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カフェーとは、すなわち特殊喫茶である。
現在では存在していない業態であるが、現行の風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)に1号営業「従業員による接待と遊興を伴う飲食店」の分類として今も存在する。又の名を「社交喫茶」と呼ばれており、戦前日本において料亭、花街と共に男性の代表的な歓楽として親しまれていた。
洋風のお洒落な店内でコービーやサンドイッチなどの軽食、ビールやウィスキーなどのアルコールを楽しめる。その際に何故か若くて別嬪な女給が隣に座ってあれやこれやといやんあはんな接待をしてくれる。
言うまでもないが、喫茶なのであくまで楽しむのはコーヒーや軽食、アルコール。
接待はあくまで女給のアドリブである。
かつて江戸時代に流行した「水茶屋」のように、お給仕してくれる大層別嬪な茶汲み女を目当てに大勢の江戸っ子が列をなし空前の流行を呼び寄せ錦絵や狂言にまでなった……という歴史から、売るものを茶から珈琲に変え「喫茶店にべっぴんな女給を立たせると儲かる」とばかりにサービス合戦が展開された。
1911年(明治44年)3月に東京・銀座に開業した「カフェー・プランタン」がカフェーの名を冠した日本初の店とされている。それ以前には1888年に開業した東京・上野の「可否茶館」があったが営業形態としては会員制サロンの側面が強く開業4年目で閉館に追い込まれている。
カフェー・プランタンも美人女給を売りにしており実際にそれを目当てに来店する客も多かったが、欧州、特にパリのカフェを強く意識した格調高くハイカラな店舗であったため、黒田清輝、菊池寛、谷崎潤一郎、森鴎外といった芸術家や文化人、政治家に好まれた。
なお、神楽坂支店に麻雀牌が持ち込まれ、文化人がこぞって女給そっちのけで徹マンに興じたのが日本式麻雀の創生と言われている。
同年8月には同じ銀座に「カフェー・ライオン」が開業する。築地精養軒(現在の上野精養軒)が手掛け本格的な洋食と洋酒の品揃えを売りに、さらに西洋なので和服にエプロンというお揃いのコーデで美人女給が出迎えるというインパクトもあって、プランタンとの銀座女給戦争が巻き起こるきっかけとなった。なお、カフェー・ライオンはカフェー競争激化の煽りを受け大日本麦酒(後のアサヒビール・サッポロビール)に事業譲渡、現在の銀座ライオンとしてビアホールが存続している。
12月にはまたしても同じ銀座に「カフェー・パウリスタ」が開業、ブラジル移民事業を興していた水野龍が手掛け、サンパウロ州政府から提供されたブラジル直輸入のコーヒー豆を売りに5銭コーヒー(現在の価値で290円程度)と大衆でも手を出しやすい価格であった事から学生や新社会人に熱烈なファンを生んだ。ただし、カフェー・パウリスタは女給を売りにせずギャルソンとして端正な顔立ち、いわゆるイケメンの少年(15歳ぐらいまで)を雇用していた。少年!そういうのもあるのか
1923年の関東大震災により全店舗の閉店、珈琲卸事業の縮小を余儀なくされたが、カフェー・パウリスタは1970年に銀座に正統カフェとして復活、現在も営業している。
1923年の関東大震災により東京・銀座は壊滅的被害を受け、上記三店も撤退や移転、仮設店舗での営業を余儀なくされる中、翌年1924年に大資本による「カフェー・タイガー」が開業する。
「瀕死のライオンにぶつけるなら虎だろう」と乗り込んできたのはセメント王・浅野総一郎
浅野セメント(現在の太平洋セメント)の創始者であり一代で浅野財閥を築き上げた男が片手間で始めたカフェーにより混沌を極める。コーヒーや料理の味は二の次で女給のサービスに特化、そしてチップ制の導入により女給が接待すればするほど客がチップをつぎ込み儲かるというえげつないエコシステムを銀座に持ち込み、復興景気に沸く銀座で大繁盛した。かろうじで営業していたカフェー・ライオンも人気女給を引き抜かれ撤退を余儀なくされた。
