カミノテシオ 単語

カミノテシオ

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カミノテシオKamino Tesio)とは、1970年生まれの日本競走馬栗毛

ハイセイコー世代の、役不在のを制したやたら影の薄い天皇賞

な勝ち
1973年京成杯
1974年天皇賞(秋)(八大競走)

概要

*ムーティエ、ミスエスター、*ハロウェーという血統。
フランスで、大レースでは惨敗に終わったものの、種牡馬として輸入された日本二冠馬タニノムーティエ菊花賞ニホンピロムーテーを輩出した。カミノテシオは輸入4年産駒
は全重賞2勝のスズトツプラン、半1966年皐月賞ニホンピロエース*モンタヴァル)を持つ。自身は障害含め34戦を走って地で3勝、障害で4勝を挙げた。カミノテシオは第5
英ダービーDanteの半で、スターロツチタニノハローモアを輩出した50~60年代の名種牡馬
には前述のニホンピロエースのほか、3代時孝の牝系にそのニホンピロエース同期菊花賞ナスノコトブキがいるナスノコトブキの2代マリオンが、カミノテシオの2代スズマサの全

1970年4月25日浦河町富田牧場で誕生。(あまりに気性がヤバすぎたせいで日本送りにされた半の*モンタヴァルほどではないものの)かなり気性が荒いだったが、カミノテシオは幼駒時代はムーティ産駒としてはしく非常に素直で人なつっこいだったそうな。ただ、競走デビューしてからは譲りの気性を見せるようになったらしい。

オーナーは精密機器の金などを作る会社「保手精器」の代表・保手正康(当時は謙吉と名乗っていた)で、名義は正康だが、実際は後にイナリワン馬主として知られることになるの保手規(当時は忠と名乗っていた)との共同所有であった。メイン馬主をしていたのはの方で、「カミノ」冠名が使っていたものであり、彼を購入したのもの方なので、事実上はの所有馬であったと思われる。
高橋調教師が生後すぐのカミノテシオを見てオーナーに勧め、信心深いオーナー中国易断で占った結果、吉と出て850万円で購入されたそうである(註:当時のダービー1着賞金は3600万円)。
ちなみに「カミノ」冠というとカミノクレッセを連想する人が多いだろうが、冠名が被っているだけであちらは別の馬主である。

名の「テシオ」は手ではなく、NearcoRibotを生産したことで知られるイタリアの名ブリーダー、フェデリコ・テシオから。

※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

神の手塩にかけて

怪物の影で

中山競馬場高橋夫厩舎に入厩したカミノテシオは、1972年9月3日中山・芝1000mの新馬戦にて若手の岡部幸雄上にデビュー。7頭立て3番人気に留まったが、後方一気で2馬身半差をつける快勝デビューを飾る。

しかし続く条件戦あかね賞をアタマ差2着に取りこぼすと、郷原洋行が騎乗した京成杯3歳ステークスブービー7着撃沈。岡部に戻った条件戦菊賞を直線一気で差し切り勝ちで2勝を挙げたが、朝日杯3歳ステークスには向かわず、年末のオープン加賀武見を迎えて3着。5戦2勝と、クラシック行けるんじゃない?ぐらいの感じで3歳を終える。

明けて4歳、クラシックして東京・芝1600mの京成杯から始動。引き続き加賀上に、後方から直線大外一気に強襲したカミノテシオは、ニューサントとの叩き合いを写真判定の末ハナ差制し、1番人気に応えて重賞初制覇。クラシックへのが拓け、以降は加賀戦となる。

さて、1973年クラシックといえば言うまでもなく、大井から殴り込んできた「怪物ハイセイコーの登場でかつてない話題を呼んでいた年。その中央初戦の弥生賞でカミノテシオは怪物と相まみえることとなったが、中央の意地を見せることもできず、あっけなく蹴散らされて4着に敗れる。
本番の皐月賞でも5番人気とそこそこの支持を集めたものの、終始群に揉まれて見せ場なく7着。地方上がりの怪物に一蹴される引き立て役の1頭にしかなれなかった。

それでもダービーへ向けての叩きオープン東京・芝1600m)を5馬身差で圧勝して4勝を挙げたカミノテシオは、3戦3勝の府中、最終追い切りの内容も絶好、13番の好も引き当て、いざハイセイコーリベンジ! と勇躍東京優駿へ乗りこむ……はずだったのだが、ダービー前日、球節炎を発症。弥生賞のときにぶつけて軽く痛めていたのが、ここにきて悪化してしまったらしい。念の出走取り消し、1年以上にわたる長期休養を余儀なくされることになってしまった。
そしてハイセイコーとの対決も、結局弥生賞皐月賞の2戦のみに終わることになる。

