サッカーアルゼンチン代表とは、アルゼンチンサッカー協会(AFA)によって編成されるサッカーのアルゼンチンの代表チームである。
ユニフォームは国旗の空色と白を基調にしていてホームはシャツが空色と白の縦縞でパンツが白。愛称はラ・アルビセレステ(La Albiceleste)。
アルゼンチン代表 | |||
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国旗 | ![]() |
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協会 | AFA | ||
大陸 | CONMEBOL(南米) | ||
FIFAコード | ARG | ||
FIFA加盟 | 1912年 | ||
監督 | リオネル・スカローニ | ||
FIFAワールドカップ | |||
出場 | 18回 | ||
最高成績 | 優勝(3回) | ||
コパ・アメリカ | |||
出場 | 43回 | ||
最高成績 | 優勝(15回) |
ブラジルと並ぶ南米の強豪。伝統的にスピード重視でショートパスを繋ぐスタイルを用いる。FIFAワールドカップで3回、コパ・アメリカではウルグアイと並び最多の15回の優勝の実績を持つ。下部世代も強く、U-20ワールドカップで史上最多となる6度、オリンピックで2度優勝している。育成年代の大会で結果を残した選手が後にフル代表の主役として活躍することが多い。
個人技を重視する傾向にあり、各時代で多くのスター選手を輩出しており、ディエゴ・マラドーナ、リオネル・メッシといったサッカーの歴史の中でも最高レベルの選手がプレーしていることから国外にもファンが多い。一方、ガチガチに守備を固めて激しい守備を見せることも多く、「神の手」に代表されるように勝利のためなら手段を選ばないダーティーなイメージも強い。
同じく南米の強豪国であるブラジル、ウルグアイとは伝統的にライバル関係にあり、ブラジル代表とは「スーペルクラシコ」と呼ばれる対抗戦を毎年開催している(かつての名称はコパ・ロカ)。また、イングランド代表とはフォークランド紛争における政治的対立を背景に、1986年のマラドーナの神の手ゴール、1998年のデイヴィッド・ベッカムの報復退場など何かと因縁がある。また、ドイツ代表とはワールドカップ決勝で実に三度顔を合わせた経験がある。
ホームスタジアムとしては、首都ブエノスアイレスのエル・モヌメンタルを使用。こちらはアルゼンチンの強豪クラブであるCAリーベル・プレートのホームスタジアムでもあり、1978年の自国開催のワールドカップの際に大規模な改修工事がされている。
初試合は1901年のウルグアイ戦。コパ・アメリカは1916年の第1回大会から参加し、第5回の1921年大会で初優勝。1927年大会と1929年大会では連覇を飾っている。1928年のアムステルダム・オリンピックは決勝でウルグアイとの南米対決が実現。再試合に敗れたものの、銀メダルを獲得している。
FIFAワールドカップにも第1回目の大会である1930 FIFAワールドカップ・ウルグアイ大会から参加。エースのギジェルモ・スタービレの活躍もあり、グループリーグから準決勝までを勝ち上がる。決勝では開催国・ウルグアイとの対戦となり、2年前のオリンピック決勝と同じ顔合わせとなった。結局この試合でもウルグアイに敗れ、準優勝に終わったが、4試合で8ゴールを記録したスタービレは最初のワールドカップ得点王として歴史に名を刻んだ。
第2回目の1934 FIFAワールドカップ・イタリア大会は1回戦でスウェーデンに敗れて初戦敗退。その後、1938年大会、第二次大戦を経た1950年大会、1954年大会と3大会連続で出場を辞退。もっともこのワールドカップに参加しなかった時期のコパ・アメリカではスタービレが監督を務め、7大会で優勝。24年ぶりに出場した1958 FIFAワールドカップ・スウェーデン大会では主力選手の欠場が相次いだこともあってグループリーグ敗退に終わる。それでも1年後の1959年のコパ・アメリカでは優勝しており、19年もの間代表を指揮していたスタービレはこの大会を最後に退任する。
