サファヴィー朝 単語

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サファビーチョウ

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サファヴィー朝1501~1736)とはアゼルバイジャンからイランまでを支配した、イスラム教シーア派の12イマーム教とした王である。「サファビー」とも表記される。

歴史

サファヴィー朝の成立

サファビー歴史は13世紀ごろに生きたサフィー・アッディッツーン・イスハークを開祖とする、イスラム義者の集団である、ファヴィー教団まで遡る。サフィーは義の師、シャイフ・ザーイドの意思を引き継ぎ、教としてアゼルバイジャンアンダビールで彼の人徳によって集まってきた子に対し義的な教義を説き、修行を積ませた。

当時のイスラーム世界ではこのような義者集団は各地に存在しており、それらの1つとして存在するのみであった。

彼の死後、サフィーの子孫が代々教に継いた事から「サフィーの者」を表す「サファビー」の名が教団を表すとなった。これが後々のサファヴィー朝のとなる。サファヴィー教団信者を着々と増やして行き、多大なる寄付によって経済的な基盤を強化させた。教信者の長でもありながら、アンダビールにおける地ともなったのである。

15世紀ごろ、叔父ジャーフィルとの後継者争いに敗れたジュナイドは新たな支援者アゼルバイジャンから西のアナトリアなどをし、それらの土地から支援者を得て教の座をジャーフィルから簒奪した。これがサファビー教団の思想を大きく変える要因となる。

本来のサファヴィー教団スンニ派を元とした、平和的な義者の集団であった。だがジュナイドは血気盛んなトルコ系遊牧民の支持を得るために、グラートと呼ばれる過シーア派的思想へと教義を変更させ、スンニ派へのしい憎悪を基軸としたより攻撃的な性格へと変化させた。

ジュナイドの息子ハイダル教団員にい棒を軸とし12のひだを持つい布で囲んだターバンを被らせた。これはハイダルがある晩、に出てきたシーア派第一代イマーム、アリーの示によるものらしい。これが転じてジュナイドが集めてきたトルコ系遊牧民の信徒に対し「キジルバシュ」(い頭)というが使われるようになった。

性格を大きく変えたサファヴィー教団キジルバシュを用い、勢拡大のためアゼルバイジャンのアクコユン軍事的衝突を繰り返した。だがジュナイドは死に、その息子ハイダル戦場にて死亡した。

イスマイール一世の活躍

ハイダル息子である、シャイフ・アリーも戦場にて死亡するとであるイスマイール一世が7歳で教の座についた。彼はカスピ海近くのラージャーンというにて亡命生活を送ったのち、12歳の時に挙兵し東部アナトリアにて7000人のキジルバシュを集結させた。彼はこの軍勢を率い、アクコユンを撃破し、都のタブリーズに入し、自らをシャーと名乗った。これが約200年続くサファヴィー朝のった間である。

彼はタブリーズを征させた後、アクコユンの領地を次から次へと奪いとり、最終的にバグダードとメソポタミア平原を手中にしたところで、アクコユンの全てを奪い去った。

ちょうどその頃、イラン北東部のホラーサーンにてティムール朝を滅ぼしたウズベク族によるシャイバーニー西方に対して領地を獲得しようと論んでいた。アゼルバイジャンイラクを接収し、さらに東方へと広げようとするサファビーと、イランを支配するシャイバーニーの衝突は避けられないものとなったのである。

1510年、この二ホラーサーンのメルブにて軍事衝突を起こす。この戦いにてサファビーは圧倒的な勝利を納め、シャイバーニーの長、シャイバーニー・ハーンの頭蓋箔を貼られ、を注ぐための器に使われた。これはトルコ系遊牧民の古い習に習って行われた行為とされている。

敵将の骸で器を飲む行為のように、サファビーは成立当初からイスラームの正統から外れた奇行を繰り返すようになる。謀反した人間を食べるカニバリズムスンニ派の学者の遺を掘り起こし、にする行為(イスラーム遺骸にするのは最大の侮辱とされている)などが伝えられている。

