グラハム・ヒル(Norman Graham Hill, 1929年2月15日 - 1975年11月29日)とは、イギリスの元レーシングドライバーである。
1929年、ロンドンで生まれる。
裕福な家庭とは言えない環境で育ち、工業系の大学へ進学、16歳の頃にエネルギー業界向けの機器製造会社の技師として働き始める。
この頃イギリス海軍で2年間の兵役に就き、機関室の技師として兵曹まで昇進。兵役後は製造会社へ復帰。
1953年、雑誌で「サーキットでF3カーを走行できる」という広告を見かけ、実際に走行してみた事によりレースにハマっていく。
会社を退職し、メカニックとしてレーシングスクールに就職し、仕事の傍ら様々なレースに参戦。この間、後のチーム・ロータスのボスとなるコーリン・チャップマンと出会い、1954年からローテスのメカニックとして働き始め、メカニックながらも時折ロータスのマシンでレースに参加するようになる。
1958年、チーム・ロータスがF1へ参戦することとなり、第2戦モナコGPでF1デビュー。しかし参戦したばかりということもありマシンのの性能・信頼性は低く、翌1959年まで在籍したものの2年間でノーポイントに終わる。シーズン後、ブリティッシュ・レーシング・モータース(BRM)へ移籍を決意した。
BRM移籍初年度となった1960年、第4戦オランダGPで3位に入賞し初のポイント・表彰台を獲得。しかし、このレース以外では目立った活躍をすることができず、移籍以前の古巣であるロータスはモナコGPでの初優勝を含む2勝をあげ、コンストラクターズ2位と躍進するなど対照的なシーズンとなってしまった。
1961年、最終戦フランスGP5位入賞など2度の入賞。このシーズンもランキングは下位に低迷するも、持ち前の前向きさと熱意で次第にマシンの性能が上がっていく。
1962年、グラハムの熱意が通じたのかマシンの戦闘力が飛躍的に向上、開幕戦のオランダGPで初優勝をあげると、第6戦~第9戦(最終戦)までに3勝、2位1回と抜群の走りを見せ、2位のジム・クラークを突き放し、初のワールドチャンピオンに輝き、チームのコンストラクターズタイトル獲得にも貢献した。
1963年、開幕戦モナコGPで優勝、第8戦アメリカGPで初のポールトゥウィンを決めるものの、前年よりリタイアが増えランキング3位に沈む。
1964年、開幕戦モナコGPでの優勝など2勝をあげ、それ以外のレースでも着実にポイントを積み重ね最終戦前までで僅差のランキング1位であったものの、最終戦メキシコGPでは他のマシンに追突された影響で入賞できず、チャンピオンを逃す。レース後のインタビューでは「わざとではない、ただ相手が恐ろしく運転が下手だっただけだ」と皮肉交じりのコメントを残した。
1965年、第2戦モナコGPで優勝しモナコGP3連覇達成。その後も着実に上位での入賞を続けたものの、第2戦の欠場を挟み開幕戦から第7戦まで6連勝したジム・クラークが圧倒し、ランキング2位に終わった。
1966年、H型16気筒エンジンをはじめとするマシン開発の失敗によりマシンの戦闘力・信頼性が低下。表彰台には3度立つものの、6年ぶりの未勝利に終わり、スピード面ではチームメイトのジャッキー・スチュワートに押される場面も目立つなど苦戦を強いられたシーズンであった。この年、シーズン途中にインディ500に参戦、フロントロウのスタートから見事優勝してみせた。シーズン後、ロータスへ復帰することを決意する。
1967年、マシンの信頼性の低さに泣かされリタイアの連続となってしまう。わずか2度の完走に終わり、クラークがリタイアを重ねながらも4勝をあげる中、ヒルは未勝利に終わるなど、不本意なシーズンとなってしまった。
1968年、開幕戦南アフリカGPでは2位に入りクラークと1-2フィニッシュを達成。しかし続くスペインGP開催前にクラークがレース中の事故で急死。弔い合戦となったこのレースで優勝すると、落ち込むチームを鼓舞するかのように続くモナコGP、最終戦メキシコGPでも優勝してみせ、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。
1969年、第3戦モナコGPで優勝するものの、新たなチームメイトであるヨッヘン・リントに押される場面も目立ちランキングも7位と低迷。更に最終戦ではアクシデントで骨折、以降本来の調子を取り戻せなくなってしまった。シーズン終了後ロータスを離脱した。
以降はプライベーターチームを渡り歩き、1970年はロブ・ウォーカー、1971~72年はMRD(モーターレーシング・ディベロップメント:当時のブラバムのエントリー名)から参戦し入賞圏でしぶとく走った。72年にはル・マン24時間耐久レースにも参戦しフランスのマトラのマシンを駆って優勝している。
1973年からは自らをオーナーとする「エンバシー・ヒル」を創立しオーナー兼ドライバーとなる。73年はシャドウ製のシャシーを使用し、ヒルのマシンのみの1台体制で戦うもグリッドの後方が指定席でノーポイントに終わる。
1974年、この年はローラ製シャシー2台体制で挑み、1台はヒルが走行し、もう1台はガイ・エドワーズ、ロルフ・シュトメレン、ピーター・ゲシンの3人が入れ替わる形で走行。第7戦スウェーデンGPでヒルが6位に入賞し、チーム初のポイントをオーナー自ら獲得した。
1975年、第4戦スペインGPから自社製のシャシーで参戦。しかしこのGPでシュトメレンがコース外に飛び出して観客4人を死傷させる大事故を起こしてしまう。更に第5戦モナコGPではヒルが予選落ち。ヒル自身一番思い入れのあり自信のあるコースでの予選落ちがショックであったのか、以降はステアリングを置き監督業に専念、第11戦ドイツGPではアラン・ジョーンズが5位に入賞するなど意地を見せた。
シーズン終了後、マシンのテスト走行を終えての帰途、ヒルの操縦する軽飛行機が墜落。ヒルやエースドライバーのトニー・ブライズら搭乗していた全員が命を落とした。
チームの主要メンバーを失ったエンバシー・ヒルは活動することができなくなり、そのまま消滅することとなってしまった。
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最終更新:2023/09/25(月) 07:00
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