グループC 単語

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グループシー

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曖昧さ回避

  1. グループC - モータースポーツにおけるマシンカテゴリー名。本記事で解説
  2. グループC - 日本国経済産業省による、「輸出貿易管理」の輸出カテゴリー分けの一つ。詳細は「グループA(輸出国カテゴリー)」の記事へ。

グループCとは、モータースポーツ熱狂の時代である。

概要

かつて80年代から90年代前半まで使われたスポーツプロトタイプカー車両規定である。 Gr.Cとも略される。グループC規定に沿って作られたレーシングカーを「Cカー」と呼ぶことがある。 個性豊かなの数々から、未だ幅広い層のモータースポーツファンに高い人気を誇る。

歴史

1970年代末、2度のオイルショックのあおりを受けて、モータースポーツ全体が停滞していた。 そこでFISA(国際自動車スポーツ連盟。当時のFIAの下部組織)は積極的なメーカーの参入を論んで車両規定を全面的に正し、1982年1月1日から発行した。 その中でグループ5(シルエットフォーミュラ)とグループ6(スポーツプロトタイプカー)に代わる新規定として制定されたのがグループCである。 グループC規定の発効に伴ってWEC(世界耐久選手権。86年からWSPC(世界スポーツプロトタイプカー選手権)と称)が開催され、グループCカーはこのレースで競い合うことになった。スポーツカーレース世界選手権が開催されるのは5年ぶりのことである。

グループCには世相を反映したユニークレギレーションが設けられていた。 簡単に82年当時の車両規定をまとめると次のようになる。

要するに、エンジンはどんなものを使ってもOK。も大の形と重量を守ってくれればどんなデザインでもOK。ただし、これだけの燃料で走り切ってください。」 というものであり、非常に自由度の高いレギレーションであった。 その自由度の高さゆえに、各コンストラクターが思い思いのアプローチで最適解を模索することができた。 その結果、参戦する車両は形からメカニズムから非常にバリエーション豊かで、個性的なが数多く生み出された。

また、オイルショックの苦い経験やテクノロジーの進歩から、省燃費と速さの両立というチャレンジは大メーカーにとって技術的に意義が大きかった。 ポルシェジャガーメルセデストヨタ日産マツダなど、数々のワークスチームが続々参戦し、WECとWSPCは大いに盛り上がった。 体からエンジンまで自主制作する余のない弱小のコンストラクタープライベーターも、 ポルシェが自社のCカーを販(!)したり、83年から低予算で参戦できるグループCジュニア(のちにC2と名)が整備されたことで、数多く参加した。

WSPCだけでなく、日本国内でも83年から全日耐久選手権、のちにJSPC(全日スポーツプロトタイプカー耐久選手権)としてシリーズ戦が組まれ、日本メーカーが多く参入したこともあり、人気を博した。

燃費規定があるといっても、グループCカー速さはとてつもないものであった。 ル・マン24時間レースサルサーキットにはかつて長さ6kmのストレートがあったが、82年当時ですでに360km/h前後、88年には400km/hを突破するマシンが現れるほどのパワーを誇った。 またボディ形状の制限が緩かったため非常に効率のよいを実現でき、前述の最高速を出せるだけの低ドラッグながらダウンフォースは2トンとも3トンとも、果ては4トンともいわれた(この値はF1を軽くぐ)。 それでいてペースカーが入っている間はペースカーとはべ物にならないほど燃費が良い上に、何時間も全開走行できる耐久性があったというのだから、グループCカーというのは大した化け物である。

流麗で個性あふれるスタイリングのレーシングカーが、それぞれ独特のエンジン音を奏でながら凄まじいスピードでかっ飛んでいく。 グループCレース素人から玄人まで、見る側にとっても非常に魅的なものとなった。

レギュレーションの変更と衰退

88-89年にかけて、FISA記者会見でグループCの車両規定を91年から大きく変更し、WSPCからSWCスポーツカー世界選手権)と名称をめ、レース内容も大きく変更するという発表をした。 その新レギレーションをかいつまんで書くと以下のとおり。

実は、当時F1でもターボエンジン止され、NAエンジンに移行していた。 3.5Lという排気量はF1と同じで、グループCとF1をある程度共通化することでグループCに出ているエンジンコンストラクターF1にも参戦してくれるように仕向けるためだった。 耐久レースからスプリントレースに移行したのは、耐久レースだとテレビの放送に収まらないためであるが、上記の狙いもあっただろう。

つまりこういうことである。 「長すぎると行に困るからF1レギレーションにしてみました。そうすると燃費競う意味いので燃料はジャンジャン使ってください。グループCに参戦するエンジンメーカーF1にどしどし参加してくださいね(特にメルセデス)。」 これまでのグループCは何だったのかと言いたくなるような大がかりな変更だった。

では、このレギレーション変更が何をもたらしたのか? 91年、SWCの新規定でのエントラントを見ると、ジャガープジョートヨタメルセデス…ほとんどが大メーカーである。 すでにワークス活動を停止していたポルシェと、開発が間に合わなかった日産はエントリーしなかった。 あれだけ数多くいた中小のコンストラクタープライベーターはどこへ行ったのか?

新規定のグループCカーは前述のとおり変更幅が非常に大きかったので、既存の旧既定グループCカー良して使うことができなかった。 シャシーはまだ何とかなるにしても、エンジンは新規に開発するか、どこかから買ってくるしかなかった。 しかし、新規定のエンジンを新しく開発するにはコストが嵩む。エンジンプライベーターにも購入できるような価格で提供できるようなメーカーもどこにもなかった。 つまり、レースから締め出されてしまった格好だ。

そんなわけで、エントリー台数は90年のWSPCから極端に減ってしまい、しかも大メーカーも新規定マシン開発が間に合わず、このままではレースが成立しないので、FISAは渋々91年に限って旧既定マシンの出場を認めた。 ただし旧既定マシンが新規定マシンに勝っては困るので150kgもの重量ハンデを背負わされることになる。 さらに、耐久レース用に設計されたではより身軽なスプリントレース用の新規定マシン速さで勝てるはずもなかった。 そのためプライベーターも91年はいくつか残ったが、その多くは92年を前にして去って行った。

