ツイートを読み込み中です
https://twitter.com/FPDM_excavation/status/1311501513592762369
1986年に発表された石川県白峰村(現白山市)で歯化石が発見された肉食恐竜。
国内四例目の恐竜化石であり発見者が女子高生であったことも注目を集めた。
発見されているのが歯だけなので肉食恐竜ということ以外の詳しい事は分からないが、国内四例目の恐竜化石であり北陸一帯に広がる手取層群で初めてとなる恐竜化石でその後に与えた影響は大きい。
1874年、現在の石川県白山市桑島でドイツ人のラインが植物化石を採集したことがこの地域の古生物研究の第一歩となる。この植物化石はドイツのゲイラーに送られ1877年に論文として発表された。
1889年、東京帝国大学の横山又二郎は加賀・越前の中生代の地層を手取川にちなみ「Tetori Series」(手取統)と名付けた。(ちなみに「手取」の読みは川は「テドリ」だが地層は「テトリ」である)
1933年には大石三郎が手取統の層序を研究し北陸に分布する手取統を「手取層群」と命名した。地域的な地層のまとまりには「統」を用いるべきでないということから1940年代の終わりごろには「手取層群」の呼称が一般的となる。[1]
今からすれば恐竜が出てもおかしくないと感じるが長らく「日本から恐竜は出ない」と言われた時代が続き手取層群でも長らく植物化石の研究が中心だった。
ところが1978年に岩手県のモシリュウ、1979年に熊本県のミフネリュウ、1981年に群馬県のサンチュウリュウと国内で恐竜化石が発見されるようになり1982年には福井県の手取層群からワニ類の全身骨格が発見されるなど手取層群での恐竜発見の足音はすぐそこまで近づいていた。
1982年夏、福井県鯖江市の中学二年生だった松田亜規は家族旅行で石川県白峰村の桑島化石壁を訪れ、足元に転がっていた石を手で割ってみると断面に化石のようなものが現れた。松田はその石を不思議と気に入り家で大切に保管しておいた。
1985年、夏休みに松田家に遊びに来たいとこが福井市自然史博物館が主催する「名前を付ける会」に行くということで松田は3年前に白峰村で拾った化石を調べてもらうことにした。
名前を付ける会ではおそらくサメの歯と鑑定されたが、鑑定を行った福井県教育研究所の荒木哲治は気になる所があり知人の福井県立博物館の東洋一にその話をすると東も興味を持ったので化石を見せることにした。(桑島は淡水の地層なのでサメの歯が見つかるのは珍しい)
東は化石を確認するとこの化石がサメのはではなく肉食恐竜の歯だと直感した。東はサメの歯の研究経験があり以前から恐竜に関する海外の論文も読んでいた。確証を得るため横浜国立大学教授の長谷川善和に鑑定を依頼した結果メガロサウルスの仲間の恐竜であると鑑定結果を得た。
1986年4月、石川県で肉食恐竜の歯が発見されたことが記者会見で発表された。記者会見には福井県立博物館学芸員の東洋一と発見者で高校三年生になっていた松田亜規が発表に臨みメディアには「日本最古の恐竜化石」「女子高生が発見」と大々的に報じられた。
その歯化石が発見された恐竜には石川県の旧国名にちなみ加賀竜(カガリュウ)の和名が付けられた。[2]
石川県ではカガリュウ発見地点を調査した結果国内で二例目となる恐竜の足跡化石が発見された。その後の調査で10種ほどの恐竜化石が発見され2009年には角竜に新種としてアルバロフォサウルスの学名が命名されている。
そしてカガリュウ発見の影響を最も受けたのは福井県である。1982年に福井県内の手取層群からワニ類の全身骨格が発見されていて福井県でも恐竜発見の期待が高まった。1988年には予備調査としてワニ類化石発見地点を調査し肉食恐竜の歯を発見、1989年以降の本格的な発掘調査で次々と恐竜化石が発見されていく。1995年にはフクイリュウ(2003年にフクイサウルスの学名が命名される)が国産恐竜とした初めて全身骨格が復元された恐竜となり、2000年にはフクイラプトルが国産恐竜として初めて正式な学名が命名された恐竜となった。2000年には福井県立博物館から自然史部門が分離独立した福井県立恐竜博物館がオープン。オープンセレモニーにはカガリュウの第一発見者である松田亜規の姿もあった。松田が発見したカガリュウの化石は福井県立恐竜博物館の展示ケースの中で静かに来館者を見守っている。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
最終更新:2024/04/26(金) 02:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。