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サンデーサイレンス

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サンデーサイレンス(Sunday Silence)とは、アメリカ生まれの競走馬種牡馬イニシャルからSSとも呼ばれる。
競走馬としての実績もさることながら、引退後、血統面の低評価から本で埋もれかけたところを日本に輸入され、日本競馬界の血統図を塗り替えた稀代の名種牡馬として知られる。

1986年3月25日生、2002年8月19日没。
:Halo(ヘイロー) :Wishing Well(ウィッシングウェル) :Understanding(アンダースタンディング)
生涯競走成績:14戦9勝
な勝ち:ケンタッキーダービープリークネスステークスブリーダーズカップ・クラシック
など:エクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳(1989)、米国競馬名誉の殿堂入り(1996)、ブラッド・ホース誌選定「20世紀のアメリカ名馬100選」第31位(1999)
種牡馬成績:13年連続リーディンサイアー(1995~2007)、14年連続リーディンブルーメアサイアー(2006~2019)

血統

1986年3月25日アメリカケンタッキー州ストーンファームで誕生。

ヘイロー1983年リーディンサイアーを獲得(サンデーが活躍した1989年にもう一度獲得)した名種牡馬ウィッシングウェル英国三冠ラフレッシュの末裔であり、自身もGII勝ちである(ちなみにこの時の5着が後に第1回ジャパンカップを制するメアジードーツだったり)。そういうに聞くとなかなか良い血統のように思える。

しかし、ヘイロー人を噛み殺そうとしたことがあるくらいの荒で、種牡馬時代には人を噛まないように口に籠を付けられた程だった。このためか、リーディングを獲得するくらいでありながらそれ程高く評価されていなかった。
更にウィッシングウェルのほうも、から高祖母までの4頭が未勝利・不出走と、系に活躍がまるでいない。アンダースタンディングも「丈夫さ」だけが取り柄だったような地味種牡馬。なんで活躍出来たのかふっしぎ~……というような血統であった。後にサンデーサイレンスの運命を決することになったのは、にこのウィッシングウェルの血統の悪さであった。ちなみにウィッシングウェルも「キ〇ガイなんじゃないか?」と競走馬時代の調教師が言ったほど気が荒かったそうだ。
……このから生まれたサンデーサイレンスの気性は……お察しください。

なお、静寂なる日曜日(のミサ)というか何かとしか思えない競走馬名は、メリーランド州に暮らすストロー夫妻が考案したもの。この夫妻は「自分たちが競走馬を持っていて、その子がケンタッキーダービーに出るとしたら……」というゲームをしており、自分たちで編纂した架リストをストーンファームへ送り、牧場所有者のアーサーハンコック三世がその中から選んだのである。アーサー三世は名前きの良さに加えて、聴するクリスクリストファーソンの『サンデーモーニング・カミングダウン』に似ていたのが決め手だったとる。

競走馬として運命に噛みついた馬

サンデーサイレンスが再びやって来る
人生という名のトラック(競馬場)では負けたり勝ったり
もが救世主めている
そんな時、サンデーサイレンスは再びやって来るのさ

Arthur Hancock IIISunday Silence

86~88年:壮絶なる幼少期

かくしてこの世に生を受けたサンデーサイレンスだったが、くすんだ色の体は華奢な上、後脚がものすごくX字に曲がっていた。血統+体至上義が蔓延るアメリカでは、ほとんど論外の醜さであった。

ウィッシングウェル馬主トムティザムの競馬顧問を務めるテッドキーファーは、ストーンファームへウィッシングウェルの様子を見に来るたびに「あんなひどい当歳は見たことが」「見るのも不愉快」とぼろくそに貶し、牧場長が「こいつにもバラレイが似合う日が来るかも」と宥めると「あいつにバラレイが似合うとしたら、墓に入った後だけだ」と切り返した[1]

11月27日感謝祭の日、サンデーウイルス性の腸疾患にかかり、ひどい下痢で生死のを彷徨う。牧場スタッフ医は感謝祭を台しにされながら1日23リットル前後もの点滴を続けた。とうとう医はブチ切れてサンデーを見限り、仕事を放棄したが、サンデーはかろうじて生き延びた。

1987年7月サンデーキーランド・ジュライセールへ出品されるが、血統も悪く体も酷く、おまけに気性もの頃から暴そのものだったため、上級のセレクトセールからはじき出される。一般セールでは1万ドルしかつかず、止むアーサー三世は1万7千ドルで買い戻し、馬主であるティザム氏に買い取りを打診するが、キーファー顧問から「論外です」と説明されていたティザム氏はすげなく拒否した。アーサー三世はリスクヘッジのため、サンデーの所有権を旧友と折半した。
キーファー顧問は後に「あの体の欠点はをつぶってすむ軽いものではなかった」「同じ見た1000頭いたら999頭は競走馬としてまず使い物にならない」「あれは突然変異ではないのか」と当時の判断を正当化している。後になって振り返れば、この判断は「節顧問の大ポカ」として嘲笑の対にされそうなものだが、ことサンデーに関する限り「仕方ないよなぁ」と納得させるものがあった。

