カフェー 単語


ニコニコ動画でカフェーの動画を見に行く

カフェー

3.5千文字の記事
未成年の閲覧注意 この記事の一部にはあんなことやこんなことが書かれています。
この記事を開いたまま席を離れたら大変なことになる可性があります。

カフェーとは、喫茶店ともカフェとも違う男たちの挽歌である。 

概要

カフェーとは、すなわち特殊喫である。

現在では存在していない業態であるが、現行の営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)に1号営業「従業員による接待と遊を伴う飲食店」の分類として今も存在する。又の名を「社交喫」と呼ばれており、戦前日本において料亭、と共に男性の代表的な歓楽としてしまれていた。

お洒落な店内でコービーサンドイッチなどの軽食、ビールウィスキーなどのアルコールを楽しめる。その際に何故か若くて別嬪な女給が隣に座ってあれやこれやといやんあはんな接待をしてくれる。

言うまでもないが、なのであくまで楽しむのはコーヒーや軽食、アルコール
接待はあくまで女給のアドリブである。

かつて江戸時代に流行した「屋」のように、お給仕してくれる大層別嬪み女を当てに大勢の江戸っ子が列をなし空前の流行を呼び寄せ錦絵や狂言にまでなった……という歴史から、売るものをから珈琲に変え「喫茶店べっぴんな女給を立たせるとかる」とばかりにサービス合戦が展開された。

歴史

1911年明治44年3月東京銀座に開業した「カフェー・プランタン」がカフェーの名を冠した日本初の店とされている。それ以前には1888年に開業した東京上野の「可否館」があったが営業形態としては会員制サロンの側面が強く開業4年で閉館に追い込まれている。

カフェー・プランタンも美人女給を売りにしており実際にそれを当てに来店する客も多かったが、欧州、特にパリカフェを強く意識した格調高くハイカラ店舗であったため、黒田菊池寛、谷崎潤一郎森鴎外といった芸術家文化人、政治家に好まれた。
なお、神楽坂支店に麻雀牌が持ち込まれ、文化人がこぞって女給そっちのけでマンにじたのが日本麻雀の創生と言われている。

同年8月には同じ銀座に「カフェー・ライオン」が開業する。築地精養軒(現在上野精養軒)が手掛け本格的な洋食と洋の品えを売りに、さらに西洋なので和服エプロンというおいのコーデで美人女給が出迎えるというインパクトもあって、プランタンとの銀座女給戦争が巻き起こるきっかけとなった。なお、カフェー・ライオンはカフェー競争化の煽りを受け大日本麦酒(後のアサヒビールサッポロビール)に事業譲渡、現在銀座ライオンとしてビアホールが存続している。

12月にはまたしても同じ銀座に「カフェー・パウリスタ」が開業、ブラジル移民事業をしていた水野が手掛け、サンパウロ政府から提供されたブラジル輸入コーヒー豆を売りに5銭コーヒー現在の価値で290円程度)と大衆でも手を出しやすい価格であった事から学生新社会人に熱ファンを生んだ。ただし、カフェー・パウリスタは女給を売りにせずギャルソンとして端正な顔立ち、いわゆるイケメン少年15歳ぐらいまで)を雇用していた。少年!そういうのもあるのか
1923年関東大震災により全店舗閉店珈琲卸事業の縮小を余儀なくされたが、カフェー・パウリスタは1970年銀座に正統カフェとして復活現在も営業している。

どうしてこうなった

1923年関東大震災により東京銀座は壊滅的被害を受け、上記三店も撤退や移転、仮設店舗での営業を余儀なくされる中、翌年1924年に大資本による「カフェー・タイガー」が開業する。

瀕死ライオンにぶつけるなら虎だろう」と乗り込んできたのはセメント王・浅野一郎
浅野セメント現在太平洋セメント)の創始者であり一代で浅野財閥を築き上げた男が片手間で始めたカフェーにより混沌を極める。コーヒー料理の味は二の次で女給のサービスに特化、そしてチップ制の導入により女給が接待すればするほど客がチップをつぎ込みかるというえげつないエコシステム銀座に持ち込み、復景気に沸く銀座で大繁盛した。かろうじで営業していたカフェー・ライオン人気女給を引き抜かれ撤退を余儀なくされた。