こんな状態でシリーズが盛り上がるはずもなく、91年限りでメルセデスジャガーが撤退。92年は実質的に争っているのはトヨタプジョーだけになった。 結局82年から続いてきた選手権も92年限りで消滅することになった。グループCの終焉である。 しかし、トヨタプジョーは結構新規定に熱心で、92年のSWCでもしくやりあったし93年のル・マン24時間でも火を散らしており、それなりに盛り上がった。

代表的なグループCカー

グループC規定の選手権は10年あまりに渡って開催されたため、紹介しきれないほどの名・迷が存在する。

目次

旧規定
ポルシェ 956 / 962C / 962LM
ランチア LC2
ロンドー M382
ジャガー XJR-6 / XJR-8 / XJR-9 / XJR-11 / XJR-12
ザウバーメルセデス C9
メルセデスベンツ C11
トムス童夢 セリカC
日産 スカイラインターボC
日産 R90CP / R90CK
日産 R91CP / R92CP
マツダ 717C
マツダ 787 / 787B
セカテバ プジョーWM P88
トヨタ  88C-V/89C-V/90C-V/91C-V/92C-V/93C-V/94C-V
新規定
ジャガー XJR-14
プジョー 905 / 905Evo.1 / 905Evo.2
メルセデスベンツ C291
トヨタ TS010

ポルシェ 956(1982-1986) / 962C(1985-1993) / 962LM(1994)

グループC:ポルシェ956

グループC最初期から中盤まで最強を誇った、耐久ポルシェが送り出す決戦兵器

まずグループCをる上で絶対に外すことができない名である。ポルシェはグループC規定を底的に研究し、いちく最適解を見つけ出した。956はわずか10カほどで完成されたという。 82年当時のほかのCカーとべて素人にも完成度が高く、そのスタイリングは今から30年近くも前のとは思えない洗練されたものである。 どれほど強かったかというと、82年から87年までのル・マン24時間全勝、WEC/WSPCを82年から86年まで5連覇してしまうほどであった。

かしこのもっとも偉大な点は、完成した翌年の83年から、プライベーターに向けて販されたことである[1]。どんなプライベーターでも、このを購入して最新のグループCカー理論に触れることができた[2]

そのおかげでプライベーターであっても、

  • 最低限の資(当時は気が良く、才覚次第で資集めは難しくなかった)
  • 腕自慢のドライバー(若手に幾らでもいる)
  • ほんの少しの幸運

さえあればトップクラスワークスと互の戦いをすることができ、競争が化した。競争が化すればほかのメーカー興味を示す。グループC前半を盛り上げた役であり、後半を盛り上げる下地を作った立役者といえるだろう。

一部のプライベーターは独自に改造(中にはモノコックまで差し替えるチームも)を施して使っていたあたり、あくまで販されたらしいところである。日本プライベーターでもポルシェを購入したチームは多い。

ドライバーの足がフロント軸より前にあってはならない」というルールが87年から発行されることが決められ、956は参戦できなくなったので、ホイールベース120mm延長した962Cに置き換えられた。両は非常に似ているが、フロントオーバーハングの形状と長さで見分けられる。

956は当初インディカー用に開発されたものの投入されなかったエンジン改造した2.65L水平対向6気筒ツインターボ(排気量が中途半端なのも当時のインディカーターボは2.65Lまでと言うレギレーションだった為)を搭載していたが、のちに排気量が2.8L/3.0L/3.2Lと拡大された。 当初決勝用でブースト圧1.2bar称620、その後排気量が大きくなるとともに出は上昇し、最終的には3.2Lに1.7barのブーストをかけて780を絞り出すに至ったという。

レースによってあまり変わり映えしないフロント周りも、実はハイダウンフォース仕様ローダウンフォース仕様カウルの形が微妙に異なっている。リアカウルはウィングが高いハイダウンフォースショートテール仕様と、ル・マンのような高速サーキット用のロングテール仕様が用意されていた。

ジャガーメルセデスといったライバルたちが台頭するにつれて、徐々に役の座から降りて行った。が、ポルシェプライベーター支援を熱心に行っており、どんなレースも常に962Cはエントリーリストに名を連ねた。 最終的に94年のインチGTカーことダウアー962LMに至るまで12年間も現役でいた驚異のレーシングカーである。更に退役後、962Cの心臓部を後述のジャガーXJR-14の体に移植された個体が96年、97年のル・マンを連覇する。

お956にはポルシェワークスドライバーデレック・ベルによる車載実況動画が存在し、こちらも有名。

 

ランチア LC2(1983-1991)

ポルシェの最初のライバルで、ガラスイタリアンレーサー

グループC初年度の82年、ランチアレギレーション上の戦略から、旧Gr.6規定のプロトタイプカーであるLC1を「新開発」してWECに参戦した。本来は移行期間として旧規定のマシンで走るプライベーターを救済するための措置であったが、その裏を突いたわけである。軽量665kg、低ドラッグを活かして一発速さではポルシェ956と渡りあったが、最終的には1.5倍ほどもエンジンパワーのある相手には敵わなかった(LC1のエンジンは直列四気筒1425ccシングルターボで430-460を発生したという)。それでも、決勝ではハンデとしての燃費制限免除を武器に「耐久」であることを無視するかのようなしい走りを展開。ドライバーリカルド・パトレーゼミケーレ・アルボレートといった血気盛んのイタリアンたちの奮闘もあって、大いにその年のWECを盛り上げ、全8戦中3勝という結果を残した。

翌83年からは旧規定のは走れなくなるため、もはやごまかし紛いの方法は取れない。そこでランチアが登場させたのがLC2である。

前年のLC1の活躍もあって、LC2は956に対抗しう一のCカーとされていた。しかし、ふたを開けてみればプライベーターにも提供され始めた956の強な布を前に、83年のWECを未勝利で終えることとなる。確かに速さは956に肩するほどだったが、信頼性が足を引っってしまった。LC1の頃からの弱点をそのまま受け継いでしまったというわけである。その後も予選でポールポジションをとるものの勝利には結び付かないレースを繰り返し、86年WSPC第2戦終了時までで2勝にとどまった。

結局ランチアは86年WSPC第2戦でもってワークス活動を打ち切り、その後現在までロードレースに参戦していない。LC2はプライベータームサットに売却され、旧規定が走れる最後のシーズンである91年SWCまで参戦した。だが、かなりのリタイア率で、ほとんど結果は残せなかった。