1988年3月アーサー三世はカリフォルニア州トレーニングセールへサンデーを出品するが、希望販売価格の5万ドルには到底届かず、3万2千ドルで再び買い戻す羽になった。伝手の競馬関係者に売り込みを続けるも実らず、サンデーの所有権を折半していた旧友もいい加減見切りをつけ、所有権を自分の持ち調教費と相殺する形で懇意の調教師に売り飛ばした。
更にトレーニングセールの帰路、サンデーを始めとするストーンファームのを乗せたの運転手が心臓発作を起こし、は横転奇跡的にサンデーは2週間の入院+リハビリで済んだが、運転手とサンデー以外のは皆死亡する惨事となった。

ここまでくると「この、呪われてるんじゃね?」と思えてくる。とにかく悲惨な牧場時代を過ごしたサンデーサイレンス。性格が荒むのも理はい。ただ少なくとも、アーサー三世はサンデーに強い願いをかけていた。
この頃のストーンファームは、購入したグッバイヘイローが活躍していたものの、競走馬市場の盛り下がりもあって負債がかさみ倒産」の二文字がちらついていた。元々アーサー三世は名門クレイボーンファームの長男坊でありながら、放蕩癖を問題視されて相続権をに持っていかれ、研修として経営を任されていたストーンファームへ飛び出した過去があった。それからの15年間で、必死の努と借を繰り返してここまで成り上がってきたアーサー三世は「出来が悪く」「からも見放された」サンデーサイレンスに自らの過去を重ね合わせ、その成功を強く願うようになったのだ。

88~89年:現役時代

結局、競走馬としてはやっていけそうだと判断されたサンデーサイレンスは、アーサー三世が権利を持ったまま、もう半分の所有権を得た名調教師、「ハゲワシ」ことチャールズ・ウィッティガムの厩舎へ預けられた。ウィッティガム師はトレーニングセールでのサンデーの動きをなんとなく気に入っており、更にキーファー顧問(ちなみにキーファー氏はクレイボーンファームの顧問でもあった)のぼろくそな評価にかえって意地になり、サンデーを立な一頭の競走馬補として扱い、調教をつけ始めた。

しかしやっぱりサンデーの気性はめちゃくちゃ荒く、飛んだり跳ねたり上を振り落とそうとしたりで、調教は一筋縄ではいかなかった。ウィッティガム厩舎一の腕利きであるジョンソン調教助手は一度騎乗しただけで降希望。当時世界最多勝利記録を持っていた名騎手ウィリー・シューメイカーが呼ばれたが、調教後に牧場へ送り返せ!」と怒り狂いレース騎乗を拒否した。ウィッティガム師は辛抱強く、サンデーに「慢すること」を叩きこんでいった。やがてまともに走ることを覚えたサンデーは、調教で抜群のタイムをたたき出し、それを見たウィッティガム師はアーサー三世に「あのクソッタレは走るぞ!」と電話をかけた。

騎手には、サンタアニタダービーの最年少優勝者であり、82年にジョージウルフ記念騎手賞を受賞した25歳の俊英、パトリック・"パット"・ヴァレンズエラが迎えられた。技量もさることながら、人ととの付き合いの良さが起用の理由であったが、当時の(そしてサンデー引退後も)パット騎手コカイン依存症に苦しんでいた。これが後々アクシデントの元になってしまう。


88年10月デビュー戦は2着(ウィッティガム師は基本的に「デビュー戦は様子見」と割り切る方針であった)。11月に初勝利を挙げ、12月の一般競走でふたたび2着。休養に入る。

年が明けて89年、3歳になったサンデー然本領を発揮。彼の子孫にも受け継がれる高速のコーナリングが火を噴き始めた。3月2日、始動戦の一般競争を重馬場にも関わらず楽勝すると、19日の初重賞サンフェリハンデキャップ(GII)も出遅れながら勝利パット騎手もその素質に大奮し、この時点でケンタッキーダービーの有補として挙げられるようになった。そして4月8日サンタアニタダービー(GI)は、同レース史上最大の11という「やり過ぎですよ!」というような勝ち方で圧勝したのだった。

