サッカーイタリア代表とは、イタリアサッカー連盟(FIGC)によって編成されるサッカーのイタリア代表チームである。
ユニフォームは明るい青(Azzurro)。愛称はその複数形アズーリ(Azzurri)。
サッカーのナショナルチーム | |||
イタリア代表 | |||
---|---|---|---|
基本情報 | |||
国旗 | |||
協会 | FIGC | ||
大陸 | UEFA(ヨーロッパ) | ||
FIFAコード | ITA | ||
FIFA加盟 | 1905年 | ||
監督 | ルチアーノ・スパレッティ | ||
FIFAワールドカップ | |||
出場 | 18回 | ||
最高成績 | 優勝(4回) | ||
UEFA欧州選手権 | |||
出場 | 10回 | ||
最高成績 | 優勝(2回) |
FIFAワールドカップを4度、UEFA欧州選手権を2度制覇した経験のある世界屈指の強豪。伝統的にカテナチオと呼ばれる堅実な守備と効率的な攻撃でカウンターサッカーをするチーム。・・・であったが近年は積極的にカテナチオからの脱却を図っており、攻撃的なポゼッションサッカーが展開されている。
FIFAワールドカップやEUROなどの大会ではトーナメントにピークを持っていくためか、予選やグループリーグは苦戦することが多い。またPK戦を苦手としており、1990 FIFAワールドカップは準決勝、1994 FIFAワールドカップは決勝、1998 FIFAワールドカップはベスト8でPK戦で破れている。一方2006 FIFAワールドカップ、EURO2020ではPK戦を制し優勝を果たしている。
トレードマークにもなっている青色のユニフォームは、地中海をイメージしたものと言われているが、かつてのイタリア王国の王家ことサヴォイア家からきているという説がある。1990年代まではポジション別で名前のアルファベット順に背番号を振り分けるのが伝統になっていた。
1990年代から2000年代にかけてはロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デル・ピエロ、フランチェスコ・トッティといったファンタジスタがチームの顔として活躍していたが、2010年代以降はそういった選手が消えてしまい、タレント不足もあって低迷するようになっている。
初の国際試合は1910年。FIFAワールドカップには第1回大会は不参加となったが、自国開催となった第2回の1934 FIFAワールドカップ・イタリア大会が初出場となった。ジュゼッペ・メアッツァ、アンジェロ・スキアビオといった中心選手の活躍によってトーナメントを順調に勝ち上がっていき、準決勝では当時欧州最強といわれたオーストリアを破っている。決勝のチェコスロバキア戦では延長戦でのスキアビオの決勝ゴールによって勝利し、優勝を果たす。こうしてジュール・リメ杯を最初に掲げた欧州のチームとなったが、この大会はムッソリーニ率いるファシスト党の影響が強く、ムッソリーニが極めてファシストらしいやり方で審判を買収するなどの八百長を繰り返しイタリアを優勝させた大会であり「史上最低のワールドカップ」として知られている。
1936年のベルリンオリンピックでは金メダルを獲得。1938 FIFAワールドカップ・フランス大会では、前回に引き続いてメアッツァがチームの中心となり、爆発的な得点力を持つシルヴィオ・ピオラが台頭。前回以上の戦力でノルウェー、フランスを破ると、準決勝では今大会台風の目となっていたレオニダス擁するブラジル相手に勝利。決勝ではハンガリーを相手にピオラの2ゴールなど4-2で勝利し、ワールドカップ史上初となる連覇を達成する。
1949年に起きたスペルガの悲劇によって当時代表チームの主力を占めていたグランデ・トリノの選手の大半が死亡。これによってチームは弱体化を余儀なくされ、低迷期に入る。1950 FIFAワールドカップ・ブラジル大会と1954 FIFAワールドカップ・スイス大会ではいずれも1次リーグで敗退。1958 FIFAワールドカップでは欧州予選で北アイルランドに競り負け、初の予選敗退となる。
1962 FIFAワールドカップ・チリ大会ではオマール・シボリ、ジョゼ・アルタフィーニ、ジャンニ・リベラといったタレントを擁して臨んだものの、1勝1分1敗でグループリーグ敗退に終わる。なお、第2戦のチリ戦では試合中に殴る蹴るの乱闘が勃発する荒れた試合となり、警察が出動する事態にまで発展。結局この試合に敗れたが、それ以上に「サンティアゴの戦闘」と名付けられるほど「サッカーの歴史上もっとも醜い試合」として汚点を残す。
