ケニー・ロバーツ・ジュニア(Kenny Roberts Junior)とは、アメリカ合衆国出身の元・MotoGPライダーである。
1973年7月25日生まれ。2000年にスズキワークスに所属しMotoGP最大排気量クラスでチャンピオンを獲得した。
本名はケネス・ルロイ・ロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)。父親の名前も全く同じでケネス・ルロイ・ロバーツ(Kenneth Leroy Roberts)。
父親と明確に区別するため、父親をケニー・ロバーツ・シニア、息子をケニー・ロバーツ・ジュニアと呼ぶことが多い。
現役時代はゼッケン10番を好んで付けていた。ただし、2000年は前年ランキング2位なので2番を付けており、2001年は前年ランキング1位なのでゼッケン1番を付けている。
1993~1998年は、登録名がケニー・ロバーツ・ジュニアだった。1999~2005年はスズキワークスに在籍していて親父の運営するチーム・ロバーツから離れていたので、登録名はケニー・ロバーツになった。2006~2007年は親父のいるチーム・ロバーツに戻ったので、またケニー・ロバーツ・ジュニアという登録名に戻っている。
1973年7月25日生まれで、ケニー・ロバーツ・シニアが21歳7ヶ月の頃の子供である。その頃のケニーは、アメリカ合衆国でAMAグランドナショナル選手権を走っていた。出生地はカリフォルニア州サンノゼ郊外のマウンテンビューである。
バイクに乗り始めたのは2歳の頃、すなわち1975年頃だが、ジュニアはその頃のことを全く覚えていないという。
1978年から父親のキングケニーがヨーロッパを転戦するようになった。このためジュニアもヨーロッパに付いていった。父親の運転するモーターホームで生活しており、父親のキングケニーは「毎日家族旅行していたようなものだ」と回想している。
1983年をもって父親のキングケニーはライダー稼業を引退し、1984年からはチームオーナーとして働き始めた。1984年の頃のジュニアは10~11歳で、「1984年の父親はチーム経営が忙しく、ほとんど家に帰っていなかった」と証言している。
レースを始めたのは15~16歳の頃で、1988~1989年頃だという。最初のレースは半分がモトクロス(凹凸のある土の路面をジャンプしつつ走る競技)、半分がダートトラック(平坦な土の路面を走る競技)という構成だった。どっちにしろ、土の路面を走るレースだった。
初めてのレースが15~16歳というのは、近年のMotoGPライダーの常識からするとかなり遅い印象を受ける。
1989年4月19日に、ジョン・コシンスキーというアメリカ合衆国出身のライダーがアメリカGP250ccクラスで優勝した。このときのジョンは21歳で、スポット参戦なのにレギュラーライダーを負かして快挙を達成した。ジョンの勇姿を見て、ジュニアもプロライダーになりたいと思ったという。ちなみにジョンはジュニアよりも5歳年上なだけである。ジョンはケニー・ロバーツ・シニアの支援を受けていたので、ジョンとジュニアは顔見知りだったものと思われる。
17歳になる1990年に、ロードレース(舗装された路面を走るレース)を始めた。18歳になる1991年にAMA(アメリカ国内のスーパーバイク選手権)に参戦し始めた。乗ったバイクはヤマハのマシン。このとき一緒にAMA参戦をした同期は、コーリン・エドワーズである。ジュニアとコーリンは5ヶ月しか年が離れておらず、まさしく同年代である。
1993年は、MotoGP250ccクラスにおいて、アメリカGPの1戦だけスポット参戦した。この年は鈴鹿8耐にも出場し、高橋勝義とヤマハのマシンに乗って8位となった。
1994年から、いよいよMotoGP250ccクラスにフル参戦することになった。所属するのはウェイン・レイニー監督率いるチーム・レイニーである。この前年の1993年9月5日に事故を起こしていたウェインに対し、ヤマハとマールボロ(フィリップモリス社)が支援の手を差し伸べていた。チーム・レイニーに所属するのはジュニアただ1人だけだった。
250ccクラスに参加するヤマハ系チームはもう1つあり、ヤマハモーターフランスというチームで、そこには原田哲也だけが所属していた。原田は前年の1993年に250ccクラスチャンピオンに輝いているライダーである。
チーム・レイニーとヤマハモーターフランスは同じヤマハ系チームなので、相互に走行情報やセッティング情報を参照し合う間柄だった。つまりジュニアにとって、原田哲也は実質的にチームメイトだったわけである。前年のチャンピオンがチームメイトなのだから、ジュニアにとって最高の環境だと思われた。