イスマイール一世が即位してからの10年間、サファビーは一度も負けることく、東部アナトリアからホラーサーンまでを支配し、「無敵」の名を冠していた。征した諸地方キジルバシュの者たちが支配し、所領から上がる税金どを自分たちで独占した。一方で、内政はペルシア系の貴族によって執り行われた。彼らは「タージーク」と呼ばれ、裁判、書記、徴税等の法や行政を担当した。キジルバシュの戦士たちは、戦闘に関しては無敵だったものの、内政面では彼らの協しでの統治は困難だったと言われる。

だが、そんな無敵のサファヴィー朝とイスマイール一世の伝説を脅かす恐ろしい大敵がやってくる。中部アナトリア以西を支配していた大帝国オスマン帝国である。

チャルドゥラーンの戦い

アゼルバイジャンにてサファヴィー朝がり、トルコ系遊牧民が活躍しているという話がオスマン帝国内で広まると、帝国内のトルコ系遊牧民の間でサファヴィー朝に協する動きが活発化した。これに危惧したオスマン帝国トルコ系遊牧民に頼らない軍制を敷かざるを得ない状況となり、これがイェニチェリ創設への一因ともなった。

1512年にセリム一世(1512~1520)が即位すると、帝国内のトルコ系遊牧民はよりファヴィーに傾いており、一部では反乱を起こす者や、サファヴィー朝の領地へと移動する者も現れていた。これらの動きに対し、セリム一世は底的な弾圧を加え、皆殺しにした。

さらに反抗のを潰すため、セリム一世は大軍率いて東のサファヴィー朝へと向かった。この軍勢にはトルコ系遊牧民ではない、キリスト教徒の子からなるイェニチェリが多く含まれていた。

1514年8月23日アナトリア東部のチャルドゥラーンにてサファヴィー朝とイスマイールを滅ぼさんとするセリム一世の軍勢と、トルコ系遊牧民の王、イスマイール一世はここにて衝突した。

経験豊富で、上に乗りながらを射る騎射が得意なキジルバシュは伝説を基に、今回も勝利するだろうと信じていた。だが、オスマン帝国側のイェニチェリが用いた騎兵に対し絶大な威を発揮し、次から次へとキジルバシュの戦士たちは撃破されていった。そしてサファヴィー朝は敗の伝説を築いた名だたる将軍を数多く失い、壊滅してしまったのである。

イスマイール一世もかろうじて戦場から離脱してきたものの、オスマン帝国軍はアゼルバイジャンのタブリーズまで進撃してきた。だが、ここでオスマン帝国の進撃は滞る事となる。キジルバシュの恐ろしさを肌で感じたイェニチェリの間では厭戦気分が運びこり、安定しない補給によってセリム一世自身の立場も危うくなり、一週間の滞在ののちタブリーズを離れ、軍勢はイスタンブールへと帰っていった。

晩年

今まで敗を誇ってきたイスマイール一世が初めて体験した敗北は、彼とキジルバシュにとってしい重圧となった。生き残ったキジルバシュはイスマイールへの絶対的な信頼を捨て、自分たちの領地の管理に勤しむようになった。   当のイスマイール一世も、プライドを打ち砕かれ、半ば自暴自棄に近い状態になった。彼はオスマン帝国に対抗するため、ヨーロッパと同盟を模索したが、結局援助が得られる事はかった。そして、1524年に37歳の若さで亡くなり、シャイフ・サフィー・アッディーンにて埋葬された。

タフマースブの治世

1524年、イスマイールの息子タフマースブが10歳でシャーに即位すると、キジルバシュ同士の争いが表面化した。彼らは政治の実権を握ろうと、タフマースブの後見役であり実質の支配者である大アミールの座を奪い合った。

サファヴィー朝の内政の混乱を知ったウズベク族のシャイーバーニーはこれを好奇ととらえ、シャイーバーニー・ハーンの弔い合戦の意味も含めサファビーの領地に軍勢を差し向けた。サファビーは二代にして存亡の危機したのである。