当時は大正インターネットもテレクラければキャバクラメイドカフェい時代である。
その頃に女の子と話すと言えばご近所さんか学校、職場ぐらいしかなかった。そもそも結婚ですらお見合い結婚が多数であり恋愛結婚など駆け落ちでしか有り得ない。そうした中でコーヒー1杯を頼めばカワイイ女給さんが笑顔でお話してくれる。と言う名の欲をめて学生若者はカフェーに通い詰め、中年男性アバンチュールをめて女給を口説くようになった。

カフェー・ライオン盛を受け、関西からも続々と東京に進出するカフェーが現れ始める。
カフェー・プランタンのを受け全各地にカフェー業態が開店していたが、特に大阪では欧米から持ち込まれたキャバレーフランスにおける場の意味)とも融合した独自の形態になっていた。そしてそもそも飲食店で別嬪な女給があれやこれやといやんあはんなエロサービスをするのは元から得意であり、それならば東京でもエロで成功するんや!と進出、当時の原文ママで「大阪エロ」を売りにしたエロカフェーは昭和になると銀座新宿を中心に全に約2,000店舗、従事女給は4万人をえていた。当時の人としてもほぼほぼ現代におけるキャバクラコンセプトカフェと同等の普及率となっていた。

なぜこうも成長したのか?それは女給にめられるスキルがルックスと嬌とトークスキルぐらいであり、芸のように三味線や琴、舞踊の修行められず学歴だって要らない、素人であっても容易に従事出来たからである。まるで現代のメイドカフェのように「愛してニャン」と学生に振る舞えばホイホイチップを貰えるので田舎から上京と言う名の身売りをされた少女であっても金を稼げるまさにジャパニーズドリームであった。

客引きが並び当時の流行であったネオンサインが煌びやかにエロカフェーは現代の歌舞伎町と変わらなかったとか(実際にあったエロカフェーは南口・大塚家具付近である)

しかし、昭和8年営規則の施行や第二次世界大戦における取締の強化、そして東京大空襲と敗戦による荒によりエロカフェーは消滅した。

戦後、経営者や従業員の多くはバー居酒屋クラブスナック、キャバレー等の類似業態に転換して今の歓楽街の基礎となっている。その際にカフェーで導入されていたチップ制やインセンティブテーブルチャージ、お通しなどのサービスが各業態に名残のように受け継がれている。

主なエロサービス

  • 抱擁  :その名の通り女給が客を抱く、現代で言えばハグである。
  • 接吻  :その名の通りキスである。ただしキスをする時間や箇所はチップで変わる。
  • オルガン:女給が客の膝の上で横になり客に体を触らせる。
         触る場所によって女給が「あぁ♡」「お”っ!」と音階を奏でる。
  • 潮干狩り:女給が客の膝の上に座り客の手を股間に、いわゆる手マン

となるが、出すサービスは原則しないので・芸と区別化されていた。いわゆるセクキャバ・おっぱいパブと同じである。

文化

現代で知られるソープランドクラブ、キャバレー、そしてキャバクラが根付いたのは戦後であり、戦前における男性の歓楽は専ら料亭、、そしてカフェーであった。それゆえにカフェーを舞台にした小説や歌謡も多い。

自身も足繫くカフェーに通い詰め情に溺れた永井の「つゆのあとさき」また同じくカフェーで共にした谷崎潤一郎も「痴人の」を執筆している。

文藝春秋の創業者、菊池寛も自身のカフェー通いの末を広和郎にネタにされ、中央公論社・婦人論で小説「女給」を連載されるとあまりにも生々しいエピソード怒り心頭となった菊池中央公論社抗議文を送る。だが中央公論社はこれを「持ち込み小説原稿」として扱い、タイトルをご丁寧に「と『小夜子』の関係」と名付け掲載、怒り狂った菊池は単身中央公論社へ乗り込み居合わせた編集長を殴打、元祖「フライデー襲撃事件」と言える「中央公論社襲撃事件」を起こしてしまった。この末により「女給」はベストセラー、そして映画化を果たした。この反省が後の文春砲になったかどうかは定かではない。

関連項目

外部リンク

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
メテオ(じょん)[単語]

提供: ま る ♬

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/11/16(日) 07:00

ほめられた記事

最終更新:2025/11/16(日) 07:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP