サイレンススズカ単語

サイレンススズカ

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98年 宝塚記念

最速の機能美、サイレンススズカ。

速さは、自由孤独か。

JRA 2011年宝塚記念CMより

サイレンススズカ(欧字表記:Silence Suzuka香港表記:鈴鹿) 1994年生まれの日本の元競走馬。他の現役を圧倒する快速から繰り出される逃げ戦法で一世をし、「異次元の逃亡者 」とも称された名である。

サンデーサイレンスキア(Miswaki)。生涯成績16戦9勝。田満厩舎所属。

な勝
1998:宝塚記念(GI)、中山記念(GII)、金鯱賞(GII)、毎日王冠(GII)、小倉大賞典(GIII)

1998年JRA賞特別賞

天皇賞(春)2着で種牡馬ラスカルスズカがいる。
称は『スズカ』『ススズ』など。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
サイレンススズカ(ウマ娘)」を参照して下さい。

※当記事では、サイレンススズカの活躍した時代の表記に合わせて、齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します※

概要

1994年5月1日生まれ。所謂「1997年クラシック世代」のだが、競走馬としては遅生まれであり、デビュー戦は通常なら3歳で迎えるところを、4歳になってから走っている。

デビュー戦を圧勝するもののその後は低迷し、クラシック戦線は名を挙げることなく終わる。97年末の香港カップ遠征において武豊騎手となってからは、先頭をひた走る逃げ戦法を取るようになる。
翌98年にはこれが功を奏し、成長のピークを迎えたこともあって、GI宝塚記念を含む重賞6連勝を達成。一躍世代のトップへ上り詰めるとともに、日本競馬史上でも最強クラス逃げと期待された。

しかし、秋の天皇賞において重大な故障を発生。予後不良とされ、安楽死処分が成された。1998年11月1日


も踏ませぬ大逃げで大勝するというそレースぶりから、一般に最強補の快速として知られる。ただし、正確には足がとてつもなく速いなのではなく、短距離並みのスピードで中距離を走れるという特殊な性格の持ちであり、スピードを抑えて走らせたり、適正距離以下の競走を使うと「普通の速い」(といっても一流クラスだが)程度の存在でしかない。

距離で同じように逃げた時、このペースを乱すことは事実不可能で、マイペースで最後まで行かれてしまうため、レース展開を狙って負かすのが非常に難しいという恐ろしいである。

4歳時までは上村洋行と河内洋戦を務めたが、5歳以降は先述の通り武豊で固定。宝塚記念のみ南井克巳が担当している。名手・武豊の騎乗の中でも人気が高く、武当人をして「一番勝ちやすい」「過去の自分の騎乗の中でディープインパクトに勝つ可性が最も高いとしたらこの」と言わしめる鮮な存在であった。

出生:偶然から生まれた快速馬

種付けが行われた93年の、生産者の藤原氏は、ウイニングチケットベガらの初年度産駒クラシック路線で大活躍していたトニービンの種付け権利を持っており、ワキアに配合する予定だった。しかしワキア発情期を見計らって意気揚々と社台スタリオンステーションにつれて行ったところ、すでにその日のトニービンの種付け予定は埋まっていた。

キアはこの年、藤原氏が種付け権を持っていた種牡馬バイアモンの種付けを2回試みてどちらも不受胎に終わっており、この日が3回の機会だった。既に発情の季節の終わりが迫ってきており、もう今年ワキアトニービンをつけられる機会は来ないかも……とがっかりしていたところへ

サンデーサイレンスなら今日予定がいてますが……」

と社台側が助け舟をだしてくれたのである。……2年後の95年であれば到底あり得ない助け舟ではあるが、サンデーサイレンス産駒デビューするのは翌94年の6月であり、当時は種牡馬としての才は未知数で、後の驚異的人気はまだなかった。むしろ、92年に生まれた初年度産駒はどれも体が薄いと、この頃はまだ大きな期待はなかったのである。

とはいえサンデーサイレンスも競走成績ではトニービンに引けを取らない実績を持つのは間違いないので、牧場長もこの提案を承諾してこの年はワキアサンデーサイレンスを配合することになった。そうして生まれたのがサイレンススズカである。