この強さに、ストーンファームには各地からサンデーの買い付け依頼がやってくるようになった。一度は断ったティザム氏もオファーを出したほどである(医検の際に軽い不調が見つかり、取り下げたが)。中には100万ドルを提示する者もおり、アーサー三世は悩みに悩むが、ウィッティガム師が「私は売らない」と答えたことで所有続行を決めた。まぁ、この時点でウィッティガム師は自分の所有権の半分を染みの医者に譲っており、後にそれを回収して一銭も使わず大もうけしたんだけど

89年ケンタッキーダービー:持つものと持たざる者

ウィッティガム師は正式にケンタッキーダービー(GI)への出走を表明。いざチャーチルダウンズ競馬場へ向かったサンデーサイレンスだったが、そこには「」が待っていた。

前年の最優秀2歳イージーゴアである。アリダーバックパサー系も一流という、嫌味なほどの良血に加え、非の打ち所の体を誇ったこの栗毛は「セクレタリアト再来」「今、その存在は伝説となりつつある」とまで言われる高評価を受けていた。サンタアニタダービーと同日のゴーサムステークス(GII)では直線だけで13身差を叩き出すいかれっぷりで、当然ながらケンタッキーダービーの一番人気である。

サンデーとは正反対の「THE U.S.A.」を体現するイージーゴアであったが、実はこの二頭の営にも因縁があった。イージーゴアアメリカの名フィップス一族の持ちであったが、現馬主のオグデン・フィップスは、アーサー三世の実家レイボーンファームの要顧客であり、経営顧問も務めていた(イージーゴアもクレイボーンファーム生産)。そして1972年アーサー三世のが死去した際の後継者選定において、アーサー三世の名し、アーサー三世がストーンファームへ出ていくきっかけを作った顧問の一人がオグデン氏だったのである。追い出された側も、追い出した側も、互いの持にかけて負けられない[2]
更にKCダービーの数日前、パット騎手人が急死する悲劇があった。

5月6日運命レース当日。例年のケンタッキー州は最低でも15℃くらいにはなるのに、この日は前日の大雨か、レース史上最低6.1℃しかなかった。極寒の泥というハードコースで行われたこのレース、サンデーサイレンスはスタート直後に左横のトリプルバックを吹っ飛ばして好位を占め、高速コーナリングで最終直線へ。ここでまたしてもノーザンウルフに体当たりをかまし、その後は左右にフラフラよれながら抜け出すという荒すぎる走りで優勝馬場に加えて酷すぎるヨレのため、勝利タイムKCダービー最遅だったが、馬場のせいか追い込みきれなかったイージーゴアを2身半も負かしたのであった。

ウィッティガム師はこの時点で「この三冠馬になる」と言い切ったという。

89年プリークネスステークス:アメリカン・ドリームの激突

東海のフィップスが所有するイージーゴアと、西海のウィッティガム厩舎を拠点とするサンデーサイレンス。二頭はまさにアメリカの東西対決を体現しており、ファン同士の対決意識もしかったが、ケンタッキーダービー後はそれが更にしさを増した。特にイージーゴア(とその他出走)が規制物の消炎鎮痛剤[3]を使っていたのに、サンデー(ともう一頭)は使っていなかったことが明らかになり、サンデーファンによる格好のイージーゴアファン煽りネタになった。イージーゴアファンも負けてはおらず、東海競馬マスコミも「前走は馬場のせい」「実イージーゴアの方が上」という見方を大体的に予想し、二冠プリークネスステークス(GI)でもサンデーは2番人気に甘んじた。

ところが本番一週間前の5月13日、ここまでの過密ローテが災いしたか、ピムリコ競馬場に到着したサンデーは右前足を跛行。3日間を治療に費やすこととなった。更にこの「跛行からの高速回復」が「実はサンデーヤクを使っているんでは?」という疑惑を生む。
ピムリコ競馬場房は観客や報道に開放されていたのだが、連日の取材攻勢にキレたサンデー営はサンデー房を閉鎖マスコミは閉じられたの向こうで何をやっているかわかったもんじゃない! と様々な推測を書き立て、アーサー三世はサンデーに対する不当な評価に大いに気落ちしたという。

5月20日ゲートは開いた。向こう正面で既に体を合わせていたサンデーサイレンスとイージーゴアイージーゴアサンデーの進路をカットするが、サンデーはそのまま大外から回り込み、逆にイージーゴアを内ラチへ押し込むように進出。イージーゴア上のパット・デイ騎手やる気を引き出すため、顔をサンデーに向けさせる。サンデーは自らゴアを睨み、お互いメンチを切り合い額をぶつけ合う様な、壮絶な競り合いがゴールまで続いた。最後は内イージーゴア・外サンデーサイレンスがほぼ並んでゴールインハナ差サンデーサイレンスが競り勝って二冠いたのだった。

