リーグでは2位に入りUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得、UEFAカップでは決勝でパルマに敗れたものの準優勝を果たす。だが、その後は主力を次々と放出したことでチームは低迷するようになり、アフリカの有望選手や若手選手を獲得する補強路線にシフトする。2004-05シーズンには元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督に就任するが、目立った功績を残せなかった。2000年代にはディディエ・ドログバやフランク・リベリーといった後のスター選手を獲得しているが、財政事情もあってすぐにビッグクラブに売却している。
2000年代後半に入り、2年連続でCL出場権を獲得すると、2009年夏に黄金期のキャプテンでもあったディディエ・デシャンが監督に就任。クラブは久々に大金を投じ、ルイス・ゴンサレスやガブリエル・エインセを補強。厳格な指導法から一部主力と確執があったデシャンだが、手堅くチームを統率していくと、2009-10シーズンのリーグ・アンとクープ・ドゥ・ラ・リーグの国内二冠を達成。八百長スキャンダル以降タイトルから遠ざかっていたチームに18年ぶりのタイトルをもたらした。その後もロイク・レミ、アンドレ=ピエール・ジニャクを補強すると、2011-12シーズンのCLではベスト8進出を果たし、クープ・ドゥ・ラ・リーグ3連覇を成し遂げる。
2012年にデシャンがフランス代表監督に就任するため退任すると、チームは財政難に見舞われたこともあって主力選手を次々と売却。2014-15シーズンには鬼才マルセロ・ビエルサを監督に招聘するが、2年目となった2015-16シーズン開幕直後に突如辞任してしまう。クラブは財政難から緊縮政策を打ち出す方針となり、主力の流失が相次いだことで成績が低迷。宿敵のパリ・サンジェルマンがカタール財団による巨万の富を得たことでリーグを制圧するようになったこともあり、不満を募らせたサポーターによる抗議行動が起きてしまう。
2016年に米国資本へ身売りすることになるが、巨額の赤字を抱えるチームはPSGのような華やかな補強を行うことはできず、自転車操業の経営が続いていた。リーグ・アンでは上位は維持しCLやELの出場権は獲得しているが、リーグの主役の座はすっかりPSGに奪われてしまいタイトルから10年以上遠ざかり、ELでは2017-18シーズンに準優勝した以外は目立った成績を残せていない。
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 |
---|---|---|---|---|---|---|
- | 監督 | ![]() |
イゴール・トゥドール | 1978.4.16 | 2022 | ヴェローナ |
1 | GK | ![]() |
シモン・エンガパンドゥエタンブ | 2003.12.4 | 2019 | マルセイユⅡ |
4 | DF | ![]() |
サミュエル・ジゴ | 1993.10.12 | 2022 | スパルタク・モスクワ |
5 | DF | ![]() |
レオナルド・バレルディ | 1999.1.26 | 2020 | ドルトムント |
7 | DF | ![]() |
ジョナタン・クラウス | 1992.9.25 | 2022 | RCランス |
8 | MF | ![]() |
アゼディン・ウナヒ | 2000.4.19 | 2023 | アンジェ |
9 | FW | ![]() |
ヴィティーニャ | 2000.3.15 | 2023 | ブラガ |
10 | FW | ![]() |
ピエール=エメリク・オーバメヤン | 1989.6.18 | 2023 | チェルシー |
11 | MF | ![]() |
アミーヌ・アリ | 1997.6.18 | 2021 | シャルケ |
12 | DF | ![]() |
レナン・ロディ | 1998.4.8 | 2023 | ノッティンガム・フォレスト |
16 | GK | ![]() |
パウ・ロペス | 1994.12.13 | 2021 | ローマ |
18 | MF | ![]() |
バモ・メイテ | 2001.12.3 | 2023 | ロリアン |
19 | MF | ![]() |
ジョフレイ・コンドグビア | 1993.2.15 | 2020 | アトレティコ・マドリード |
20 | FW | ![]() |
ホアキン・コレア | 1994.8.13 | 2023 | インテル |
21 | DF | ![]() |
ヴァランタン・ロニエ(C) | 1994.12.1 | 2019 | ナント |
22 | MF | ![]() |
パプ・ゲイェ | 1999.1.24 | 2020 | ワトフォード |
23 | FW | ![]() |
イスマイラ・サール | 1998.2.25 | 2023 | ワトフォード |
24 | MF | ![]() |
フランソワレジス・ミュゲ | 2004.6.16 | 2023 | マルセイユⅡ |
27 | MF | ![]() |
ジョルダン・ヴェレトゥ | 1993.3.1 | 2022 | ローマ |
29 | FW | ![]() |
イリマン・エンディアイエ | 2000.3.6 | 2023 | シェフィールド・U |
36 | GK | ![]() |
ルベン・ブランコ | 1995.7.25 | 2022 | セルタ |
37 | MF | ![]() |
エムラン・ソグロー | 2005.7.11 | 2023 | マルセイユⅡ |
62 | DF | ![]() |
マイケル・ムリージョ | 1996.2.11 | 2023 | アンデルレヒト |
99 | DF | ![]() |
シャンセル・ムベンバ | 1994.8.8 | 2022 | ポルト |
|
|
掲示板
2 ななしのよっしん
2020/11/13(金) 13:36:19 ID: Wyf37nNLsK
このチームのサポーターって昭和の頃の巨人ファンみたく、「勝てば良かろうなのだぁ!」って人が多い印象
3 ななしのよっしん
2022/07/12(火) 13:42:30 ID: hGfHtxMYvx
クラブ史上最大の黄金期とその間に獲ったフランス唯一のヨーロピアンカップが八百長っていうのが寂しい。
4 ななしのよっしん
2022/11/05(土) 02:25:58 ID: Yhkfjqy1em
韓国ファンが大量の中傷投稿 孫と衝突したマルセイユDFに
https://
韓国のサッカーファンが、フランス・リーグ1のオリンピック・マルセイユに所属するDFシャンセル・エンベンバにインターネット上で大量の中傷投稿を行い、孫興民(ソン・フンミン)に対する謝罪を要求していることが分かった。
暴言の中には人種差別的な内容のものもあった。
急上昇ワード改
最終更新:2023/12/10(日) 09:00
最終更新:2023/12/10(日) 09:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。