LC2の特徴はエグイまでの造形を誇るアンダーボディであった。グラウンドエフェクトを最大限に発生するために設計されていたそれは、どことなく舟を想起させる。フロントノーズは出目金みたいな大ヘッドライトが付いたタイプと、スランノーズの2タイプが存在する。

ダラーラ製のアルミモノコックシャシーに、フェラーリ308クアトロバルボーレのV8エンジンを2.6LにサイズダウンしてKKK製のツインターボを装着したものを搭載した。エンジンチューンを担当したのは今は亡きアバルト社。2.6LとKKKツインターボという構成はライバルポルシェ956とほぼ同じで、ランチアインディも視野に入れていたために必然的にかぶったのである。84年途中から排気量を3.0Lに拡大したエンジンを投入する。エンジンはシャシーに直接剛結されていた。

製造された9つのモノコックのうち#0008と#0009ムサット時代になってから製作されたものである。

 

ロンドー M382(1982)

グループC初年の最初のウィナーとして名を刻んた、偉大なプライベーターマシン

フランスル・マン近郊のシャンパーニュ出身のプライベートレーサーであり、コンストラクターでもあったジャンロンドーと言う男がいた。彼は、1975年マツダサバンナRX-3を駆って参戦。翌年、いよいよ自ら製作したマシンル・マンクラス優勝した。グランドツーリングプロトタイプGTP)と名付けられた新規定に合致したマシン、「イナルテラ」はこの年のクラス優勝を成し遂げた。翌年もクラス優勝を防衛したが、出資者の方針変更で機材が売りに出され、出直しを強いられたロンドーは、1978年イナルテラの設計を元にしたM378を製作、翌年は新M379で参戦した。そして、1980年M379Bで自らステアリングを握って見事に総合優勝ル・マン24時間を自分の名を冠したマシン優勝するというえた。

さて、それらのマシンをグループC規定に合わせて良したのがM382である。当然、基本構成はイナルテラの時代から変わらず、鋼管スペースフレームアルミハニカムネルを貼って補強したシャシーに、コスワースDFVエンジン、ヒューランド製のギヤボックスという典的な70年代的「キットカー」であった。

その戦闘力はとてもじゃないが上記956のような最新マシンには太刀打ち出来るものではなかったが、手堅い作り故の信頼性だけが武器だった。

1982年の開幕戦、まだ本命のポルシェ956は姿を現さず、予選のポールポジションランチアLC1が奪う。レースでもランチア勢がかっ飛ばしたが、やがて彼らはトラブルで後退。「うさぎとかめ」の童話のごとく、着実に走りきったロンドーのマシンが、記念すべきグループCレースの最初の勝者となったのである。

もちろん、こんなことは何度も続くわけはない。4戦からいよいよポルシェ956が登場して、ロンドーのマシンは本来の中団から下を争うポジションに戻った。とは言え、最初の勝利を始めとしてポイントは稼ぎ続け、この年のランキング2位を確保するという大健闘となった。やがてチームを大幅に良したブランニューマシンM482をデビューさせたが、しょせん大メーカーマシンうわけもなく、ロンドーの名が優勝戦線にあがることは二度となかった。

1985年ジャンロンドーは鉄道での踏切事故によりこの世を去り、彼のは終わったのである。

 

ジャガー XJR-6(1985-1986) / XJR-8(1987) / XJR-9(1988-1989) / XJR-11(1989-1990) / XJR-12(1990-1991)

ポルシェを倒すために生まれてきた耐久レーシングカーである。

ジャガー1982年当初、事実上グループCの姉妹カテゴリーであったアメリカのIMSA-GTPに参戦していた。 WECには1985年の中盤からXJR-6で参戦する。1986年チャンピオン争いに絡んだ…が、ポルシェにあと一歩で及ばなかった。

そこでジャガーは新XJR-8を送り出す。シルクカットスポンサードを受けた手な紫色しいXJR-8は87年のWSPCで全10戦中8勝を挙げる快挙を成し遂げ、初めてポルシェを破ったとして名高い。

翌年のXJR-9はXJR-8をIMSA-GTPでも使えるように修したものだが、このXJR-9でもメルセデスとの死闘の末88年WSPCを制覇。 2年連続でドライバー/コンストラクターの両タイトルを奪取し、アフター・ポルシェ時代の最初の役に躍り出た。 またこの年のル・マン24時間では優勝してポルシェ956/962Cの7連覇を阻止しており、これも快挙である。

89年WSPCは全戦スプリントレースイベント(因みにル・マン24時間は89年、90年と選手権から除外されている)になってしまい耐久レースの為に作られ大排気量ノンターボと重くここ一発パワーを出せないXJR-9は苦戦、その状況を打開すべくGr.BマシンMGメトロ6R4に搭載されていた3.0L自然吸気のV6エンジンを突貫で3.5Lターボに仕立てたXJR-11をシーズン途中から投入する。 以後ジャガーはスプリントレース用にXJR-11と後述のXJR-14、耐久レース用にXJR-9発展のXJR-12を使い分けることとなる。

ジャガーのCカーはスプリントレース用のXJR-11やXJR-14を除けばXJR-6から継続して(XJ-S)の自然吸気V12SOHCエンジンチューンして搭載しており、甲高い音と重厚な音が混ざったステキなエキゾーストノートを奏でる。 XJR-6の頃は6.0Lだったが、XJR-8から7.0Lに拡大し、XJR-12では最終的に7.4Lまで拡大された(IMSA用はレギレーション上6.0Lのまま)。 XJR-9の時点で称700であった。

用のV12レースエンジンとしては重厚長大に過ぎたので、エンジンが収まるようコクピット背面をへこませた形状のモノコックを製作したという。 ちなみに前作のXJR-6はグループCカーでは初のカーボン製モノコックだった。後継のXJR-8以降ももちろんカーボン製モノコックである。

 

ザウバーメルセデス C9(1988-1990)

シルバーアロー復活させた栄く名である。

ザウバーメルセデスジャガーに次いでWSPCに覇を唱えたドイツ…もといスイスの強である。 ザウバースイス中堅コンストラクターだったが、85年のザウバーC8にメルセデスエンジンを搭載したことをきっかけにみるみるうちに進化を遂げ、いつの間にかメルセデスワークスチームになってしまった。