幼いころはそれほどの才気を見せていなかった。立つ所と言えば、やたら人懐っこかったところと、離後にとの別れの悲しさを紛らわすかのように始めて、その寂しさの後もそのまま残った房内で左回りにやたらクルクル回るがあったくらいであったのだが……

4歳春 ~東京優駿:才能だけで走る日々

ければ1月には生まれるサラブレッドの中では5月1日とやや遅生まれだったこともあり、育成調教と入厩もそれに合わせて行われ、デビュークラシックを狙うにはすでに時期外れとも言える4歳の2月になった。しかし、デビュー前の新とは思えないほどの調教段階での好時計の連発が栗東トレーニングセンターで大きな評判を呼ぶ。

サンデーサイレンス産駒の初デビューした1995年、続く1996年クラシック戦線の中心には常にサンデーサイレンス産駒がいたのだが、1997年皐月賞を2カ後に控えたこの時期になってもサンデーサイレンス産駒立った実がおらず、クラシック戦線はメジロライアンの初年度産駒メジロブライトを中心とした混戦模様。平成三強内で活躍したスターホースの子がどれも不出来な中で、メジロライアンの子が活躍するとなればそれはそれで大きな盛り上がりのきっかけになりうるとは言え、ファンメディアクラシック路線にさらなるスターホースが出現することを待ち望んでいた。

そんな中、坂路でもウッドチップでも好タイムを連発するサンデーサイレンス産駒が現れ、その前評判通り新馬戦を圧勝する。これにより「遅れてきたサンデー産駒大物現る」「今年のダービーはこので決まり」と大盛り上がり。後に戦を務めることになる武豊にも「皐月賞ダービーも全部持っていかれる」と危機感を抱かせた。そしてクラシック出走のため果敢にも皐月賞トライアル弥生賞に挑戦する。デビュー2戦にもかかわらず2番人気に支持されたことから見ても、いかに期待されていたかがよく分かる。

しかし、そこで見せたのはゲート内で上の上村騎手を振り落とし、ゲートの下から潜り抜け、その後ゲートに入り直してようやく発走したと思ったら10身も出遅れ、という大失態であった。後で厩務員がったところによると、ゲート入りまでついてきてくれた厩務員が発前にその場を立ち去ったことで、それを追いかけようとしてゲートをくぐったのでは?とのこと。幼駒時代からの人懐っこい性格がこんなところとなってしまった。そんな状況から8着まで持ってきた(とゲートをくぐっても筋肉痛すら残さなかった身体の柔軟性)はさすがと言えるが、ゲート再試験と20日間の出走停止処分が下され皐月賞出走は不可能に。

再出発となった条件戦を圧勝したことにより「ダービーこそは」の思いは強くなり、軽度の故障を発症したもののダービートライアルプリンシパルステークスに強行出走。田師く「この後に来るのがダービー以外のレースなら使っていなかった」とのこと。サイレンススズカはその思いにこたえて見事ここを勝利し、日本ダービーに駒を進めることができた。

しかしそこで待っていたのは、皐月賞であり、同じ逃げを得意とするサニーブライアン営によるスズカ封じの作戦だった。スズカが逃げたら控える気満々だったのにもかかわらず、「何が来ても逃げる」「スズカが来ようが関係なし」などと情報戦を仕掛けたため、スズ営は潰し合いを恐れて控える競馬をすることを選択してしまう。さらにレース間隔が短かったからイレ込みまくったサイレンススズカは掛かりまくって自滅し(9着)、楽な逃げ競馬ができたサニーブライアンの二冠達成を前に辛をなめるしかなかった。

4歳秋 ~香港国際カップ:名手との出会い

神戸新聞杯(GII)から始動。しかしここで上の上村騎手が「勝利を確信して抑えたらマチカネフクキタルに差されてました(キリッ」という大失態を犯したため、当然田師の怒りを買い、上村騎手上から降ろされることに。弥生賞ゲートぐりの際、外傷こそなかったものの全身に痛を発しながら「もしここで乗れないとなったらこの弥生賞に騎乗のなかった岡部幸雄への乗り替わりになる。岡部さんが一回でもこのに乗ったら絶対手放さないし、二度と自分は乗れなくなる」という執念で上を譲らなかった上村であったが、これを最後にサイレンススズカに乗ることはなかった。
なお、油断騎乗とは言うもののレース展開を見れば最終コーナーを過ぎた時点で二番手に約4身の余裕のリードであり、この着差はゴール時点ですら縮まっていない。更に後方にいたマチカネフクキタルがヤバかったのである。