1966 FIFAワールドカップ・イングランド大会でもイタリア代表は歴史的な汚点を残すことになる。グループリーグ第3戦でこれまで全く実績のない初出場の北朝鮮にまさかの敗北を喫し、大会史上に残る大番狂わせを許してしまう。この敗戦によってグループリーグ敗退となり、帰国した選手たちは空港で待ち構えていたファンから腐った卵やトマトを投げつけられるという“屈辱”を味わっている。
イタリアサッカーの名声をようやく取り戻すきっかけとなったのは、UEFA欧州選手権本大会初出場となったEURO1968だった。ディノ・ゾフ、サンドロ・マッツォーラ、ルイジ・リーヴァ、ジャチント・ファッケッティを擁したチームは、ソ連との準決勝を最後はコイントスで勝利すると、ユーゴスラビアとの決勝も再試合までもつれ込んだ末にリーヴァとピエトロ・アスタナージのゴールで勝利し、初の欧州王座の座に輝き、久々の国際タイトルを獲得する。
欧州王者として2年前のメンバーを多く揃えて臨んだ1970 FIFAワールドカップ・メキシコ大会は、鬼門となっていたグループリーグ突破に成功すると、準々決勝では開催国のメキシコに快勝。準決勝の西ドイツ戦は、「アステカの死闘」と呼ばれる大会史上に残る名勝負となった。1-1で迎えた延長戦では両チーム合わせて5ゴールが生まれる壮絶な点の取り合いとなり、最後はリベラの決勝ゴールで死闘を制している。しかし、決勝ではペレを擁するブラジルの強力な攻撃陣の前に自慢のカテナチオは崩壊し完敗。準優勝に終わっている。
1974 FIFAワールドカップ・西ドイツ大会では第2戦でアルゼンチン相手に引き分け、第3戦ではポーランドに敗れ、1次リーグで姿を消すことになった。また、EURO1972、EURO1976では2大会連続で本大会まで進むことができず、世代交代に苦しむ時期となった。
エンツォ・ベアルツォットが監督となった1978 FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、ロベルト・ベッテガとパオロ・ロッシの2トップが躍動し、1次リーグでは開催国アルゼンチンを破るなど全勝を果たす。2次リーグ最終戦でオランダに逆転負け、3位決定戦でもブラジルに敗れたもののベスト4という好成績を残す。地元開催となったEURO1980でも、ロッシが国内リーグの八百長疑惑に巻き込まれ、2年間の出場停止処分を受けてしまい得点源を失いながらもベスト4という結果を残す。
1982 FIFAワールドカップ・スペイン大会は、開幕直前に処分が解けたロッシをベアルツォットが代表に招集したことで、懐疑的な声が多く挙がっていた。1次リーグでは試合勘を失っていたロッシが無得点に終わり、3引き分けで総得点でカメルーンを上回り、辛ろうじての突破となったことでイタリア国内ではベアルツォットに激しい批判が浴びせられていた。2次リーグ初戦では前回王者のアルゼンチン相手に勝利し、ジーコら黄金のカルテットを擁するブラジル戦では絶対不利と大方が予想していたが、ここまで沈黙していたロッシが突如覚醒、ハットトリックの大活躍によって史上最強とも言われたブラジルを撃破する。準決勝のポーランド戦もロッシの2ゴールによって勝利すると、決勝の西ドイツ戦でもロッシは先制ゴールを決めるなど活躍し、3-2で勝利。1938年大会以来44年ぶり3度目となる優勝を成し遂げる。おいしいところを全て掻っ攫ったロッシは、大会得点王、大会MVP、そしてこの年のバロンドールを総なめにする。
EURO1984は、ワールドカップ王者ながらも予選敗退という失態を犯してしまう。1986 FIFAワールドカップ・メキシコ大会ではロッシからポジションを奪ったアレッサンドロ・アルトベッリの活躍で何とかグループリーグを突破するが、ラウンド16ではミシェル・プラティニ擁するフランス相手に守備の脆さを露呈し、敗退。責任を取る形で9年間監督を務めたベアルツォットは辞任する。
アゼリオ・ビチーニが監督となったEURO1988では、自国開催のワールドカップを2年後に控えていたことから若手主体で挑み、当時20歳だったパオロ・マルディーニが国際大会でのデビューを果たす。準決勝でソ連に敗れたが、ベスト4という成績を残す。