1962 FIFAワールドカップ・チリ大会でも前回に続いてグループリーグで敗退。4年後の1966 FIFAワールドカップ・イングランド大会ではグループリーグを突破したものの、準々決勝では荒れ模様となった後味の悪い試合内容で開催国のイングランドに敗れている。
1970 FIFAワールドカップ・メキシコ大会では、南米予選で敗退となる屈辱的な結果に終わり、1974 FIFAワールドカップ・西ドイツ大会は2大会ぶりに出場したものの低調なプレーに終始し、1次リーグでは前回準優勝のイタリアを抑えて突破したものの、2次リーグではヨハン・クライフを擁するオランダ相手に完敗するなど最下位に終わり敗退となった。
自国開催のワールドカップを目前に低迷の続く代表チームを改革するため、セサル・ルイス・メノッティを監督に招聘。軍事政権からの強い圧力を受けながらもメノッティは長期的なプランでチームを強化し、自らの眼で発掘した若手を多く起用。迎えた1978 FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、これまでの古臭いとされたスタイルから脱却し、メノッティが作りあげた攻撃的な戦術が機能する。2次リーグに入ってエースのマリオ・ケンペスが爆発し、1930年大会以来の決勝進出を果たす。決勝でもオランダを相手に3-1で勝利し、悲願の初優勝を飾る。6得点を記録し、初優勝の立役者となったケンペスは得点王と大会最優秀選手を手中に収めている。
1982 FIFAワールドカップ・スペイン大会で注目されたのは、4年前の大会で落選となったディエゴ・マラドーナだった。1978年大会のメンバーにマラドーナ、ラモン・ディアスの新世代が加わったスカッドは国民からの期待を受けたが、期待のマラドーナは、1次リーグ第2戦のハンガリー戦で2ゴールの活躍を見せたものの、相手からの執拗なマークにフラストレーションを溜め、2次リーグのブラジル戦で相手への報復行為をおこない退場となる。結局2次リーグではイタリア、ブラジルに連敗し敗退。大会後、メノッティは辞任を表明する。
1986 FIFAワールドカップ・メキシコ大会は、当初メノッティの後任となったカルロス・ビラルドの守備的な戦術が国民からの不評を買い、前評判は低かった。しかし、大会に入ると4年前の雪辱に燃えるマラドーナが極上の輝きを放ち、グループリーグ初戦の韓国戦では、チームの3ゴールすべてをアシスト、イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録するなどチームに勝利をもたらしていく。準々決勝のイングランド戦は、まさにマラドーナ伝説が濃縮された試合となった。この試合で2ゴールの活躍を見せたマラドーナだったが、1点目はいわゆる「神の手」ゴールであり、2点目はGKピーター・シルトンを含めた相手5人をドリブルで抜いて決めた「5人抜き」ゴールである。準決勝のベルギー戦もマラドーナの2ゴールで勝利すると、決勝の西ドイツ戦では、2点を先制しながらも後半に同点に追いつかれるが、ローター・マテウスのマークに苦しんでいたマラドーナの絶妙のパスからホルヘ・ブルチャガが決勝ゴールを決め、2大会ぶり2度目の優勝を達成。この大会は「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」と呼ばれた程、圧倒的なパフォーマンスを見せたマラドーナが主役となった大会だった。
1990 FIFAワールドカップ・イタリア大会では開幕戦でカメルーンに敗れる波乱を許してしまう。だが、ソ連戦でまたもマラドーナの「神の手」がチームを救ったこともあって辛くもグループリーグを突破する。ラウンド16は宿敵ブラジルと対戦し、執拗なマークに苦しんでいたマラドーナの1本のパスからクラウディオ・カニーヒアが決めた1点を守り切り勝利する。準々決勝のユーゴスラビア戦と準決勝のイタリア戦はいずれもPK戦までもつれ込むが、大会途中からゴールを任されたセルヒオ・ゴイコエチェアの活躍で決勝進出を果たす。決勝では前回と同じ西ドイツとの対戦となるが、マラドーナが完全に抑え込まれたことで攻撃陣が機能不全に陥り、冷静さを欠いたチームは2人の退場者を出してしまう。結局枠内シュート0本のまま0-1で敗れてしまう。試合後、連覇を逃したマラドーナは人目をはばからず号泣した。