脇役同士の天皇賞

1年2ヶの休養を経て、カミノテシオは5歳となった1974年7月新潟BSN賞(芝1600m)でターフへと舞い戻った。12頭立て10番人気に留まったものの、勝ちから03差の4着と復帰戦としては上々の内容で終えると、芝1200mのオープンを5着としたあと関東へ戻り、京王杯オータムハンデキャップ3着、毎日王冠3着と、秋の天皇賞へ向けて良化傾向を見せていく。

そして目黒記念(秋)イナボレスの2着に敗れたあと、カミノテシオは本番・天皇賞(秋)へと乗りこんだ。ハイセイコーダービー菊花賞で下したタケホープ春天で勝ち抜けたので、当然ここには皐月賞以来の八大競走制覇をし、絶対的大本命としてハイセイコーがいる……はずだったのだが、なんと出血で出走回避となり一気に混戦ムードに。カミノテシオは単勝11.2倍の5番人気である。
レースが始まる。逃げトーヨーアサヒが快調に逃げ、カミノテシオは同期ダービー2着、「第三の男」イチフジイサミとともに後方に控えた。2番人気イチフジイサミを見ながら進めたカミノテシオと加賀武見は、群の中で内を回って直線を向く。内ラチ沿いからイチフジイサミが抜け出しを図るが、その外から先に脚を伸ばしたのはカミノテシオ! 当時の記事で「〝カミソリ〟テシオ」と讃えられた鋭い差し脚で一気に先頭に踊り出ると、内ラチ沿いにヨレてイチフジイサミの前を塞ぎつつそのまま力強く押し切ってゴールへと飛び込んだ。
天皇賞4勝を挙げた加賀は「ダービーのうっぷんをらせてホッとしましたよ」と語り、高橋師は調教師としては嬉しい八大競走初制覇。役不在の舞台とはいえ、紛れもないの栄誉をカミノテシオは勝ち取ったのであった。

かしこ勝利の代償か、カミノテシオは再び球節炎の症状が出て有馬記念を回避。結局ハイセイコーへのリベンジは果たせないまま終えることになった。

その後

明けて6歳も現役続行したカミノテシオだったが、以後の競走成績に語ることはほぼない。初戦のAJCCで最下位に沈むと、以降は末脚のキレ味はなりを潜めて掲示板入りが精一杯という走が続き、クモハタ記念6着を最後に現役引退となった。通算21戦5勝。

引退後は下河辺牧場種牡馬入りしたが、内種牡馬不遇の時代に加え、*ムーティエの気性面が敬遠されたこともあって種牡馬としては全く人気がなく、6年間の種牡馬生活産駒は僅か14頭、活躍が出ることはなかった。
結局のところ、1973年クラシック世代はどうしてもハイセイコーを中心に語られるため、ハイセイコーとの対決は中央入り序盤の2戦のみ、どっちも見せ場なく敗れたカミノテシオのはものすごく薄い。ダービーハイセイコーに先着したイチフジイサミですら語られにくいのだから、カミノテシオが語られることがほぼいのもむべなるかなである。

種牡馬引退後は福島競馬場で乗となり、に移って去勢され子供用の障害となった。
1985年、功労としてJRA宇都宮育成牧場に移動、そこで余生を過ごすことになった。時代から彼を知る田口厩務員に可がられて、11年の歳幸せに過ごしたカミノテシオは、1996年11月21日、起立不能となり、厩舎のスタッフ安楽死の処置をとるか相談している間に静かに老衰で旅立った。27歳だった。その蹄とたてがみは、同牧場碑に収められている。

血統表

*ムーティ
1958 鹿毛
Sicambre
1948 黒鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
Ballynash
1946 黒鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar
ミスエスタ
1958 鹿毛
FNo.4-r
*ハロウェー
1940 黒鹿毛
Fairway Phalaris
Scapa Flow
Rosy Legend Dark Legend
Rosy Cheeks
スズマサ
1950 鹿毛
ミナミホマレ *プリメロ
フロリス
時孝 月友
第参ソネラ

クロスPharos=Fairway 5×3(15.63%)

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