その後は上に河内洋を迎え、距離適性を考慮し菊花賞ではなく天皇賞(秋)に向かった。そこでサイレンススズカは、いままでにない大逃げをみせる。5歳時の片鱗を見せる走りであったが、この未完成の段階ではまだ荷が重かったか、残り200mまで先頭をキープするも、エアグルーヴバブルガムフェロー叩きあいについていけず6着と敗れた。とはいえこの2頭の叩きあいが抜けていただけで3着からは0.1しか離されておらず、本格化の兆しは見せていた。

この後、余裕を持って京阪杯(GIII、当時は芝1800m)を使う予定であったが、招待されると思っていなかった香港カップ(現香港カップ、当時はGII)の招待状が届いたため急きょ日程を組み直すことになった。その調教過程はちぐはぐになってしまう。しかも、前述の房内で左回りしまくるを直そうとタイヤるしたらものすごくストレスを溜めてしまった。そういう経緯もあり急遽出走したマイルCSは、ただでさえ調子がいまいちだった上にレース中にズレが起きて競馬どころではなくなり15着惨敗。

その後標にしてきた香港カップは、場内をどよめかせる快速逃げるも、最後の200mをしのぎきれず後続に捕まり5着。GIレースどころか重賞レースも勝っていないなら善戦といえなくもないが、騒ぐほどのことでもない。翌日のスポーツ新聞の片隅に載った小さな記事のその扱いは、当時の競馬ファンの評価とイコールだった。

デビュー当時は大物と騒がれても、その後鳴かず飛ばずというは枚挙にいとまがない。
「才はあるがこの気性難では馬券は買えない。」そんな評価が大勢を占めており、競馬ファン話題有馬記念や翌年のクラシック予想へと移っていった。

しかし、そんな世間とは逆の評価をした男がいた。他でもない、香港カップでサイレンススズカの騎乗を任された武豊騎手である。

先述の通りデビュー前から同を高く評価しており、「依頼を待つのが騎手」という自身のスタイルを崩して自ら騎乗を申し出たのだ。日本を代表する名手はレース後こう述べた。

「このは、化け物だ……」「来年は、こので勝ちますよ」と。

5歳 ~金鯱賞:覚醒。伝説の金鯱賞

逃げることは挑むこと

魔物の手から逃れたいなら
先のことなど考えず
振り向かずに駆けろ
自由を得ようとするなら
失速の恐怖に打ち勝ち
前のめりに飛ばせ

常識を疑い
己が限界を否定して
摂理を覆すための
挑戦を始めるのだ

JRA「名馬の肖像」サイレンススズカexit

明けて5歳オープン特別のバレンタインSから始動。武騎手はわざわざサイレンススズカ騎乗のためだけに関東へ遠征してきた(武騎手関西所属であり、重賞でもないオープン特別のためだけに関東に来るのは異例のこと)。実績的に抜けている相手関係であり、まずは4身差の逃げ切りで圧勝。

次の中山記念(GII)はGIイシノサンデーら強敵が集まったが、最後やや足が止まったものの1身3/4で勝利距離的に不安な天皇賞(春)は避け、例年は2月小倉競馬場で開催される小倉大賞典(GIII)が、この年は競馬場修の4月中京競馬場での施行となったのを幸い、ここへ向かって3身差の快勝。

……こうしたレースの中で、武騎手は「一時息を入れる」ということを覚えさせていった。そうして一時落ちつかせてしまえば、このは再度気合を入れた時に逃げていた時の足をもう一度使える……という考えであった。

スタート後はペースコース取りも他の妨をしない限り自由」という競馬ルール上、どんな名であっても他で自分の走りが出来ずに敗れるというのはザラにある。それが競馬の面さでもあり、武豊騎手自身も"ライバルに自分の走りをさせない"ことで勝ちを積み上げてきた。

だからこそ、「最速のスタートを決めて、並ばれないくらいに大逃げし、最短コースレースを進め、最後の直線でも後続と同等のタイムで走る」という「ライバルに何もさせない走り」は理想であり、想の世界でしか存在しない走り方なのだが、武豊騎手導によりサイレンススズカはこの「競走馬の理想の走り方」を会得しつつあった。長きにわたりファンされ、武豊騎手にして「ディープインパクトに勝てるとしたらこの」と言わしめたゆえんである。

その走りをファンに見せつけたのが、今もり継がれる1998年金鯱賞(GII)。

このレースはサイレンススズカ自身も含め連勝中のが数多く参戦していた。重賞2勝を含む5連勝中のミッドナイトベット。休み明けながら前年に4連勝で菊花賞を制したマチカネフクキタル。こちらも休み明けながら重賞含む4連勝中のタイキエルドラド。いずれ劣らぬ強敵たちにサイレンススズカがどういったレースをするのかが注された。

レースはいつも通りのサイレンススズカの大逃げで始まった。もちろん1000m通過が581のハイペースである。ファンや後続の騎手は「どこかでスズカはペースを落とすだろう。その間にどれだけ後続が差を詰めるか、そしてスズカはどこまで持ちこたえるか」などと考えていただろう。

しかし3コーナーを回れど、4コーナーを回れど詰まるのは2番手のと後続の間だけ。サイレンススズカは未だ々の一人旅。どよめきは次第に大きくなり、笑い出す人もいたとか。サイレンススズカが直線に入るといつしか沸いていた観客の拍手が出迎えた。そして混戦の2着以下をに、拍手の中ただ1頭先頭でゴールを駆け抜けた。も言わせぬ大差勝ちである。

この強いメンバーに対し、これほどのレースをしたことでこの金鯱賞伝説となり、サイレンススズカの名はトップクラスに躍り出るようになった。

5歳 ~毎日王冠:強豪にすら踏ませぬ影

ここまで連戦続きの上、武騎手には宝塚記念に出走するエアグルーヴに騎乗の先約があり、これまでの戦積と例の旋回から右回りがやや苦手なのでは、ということもあって宝塚記念は回避も検討されたが、ファン投票の急浮上、そしてサイレンススズカの調子の良さから今度はマイルCS以来のGI出走を決めた。

騎手代打として白羽の矢が立ったのは南井騎手である。しかし、この難しいを、テン乗りで手の内をつかめていない状況で武騎手と同じ乗り方をすることは南井騎手でも不可能と判断したのか、南井騎手田師に「一度後続を引きつけます」と宣言していた。

その宣言通り、南井騎手は3コーナーから4コーナーあたりで後続を引きつけた。サイレンススズカは普段と違う示に戸惑ったか、はたまた右回りか、シルバーコレクターステイゴールドエアグルーヴに追い詰められるも、3/4身しのいでGIタイトルの栄冠を手にした。

この不利な条件が重なった中での勝利に、中距離最強の座はもはやゆるぎないものと思われた。この後の最大標はもちろん、サイレンススズカが最も得意とすると思われる左回り2000mという絶好の条件で行われる天皇賞(秋)である。

しかし、その前戦の毎日王冠(GII)で2頭のがサイレンススズカに挑戦状を叩きつける。

1頭は1997年朝日杯3歳ステークス勝し、4戦4勝の前年3歳王者グラスワンダー。もう1頭は1998年NHKマイルカップをこちらも敗で制し、5戦5勝の4歳マイルエルコンドルパサーである。

この2頭は圧倒的な実がありながら外国産馬であったため、当時天皇賞クラシックに出走を許されておらず、その憂さをらすべく、中距離最強のサイレンススズカの玉座を狙いに来たのであった。サイレンススズカは調子が今一つではあったが、玉座に座るものとしてこれだけ明確な挑戦状から逃げるわけにはいかず、ここに最初で最後の名勝負が幕を開ける運びとなる。