この危機に対し、若き王であるタフマースブは自ら軍勢を率い1529年にホラーサーンのジャームにてシャイバーニーを破った。さらには1534年にキジルバシュの部族間抗争の末生き残った大アミールのフサインを反逆の罪で処刑し、政治の安定化を計った。

彼は征地から連れてきたカフカース方面のキリスト教徒の奴隷軍人である「グラーム」を重用し、首都アンダビールからカズウィーンへと移した。

タフマースブの死後

タフマースブが1576年に死去すると、今度は後継者争いが活発化した。タフマースブのであるパリハーン・ハーヌムの暗躍によって彼女であるイスマイール二世がシャーに即位すると、王位継承権を持つ者を次から次へと処刑した。だが、イスマイール二世も即位から二年後の1577年に、暗殺される。一説によると、パリハーンが期待に反して彼女を冷遇したイスマイール二世憤怒し、殺したといわれている。

イスマイール二世殺されると、盲目ムハンマド・ホダーバンデが1579年にシャーに即位する。彼は盲目ゆえ政治執行するを持てなかったためにイスマイール二世粛清を逃れていた。パリハーンは彼を傀儡にしようとしたが、ムハンマドの妻であるマフィディ・アウリヤーによって暗殺され、マフディ・アウリヤーもキジルバシュの一人によって暗殺された。

ムハンマド・ボダーバンデが即位する頃、再度キジバーシュの大アミールを巡る争いは活発化した。タフマースブによって、一度は食い止められた混乱がまた噴出したのだ。

サファビーのあまりの混乱を見て、オスマン帝国は再度軍を差し向けアゼルバイジャンのタブリーズを占領した。   イスマイールが建を宣言した80年の時を経て、サファヴィー朝は歴史から姿を消えかかっていた。

だがその時、救世主はやってくる。

サファビー朝の救世主、アッバース一世の治世

1587年、ホラーサーンからカズウィーンに入ったムハンマドの甥であるアッバース一世は王位を譲り受け、サファヴィー朝の栄を取り戻す決意を決めた。

アッバースを傀儡にしようと論んでいたキジルバシュのムルシドクリー・ハーンを暗殺し、各地のキジルバシュを押さえつけ、自らの意思で政を運営し始めた。彼の統治により、サファヴィー朝は不死鳥の如く復活を遂げたのだ。

アッバース一世の改革

まず最初に、アッバースはシャイバーオスマン帝国に対し、領土割譲などの妥協でこれ以上の軍事拡大を押さえると、彼は内の軍制を大きく変えた。

争いの原因となっていた、トルコ系遊牧民であるキジルバシュへの依存をやめ、カフカース地方出身の奴隷軍人である「グラーム」や、キジルバシュの信頼できる戦士から選ばれた、「コルチ」を独立した近衛部隊として設立した。両軍ともに騎兵たる戦にし、15万5000人程の兵数を誇ったと言われている。

さらに、チャルドゥラーンの戦いを踏まえ、大砲専門の兵科である「トフェングチ」や「トプチ」を設立し、充実させた。この兵科にはペルシア系の人材がめられた。これにて、サファビートルコ系遊牧民に戦依存しきっていた国家から、多民族が各々に武提供する多民族国家へと変わったのである。

また、ガズウィーンからイスファーンに遷都してそこに新鮮な々とした木々に溢れる新しい都市を建設させた。新と旧の間に550m×180mの広さを持つ「王の広場」を設け、そこに市場を設けさせた。インドの綿織物や砂糖ヨーロッパの毛織物などありとあらゆる物が取引され、シルクロードの一大交易地点となった。王の広場の周囲には、モスクやマドラサ(イスラム学校)が立てられ、王中の信仰心に熱い人や学生が滞在した。その結果、アッバースの治世の中でイスファーンは江戸北京に次ぐ人口50万人の大都市になり、「世界の半分」と称されるほどに成長した。