2度目の自国開催となった1990 FIFAワールドカップ・イタリア大会では、ジャンルカ・ヴィアリが不調に陥るが大会中にサルヴァトーレ・スキラッチとロベルト・バッジョが台頭。特にスキラッチはゴールを量産し、GKワルター・ゼンガ、フランコ・バレージ、マルディーニを擁する守備陣も準決勝までを無失点に抑えるなど快進撃を見せる。しかし準決勝では成長株のR・バッジョを外し、不調のヴィアリに固執したビチーニ監督の采配が裏目に出てしまい、ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンにPK戦で敗れる。3位決定戦ではイングランドを下し、3位入賞を果たす。全6試合でゴールを決めたスキラッチは得点王となり、ゼンガはアルゼンチン戦で失点するまで連続無失点記録(517分)を打ち立てた。
EURO1992予選敗退によってビチーニは解任となり、ACミランの黄金時代を築いたアリーゴ・サッキが監督に就任。1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会ではミラン時代同様にプレッシングサッカーを導入するが戦術が浸透せず、グループリーグではバレージの負傷離脱、GKジャンルカ・パリューカの退場と度重なるアクシデントもあって3位で辛うじての突破となる。ラウンド16のナイジェリア戦でも退場者を出して敗色濃厚に追い込まれるが、ここまで精彩を欠いていたR・バッジョが2ゴールを決め逆転勝利を果たす。エースの復活で息を吹き返したイタリアは、準々決勝のスペイン戦と準決勝のブルガリア戦でもR・バッジョがゴールを決め、決勝進出。決勝のブラジル戦では120分間ブラジルの攻撃を無失点に抑えるが、PK戦の末に敗れ、準優勝に終わる。最後のキッカーとして登場しPKを外したR・バッジョの姿は大会のハイライトとなり、悲劇のヒーローとして語り継がれるようになる。
EURO1996でグループリーグ敗退に終わると、批判が過熱したサッキは辞任に追い込まれる。伝統のカテナチオへの回帰を掲げた1998 FIFAワールドカップ・フランス大会では大会の主役候補だったアレッサンドロ・デル・ピエロが負傷を抱えていたこともあり、R・バッジョが代表に復帰。そのR・バッジョと5ゴールを決めたクリスティアン・ヴィエリの活躍によって準々決勝まで勝ち進む。準々決勝では開催国フランスを相手に激闘を繰り広げるが、またしてもPK戦で涙を吞み、ベスト8敗退に終わる。
英雄ディノ・ゾフが監督となったEURO2000では、新たなエースとしてフランチェスコ・トッティが台頭。準々決勝までを全勝で勝ち上がり、準決勝では開催国オランダと対戦。前半に退場者を出し防戦一方の展開を強いられるが、お家芸のカテナチオによってゴールを割らせず、試合中の2本のPKもフランチェスコ・トルドがセーブ。スコアレスのままPK戦にもつれ込むと、トッティがクッキアイオを決めればトルドがここでも2本のPKを止める大活躍を見せ、決勝進出。決勝では世界王者フランスを相手にあと一歩で優勝というところまで追い込むが、終了間際に同点ゴールを許すと、延長戦にダヴィド・トレゼゲに決勝ゴールを決められ準優勝に終わる。大会後、不当な批判に激怒したゾフは辞任する。
2002 FIFAワールドカップ・日韓大会はグループリーグ第2戦のクロアチア戦に敗れ敗色濃厚となるが、第3戦のメキシコ戦で試合終了間際にデル・ピエロが同点ゴールを決め、辛くも突破を決める。しかし、ラウンド16の韓国戦では主審のあからさまな開催国贔屓の判定に苦しめられ、延長戦ではトッティの退場、ゴールの取り消しと不可解なジャッジが相次ぐと、逆にアン・ジョンファンに決勝ゴールを決められ敗退。EURO2004でも、トッティのデンマーク戦での唾吐き行為による出場停止処分が痛手となり、グループリーグ敗退に終わる。
名将マルチェロ・リッピが監督として率いた2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会だったが、大会直前にカルチョ・スキャンダルが発覚。イタリアサッカーのイメージは地に落ちたが、影響が心配された選手たちは逆にこれで結束を強めていた。グループリーグではアメリカと引き分けたものの、ガーナ、チェコに勝利し首位で突破。ラウンド16のオーストラリア戦では退場者を出したことで予想以上の苦戦をするが、終了直前に得たPKをトッティが決め、ベスト8進出。準々決勝ではアンドレイ・シェフチェンコ擁するウクライナ相手に3-0で快勝。準決勝は開催国のドイツと対戦。若いドイツのアタッカー陣を老獪な守備で封じ込め延長戦に持ち込むと、終了間際に2ゴールを決め、決勝に進出。決勝のフランス戦では、開始5分でジネディーヌ・ジダンにPKを決められるが、すぐにマルコ・マテラッツィのゴールで追いつく。1-1で迎えた延長後半5分この試合を最後に現役引退するジダンがマテラッツィの挑発に乗り頭突きで報復し一発退場。このジダンの衝撃的な退場劇は大会終了後に多くの物議を醸す。試合はPK戦までもつれ込み、これを全員が成功させたことで1982年大会以来24年ぶり4度目の優勝を成し遂げる。ジャンルイジ・ブッフォン、ファビオ・カンナヴァーロを中心とした守備陣はオウンゴールとPKの2失点のみという鉄壁さを見せ、タレント揃いの攻撃陣を操った司令塔アンドレア・ピルロのゲームメイクも光った。
世界王者として臨んだEURO2008では、カンナヴァーロの負傷欠場とルカ・トーニの不調が響き、初戦でオランダに大敗しながら何とか決勝トーナメントまで進むも、準々決勝でスペインにPK戦で敗れている。大会後リッピが監督に復帰した2010 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会だったが、4年前の優勝メンバーが高齢化したことに加え、ピルロとブッフォンという攻守の要が負傷したことで精彩を欠いてしまう。結局1勝もできないままグループ最下位で敗退という屈辱的な結果に終わる。
2006年の優勝メンバーの大半が代表を去り、世代交代が進んだEURO2012では、アントニオ・カッサーノとマルコ・バロテッリの悪童2トップが躍動。グループリーグを苦戦しながらも2位で突破すると、準々決勝のイングランド戦をPK戦の末に制し、準決勝のドイツ戦は激闘となるがバロテッリの2ゴールで勝利する。しかし、決勝では当時黄金期にあったスペインの前に圧倒されてしまい0-4で完敗。準優勝に終わる。
2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会ではイングランド、ウルグアイ、コスタリカと同居するグループDに組み込まれる。初戦のイングランド戦で勝利を収めたが、続くコスタリカ戦では格下相手にまさかの敗北。2位を争うウルグアイとの直接対決となった最終戦では、ルイス・スアレスの噛み付きなどがあったとはいえ0-1で敗れ、2大会連続でグループリーグ敗退に終わった。その後、アントニオ・コンテが監督を務めたEURO2016では、ラウンド16でスペイン相手に勝利し前回のリベンジを果たすが、準々決勝では世界王者のドイツ相手にPK戦の末に敗れている。
チェルシーFCの監督に就任したコンテの後釜にジャンピエロ・ヴェントゥーラが就任。2018 FIFAワールドカップ欧州予選ではスペインに0-3で敗れるなど苦戦をし、2位でプレーオフに回ることに。プレーオフでもスウェーデン相手にトータル0-1で敗れ、1958年大会以来60年ぶりとなる予選敗退となり、本大会連続出場が14大会で途切れる。失意のまま主将ブッフォンは代表を引退することに。
解任となったヴェントゥーラの後任選びは難航するが、白羽の矢が立ったのはロベルト・マンチーニだった。マンチーニは無名の若手も含め多くの選手を代表に呼ぶことで遅れていた世代交代に着手し、これまでとは違う攻撃型のチームを作りあげる。EURO2020では、グループリーグから圧倒的な強さを発揮しトルコ、スイス、ウェールズ相手に3連勝を飾る。ラウンド16のオーストリア戦では苦戦しながらも、延長戦で2点を奪って勝利。準々決勝ではFIFAランキング1位のベルギーを撃破する。以降は伝統の堅守が光るようになり、準決勝のスペイン戦、決勝のイングランド戦ではいずれもPK戦でジャンルイジ・ドンナルンマが活躍を見せ、1968年大会以来2度目の優勝を果たす。しかも予選から決勝までを無敗で乗り切るという盤石の戦いぶりで獲得したタイトルとなった。
2022 FIFAワールドカップ欧州予選でも首位に立っていたが、EURO後は主力の怪我もあって勝ち切れない試合が続き、最終節でスイスに並ばれ、得失点差で2位となり、無敗でありながらプレーオフに回ることに。プレーオフ準決勝の北マケドニア戦でも攻め続けながらなかなか1点を奪えず、逆に試合終了間際に失点を喫し敗北。この結果、史上初となる2大会連続での予選敗退というまさかの結果に終わる。
2023年8月、2026 FIFAワールドカップまで指揮するとされていたマンチーニ監督がFIGC会長との意見の相違を理由に電撃退任。後任にSSCナポリを33年ぶりのスクデット獲得に導いたルチアーノ・スパレッティが監督に就任。
太字はワールドカップで指揮を執った監督。赤字はワールドカップ優勝監督。国旗付きは外国人監督。
▶もっと見る
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/20(土) 05:00
最終更新:2024/04/20(土) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。