そうして新生ザウバーメルセデスチームが最初に送り出したCカーがC9である。 それまでのC8やC7の直線が立つシンプルデザインから一新、機的な見たを獲得した。 C9ははじめから競争が高く、ジャガーと壮絶なタイトル争いを演じたが、88年は負けてしまう。また、この年のル・マン24時間の予選中原因不明のタイヤバーストに見舞われて決勝を辞退するという悲運に見舞われた。

この価を発揮するのは翌年、89年のことである。 88年の電子チップイメージした基調のカラーリングから一新して、かの有名なシルバーアローこと銀色になったC9パッケージに大きな変更点は見受けられないが、エンジンは88年のSOHC/2バルブからDOHC/4バルブに変更され、さらなるパワーと燃費を獲得した。この年のWSPCC9のためにあるといっても過言ではなかった。全8戦のうち7勝を挙げ、ル・マン24時間も1-2フィニッシュで決め、完璧ライバルたちを封じ込めた。

翌90年に後継のC11バトンタッチするが、WSPC開幕戦では予選でクラッシュしたC11の代わりにC9が出走した。

メルセデスは当時のSクラス用5.0LV8エンジンKKKツインターボを搭載して低いブースト圧をかけて(0.6bar前後)使用しており、ドロドロという低回転V8特有の低音を発しながら走っていた。アメリカV8っぽい音だとよく言われる。 このエンジンピークパワーよりもトルクと信頼性を重視した造りになっている。89年で称700

近年グランツーリスモ4(GT4)に収録されたことで、若い世代の間で一気に知名度を上げた。

 

メルセデスベンツ C11(1990-1991)

C9をさらに進化させた、旧既定最強と名高いメルセデスの最終兵器

前年のWSPCを圧倒的な勝利で終えたザウバーメルセデスは、翌90年に2年ぶりの新を導入した。 それがC11である。この年からザウバーの名が取れ、単に「メルセデスベンツ」となってしまった。

スタイリングC9べてさらに低く、キャビンが狭く見える。コックピット前面からどことなくフォーミュラカーの処理が見られるのが特徴。 また、C9アルミモノコックであったが、C11ではカーボンモノコックとなっている。 エンジンは基本的に前年から大きな変更はないが、730までパワーを上げたという。

メルセデスチームはこのC11で90年のWSPCを前年と同様8戦中7勝という驚異的な強さで制圧し、WSPCの最後を々しく飾った。 このときメルセデスチームは、若手育成のために2台体制4人のドライバーのうちの一人を、ジュニアチームドライバー3人のなかから選んでいた。 そのジュニアチーム3人とは、K.ヴェンドリンガー、H.H.フレンツェン、そしてM.シューマッハーであった。のちに3人ともF1にステップアップした。

翌91年のSWCにもC11は出場していたが、新規定発効によって不利な戦いを強いられ未勝利のまま終わることになった。 この年のル・マン24時間ではマツダ787Bライバルとして戦ったことがよく知られている。しかし24時間の長丁場では設計にまずい点があったか、3台同じ冷却系のトラブルに見舞われて最高5位で終わる。 このル・マン限りでC11は役を終えた。

 

トムス童夢 セリカC(1982)

記念すべき産初のグループCカー

トムス童夢は、グループC規定が発行されると、ル・マン24時間への出場を狙っていちはやくCカーを開発することを決めた。 そこでまず82年10月WECジャパン(富士スピードウェイ)をして製作が始めることになった。 トヨタの協を得て、スポンサーマネーを集めてどうにか日本初のCカーが完成した。それがトムス童夢セリカCである。

トヨタ側の要望でセリカイメージを残してほしいと言われ、フロントマスクをそれっぽくし、屋根セリカから取って上にかぶせた。 エンジン70年代前半に開発された直列4気筒2Lのトヨタ製2T-GTターボで400程度、これをアルミモノコックに搭載した。

セリカCは1982年8月完成、同鈴鹿1000kmでデビュー。しかしこレースでは1周もしないうちにサスが折れてリタイヤしてしまう。 WECジャパンまで1ヵ余りしかなかったが良を施し、信頼性を身につけて帰ってきた。

いざWECジャパン本番になってみると、ポルシェ956の前ではセリカCはおもちゃでしかなかった。 600以上を絞り出す956とのストレートスピードの差は100km/h近かったという。シャシーの剛性もべるべくもなく、ダウンフォース泥の差があった。特に体強度は深刻に不足しており、走るたびに何処かにクラックが入り、何かしらのパーツが壊れた。レーシングスポーツカーノウハウの格段の違いを見せつけられて、セリカCはあっけなく周回遅れにされるのみであった。また、初期の日産もそうであったがイメージを残そうとするあたり、Gr.5気分のぬけないメーカーポルシェとの意識の差が顕著だったと言えよう。

結局他トラブルに見舞われる中、セリカCは確実な走りでWECジャパン5位完走(とは言っても優勝ポルシェ956からは26周遅れ、2~4位はGr.5/75のランチアGr.6のマーチGr.5のBMWと旧規定マシンが続くなど正に惨敗)を果たす。 これに気を良くした(むしろに火がついた)トヨタトムスに本格的な支援を始め、のちにトヨタワークスチームとしての参戦につながっていくことになる。

 

日産 スカイラインターボC(1982-1983)

グループC一のベースマシンであり一のFR

日本でGr.Cの選手権が始まるより前、Gr.5(シルエットフォーミュラ)という魔改造マシンレースをするカテゴリがあった。日産はそこに79年からバイオレットで参戦し、82年にはコカコーラブルーバード・ニチラシルビアトミカスカイラインという、いわゆる「火を噴く日産トリオ」「日産ターボ軍団」を擁し、大人気を博した(余談だが出っ・タケヤリのようなチバラギ流の族が流行ったのはだいたいこいつらのせいである)。

日産はGr.C活動は、このうちの1台であるスカイライン改造する形で始まった。最初は追ワークスルマン商会、東京R&Dの共同プロジェクトという「半分ワークス」みたいな形式である。

トムスと同じく、82年のWECジャパンして開発されていたものの間に合わず、代わりに翌11月キャラミ9時間レースデビュー戦となった。

出来上がった車両はというと、スカイラインの面を感じない低いノーズ、理やり感漂う低い高、カクカクのボディライン…「Gr.Cというカテゴリーを正しくGr.5の後継として解釈したらこうなる」といったところだろうか。ちなみにこのときは名こそ「スカイラインターボC」ではあるが、全高の関係でGr.C規定には収まっておらず、正式なGr.Cカーとしての参戦ではなかった。結局このレースリタイアして終わった。

明けて83年。選手権も移行期間が終わり、Gr.C規定に則っていなければ参戦できないようになった。さて、スカイラインターボCは全高がオーバーしている。そこで、ルーフを上から65mmぶった切り、フロントウィンドウを大幅に後退させるという荒技を使って強引にGr.C規定に適合させることに成功した。その結果、違和感バリバリだった見たは更に酷いことになってしまった。低いのに広くてらなルーフ、駄に長く見えるドアウィンドウ、さらに節操く増えたフロントの排熱用ルーバー…同時期に同じレギレーションであのポルシェ956が走っていたのがとても信じられない。

トムスが82年WECジャパンでそうだったように、ポルシェをはじめとする世界の強の前ではスカイラインターボCもただのおもちゃでしかなかった。というか、一度も完走すらできなかった。活躍といえば、富士1000kmで一時的にラップリーダーになった程度のもの。エンジンにはシルエットと同じLZ20Bを搭載するが、低くしたフロントでは十分な空気を導入できず、ひどい熱に悩まされたようだ。

84年からはスカイラインCという名前だけ受け継いで、とはまるで縁もゆかりもないミッドシッププロトタイプカーバトンタッチした。

ちなみに、成績こそ散々だったがシルエットフォーミュラが熱狂的な人気を博した時代だけあって、スカイラインターボCの人気は凄まじいものがあったらしい。今でもモデルカーが発売されているし、当時のスカイラインについて熱っぽくオッサンは未だに多いような気がする。

 

日産 R90CP(1990) / R90CK(1990)

鋼の心臓

R90CPはローラ日産の共同開発したシャシー日産設計のパッケージを乗せたである。ローラオリジナルバージョンはR90CKという。

R90CP/CKをる時に外せないのはエンジンである。 日産1982年からグループC活動をはじめ、数年の戦いの末、結局自社製でいいものを作るしかないという結論に達する。 85年にVG30、87年にVEJ30、88年にVRH30/VRH34、89年にVRH35と次々開発し、90年ついに究極ともいえるエンジン開発した。それがVRH35Z、3.5LのV8高過給ツインターボである。このエンジンは驚くべきパワー耐久性を備え、決勝用で900、予選では1100に到達していながら、オーバーホールせず数レース戦うことができた。 このエンジンは90年のWSPCを戦うR90CK、JSPCを戦うR90CPに搭載された。

ル・マン24時間ではR90CKが予選ポールポジションと決勝のファステストラップ、R90CPが決勝の最高速(366km/h。現在も破られていない。)を記録し、速さ明した。 しかしながら結局ル・マン24時間では勝利を逃す。また、JSPCではチャンピオンになれたが、WSPCではメルセデスに惨敗してしまった。

パワーは良かったが、前年から導入したローラと共同開発のシャシーの品質が追いついてこなかったらしい。もはや開発を他社任せにしていては勝てないと悟ると、翌年日産はシャシーも自社で全内製することになる。

 

日産 R91CP(1991-1992) / R92CP(1992)

日産Gr.C活動の集大成であり究極進化系。

R90CKがWSPCタイトルを逃した翌年、ついに日産はシャシーも含めてすべて自社開発する方針をとった。そうして生まれたのがR91CPである。シャシーの性は格段に向上し、ドライバリティを考慮してエンジンの出をあえて600近くまで落としたものの、富士スピードウェイでのストレートスピードラップタイムは向上したという。それほどまでに「踏める」に仕上がった。

本命はル・マン制覇である。しかしWSPCがSWCへ移行し、旧既定重い重量ハンデを不満に思った日産は欠場を選択。 前年から重量ハンデについてFISAに対し不を述べていた日産チームは、この年自ら世界舞台で戦うチャンスを閉ざしてしまった恰好になった。

その憂さをらすかのように91年のJSPCをトヨタと競いながら勝利、92年初めのデイトナ24時間では周回数記録更新する快挙を成し遂げ圧勝した。そういった活躍を見て、「ル・マンに出てさえいれば…」と思った日産ファンは多いだろう。

92年のが来ると、旧既定Cカーの活躍の場はもはやJSPCくらいしかなかったが、日産は手を抜かずR91CPを更に進化させたR92CPを開発する。シャシー/エンジンはR91CP同様に全内製、R91CPであえて600ほどまで落としていた出を、720まで引きあげた(公式発表では最後まで900で通していたらしい)。

このR92CPは旧既定Cカーの中でも実はメルセデスC11を上回って最強最速ではないかと噂され(世界的にはSWCに移行した関係で、旧規格Cカーを開発しなかったというのも理由には上がるのだが)、最後のJSPCとなった92年シーズンを全勝で飾っている(ただし最後の2戦は「C2クラス優勝」。というのもSWCが崩壊したため、行き場所を失ったTS010がC1クラスとしてJSPCに出場して総合優勝しているのだ。)。

R92CPで何といっても有名なのは富士スピードウェイ400km/h伝説であろう。グループCのレースでは、決勝こそを落としていたものの、予選は1000クラスの出で競われていた。 そこで日産は最後だしせっかくだからどこまでいけるかやってみようと考え、1200以上(当時の測定装置では実測出来なかったので、燃料消費率から推定という形になっている。)という超絶パワーを与えた。そしてついに富士スピードウェイホームストレートで400km/hを突破した。 これは、かつてセカテバ・プジョーWM P88が達成したル・マンでの400km/h越えとは少々意味合いが異なる。 ル・マンには6kmのストレートがあったが、富士にはせいぜい1.5km程度しかストレートがないのである。

当時のドライバーであった星野一義長谷ったところによると、レース後は毎回震えが止まらずに、常時死を覚悟しながら運転をしていたという。後年、デチューンされた600仕様マシン土屋一がインプレッションをした際には「怖くて全で攻めることが出来なかった」との事。本当にとてつもないレーシングカーであった。