イスファーンの美しい建造物の中でも特筆すべきなのが「王のモスク」であろう。古代から使用され続けていた土で出来たレンガの上に七色の色鮮やかなタイルを散りばめ、秘的であり幾何学的な美しい模様をモスクの壁面に映し出している。これらの幻想的な模様は、クァルーンで描かれる来世(天国)を表しているものだと言われる。

内の軍制、内政ともに良されると、アッバース一世は再度シャイバーや、オスマン帝国に対し一転攻勢に打って出た。ホラーサーンの一部を支配していたシャイーバーの軍勢を撃破し、シーア派聖地であるマシュハドを奪還する。また、サファヴィー朝の生誕地アゼルバイジャンを支配していたオスマン帝国に対し、1603年から1606年に渡って大遠征を行い、アゼルバイジャン全土を奪還。さらに1624年にはバクダートやタブリーズなどのイラク地方オスマン帝国から奪回し、サファビーチャルディーンの戦いでのリベンジを果たしたのである。

シーア派の定着

アッバース一世の頃になると、シーア派、とくに12イマームへの信仰が奨励された。シーア派に対しては税金を免除し、スンニ派に対しては重税を課した。現在イランイスラーム共和では80%が12イマームを信仰しているが、それにはアッバース一世のこういった政策が大きく関わっているとされている。

また、イスマイール一世時代の過な教義が薄まってきたのも民衆の間で12イマームが受け入れられた一因とされている。

対外政策

アッバース一世以前の話になるが、1540年に後々インドの大半を支配するムガール帝国の始祖フユーマン亡命を受け入れ、ムガール帝国の建支援した。

イスマイール一世の治世にて、オランダネーデルラント連邦共和)やイングランドとの関係を強め、イスファーン内での東インド会社の商館の建設を許可した。さらに1622年、東インド会社と協してポルトガルスペイン商人をホルムズ峡より追放した。

アッバース一世没後のサファビー朝

アッバース一世以降のサファヴィー朝は、確実な衰退を迎えていた。絶大な権を持つ王の周りに多民族から選ばれた優秀な者たちが補佐する国家は優秀な王には最適だったが、無能な王には傀儡化しかもたらさなかった。

1638年にオスマン帝国によってバクダートを奪われ、ホラーサーンはブラハ・ハンにより何度も侵略された。また、アフガニスタンのガンダハールもムガール帝国との関係悪化により奪われてしまった。(1648年に奪還する)

18世紀に入ると、サファヴィー朝領内にて反乱が活発化し、バルチスタン、クルディスタンなどで中央から派遣された知事に対する反乱が多発した。

特筆すべきなのが1709年、アフガニスタンカルザイ部族のミール・ヴァイスの反乱だろう。彼は数年間イスファーンで暮らした経験から、無気力なサファヴィー朝の様子を知っていた。彼はカンダハールにて、サファヴィー朝から独立を宣言し、ホタキを打ち立て「ワキール(代理人)」という称号を名乗った。

1717年、ミール・ヴァイス息子マフムードはサファヴィー朝に対し反抗を進め、1719年にはケルマーンを支配する。そして1722年、とうとう王都イスファーンの眼前まで迫った。この頃になってやっとサファヴィー朝は、イスファーンから軍勢を差し向けたものの、マフムードは、イスファーンから40km離れたグルバードの地でそれと対峙し、撃破した。

マフムードの軍勢はイスファーンのに到達すると、1722年3月8日から7ヶに及ぶ包囲を開始した。イスファーン内の東インド会社の人間はマフムードにを払って逃げ去り、内の哀れな住民は食料の不足で餓死し、なかには死を貪る者、生きている人間を襲いそのを食べる者まで居たという。

滅亡

そして7ヶ後の10月21日、ついに第九代シャーのスルターン・フサインは降を受け入れた。これにて、サファヴィー朝は首都を失い、統一政権としての命を尽きたのである。

その後もカズウィーンでフサイン息子タフマースブ二世が挙兵し、サファヴィー朝の混乱に乗じてやってきたオスマン帝国ロシア帝国を破るも、摂政のナーディルによって王権を簒奪され、これにてサファヴィー朝の一族による支配は全に幕を閉じた。

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