ビラルドの後任となったアルフィオ・バシーレは数々の問題を抱えるマラドーナ抜きのチームを推し進めると、コパ・アメリカ1991では代表にデビューしたばかりのガブリエル・バティストゥータの大活躍によって32年ぶり13回目の優勝。続くコパ・アメリカ1993でも決勝でのバティストゥータの2ゴールで大会連覇を飾る。ところが、1994ワールドカップ南米予選では大苦戦を強いられ、敗退の危機に立たされる。バシーレはマラドーナの復帰を決断し、大陸間プレーオフでオーストラリアを下し、出場権を確保する。
1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会ではマラドーナを中心に爆発的な攻撃力を発揮するが、マラドーナがドーピング違反で大会から追放されるというショッキングな事件が起こり、ラウンド16でルーマニアに敗れ、大会を去ることに。
その後代表監督に就任したのは1978年W杯優勝時に主将を務めたダニエル・パサレラだった。パサレラは長髪禁止令など異常なまでの厳格な方針を採りつつ、自ら采配を振るった1996アトランタオリンピック銀メダル獲得次のメンバーを多く起用することで世代交代に成功。1998 FIFAワールドカップ・フランス大会ではラウンド16で因縁のイングランドを倒すが、準々決勝ではオランダに敗れ、ベスト8に終わる。
"鬼才”と呼ばれたマルセロ・ビエルサが率いた2002 FIFAワールドカップ・日韓大会では南米予選を首位で通過し、多くのタレントを揃えていたことで優勝候補に挙げられていたが、「死の組」に入ったグループリーグでは因縁のイングランドに敗れたことが響き、よもやのグループリーグ敗退に終わる。
2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会では、ユース年代で数々のタイトルを獲得したホセ・ペケルマンが監督を務めた。自らが育成年代で指導したフアン・ロマン・リケルメやハビエル・サビオラをチームの中心に置き、ラウンド16ではメキシコとの死闘を延長戦の末に制する。しかし、準々決勝ではドイツを相手にPK戦で敗れてしまう。大会を通して消極的な采配が批判されたペケルマンは大会後に辞任。なお、この大会で当時19歳だったリオネル・メッシがワールドカップデビューを果たしている。
2010 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会ではあの英雄マラドーナが監督としてワールドカップの舞台に帰ってきた。自らの後継者として期待するメッシをエースに指名し、グループリーグを全勝で突破。前回と同じくラウンド16でメキシコに勝利し、準々決勝でドイツと対戦。しかし、ドイツの高速カウンターに全く対応ができずに0-4という屈辱的な大敗を喫してしまう。大会を通し、破天荒な言動が何かと注目されたマラドーナ監督だったが、監督としての経験の浅さと無策さが露呈され、大会後に解任される。
攻撃陣にメッシ、アンヘル・ディ・マリア、セルヒオ・アグエロ、ゴンサロ・イグアインといった世界クラスの選手を擁した2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会では、グループリーグでメッシが全試合でゴールを決める活躍を見せ、前評判通り全勝で突破する。決勝トーナメントになると相手に研究されたことで攻撃陣が機能しなくなるが、ハビエル・マスチェラーノを中心とした守備の安定感でしぶとく勝ち上がり、決勝までの3試合を無失点のまま1990年大会以来24年ぶりの決勝進出を果たす。決勝では前々回、前回と敗れた相手であり、決勝では3度目の顔合わせとなるドイツと対戦。戦前の予想では不利と予想された中、互角の戦いを見せ延長戦までもつれ込むが、延長後半にマリオ・ゲッツェにゴールをこじ開けられ敗戦。準優勝に終わり、3大会連続で同じ相手に敗退に追い込まれる結果となった。大会最優秀選手に選ばれたメッシだったが、その表情に笑顔は無かった。
優れたタレントを揃えながら1993年以来タイトルから遠ざかり、すっかり「古豪」というイメージが定着しつつある中、コパ・アメリカ2015では2大会ぶりに決勝へ進むが、PK戦の末にチリに敗れまたも準優勝に終わる。1年後のコパ・アメリカ・センテリオでは国際大会3大会連続決勝進出を果たすが、1年前と同じようにチリ相手にPK戦で敗れ、3大会連続の準優勝となる。また、決勝前に主将のメッシが自国のサッカー協会の職務怠慢ぶりを批判し、大会後はメッシを始めとする主力が次々と代表引退を示唆するなどの騒動に発展。