89年ベルモントステークス:イージーゴアの逆襲

アファームド以来、11年ぶりの三冠達成なるか? だが、三冠ベルモントステークス(GI)舞台となるベルモントパーク競馬場イージーゴアが最も得意とするホームグラウンド。ウィッティガム師は相変わらずサンデーサイレンスのあら捜しをしてくる東海メディアをあしらいつつ、サンデーに長距離競走に備えた猛特訓を課した。一方、「持たざる者」サンデーオーナーブリーダーとして競馬メディアに引っりだこのアーサー三世は、昔取った杵柄で、サンデーを称える歌Sunday Silence作詞作曲歌唱して各地で披露していた。ちなみにこの歌、iTunesで絶賛配信中です。

そんなある調教中、事件が起こった。殺到していたマスコミフラッシュビビったサンデーサイレンスがのけ反り、ウィッティガム師の頭に蹴りを入れかけたのだ。幸い調教助手が咄嗟に体を押しのけたために直撃することはなく、ウィッティガム師は「私の頭は硬いから、蹴った方が蹄を痛めたかも」などと笑いにしたのだが……。当たっていたらウィッティガム師はかなり危なかっただろう。

さて6月10日レース当日、サンデーサイレンスは初めてイージーゴアを上回る1番人気に支持された。ところが、このレースイージーゴアがひたすら強かった。サンデーハイペースの中仕掛けを遅らせたイージーゴアに直線で置いてきぼりにされ、8身差の2着。三冠は破れたのだった。

レース後、ウィッティガム師は敗因がウィッシングウェル由来のマイラー向き血統にあると認めた。その一方「マイルから10ハロンベスト距離でいけないことは何一つない。『このタイプ種牡馬としては一番成功する』と皆が言うじゃないか」と、さながら後の予言めいた発言も残したのだった。

Road to BC

これで調子が狂ったのか、サンデーサイレンスは一気にやる気をなくしてしまった。7月23日スワップスステークス(GII)では理に中で大逃げを打ったのが祟り、ゴール前で尽きて単勝1.2倍の支持を裏切る2着に終わる。ウィッティガム師はパット騎手作戦批判しつつ、サンデーを休ませる必要があるとして、2かの休養を与えた。
一方、気持ちを切り替えてエクリプス賞年度代表馬を狙うイージーゴアは絶好調だった。サンデーの休養中にGIベルモントSから数えて4連勝。東海ファン大盛り上がりである。

標であるブリーダーズカップ・クラシックに向け暗が立ち込めるサンデーサイレンス。しかし、期待出来ない雑草が2冠を達成し、上流階級の良血完封寸前へ追い込んだ、というアメリカドリームを体現したようなそのスタイルは、イージーゴアにも負けない絶大なファンをつかんでいた。競馬場で売られるTシャツなどのホースグッズ流石ぬいぐるみはまだなかった)の種類と売上も、イージーゴアのそれより断然多く高かったのだという。馬券は別として。

サンデーの復帰戦は9月24日ルイジアナダウン競馬場スーパーダービー(GI)競馬場の支配人は「サンデーサイレンスとイージーゴアがそろって出場した場合、優勝を2倍の200万ドルとする」とぶち上げたが、イージーゴア営は結局回避したため、いつも通りの大会となった。
休養と立て直しがうまくいったサンデーは1.4倍の一番人気に見事応える。高速コーナリングからの独走、最後は手綱を緩めて6身差で圧勝。イージーゴアとの4度対決となるブリーダーズカップへ堂々殴り込みをかけるのだった。

89年BCクラシック:アメリカの頂点へ

米国距離競走の総決算となるブリーダーズカップ・クラシック(GI)。この年は復活を遂げたサンデーサイレンスと、古をも粉砕する怒涛のGI・5連勝でやってきたイージーゴア突ということで「このレースに勝った方が年度代表馬」「10年に一度の大一番」とまで評される大盛り上がりを見せていた。東海競馬メディアは「イージーゴア年度代表馬当確」というVやねん!絶賛記事を乗せ、ウィッティガム師も「勝つのはうちのだ」と事実上の勝利宣言を出した。ウィッティガム師はイージーゴアが抱えていた球節の不安が連戦で深刻化していることを見抜いていたのだ。
ところがレース一週間前、よりにもよってこのタイミングパット騎手コカインに引っ掛かり60日間の騎乗停止を食らってしまう。代打として招かれたのは、この年に競馬殿堂入りする米国競馬ヒーロークリストファージョン・"クリス"・マッキャロン騎手だった。そんなこともあって1番人気(単勝1.5倍)はまたもイージーゴアサンデーは2番人気(3.0倍)に落ち着いた。