外国産馬出走制限問題」ー。
持込マルゼンスキーをはじめ古くから議論されており、特に新しくもないのだが、これまで「1サラブレッド不運」というえてられることは稀だった。
ところが1990年代後半にきて外国産馬(マル外)が日本競馬界を席巻。1998年に至っては最終的に、マル外が出走可GI・13レースのうち、その半数をえる7レースマル外が勝つことになり、日本競馬全体の問題として認識されるようになる。

「安くて走る。しかも熟傾向で若いうちから賞を稼ぐからリスクも少ない。」
そんなマル外を買いめるのは馬主として当然のことではあるのだが、
クラシック天皇賞までマル外に開放しては、日本産産業が壊滅してしまう。」という保護と、
GIに強いが出走できなくてはその魅が失われ、競馬そのものの人気が衰退する」という開放議論は紛糾する。

ただ、意見は違えど日本競馬を思う心は同じ。
天皇賞(秋)の重要なステップレースに位置付けられている毎日王冠マル外に勝たれてしまっては、
本番の天皇賞(秋)は「マル外に負けた達による中距離王者決定戦」になってしまう。
ここはサイレンススズカに勝ってもらい、天皇賞の格を守ってほしいと願うファンは多かった。

こうして1998年毎日王冠は、
「中距離王者 vs 敗の4歳」という意味合いはもちろん、
日本国内産 vs 外国産馬」というこれからの日本競馬はどうあるべきかを占うレースにもなるのである。事実、サイレンススズカ営はここを回避して天皇賞に勝ったところで「グラスワンダーエルコンドルパサーに負けることがわかってて逃げた」と言われることを嫌って毎日王冠に出走した経緯がある。

1998年10月11日。王者サイレンススズカとそれに挑む2頭の若き怪物、それを一見ようと府中競馬場にはGII競走にもかかわらず13万人の大観衆が詰めかけた。また「この3頭相手に勝てるわけがない」として回避した競走馬も多く、毎日王冠史上でもしい10頭未満という少頭数での開催となった。とはいえ1頭を除き全員重賞勝利の実績を持っており、3頭以外も決してレベルの低い争いではない。このぶりをフジテレビ実況していた青嶋達也は「もう二度と見られない顔ぶれ」と評した。後述の通り、この発言は現実のものとなってしまう。

レースはもちろんサイレンススズカがいつも通りハイペースで引っる形。しかしそこはライバルたちも歴戦の強者。しっかりとマークして離されずについていく。……そして第3コーナー、この先のためにわずかに息を入れるサイレンススズカ。

と、そのわずかな隙をついて先頭に並びかけんとするがいた。グラスワンダーである。
この「息を入れる」という一の隙をついてサイレンススズカに並びかけ、叩きあいに持ち込む。それがグラスワンダー営の作戦だった。

しかし、その並びかける前にサイレンススズカは再加速を始めてしまった。グラスワンダー営の作戦空振りに終わった。再加速したサイレンススズカに並びかけるグラスワンダーには残されておらず、乾坤一擲の策を潰され後退していくグラスワンダー

それと入れ替わりで上がっていったのはエルコンドルパサーである。
策を弄したグラスワンダーとは異なり、こちらは「自身の一番強い競馬をすればサイレンススズカ相手でも勝てるはずだ」というっ向勝負で挑んだ。

しかし、現実上の蛯名騎手群を抜けた先で見たのは、あまりに遠いサイレンススズカの姿。しかも坂を上っても全然差がつまらない。最後ようやく差を少し詰めたものの、2身半という余裕の差をもって、この3強対決はサイレンススズカに凱歌が上がった。

名手達の駆け引きと名達による全勝負。
未来永劫り継が得るであろう名勝負を見せてくれた感謝として、
ファンユタカコールで勝者をたたえ、
騎手GIIでは異例のウィニングランでそれに応えた。

この勝利は「日本マル外に勝てる強いをつくることができる」と産地に勇気を与えた。
またファン名勝負奮冷めやらぬまま彼の将来について熱くり合った。

天皇賞(秋)日本レコードはでるか?」
日本初の海外GI制覇は?」
マイルCSに出たらタイキシャトルとどちらが勝つか?」
「今なら2400mのジャパンカップも勝てるのでは?」
サンデーサイレンスの後継種牡馬になれるか?」

サイレンススズカの未来は明るく、その可性はどこまでも広がっており、り合うその笑いはいつまでも続いていた。

なお同日、西の京都競馬場ではこちらもの戦線を占う重要なGII京都大賞典が開催されており、こちらも東に劣らずな顔ぶれを見せていた。セイウンスカイメジロブライトシルクジャスティスステイゴールドといった面々がう中、こちらも逃げであるセイウンスカイ逃げ切りを披露。GI競争が開催されない土曜日にもかかわらず、東西で大きな盛り上がりを見せた。この日の熱狂ぶりは日本中央競馬史上でも稀なことである。

こうして2頭の不敗神話をまとめてって捨てたサイレンススズカ。毎日王冠で負かした2頭は天皇賞(秋)には出られず、上の関係で懸念となっていたエアグルーヴも武騎手に配慮してかここを回避しエリザベス女王杯に向かった。彼を脅かすはもはやいなかった。

5歳 天皇賞(秋)、そして……

そして迎えた天皇賞(秋)は日程の都合上、久々11月、それも11月1日開催となった。そしてサイレンススズカのは11番に。もちろん馬券の売り上げも圧倒的にサイレンススズカが1番人気(単勝1.2倍)である。11月1日東京11R11番1番人気もがレース後、ここに加わるもう一つの「1」を想像したに違いない。

しかしその一方で、この天皇賞(秋)は「1番人気が勝てない」という不気味ジンクスがあった。しかもその内容も尋常ではなく、11年前にニッポーテイオーが1番人気で勝った後の1番人気

他にもライスシャワーナリタブライアンバブルガムフェローとそうそうたるメンバーが敗れ去っているのである。く、「府中には、魔物が住んでいる。」
だが、スズカなら……スズカならきっとこんなみたいなジンクスなど打ち破ってくれる……そういう空気ファンの間に漂っていた。

大きな期待と、わずかな不安の中スタートした天皇賞(秋)。もちろんサイレンススズカはいつも通りのハイペース大逃げ。しかも今回は2番手サイレントハンターの位置ですら大逃げといえる状況である。もはやカメラの引き具合が限界えるのではないかと心配になるレベルである。そしてサイレンススズカの姿が大欅の向こうに消えた。
そして再び姿を現したサイレンススズカ。ややペースを落としておりいつも通りここは息を入れる時間か……大観衆はそう思った。しかしテレビで見ていた者やテレビカメラを見ていた実況は気が付いていた。彼の足に異変が起こったことを。そして失速し、サイレントハンターに、後続にかわされていくサイレンススズカ。ようやく彼の異変に気付いた大観衆から悲鳴が上がった。
レース自体は続いていたが、そのレースを、その決着を見ていた観衆は果たしてどれだけいただろうか……

ゴール間、オフサイドトラップ馬券を買ったであろう人の『やったー!』という言葉がどこか遠くから鮮明に聞こえました。それが聞こえるほど静かだったんです。GIレース後は本命が勝ったら歓が、が勝ったら悔し紛れの怒きますが、騒々しさに変わりはありません。
ところがあのレースの後は、GIとは思えない、奮とは正反対のどよめきと、信じられないという戸惑いが競馬場全体を覆っていました。皆一様に勝者がいる第1コーナーではなく第4コーナー凝視していました。

(当時競馬場にいたファン)

結果は左前脚の手根粉砕骨折による競走中止。直ちに予後不良の診断が出され、「このまま引退でもいい。せめて種牡馬に……」というファンの祈りもむなしく、安楽死処分が下された。こうして彼はこの日、まだ行ってはならない別のゴールを駆け抜けてしまった。

残されたものたち

SILENCE SUZUKA
1994.5.1~1998.11.1
先頭を、どこまでも先頭を。

1998年、「さ」は伝説になった。
「他の後姿は見たことがない」「後続にを踏ませない」…。
常識をくつがえすことが、与えられた使命かのように、君は先頭でゴールを走りぬけた。
驚異のレコード叩き出した「金鯱賞」。2200メートル逃げGI初制覇となった「宝塚記念」。
のちのジャパンカップ優勝完封した「毎日王冠」。そして最後の闘いとなった天皇賞まで…。
君の雄姿は、君の残した記録とともに、ぼくたちの記憶の中で走りつづけている。

JRA 1999年特別ポスターより

サイレンススズカexitとの思い出は、たくさんあります。るべきことも、まだ、まだ、あります。でも、今もまだ、その傷口は膿んでいて、瘡蓋をはがすと、血が噴き出してきます。忘れることは生涯ないと思いますが、いつか……そう、いつか……傷が癒え、瘡蓋を剥がしても血がにじむ程度になることがあったら、そのときは、彼の話をしたいと思います。

---武豊『名たちに教わったこと ~勝負師の極意III~』(2018)

エピソードとその後の評価

サイレンススズカの関連動画

20世紀の名馬 4位              2011年作成のCM

 

体柔らかいなぁ                未だ伝説に残る金鯱賞、大差の逃げ切り
 

GIIとしては異例の12万人の観衆を集めた三強決戦    (´;ω;`)ウッ……
 

競走戦績

日次 レース 騎手 着順 動画
1997年2月1日 4歳新 上村洋行 1着 sm3623079exit_nicovideo
1997年3月2日 弥生賞 GII 上村洋行 8着 sm3522848exit_nicovideo
1997年4月5日 4歳500万下 上村洋行 1着 sm3784670exit_nicovideo
1997年5月10日 プリンシパルS OP 上村洋行 1着
1997年6月1日 東京優駿 GI 上村洋行 9着 sm2751461exit_nicovideo
1997年9月14日 神戸新聞杯 GII 上村洋行 2着 sm8827191exit_nicovideo
1997年10月26日 天皇賞(秋) GI 河内洋 6着 sm10634258exit_nicovideo
1997年11月16日 マイルチャンピオンシップ GI 河内洋 15着 sm4415483exit_nicovideo
1997年12月14日 香港カップ GII 武豊 5着 sm3780621exit_nicovideo
1998年2月14日 バレンタインステークス OP 武豊 1着 sm6137009exit_nicovideo
1998年3月15日 中山記念 GII 武豊 1着 sm9492088exit_nicovideo
1998年4月18日 小倉大賞典 GIII 武豊 1着 sm3290897exit_nicovideo
1998年5月30日 金鯱賞 GII 武豊 1着 sm2067908exit_nicovideo
1998年7月12日 宝塚記念 GI 南井克巳 1着 sm3784710exit_nicovideo
1998年10月11日 毎日王冠 GII 武豊 1着 sm4584692exit_nicovideo
1998年11月1日 天皇賞(秋) GI 武豊 中止 sm71565exit_nicovideo

血統表

*サンデーサイレンス
Sunday Silence
1986 青鹿毛
Halo
1969 黒鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Cosmah Cosmic Bomb
Almahmoud
Wishing Well
1975 鹿毛
Understanding Promised Land
Pretty ways
Mountain Flower Montparnasse
Edelweiss
*ワキア
1987 鹿毛
FNo.9-a
Miswaki
1978 栗毛
Mr. Prospector Raise a Native
Gold Digger
Hopespringseternal Buckpasser
Rose Bower
Rascal Rascal
1981 黒鹿毛
Ack Ack Battle Joined
Fast Turn
Savage Bunny Never Bend
Tudor Jet
競走馬の4代血統表

クロス:Turn-to 4×5(9.38%)

関連項目

外部リンク

JRA賞特別賞
優駿賞時代 1973 ハイセイコー(大衆賞) | 1978 テンポイント(マスコミ) |
1982 モンテプリンス(ドリーム) | 1983 アンバーシャダイ
JRA賞時代 1989 オグリキャップ | 1993 トウカイテイオー | 1995 ライスシャワー | 1998 サイレンススズカ |
1999 グラスワンダースペシャルウィーク | 2001 ステイゴールド | 2004 コスモバルク(特別敢闘賞) |
2007 ウオッカメイショウサムソン | 2009 カンパニー | 2016 モーリス | 2020 クロノジェネシス
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