ところがなんと、ジュニアは、1994年開幕戦前のトレーニングで事故を起こし、その負傷が長引いてしまった。8月21日の第11戦チェコGPでやっと復帰できたという有様だった。
実質的チームメイトの原田哲也にとって、セッティング情報を参照できるはずのジュニアが10戦連続で欠場したので、セッティングを詰めて行くに当たって大きなハンデとなった。1994年の原田哲也はランキング7位に低迷している。
結局、1994年のジュニアは、終盤の4戦に出場してシングルフィニッシュを2度果たすのみに終わった。
1995年になるとヤマハモーターフランスというチームは撤退し、原田哲也がチーム・レイニーに移籍してきた。これで、チーム・レイニーはジュニアと原田の2台体制となり、250ccクラスにおけるヤマハワークスという立場のチームになった。
1995年のジュニアは13戦中8回でシングルフィニッシュを決めていて、ランキング8位になっており、まずまずの成績だった。チームメイトの原田は2位を7回も獲得し、ランキング2位の成績を残している。
1994年~1995年のジュニアは「500ccの大きなマシンに乗りたい」と希望を出していたが、ウェイン・レイニー監督に「お前にはまだ早い。250ccで経験を積め」と言われていたので、それに渋々従っていた。
どうやらジュニアの考えの方が当たっていたようで、コーナーリング速度を高めねばならない250ccのマシンはどうも合わなかったと語っている。1995年カタルーニャGPでジュニアは原田哲也の走行情報を見たのだが、原田はジュニアよりも時速で15kmも速く最終コーナーを駆け抜けていて、ジュニアは「どうやったらあんな風に走れるんだ?」と思ったという。
1996年は父親のケニー・ロバーツ・シニアが率いるチーム・ロバーツに移籍し、500ccクラス(最大排気量クラス)で走ることになった。チーム・レイニーもチーム・ロバーツも同じヤマハ系チームなので、ヤマハの内部の人事異動といった感じである。
1996年におけるチーム・ロバーツは、最大排気量クラスにおけるヤマハワークスという立ち位置だった。このときのチームメイトは阿部典史である。阿部典史は優勝1回、3位3回でランキング5位だったが、ジュニアはシングルフィニッシュ4回のみだった。
1996年末にケニー・ロバーツ・シニアは「ヤマハのマシンはガラクタと感じており、うんざりしていた。新しいことを始めようと思った」と言い残してヤマハ陣営から離れた。そして、イギリスのバンベリーに会社を設立し、マレーシアのオートバイ企業モデナスの支援を受けつつ、F1関連企業の技術的協力を得て、2ストローク3気筒500ccエンジンを開発して参戦するようになった。
ジュニアは親父に付いていくことにして、チーム・ロバーツで引き続き走った。1997年はランキング16位、1998年はランキング13位というイマイチな成績に終わっている。
この二年間の成績は次の通り。まずは1997年。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
re | re | 18 | re | re | re | 8 | 17 | re | re | 11 | 9 | 8 | 9 | 14 |
続いて1998年。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
11 | 11 | 9 | re | 13 | 欠 | 9 | re | 6 | 10 | 14 | 10 | 10 | 11 |
素人目には、トホホな成績に見える。ところがMotoGPのパドックには慧眼(けいがん)の持ち主がいるもので、「親父が趣味で作ったあのバイクで、きっちり走っている。これは凄いことだ」と見抜くことができる。スズキワークスにもそういう人物がいたのである。ギャリー・テイラー監督が、ジュニアを引き抜いていった。
ジュニアがスズキワークスと契約する前に、チーム・ロバーツの名物メカニックがスズキワークスに引き抜かれていた。その人物は、ウォーレン・ウィリングである。彼は長年チーム・ロバーツで働いていて、チーム・ロバーツが実質的ヤマハワークスだったときから中心的存在だった。
一流メカニックのウォーレンは、スズキワークスに移籍するやいなや、持っている知能を存分に発揮し、スズキのマシンを改良させていった。
この時代のMotoGPは、テレメトリー(走行情報収集)の技術がまだ普及しておらず、テレメトリーを深く理解できる人物は少数派だった。その少数派の1人が、ウォーレン・ウィリングで、スズキワークスにテレメトリーの使い方・解析方法などを教えていった。