スタート立ち遅れたイージーゴアに3~4番手の好位を占めたサンデーサイレンス。軽い手ごたえで先頭を伺いながら直線へ。イージーゴアは手応えが悪く、デイ騎手はおっつけっぱなし。ああ、これは楽勝だな……と思ったら、突然伸び始めるイージーゴア。余裕ぶっこいてたクリス騎手もこれには仰、泡を食って追い出しに掛った。追い込むイージーゴア伸びるサンデークリス騎手が外から迫るイージーゴアをちらりと振り返ってから5後、サンデーイージーゴアを首差抑え、コースレコードゴール版前を駆け抜けたのだった。

この年、サンデーサイレンスが獲得した年間賞は北の新記録であった(457万8454ドル)。ウィッティガム師は「このはこれまで私が担当してきた中で最高のだ」と称え、「来年はもっと強くなる」と太鼓判を押したが、サンデーは膝の剥離折を発症。片の摘出手術を行い、こちらもダメージを受けていた軟のケアのため、休養に入った。

サンデーサイレンス人気は絶頂にあった。だがウィッティガム師は、ある懸念を感じていた。アメリカ競馬では優秀なは3歳で引退種牡馬入りすることもしくない。しかしサンデーの場合、いくら来年度も現役続行すると宣言したとはいえ、サンデーを「競走馬」ではなく「種牡馬補」として見学にくる生産者がほとんどいなかったのだ。
ただこの時、日本からBCクラシック観戦に来ていたとあるブリーダーが、熱心にサンデー種牡馬権利を欲していた。引退後に日本で繋養させてほしいという打診を、当然アーサー三世は断るが、代わりにリスクヘッジとして自らの所有権の半分(つまり全体の1/4)を250ドルで売却した。後にこの取引がサンデー運命を決定することになる。

90年:ただ燃え尽きて

1月エクリプス賞では242票中223票を得て年度代表馬、並びに最優秀3歳に選出。3月調教が再開され、「ここからきっかり3ヵレースに出られるように仕上げてみせる」との宣言通り、6月3日カリフォルニアンステークス(GI)に出走した。この時クリス騎手は落して後続に轢かれ、全治5かの重傷を負っていたため、騎乗停止が明けたパット騎手が呼び戻された。復活したコンビは単勝1.1倍の圧倒的人気に応え、見事優勝する。どいつもこいつも回避して3頭立てでしたが

続けて6月24日ハリウッドゴールドカップ(GI)へ出走。イージーゴアを破る大金星を挙げた*クリミナルタイプとの対決が注されたが、サンデーは日ごろの勝負根性を発揮できず、ハナ差の2着だった。クリミナルタイプは前年の強2頭を破った実績が評価され、この年の年度代表馬に選出されることになる。

そしてサンデーサイレンス・イージーゴアの再戦を的に組まれた8月の特別招待競走・アーリントンチャレンジカップ標に調教をしていた矢先、靭帯の損傷が発覚。剥離折でこの少し前に引退したイージーゴアの後を追うように、サンデー引退となってしまった。

競走馬としての総括

通算成績は14戦9勝(内GI・6勝)・2着5回。連帯率100パーセントを達成している。総獲得賞は496万8554ドルで当時の世界三位。89年度エクリプス賞米国年度代表馬と最優秀3歳を受賞。文句なしの名である。

イージーゴアとの名勝負現在でもアメリカ競馬界のである。対戦成績ではサンデーサイレンスの3勝1敗だが、サンデーサイレンスは小回り中距離が得意で、イージーゴアは大飛びなステイヤーであったため、対決舞台に得意条件が多かったサンデーサイレンスの方が有利だったとも言われる。ちなみに、2頭の勝負は常に人気薄の方が優勝するという結果に終わっている。

体にシャドーロールの姿は産駒のジェニュインを思い浮かべてもらえば分かり易い(シャドーロールの色が違うけど)。脚運びが滑らかで、いつ手前を変えたのかも分からない程だったそうである。加速しながらコーナーをこなせる器用さもあった。そしてあまりの酷さに騎手が怒って騎乗拒否を起こすほどの気性難と引き換えに得た、類の勝負根性。どれも後に産駒に良く伝える事になるこの特徴が、デビュー前の評価を覆した「突然変異」に繋がったのであろう。

1996年ライバルイージーゴアに1年先んじてアメリカ競馬殿堂入り20世紀のアメリカ名馬100選では31位。ここでも34位のイージーゴアに勝っている。

種牡馬として―生まれ変わる馬屋の意地

ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね
わたしは生まれ変われないが、わたしのね、屋の意地は生まれ変われるんだ

吉田善哉

血と知と地 ― 馬・吉田善哉・社台

時はサンデーサイレンスのデビュー前、1971年に遡る。当時、まだ一介の中小牧場に過ぎなかった日本社台ファームは、ケンタッキー州に初の海外牧場としてフォンテンブローファームを設立した。社台ファーム創業者の吉田善哉は、22歳の長男吉田照哉を場長としてアメリカへ送り込み、かねてからのであった海外ホースマンとの繋がりを模索し始めたのだった。