 

マツダ 717C(1983)

走る「そらまめ」。

マツダのグループCカーというと767だとか787Bを思い浮かべる人が多いだろうが、それもこのの功績があってこそのものである。

70年にロータリーエンジンをシェブロンに供給してからマツダル・マン挑戦は始まり、79年からは自社の(RX-7)で出場。マツダの活動はここから年々本格的になっていく。 82年グループC規定が発行したが、この年までマツダRX-7を使い続けた。というのもマツダはグループCにふさわしい大きさのエンジンを持っていなかったのである。そこでマツダは翌83年小さなエンジンで済むグループCジュニアクラスル・マンに出ることにした。 そうして作られたのが717Cである。

シャシーデザインRX-7のころから担当しているムークラフト由良拓也氏。 全体的に丸みを帯びたコンパクトスタイリングと、くるしい表情から「そらまめ号」と称がつけられた。エンジンは2ローターの13Bで、300を発生した。

実際性はどうだったのかというと、残念なことにそんなに速くなかったらしい。 空気抵抗自体は少なかったがグラウンドエフェクトを生かしきる設計ができていなかったほか、重量がCジュニア最低重量(700kg)から60kgも重たかったという。

しかし侮るなかれ、このマシンは83年ル・マン24時間のGr.Cジュニアクラス優勝したのである。(総合でも12位に入る健闘) さらにこのは全出走の中で燃費第1位(およそ3.15km/l)を獲得した。速さで勝てない分、信頼性と燃費でもぎ取った勝利だった。 ちなみに総合12位に入った60号ドライブしていたのは片山義美/従野孝寺田次郎日本人トリオである。 もう1台の61号も総合18位完走を果たしており、Cジュニアの参加台数が少ないとはいえ快挙であった。 これまでのル・マン活動成果の結晶であるとともに、のちの787Bの総合優勝へとつながる大きな一歩であった。

このル・マンののち、活動団体がマツダオート東京からマツダスピード法人化して、マツダワークス体制でグループCに臨むこととなる。

 

マツダ 787(1990-1991) / 787B(1991)

日本として、そしてロータリーエンジンとして初めてル・マン24時間レース総合優勝を成し遂げた偉大な

マツダは83年にワークス活動を開始してからしばらくは、C1で戦えるような大きなロータリーエンジンがなかったためGr.Cジュニア(C2)クラスで参戦していたが、ついにマツダは3ローターエンジンの757を開発して86年からJSPCに参戦を開始した。

しかし当初はパワーが450程度しか出ていないこともあり、速さが足りず勝利から遠い位置に甘んじた。 その後エンジンは4ローターまで増え、シャシー良を重ね、88年には767に進化、90年には787を送り出す。(777が飛んだのは「言いにくい」からだとか)

91年からの新規定の発行でロータリーエンジンは参加できなくなるため、90年のル・マン24時間はマツダにとっては最後のチャレンジのつもりでいた。

開発の4ローターエンジンR26Bは前年の13Jべて同排気量ながら100程度も向上し、これでもターボ勢のライバルから後れを取っていたが、十分優勝を狙える速さを身に付けた。 トランスミッションはこれまでに引き続きポルシェ962Cのものを流用。シャシーは767ではアルミモノコックだったが787ではカーボンモノコックを採用し、準備は万端。

だが、ふたを開けてみれば送り込んだ2台は急なコースレイアウト変更もあって思うような走りができず、共にリタイヤ。 これでマツダの挑戦は終わった…かに見えたが、前述のgdgdにより91年も出場できることが決まった。

マツダは正正銘最後のチャンスにかけて787を大幅に良し、787Bとして送り出した。90年からストレートにシケインが設けられたことでストレートスピードよりもコーナリングスピード重が増したことを加味し、トレッド幅を大きく拡大。 エンジンの味付けもピークパワーよりもレスポンスを重視したセッティングになった。さらにカーボンブレーキを採用するなど数多くの変更点が加えられたことで、大きく戦闘力アップ。加えて、マツダ政治面も怠らなかった。催を説得してロータリーエンジン搭載最低重量を880kgから830kgに引き下げさせたのである(レシプロエンジン1000kg)。ドライバー勢は、ロータリーレーシングカーの経験豊富な寺田次郎から「ロータリーでのル・マンの走り方」を底的に叩き込まれた(例:燃費を稼ぐためのコーナー手前250mからのアクセル全閉。レシプロエンジンでそんなことをしたらエンジンローの可性が高いのだが、内部に動弁系を持たないロータリーなら何の問題も生じない)。

そうして臨んだ91年のル・マン24時間レース787Bトラブルフリーで走り切り、メルセデスの脱落もあって、ついに念願の優勝を成し遂げた。 ロータリーエンジンル・マン24時間を制したのはこの787Bが最初(というか一)だが、カーボンブレーキ搭載の初優勝でもあった。

レース後のシャシーはよく見ると補強のボルトが一部浮き上がってきていたと言われ、体強度はギリギリだったようだ。

余談だが、ル・マン勝利した55号レナウンチャージカラーは、スポンサーレナウンの偉い人が80年代後半にマツダの戦いぶりを見て「ああ、こりゃ優勝理だ。だったらせめて立とう。」ということでやたら手な色遣いにさせたんだとか。

 

セカテバ プジョーWM P88(1988)

このを一言で表すとするならば、愛すべき馬鹿

「WM」とはプジョーエンジニアであるG.ウェルテルとM.ムニエの頭文字である。この二人は1977年からル・マン参戦を始めた。1983年からチームオーナーが代わりセカテバと名前を付けたチームで出場している。プジョーの社員とはいっても、WMとついていることからわかるとおり、プジョーが会社としてワークスチームを出しているわけではない。 あくまでも体はWMの二人であって、プジョー支援をしているだけである。

さて、このチームの送り出すマシンは実に特徴的であるが、とあるわかりやすい思想のもとに作られていた。 それは、「直線だけ最速」である。

曲がろうという意志すら感じられないエアロフロントタイヤにすらスパッツの処理がなされている)に、ハイパワープジョーV6。 毎年予選で最高速チャレンジをして、決勝は適当なところでリタイヤするという、「お前らレースに出ているのか、それとも直線だけを走りに来ているのか」と言いたくなるようなチームであった。