当時は大正、インターネットもテレクラも無ければキャバクラもメイドカフェも無い時代である。
その頃に女の子と話すと言えばご近所さんか学校、職場ぐらいしかなかった。そもそも結婚ですらお見合い結婚が多数派であり恋愛結婚など駆け落ちでしか有り得ない。そうした中でコーヒー1杯を頼めばカワイイ女給さんが笑顔でお話してくれる。恋と言う名の欲を求めて学生や若者はカフェーに通い詰め、中年男性はアバンチュールを求めて女給を口説くようになった。
カフェー・ライオンの隆盛を受け、関西からも続々と東京に進出するカフェーが現れ始める。
カフェー・プランタンの影響を受け全国各地にカフェー業態が開店していたが、特に大阪では欧米から持ち込まれたキャバレー(フランスにおける酒場の意味)とも融合した独自の形態になっていた。そしてそもそも飲食店で別嬪な女給があれやこれやといやんあはんなエロサービスをするのは元から得意であり、それならば東京でもエロで成功するんや!と進出、当時の原文ママで「大阪エロ」を売りにしたエロカフェーは昭和になると銀座や新宿を中心に全国に約2,000店舗、従事女給は4万人を超えていた。当時の人口比としてもほぼほぼ現代におけるキャバクラ・コンセプトカフェと同等の普及率となっていた。
なぜこうも成長したのか?それは女給に求められるスキルがルックスと愛嬌とトークスキルぐらいであり、芸妓のように三味線や琴、舞踊の修行が求められず学歴だって要らない、素人であっても容易に従事出来たからである。まるで現代のメイドカフェのように「愛してニャン♡」と学生に振る舞えばホイホイチップを貰えるので田舎から上京と言う名の身売りをされた少女であっても金を稼げるまさにジャパニーズドリームであった。
客引きが並び当時の流行であったネオンサインが煌びやかに輝く夜のエロカフェー街は現代の歌舞伎町と変わらなかったとか(実際にあったエロカフェー街は南口・大塚家具付近である)
しかし、昭和8年の風営規則の施行や第二次世界大戦における取締の強化、そして東京大空襲と敗戦による荒廃によりエロカフェーは消滅した。
戦後、経営者や従業員の多くはバーや居酒屋、クラブ、スナック、キャバレー等の類似業態に転換して今の歓楽街の基礎となっている。その際にカフェーで導入されていたチップ制やインセンティブ、テーブルチャージ、お通しなどのサービスが各業態に名残のように受け継がれている。
となるが、出すサービスは原則しないので娼妓・芸妓と区別化されていた。いわゆるセクキャバ・おっぱいパブと同じである。
現代で知られるソープランド、クラブ、キャバレー、そしてキャバクラが根付いたのは戦後であり、戦前における男性の歓楽は専ら料亭、花街、そしてカフェーであった。それゆえにカフェーを舞台にした小説や歌謡も多い。
自身も足繫くカフェーに通い詰め情に溺れた永井荷風の「つゆのあとさき」また同じくカフェーで共にした谷崎潤一郎も「痴人の愛」を執筆している。
文藝春秋の創業者、菊池寛も自身のカフェー通いの顛末を広津和郎にネタにされ、中央公論社・婦人公論で小説「女給」を連載されるとあまりにも生々しいエピソードに怒り心頭となった菊池は中央公論社に抗議文を送る。だが中央公論社はこれを「持ち込み小説原稿」として扱い、タイトルをご丁寧に「僕と『小夜子』の関係」と名付け掲載、怒り狂った菊池は単身中央公論社へ乗り込み居合わせた編集長を殴打、元祖「フライデー襲撃事件」と言える「中央公論社襲撃事件」を起こしてしまった。この顛末により「女給」はベストセラー、そして映画化を果たした。この反省が後の文春砲になったかどうかは定かではない。
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最終更新:2025/11/16(日) 07:00
最終更新:2025/11/16(日) 07:00
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