フォンテンブローファームは名門クレイボーンファームの近所に設立されたが、それはアーサー三世のストーンファームの近所であることも意味していた。当時クレイボーンから飛び出したばかりの29歳のアーサー三世は、年が近く、同じ長男で、同じ苦労人の照哉氏と知り合い、学生時代に音楽をしていた共通点から意気投合。照哉氏に米国競馬界の知識を伝授することになった。
フォンテンブローファームは78年に売却され、照哉氏も帰することになったが、それからもアーサーテルヤの交は続いていた。善哉氏の狙いは見事に成功し、これが20年余後に実を結ぶことになる。

ちなみに全な余談ではあるが……。74年当時のクレイボーンファームではとある日本人青年が不法就労しており、照哉氏と交を持っていた。不法は半年でバレ、外退去命を受けた青年に、照哉氏は転職先としてイギリスの厩舎を紹介し、コンコルドの切符まで手配してやった。やがて帰したその青年は、自らの牧場を作り、クラブ法人ラフィアン」を起こし、日本競馬界の名物馬主……マイネ軍団総帥・岡田繁幸としてその名をかせる。後年、岡田総帥は種牡馬サンデーサイレンスを「最高傑作」と評価し、その血脈を自らの軍団に取り入れようと奮闘するのであった。

極東へ

閑話休題。再び、1990年アーサー三世は「アメリカでの」「種牡馬サンデーサイレンス」の成功を信じ、種牡馬入りのために1000ドル(125万ドル×40口)のシンジケートを組んだ。だが、の買付希望数は3、実際に持ち込まれた種付け希望はわずか2頭。どう見ても付き合い上の義理です本当にありがとうございました(ノ`)。血統的な評価があまりにも低く、幼少時のセリで毎回買い戻されたことで、米国生産者はほぼ全に「種牡馬サンデーサイレンス」を無視していたのだ。
これでは成功などするはずがなく、ストーンファームの経営もいよいよ立ち行かなくなる。アーサー三世はとうとう折れ、旧知のテルMr.ヨシの話に乗ることを決断した。

善哉氏がサンデーにほれ込んだのは、自宅でビデオ観戦したプリークネスステークスがきっかけだった。そして、照哉氏と現地観戦したBCクラシックで本格的に獲得を決意したのである。照哉氏も照哉氏で、かつてノーザンテーストを見出した相馬観がうずいたのか、BCクラシック直後に「売ってくれ!」とアーサー三世に頼み込んだらしい。89年9月に繋養していたディクタス死亡したこともあり、その後継として、これまでの社台のとは異なる血統のサンデーは大変魅的であったのだ。
この頃には日本の大牧場に成長していた社台ファームはその資を惜しみなくつぎ込み、前回購入した所有権にさらに上乗せして、総額1100万ドル(当時の貨幣価値で16億5000万円)を支払ったという。

かくしてサンデーサイレンスは、初年度からいきなり25億円(4150万円×60口)という当時史上最高額のシンジケートを組まれて来日した。善哉氏はアメリカで「日本ブリーダーがとても成功しそうにない系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」と笑いものになったそうだが、しかし、これがサンデーサイレンスの、そして日本競馬界の運命を大きく変えることになる。

日本に輸入されたサンデーサイレンスはさすがに人気であり、たちまちシンジケートは満口となった。だが、当時は日本でも既に*リアルシャダイや*トニービン、*ブライアンズタイムといった様々な人気種牡馬が名を連ねていたこと、それに種付け料が1100万円と高めだったこともあり、外部からはさほど優秀な繁殖牝馬は集まらなかった。サンデーサイレンスの成功を信じた善哉氏は社台の名繁殖牝馬にこぞってサンデーサイレンスをつけさせたが、自身はサンデー産駒のデビューを見ることなく、1993年にこの世を去った。

サンデーサイレンス旋風

生まれた産駒に対する競馬関係者からの評価はそれ程高くはなく、史上に残る大失敗か? とも思われたのだが……。予想を覆して産駒は大活躍。なにしろ初年度の産駒がいきなり産駒初出走初勝利を挙げ、初重賞制覇となった札幌3歳ステークスではいきなりワンツーフィニッシュ。初年度産駒では朝日杯3歳ステークスを制したフジキセキ三冠間違いなし、といわれる強さを誇っていたが故障で脱落。それでいてなお、その年のクラシックの勝ちは以下であった。