2018 FIFAワールドカップ・ロシア大会の南米予選では苦戦が続き、48年ぶりの予選敗退の危機に立たされていた。それでも、最終節のエクアドル戦でメッシがハットトリックを記録し、3位で本大会出場を勝ち取る。本大会では、メッシ頼みの時代遅れなサッカーに終始し、辛うじてグループリーグを突破する始末。ついにはホルヘ・サンパオリ監督と選手の確執からチームの空中分解が報じられる。ラウンド16のフランス戦では点の取り合いとなるが、キリアン・エムバペのスピードの前に守備が崩壊し敗戦。
大会後、リオネル・スカローニが監督に就任。コパ・アメリカ2019では3位に入り、2年後のコパ・アメリカ2021になると新たな戦力が代表に定着。グループリーグから無敗で決勝まで進出。決勝では宿敵ブラジルを相手にディ・マリアの決勝ゴールで勝利し、実に28年ぶりとなるタイトルを獲得。そしてこの大会で4得点5アシストを記録し、大会最優秀選手に選ばれたメッシにとっても悲願の代表初タイトルとなった。さらには、コパ・アメリカ王者として出場したフィナリッシマ2022ではEURO2022王者のイタリアを相手に3-0と圧勝し、タイトルを獲得している。
優勝候補に名前が挙がることも多かった2022 FIFAワールドカップ・カタール大会だったが、グループリーグ初戦のサウジアラビア戦でまさかの逆転負けを喫し、最悪のスタートとなってしまう。崖っぷちに立たされた第2戦のメキシコ戦も停滞した内容となるが、メッシの先制ゴールをきっかけに息を吹き返し勝利すると、第3戦のポーランド戦も後半の2ゴールで勝利し、終わってみれば順当にグループ首位で決勝トーナメントに進出する。決勝トーナメントに入ると、オーストラリア、オランダ、クロアチアを相手にメッシとフリアン・アルバレスの活躍によって勝ち抜いていき、2大会ぶりの決勝進出を果たす。決勝のフランス戦でもメッシとディ・マリアのゴールで前半を折り返すが、後半にキリアン・エムバペの2ゴールを許し、同点とされ延長戦に突入。延長後半3分にメッシが勝ち越しゴールを決め、今度こそアルゼンチンの優勝かと思われたが、その10分後にPKを与えてしまい、またもエムバペに決められてしまう。ワールドカップ史上に残る壮絶な死闘はPK戦に突入すると、フランスが2人目、3人目と連続して失敗したのに対し、アルゼンチンは4人全員が成功。歴史に残る名勝負を制し、1986年大会以来36年ぶり3回目のワールドカップ優勝を果たす。10代の頃からアルゼンチン国民の期待を背負ってきたリオネル・メッシにとっては、35歳にしてようやく手にした悲願のワールドカップ初優勝であり、伝説となった瞬間だった。7ゴール3アシストの大活躍で最優秀選手に選ばれ、終わってみれば「メッシの、メッシによる、メッシのための大会」となった。
太字はワールドカップを戦った監督。赤字はワールドカップ優勝監督。
掲示板
7 ななしのよっしん
2022/12/19(月) 22:47:52 ID: AnOP5ahp54
前半終わってフランス相手に2-0で勝っててこりゃ楽勝だと思っていたら…
神の子と呼ばれた男が本物の神になるための試練、最後まで襲いかかる次世代の怪物、延長・PKまでもつれ込む激戦
サッカーはW杯しか見ないけどこの試合は最高の試合だった
8 ななしのよっしん
2022/12/19(月) 23:23:54 ID: hXRnAJrcDF
W杯優勝のアルゼンチン、「ピカチュウ」の刺青をした“日本好き”選手がいた
https://
9 ななしのよっしん
2022/12/20(火) 18:46:28 ID: oeDM8A4C3Z
いやー感動した
やっぱワールドカップだけは観た方がいいな
普段観ないのは90分集中できん自分が悪いんだが
急上昇ワード改
最終更新:2023/06/06(火) 09:00
最終更新:2023/06/06(火) 09:00
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