88年のP88はその中でも傑作であり、ついにエンジンの出は950に達した。そしてこの年公式記録405km/hを達成し、ついに400km/hの壁を破った。 しかもこの405km/hという記録は当時のプジョーの新405とイメージを結び付けるためそういう記録として発表されたらしく、実際は410km/hを上回ったとの説もある

ちなみに、88年の決勝はわずか22周でリタイヤした。これがこのチーム様式美である。

90年にWMは参戦をやめてしまった。この年ユノディエールにシケインが設けられたからなんじゃないかとか噂された。 が、相はもちろん別に存在し、実際のところはプジョーが新規定グループCに注するためである。

トヨタ 88C-V/89C-V/90C-V/91C-V/92C-V/93C-V/94C-V

トムス童夢開発していたCシリーズの後継。TRD導で製作し、トヨタの純製であるV8ツインターボを搭載する。モノコックはそれまでのアルミ製からカーボン製に変わった。数字は年を表している。

88C-VはJSPC専用マシンとしての開発だったが、車両として未熟で重量も重かったため、トラブルが続出していた。JSPCの1戦として開催されたWSPC日本ラウンドにもスポット参戦したが惨敗した。

89C-VはトヨタのWSPCフル参戦デビューマシントムスサードがオペレーション。高い戦闘力を発揮し、JSPCでは初の産グループCカー王者まで後一歩まで迫った。WSPCでもザウバーメルセデスを押さえフロントローを独占する活躍を見せた。ただしル・マンではスタート4時間で全滅した。Cカーとしての燃費は余り良くなく、勝った時はで燃費的に楽なレースだけだったという。

90C-Vはル・マンでは社長じきじきの叱責から完走を狙う走り方に切り替えた結果、トヨタ史上初めてル・マン入賞(6位)を果たした。しかし操縦性の悪さからJSPCやWSPCでの評判は余り良くなく、JSPCでは初めて天時優勝こそしたものの、シーズン途中でサードは89C-Vに戻してこちらで優勝を挙げている。

91C-VはJSPCに特化したマシンで、ル・マンには参戦しなかった。性は優秀で明らか日産R91CPを上回っていたが、ドライバータイトルコンストラクタータイトルも逃す憂きに遭った。なお92C-V、93C-V、94C-Vはいずれも91C-Vを仕様変更した程度のマシンで、新と呼べるほどの変更はされていない。

93C-Vは台数こそ少なかったがル・マンカテゴリ2(旧グループC)クラス優勝をしている。

94C-Vもル・マンに旧グループCとして参戦したが、この年は新グループC勢が撤退しており、旧Cカーのプライベーターが総合優勝するチャンスがあった。そしてダウアー962LMポルシェしいトップ争いを繰り広げ、見事サードマシントップに立った。しかし残り1時間15分でミッショントラブルが発生。ジェフクロスノフの懸命の処置によってピットに帰ってきたが、その間2台のダウアーに逆転を許してしまう。その後エディ・アーアインが猛追を見せ、ダウアーの1台を食って2位を奪還するも、優勝はならなかった。

しかし歴史に残る最終盤の追い上げと、プライベーターであるサードの挑戦の歴史を讃えられ、94C-Vはサルト・サーキット博物館に展示されている。

ジャガー XJR-14(1991)

91年から始まる新規定に向けたジャガーの先進的なCカー。

コンパクトなボディに極端に幅が狭いコクピットとモノコック、カーボンディスクブレーキ、複葉リアウィングおまけF1用をチューンしたフォードコスワースHBエンジン…。 まさにフルカバードボディのF1であった。設計者のロスブラウン過去アロウズF1マシンを設計してきた実績があり、そのノウハウが生かされた。

見たにも(カラーリングも含め)これまでのCカーとべると過スタイリングで、いろいろと攻めた設計をしていた。 たとえばXJR-14にはドアが存在しない。どうやって乗るのかというと、をとりはずして乗るのである! 複葉リアウィングなどは見たにもわかりやすく、ほとんどすべてのライバルメーカーがこぞって真似をした。 複葉ウィングの下のほうのエレメントダウンフォースを稼ぐとともにディフューザーの効率を大きく高める効果がある。

XJR-14はエンジンの信頼性がほかのメーカーよりよく、トラブルを起こさずにポイントを重ねてチャンピオンを獲得した。 この年の最終戦オートポリスでテオ・ファビが記録した予選タイム「1分27188」は、サーキット開業わずか2年記録されたコースレコードにして、記録更新まで23年を要した(2014年スーパーフォーミュラにて山本が「1分26469」をマーク、なおこの年は8人が1分27188を切った)。

TWRジャガーチームは91年限りで撤退を表明し、XJR-14は出番を失った。 しかし、92年にはマツダスピードXJR-14のシャシーを買ってジャッドGVエンジンを載せてマツダMX-R01としてSWCに参戦した。 また、のちに現在ル・マンアウディを率いているヨーストの提案でポルシェがIMSAのWSC95用のシャシー改造したもののお蔵入りになってしまった個体をヨーストが譲り受け96年、97年のル・マンを連覇することになる。

コスワース75°V8エンジンはボア90mm、ストローク68.7mmのディメンションを持ち、11250rpmで620を発生したという。 新世代のグループCを徴するかのような甲高く攻撃的なサウンドだ。

 

プジョー 905(1990-1991) / 905Evo.1(1991-1993) / 905Evo.2(1992)

時期によって形が全然異なることで有名なプジョーの新規定グループCウェポンである。

プジョーはSWCに参戦したメーカーの中で一旧既定のグループCにワークス出場していなかったメーカーである。

プジョーは以前からF1参入のチャンスをうかがっていたこともあって、FISAとともに新規定に積極的に賛同する動きを見せていた。いちく90年終盤には905を完成させ、WSPCの最終2戦に参戦した。(このときはテスト的な意味合いが強く、それぞれリタイヤ、13位完走にとどまる。)

だが翌91年、ふたを開けてみるとTWRジャガーの先進的なXJR-14を前に厳しい戦いを強いられる。そこでSWC第5戦から905を大改造。905Evo.1として生まれ変わった。