レース
桜花賞 ワンダーパヒューム フォティテン
皐月賞 ジェニュイン サンデーサイレンス
オークス ダンスパートナー サンデーサイレンス
日本ダービー タヤスツヨシ サンデーサイレンス
菊花賞 マヤノトップガン ブライアンズタイム

……クラシックタイトルの過半数を制覇? 何を言ってるのかさっぱり分からない……。信じ難い大活躍に日本競馬関係者は驚愕し、アメリカ競馬関係者もを疑ったという。それでも、前年に三冠馬オークス馬を輩出したブライアンズタイムよりは衝撃は弱かったが……、翌年以降もそのブライアンズタイムえる勢いで毎年のようにGIを輩出した結果、一気に人気種牡馬となる。決定的だったのが種付け数で、当時年間数十頭までが当たり前だった中で、100頭越えの種付け数を毎年こなし、これが結果的にリーディンサイアーとなる原動となった。

あまりの活躍ぶりに「産駒が熟なだけでは?」と疑うも多かった。然し、そんなサイレンススズカが連勝をひた走ったあたりから小さくなり、スペシャルウィーク古馬王道を駆け抜けた頃には鳴りを潜め、ステイゴールドが7歳にして香港ヴァーズゴール線に突っ込んだ結果、全に沈黙した。

アメリカではダートでしか走っていないサンデーサイレンスだが、サンデーサイレンスの産駒は芝でに活躍(中央競馬ダートGIを勝ったのはゴールドアリュールのみ、地方競馬ダートGIを含めてもイシノサンデーが加わるのみである)。様々な距離レースで活躍し、サンデーサイレンスの産駒はまさに日本競馬界を席巻した。13年連続リーディンサイアーというとてつもない記録[4]がそれを物語る。

更に凄まじかったのが、種牡馬種牡馬としてのである。これだけ活躍したサンデーサイレンスも、その子孫の系統は、これまでの日本競馬史同様、縮小再生産されるだろうと思われていた。実際、後継種牡馬達も、重賞それなりに輩出するが、当初期待された孫世代からのGIはしばらく出てこなかった。当たり前である。当のサンデーサイレンスが大量の優秀な繁殖牝馬相手に種付けをしていたのだから。
2002年サンデー死亡すると、その産駒と入れ替わるように、2003年にザッツザプレンティダンスインザダーク産駒)が菊花賞を制覇。以後、フジキセキダンスインザダークステイゴールドスペシャルウィークアドマイヤベガアグネスタキオンマンハッタンカフェゴールドアリュールダイワメジャーハーツクライディープインパクトらの後継種牡馬からでるわでるわ、続々と孫世代からもGIを輩出。内種牡馬としても、フジキセキは通算勝利数、重賞勝利数を更新し、アグネスタキオンは51年ぶりのリーディンサイアーとなる。極めつけにディープインパクトに匹敵する活躍(2012-2021リーディンサイアー)をして存分にその血を広めていった。GIを輩出した後継種牡馬だけでも2桁に達し、後継種牡馬全体に至っては100頭以上を数えている。

サンデーサイレンス系は今や日本を席巻しており、その極めて高い遺伝から日本国内で産まれた後継種牡馬もよく走るを次々と輩出した結果、外産とべて不利と見られていた内種牡馬を保護する観点から設けられていた父内国産馬という区分が事実上消滅するほどの繁栄ぶりを誇っている。何しろ2011年ダービーでは、出走した18頭のうち16頭のがサンデーサイレンス、他の2頭はがサンデーサイレンスだった。
種牡馬流だった時代では少数だった「過去日本GIレースで活躍したたちが、今のGIレースで活躍する」という[5]サンデーの孫世代以降当たり前になった。このことは競馬ファンにより強い近感を与える効果にも繋がり、競馬ファンの裾野を拡げた功績の大きさは計り知れない。

一方で、最終的に3000万円えるまでに高騰した種付け料と、それ以上の価格で取引される産駒達により、社台グループと、社台と懇意な馬主が「独り勝ち」し、多くの中小牧場や個人馬主倒産・撤退を余儀なくされたという負の面も生んだ。実際の競馬においても、勝つのはこれら社台グループ系列の生産者・馬主・厩舎(・騎手)ばかりではないか……という「社台の運動会摘に繋がっている。良くも悪くもサンデーサイレンスは日本競馬そのものを変えてしまったのだ。

ここまで血の偏りが濃くなったことから、「セントサイモンの悲劇が再び引き起こされるのでは?」という心配もされたが、後継種牡馬・繫殖の世代が進んだことによりいわゆる「奇跡の血量」(4×3のインブリード)と言われる近交配が可な世代に至ったことから、これも杞憂に終わりそうな状況である。