ウォーレン・ウィリングの尽力もあり、スズキのマシンに乗ったジュニアはいきなりの快進撃を見せる。
1999年の成績は以下の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
1 | 1 | 13 | re | 5 | 6 | 2 | 8 | 1 | 3 | 6 | 2 | 10 | 22 | 3 | 1 |
移籍していきなり2連勝の大躍進を遂げ、シーズン中盤でも優勝し、「全てのライダーがレース勘を極限まで高めていてレースのレベルが高まっている」とされるシーズン終盤においても優勝した。まさしく文句の付けようのない成績となった。チャンピオンのアレックス・クリヴィーレから47ポイント離れたランキング2位になった。
1999年のジュニアは自信がみなぎっており、「ストレートで抜かれないようなサーキットであれば、絶対に僕が勝つ!」と思っていたという。2019年現在もそうだが、この時代のスズキのマシンは直線が遅くコーナーで速いマシンだった。
そして2000年に、ジュニアはスズキのマシンで最大排気量クラスのチャンピオンに輝いた。成績は次の通り。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
6 | 1 | 2 | 1 | 6 | 6 | 1 | re | 2 | 3 | 4 | 2 | 2 | 6 | 1 | 7 |
シーズン初頭に、スズキワークスとジュニアは、サスペンションを変更した。それまで使っていたショーワを見直し、オーリンズに変更した。ジュニアのコーナーリング速度をさらに高めるための措置だったが、これも見事に成功した。
2000年は、「自分がよっぽど馬鹿なことをしなければ、必ずチャンピオンになれる」と固く信じ、転倒や無理な操縦によるエンジン故障をとにかく避け、一年通して決められた計画を実行するかのように完璧に走りきった。
第14戦のブラジルGPでチャンピオンが確定した。このときはジュニアもプレッシャーがきつかったようで、当時チームに帯同していた河内健(2019年現在、スズキワークスで技術系の首脳になっている人物)が「ジュニアは憔悴しきっていた」と証言している。さらに、親父のケニー・ロバーツ・シニアは全く落ち着いておらず、自分のチーム(チーム・ロバーツ)をほったらかして、スズキワークスのピットにしょっちゅう顔を出していた、と青木宣篤が証言している。
この動画では、スターティンググリッドに並びメチャクチャ緊張しているジュニアの近くへ、リオ・カーニバルのお姉さんがサンバのリズムで踊りながらやってきていて、ちょっと笑ってしまう。
2001年以降のジュニアは勝てなくなった。
2000年終盤戦まで、スズキのマシンは17インチのタイヤを履いていた。しかし、ミシュランが2000年シーズン終盤戦から16.5インチタイヤを供給し始めた。この当時の最大排気量クラスはミシュラン1強で、勝つためにはミシュランタイヤを履かねばならなかったのだが、そのミシュランが16.5インチばかりを渡してくるようになった。
スズキのマシンにとって16.5インチのタイヤは相性が非常に悪く、スズキのマシンが最も得意とするコーナリングが遅くなるタイプのものだった。
2002年からの最大排気量クラスは4スト990ccマシンの走るクラスとなった。2002年から2005年までのスズキのマシンは、ホンダやヤマハやドゥカティに比べて熟成度が低く、なかなか勝負にならなかった。ジュニアはチームメイトのジョン・ホプキンスと大体同じところを走っており、シングルフィニッシュできれば上等、といったところだった。
2005年限りでスズキワークスを離れることになり、チーム・ロバーツに移籍することになった。
この年のチーム・ロバーツは、ホンダのエンジンを借りて、プロトン(マレーシアのバイク企業)の支援を受けてチーム・ロバーツが製作するシャーシに乗せて走らせていた。
ジュニアによるとシャーシの出来はいまいちだったらしいが、エンジンはホンダ製で実に素晴らしい。ホンダのエンジンのおかげでジュニアは好走を繰り返した。エンジン(MotoGP)の記事で「4ストエンジンのマシンは、エンジンの出来で7~8割決まってしまう」と言われているが、その通りの現象が起こった。
カタルーニャGPで3位表彰台。シーズン終盤のポルトガルGPでも3位表彰台。このポルトガルGPでは、1位トニ・エリアス、2位ヴァレンティーノ・ロッシ、3位にジュニアが入っているのだが、2位のヴァレンティーノ・ロッシは1位と0.002秒差、ジュニアは1位から0.176秒差という大接戦となっている。
