クリスチャン・ガバッリーニ単語

クリスチャンガバッリーニ

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クリスチャン・ガバッリーニ(Cristian Gabarrini)exit とは、MotoGP車両整備員である。


20072010年ドゥカティワークスに所属し、ケーシー・ストーナークルーチーフを務めた。

20112012年レプソルホンダに所属し、引き続きケーシー・ストーナークルーチーフを務めた。

20172018年ドゥカティワークスに所属し、ホルヘ・ロレンソクルーチーフを務めた。

2019年からはプラマックレーシングexitに所属して、フランチェスコ・バニャイアクルーチーフを務めている。
 

略歴

イタリア生まれ

1972年6月21日イタリアマルケ州アンコナ県セニガリアexitで生まれ、1990年実家から近いミサノサーキットで初めてMotoGPを観戦した。

がともにバイクレース大好きで、幼い頃からテレビ観戦していたという。そして彼自身もオフロードバイクを操り、モトクロス凹凸のある土の路面をジャンプして走る競技)を楽しんでいた。

学校卒業した後、2002年の最終戦バレンシアGPでCampetellaという250ccクラスチームの手伝いに入った。そのとき、同チームに在籍するマッシモ・ブランキーニ(Massimo Branchiniに見出され、チームLCRexit推薦された。その推薦のとおり、2003年からチームLCRに就職した。

ちなみにその後のマッシモ・ブランキーニはアジョ・モータースポーツに入団している。同チームの記事に、マッシモ・ブランキーニについての記述がある。
 

ケーシー・ストーナーの片腕となる

2003年からルーチョ・チェッキネロexit率いるチームLCRexitで働き始める。このチームホンダ系である。ケーシー・ストーナーとは2003年20052006年チームLCRで一緒に働いた。(2004年のケーシーKTMワークスに在籍していた)

本職はテレメトリーであり、パソコンで走行データの収集・分析を行っていた。

2007年はケーシーと共にドゥカティワークスへ行き、クルーチーフに抜される。2011年はケーシーと共にレプソルホンダへ行き、ケーシー引退するまでクルーチーフを務めた。6年間もの長い間、ケーシー・ストーナーの右腕として支え続けてきた。

2012年シーズン末にケーシー・ストーナー引退し、その代わりにマルク・マルケスレプソルホンダに入ってきた。通常なら、クリスチャン・ガバッリーニがマルク・マルケスクルーチーフになるはずなのだが、マルク・マルケスとその保護者エミリオ・アルサモラexitから「クルーチーフサンティ・エルナンデスにしてほしい」と要されたので、レプソルホンダは仕方なくガバッリーニをクルーチーフの座から外した。
 

ホンダに厚遇される。ホルヘ・ロレンソの誘いを断り、ホンダ陣営に残る

2013年にはレプソルホンダの「テクニカルスーパーヴァイザー」に就任。これは長年日本人スタッフが務めてきた役職で、ヨーロッパ人が就任するのは史上初だった。ガバッリーニにクルーチーフの座を用意できなかったので、こういう厚遇をされたのである。

2014年MotoGPパドックには一つの流行が起こっていた。ヴァレンティーノ・ロッシが長年連れ添ったジェレミー・バージェスというベテランクルーチーフ2013年11月に解任しexitシルヴァーノ・ガルブゼラという新しいクルーチーフを雇ったのだが、そのもあって、2014年のヴァレンティーノは成績を上向かせていた。

それを見たダニ・ペドロサホルヘ・ロレンソが「自分も、長い付き合いのクルーチーフ更迭して、新たなクルーチーフを雇ってみようか」と思い、新たなクルーチーフを雇おうとしていた。

ダニ・ペドロサは、ファン・マルチネスexitドゥカティワークスニッキー・ヘイデンのクルーチーフを務めていた人。スペイン人)や、アントニオ・ヒメネスexitグレッシーニレーシングベテランクルーチーフスペイン人)にをかけていたらしい。ライディンスポーツ2014年11月号やこの記事exitこの記事exitでそのように報道されている。

ホルヘ・ロレンソは、ケーシー・ストーナーの躍進を支えた名物クルーチーフガバッリーニに注し、熱心にをかけていたらしい。この記事exit報道されている。ところがガバッリーニに断られてしまったので、ラモン・フォルカダを留任させることを決めた。

2015年にはホンダサテライトチームLCRに戻り、ジャック・ミラークルーチーフを務めた。

2016年ジャック・ミラーが同じくホンダサテライトMarcVDSに移ったので、クリスチャン・ガバッリーニもMarcVDSに付いていってクルーチーフを務めている。
 

ホルヘ・ロレンソとともにドゥカティワークス入りする

20172018年ホンダ営を離れてドゥカティワークスに行き、ホルヘ・ロレンソクルーチーフを務めた。

2019年ホルヘ・ロレンソレプソルホンダに移籍するときはホルヘに付いていかず、ドゥカティ営に残ることを決めた。ドゥカティサテライトプラマックレーシングexitに移り、フランチェスコ・バニャイアクルーチーフになっている。
  

性格

クリスチャン・ガバッリーニはイタリア人である。

イタリア人というとチャラチャラしていて何をやらせてもいい加減、というイメージがある。そのことはある程度事実のようで、ヨーロッパでの民性ジョークでも話題になる。ところが10人に1人くらいは生そのものの良心ある人間がいて、その人につられて職場や団体がなんとかするのだという。ガバッリーニもまさしくそういう生人間である。

とてもで寡黙な人で、イタリアテレビ局の突撃取材にもほとんど答えなかった。ただ、たまに喋るときがあり、そのときは本音をズバッと言っていた。2017年末に「2018年も2017年のような問題に直面したら(2017年のように成績が低迷したら)、もう自分もロレンソも言い訳できないexit」と発言しており、本音をズバッと言うのは相変わらずのようである。

先述のように2003年の頃からケーシー・ストーナーと付き合いがある。当時のケーシー自動車免許を持っていなかったので、ガバッリーニがサーキットに連れて行っていた。また、ケーシーに飯をおごったりしていて、まるでのようだったと言っている。ガバッリーニにはがいないので新鮮だったのだろう。

ケーシー・ストーナー2007年1月6日アドリアーナ・トゥチーナexit結婚していた。ケーシー21歳、アドリアーナ18歳の若夫婦だった。アドリアーナ夫人は毎戦レースに帯同し、ケーシーピットに入りこんでいた。そして、ケーシーピットにはガバッリーニがいた。

ケーシーピットから出てコースを走っているとき、ガバッリーニはそのまま椅子に座り続ける。
ケーシーが座っていた椅子にはアドリアーナ夫人がちゃっかり座って観戦する。
アドリアーナ夫人とガバッリーニが隣同士座っている絵になるexit
これを見たイタリアメディアが「ガバッリーニはアドリアーナの愛人」と馬鹿丸出しの記事を書いていた。

ケーシーは怒りっぽく、海外の記事に「」と表現されるほどである。ところがガバッリーニは全く怒らないタイプで、ケーシーの怒りを上手く受け止めていた。このため、この記事exitで「避雷針」と呼ばれている。
  

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