シンプルだった905のスタイリングは、前後にウィングをくっつけることで失われた。リアウィングはこれまでの旧規定Cカーのようなシンプルなものから、XJR-14似の複葉タイプに変わった。 この改造を施してからチャンピオン争いに食い込めるだけのスピードを身につけたものの、結局遅れを取り戻すことはかなわずXJR-14に敗れた。

翌92年のSWC最終年は事実トヨタとの一騎討ちとなったが、プジョー905Evo.1は6戦5勝でトヨタを破り、SWC最後のチャンピオンいた。

SWC終戦の予選のみ905Evo.2なるモデルが登場しているが、こちらはEvo.1からをさらに進化させたもので、奇怪なウィングの塊となったフロント回りを見た者から「もっとも醜いCカー」と揶揄された。 (後のプロトタイプカーのトレンドとなるフォーミュラカーノーズ+独立フェンダーなど、時代を先取りしていた感はあったが。)

SWC終了後は、新規定Cカーが活躍できる場は93年のル・マン24時間のみとなった。ここでもトヨタとの一騎打ちになったが、終わってみればプジョーが1-2-3フィニッシュを決めてトヨタ全に下した。

はともかくシャシー設計の面ではデビューのころからXJR-14に負けず劣らずフォーミュラカー寄りで、コックピット幅はXJR-14よりも狭く、やはりジャガー同様ドアがなかった。 (しかしプジョーの場合はをはずして乗降するのではなく、ガルウィング式で開くものだった。) 空気抵抗を低減するためサイドミラーがコックピットの中にある。

自社開発の80°V10エンジンはボアが91.0mmに対してストロークが53.8mmというかなりのショートストロークで、非常に高回転エンジンだった。 回転数と出表されていないが、「最も美しいエキゾーストノートのCカー」といわれる。

 

メルセデスベンツ C291(1991)

メルセデスベンツの新規定Cカーであるが、はっきり言って

「3気筒分のヘッドブロックを一体成(!)したものを4つ組み合わせてセンターアウトプット方式の180°V12エンジンとし、それを前傾して搭載して、その下面をで覆ってディフューザーにする」という特徴的な思想のもとで作られた。が、見るべき点はそれだけだった。

先進的な構造を持つプジョージャガーの前にはシャシー明らかに劣り、ライバルが新トレンドで攻めてくるのに対してC11コンセプトを継承した旧態依然としたものになっていた。また、前述の構造を実現するためにかなり複雑な取り回しを強いられ、トラブルが頻発してしまった。

しかしながらしかしながらである。91年SWC終戦オートポリス奇跡が起こった。

トラブルに見舞われる上位をに若手育成プログラム組の1台が快走し、勝利をかっさらってしまう!この時乗っていたのは、かのM.シューマッハーとK.ヴェンドリンガーだった。

13000rpmまで回るショートストローV12エンジンサウンドライバルの新規定べてもひときわがあった。

なおメルセデスは後継としてC292制作していたが、メルセデスは91年限りで撤退することを決めたためお蔵入りになってしまった。 C292はのちに写真開されているが、まんまXJR-14のコンセプトをパクったような見たをしている。

 

トヨタ TS010(1991-1993)

遅れてきた巨人トヨタスタンダードキープコンセプトな新規定Cカーである。

トヨタプジョーほどではないが新規定には較的好意的で、1990年からマシン開発スタートした。…のは良いものの、開発組織上の問題で開発が対立し、中途半端なを設計してしまった。このままでは参戦しても負けるだけだと悟った首は元ジャガートニー・サウスゲートを招聘し、一から設計し直してようやくTS010は完成した。開発が遅れて91年の開幕戦に間に合わなかった。

TS010緒戦は91年最終戦オートポリスだった。このときは6位でフィニッシュ。 すでにトレンドとなっていた複葉ウィングを採用し、72°V10エンジンを搭載して手堅い造りのだった。

トヨタは92年からフル参戦なのでプジョー事実一騎打ちで戦ったが、速さで互に戦える場面はあってもレース展開が味方せず、メカカルトラブルが発生したこともあって結局92年のモンツァの1勝のみで残りはプジョーの後を拝した。93年のル・マンミッショントラブルからプジョーに表台を独占される敗北となってしまった。

92年ル・マン仕様で610/11000rpm、93年には640になった。93年にはトラクションコントローラーが装備されていた。また、当時F1で導入されていたアクティブサスペンションも検討されていたが、こちらは結局SWC終了とともにお蔵入りとなった。

ジャガーXJR-14と違ってシャシーが別のモデルとして再利用されなかったため戦ったレース数がかなり少ないである。しかしちゃんと車両が残してあるようで、92年ル・マン24時間で2位に入った関谷正徳組のマシントヨタモータースポーツイベントでたびたび姿を見ることができる。また、デンソーカラーのSWC仕様車両も残っている模様だ。

余談

安全性や性均衡の関係でグループCより制限はあるものの、2012年からWECで始まったLMP1-H(LMP1ハイブリッド)規定は、グループC同様燃料の量(正確には流量)を決めて他の開発は非常に自由プロトタイプカー規定だ。燃料はディーゼルガソリンから選べ、排気量や気筒数その他のエンジン形式やエネルギー回生の方法も自由である。

例えばトヨタTS050 Hybridエンジン500、回生で500の最大1000を発生する怪物マシンとなっている。モータートルク四輪駆動で伝えるため、富士ではスーパーフォーミュラとほぼ同タイムエルマノス・ロドリゲスでもF1の1~2落ちという凄まじいモンスターマシンになっている。

また上記トヨタと覇を競いあったポルシェ919 Hybridは、2017年WECを撤退してからLMP1-H規定に縛られない改造が行われ、エンジン720、回生で440の合計1160を発生させるポルシェ919 Hybrid evoとして生まれ変わった。このマシンスパ・フランコルシャンで前年のF1より0.783上回るベストラップを出した他(翌年F1が再び抜き返したが)、ニュルブルクリンクコースでは従来の6分1113を大幅に上回る5分19546という新ラップレコード立した。なお、従来の記録はかつてポルシェ956が打ち立てたものであった。

そのためLMP1-Hは「現代にったグループC」との呼びがある。

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関連項目

脚注

  1. *ポルシェが勝ちすぎてシリーズが盛り上がらない恐れがあったためであるといわれる
  2. *ちなみに、956を購入するとのようなサービスマニュアルがついてきたという
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