実はこのレース、最終ラップに入った時点でジュニアが先頭だった。ところがジュニアは周回数を1周間違えてしまう。1コーナーの進入でトニに抜かれ、1コーナー立ち上がりでヴァレンティーノに抜かれてしまい、3位になってしまった。必死に追い詰めるが0.176秒差に縮めたところで終わってしまった。
このレースはまさに名勝負で、MotoGPの公式Facebookアカウントで公開されている。
2006年のジュニアはランキング6位になった。「やっぱりジュニアは凄いライダーじゃないか」と誰もが思った。
2007年は引き続きチーム・ロバーツに在籍して、ホンダのエンジンを積んだマシンに乗った。
ところが2007年初頭のテストで、そのマシンに跨がったときに、ジュニアは「このマシンでは勝てない」と思ったという。
最大排気量クラスは、2006年まで4スト990ccエンジンだったが、2007年から4スト800ccエンジンに排気量が縮減されることになった。ホンダも4スト800ccエンジンを作ってきたが、このエンジンの出来が今ひとつだったらしい。
第7戦カタルーニャGPまでジュニアは二桁順位をさまようようになった。第7戦カタルーニャGPを最後にジュニアはマシンを降り、そのまま引退した。
RACERS vol.32 16ページ、24~27ページ、34ページ、41~42ページ、44~53ページ、91ページ、94ページ、RACERS vol.39 78ページ
2006年ドイツGPにおいて、最終コーナーで玉田誠のインを付こうとしたところ転倒してしまい、玉田誠を巻き込んでしまった。この動画を見ると、突っ込んできたジュニア(黄色いヘルメット)のマシンに玉田(青・赤のヘルメット)のマシンが思いっきり乗り上げてしまい、玉田はグラベル(砂)に転がり込んでいる。
転倒して苦悶する玉田のところにジュニアはすぐ駆け寄り、「タマダサン、モンダイ(怪我)オオキイデスカ?ソレトモ、モンダイチイサイデスカ?」と日本語で必死に話しかけた。
日本のネット住民の中には、日本人ライダーを「○○○サン」と面白がって書く人がいる。とくに、カタカナ3文字で表記できる日本人がそう呼ばれる。佐々木歩夢のことを「ササキサン」、真崎一輝のことを「マサキサン」と言った具合である。これは、ジュニアの影響である。
この記事では、引退後の生活が書かれている。2007年から2013年までは飛行機に乗らず、カリフォルニア州で過ごしていた。冬はタホー湖の近くの別荘へ行き、毎日スキーをしている。バイクでの運動は全くしない。
奥さんはロシェル(Rochelle、ジュニアが高校生の頃からの付き合い。1995年から一緒にGPを転戦し、2000年冬に結婚)、娘はアシュリー(Ashley、2009年頃生まれ)、息子はローガン(Logan、2010年頃生まれ)。この記事やこの記事に一家勢揃いの写真がある。子どもたちは、ジュニアがMotoGPライダーだったことを知らない。
自分はバイクを使っての運動を全く行わないし、子どもたちにバイクを教えることもしていない。
この記事では一家の写真が出ている。やっぱり雪山でスキーをしている。家族全員がヘルメットにカメラを付けていて、動画を撮っている模様である。
阿部典史と仲がよかった。阿部とジュニアは1996年にチーム・ロバーツでチームメイトだった。しかも、1996年以前から、すでにジュニアと阿部は顔見知りだった。阿部は中学卒業した直後から、海を渡ってカリフォルニア州へ行き、ケニー・ロバーツ・シニアのトレーニングコースなどでダートトラック(平坦な土の路面を走る競技)の練習をしていたが、そのときジュニアと会っていたのである。この本の94~95ページに、阿部とジュニアが映っている1992年の写真がある。このため、ジュニアはこの本の48ページで「2000年鈴鹿の日本GPで、勝ったのはノリックだったのは、他の誰が優勝するよりも嬉しかった」というコメントを残している。
ジュニア自身はSNSをやっていないが、ウェイン・レイニーはTwitterをやっている。ウェインのTwitterに、しばしばジュニアやジュニアの一家が出てくる。(画像1、画像2、画像3)
アメリカ合衆国で開催されるMotoGPには、スズキワークスのピットに顔を出す。こちらは、2017年の画像。
2017年4月にMotoGPの殿堂入りすることが発表された。
2000年にチャンピオンを獲得したマシンの特集号。ジュニアのインタビュー記事あり。 |
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最終更新:2024/04/25(木) 12:00
最終更新:2024/04/25(木) 12:00
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