ギュンター・シャボフスキー(ドイツ語: Günter Schabowski, )とは、東ドイツの政治家。1929年1月4日生2015年11月1日没。世界史上最大の勘違いを犯した男の一人。
東ドイツ、ポンメルン生まれ。大学でジャーナリズムを学び、新聞の編集長、ついで政治局の広報担当として仕事をしていた。
1989年、東欧の民主化運動に伴い、ハンガリーではオーストリアとの国境柵が撤去された。ハンガリーからの脱出やプラハの西ドイツ大使館からの出国が可能になった結果、東ドイツ→チェコスロヴァキア→ハンガリー→オーストリア→西ドイツというルートを主として数十万人の人民が脱出していった。
東ドイツでも民主化と混乱が進んでいく中、1989年11月9日に外国への旅行の自由化が可決された。この会議に参加していたシャボフスキーは事務方との会合の為、会議をしばしば中座しており、この政令をよく理解していなかった。そのため、エゴン・クレンツ書記長から手渡された書類を基にして発表したが、「旅行許可に関する出国規制緩和」を「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです」と発表してしまう。なお、この時点で政令として議決されていたが、内閣で閣議決定されておらず、発表も明日の11月10日の予定であった。だが、発した言葉は取り消し得ない。これらは、西側のメディアによって広まっていた。
東ドイツでは、社会主義国として当然の如く、報道規制、メディア規制が行われていたが、電波だけは規制できなかった。この結果、西ドイツは当然ながら、東ドイツでも広くこの情報は伝わっていく。この報道を見た東西ベルリン市民は続々と壁にある検問所に集結し始めた。群衆の数は数時間の間に万単位にまで膨れ上がった一方で、軍の上官は現状維持を命令するのみであり検問所の処理能力は限界を迎えた。10時45分にボルンホルム通りの検問所で国境が開放されたのを皮切りに12時までに7つあった全ての検問所が解放された。ベルリンの壁が有名無実となった後、東西ドイツの国境も開放され、ここに東ドイツの存立条件は最早ほぼ無くなった。シャボフスキーの不理解と勘違いから僅か1日足らずで東西ドイツの統一の道路は整備しつくされたのである。
シャボフスキーは、東西統一以後ジャーナリストの仕事に就き、1999年12月から2000年12月まで亡命者殺害の罪で収監された。2015年11月1日、ベルリンで死去。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/12/25(金) 07:51:26 ID: HEbMpZW6DB
この人トリビアの泉に出てたな。
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最終更新:2024/11/08(金) 21:00
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