重賞勝利だったディヴァインライトの産駒から英1000ギニー馬ナタゴラが、ディープインパクト産駒からは英2000ギニー敗で制したサクソンウォリアージョッケクルブ賞(仏ダービー)を勝ったスタディオブマンが現れ、ハーツクライの産駒からはGIヨシダが同種牡馬入りしてサンデーサイレンスの血をアメリカに持ち帰るなど、既に世界にも存分に勢図を広げている。日本競馬るにおいてもはや絶対に外せない存在、それがサンデーサイレンスなのである。

サンデーサイレンス産駒は2018年のビュレットライナー(ディープインパクトと同じ2002年生まれ)を最後に全て引退し、現役はいなくなった。

運命に嚙みついた馬、ここに眠る

とはいえ、1つだけサンデーサイレンスにも持ち得なかった物があった。それは寿命である。

2002年に体調を崩したサンデーは、5月の負傷がもとでフレグモーネを発症。3度の手術も実らず、8月に蹄葉炎を発症し、18日に眠るように息を引き取った。まだ16歳(人間換算で50~56歳ぐらい)だったので、まだまだ種牡馬として活躍出来ただろう、とあまりに惜しまれる死であった。
ライバルの1頭であったブライアンズタイムが28歳(人間だとおよそ80~92歳!)で死ぬ直前まで種付けしていたことを考えると残念でならない[6]

その死はAP通信の速報で世界にも報じられた。亡骸は火葬され、現在は社台スタリオンステーションの一に、善哉氏の遺品と共に埋葬されている。

時は流れ、2021年日本からブリーダーズカップへ遠征したラヴズオンリーユーマルシュロレーヌは、サンデーサイレンスの血を引くとして初めてBCを制覇した。極東ので生まれ変わり続けた「屋の意地」は、あの死闘から32年を経て、米国競馬の祭典に再びやってきたのである。

Sunday SilenceStay Gold→Orfevre(JPN Triple Crown)→Marche Lorraine(21 BC Distaff)

Japan has connected the Sunday Silence line for 30 years and returned to the Breeders' Cup in the United States.
A long, long story of horseman's frendship.

YOU TUBE NBC Sports公式動画
exit
1視聴者コメントより

血統表

Halo
1969 黒鹿毛
Hail to Reason
1958 黒鹿毛
Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Nothirdchance Blue Swords
Galla Colors
Cosmah
1953 鹿毛
Cosmic Bomb Pharamond
Banish Fear
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Wishing Well
1975 鹿毛
F-No.3-e
Understanding
1963 栗毛
Promised Land Palestinian
Mahmoudess
Pretty Ways Stymie
Pretty Jo
Mountain Flower
1964 鹿毛
Montparnasse Gulf Stream
Mignon
Edelweiss Hillary
Dowager

クロスMahmoud 4×5(9.38%)、Blue Larkspur 5×5(6.25%)

種牡馬成績

年度 生年別GI優勝産駒(直のみ)
92年 ジェニュインタヤスツヨシダンスパートナーフジキセキマーベラスサンデー
93年 シノサンデーダンスインザダークバブルガムフェロー
94年 サイレンススズカステイゴールド
95年 スペシャルウィーク
96年 アドマイヤベガスティンガートゥザヴィクトリー
97年 アグネスフライトエアシャカール、チアズグレイス
98年 アグネスタキオンビリーヴマンハッタンカフェメジロベイリー
99年 アドマイヤマックスゴールドアリュールデュランダル
00年 アドマイヤグルーヴオレハマッテルゼスティルインラブゼンノロブロイネオユニヴァース
ピースオブワールドヘヴンリーロマンス
01年 スズカマンボダイワエルシエーロダイワメジャーダンスインザムードハーツクライハットトリック
02年 エアメサイアショウナンパントル、スズカフェニックス、ディープインパクト
03年 フサイチパンドラマツリダゴッホ

主なサイアーライン

※個別記事があり、かつ種牡馬入りした(もしくはその予定のある)のみ

*サンデーサイレンス 1986
ジェニュイン 1992
タヤスツヨシ 1992
||グランシュヴァリエ 2005
フジキセキ 1992
||カネヒキリ 2002
||*キンシャサノキセキ 2003
||サダムパテック 2008
||イスラボニータ 2011
マーベラスサンデー 1992
サイレントハンター 1993
ダンスインザダーク 1993
||ツルマルボーイ 1998
バブルガムフェロー 1993
ステイゴールド 1994
||ドリームジャーニー 2004
||ナカヤマフェスタ 2006
||オルフェーヴル 2008
|||エポカドーロ 2015
||ゴールドシップ 2009
||フェノーメノ 2009
||レインボーライン 2013
||ウインブライト 2014
||インディチャンプ 2015
||エタリオウ 2015
スペシャルウィーク 1995
||リーチザクラウン 2006
||トーホウジャッカル 2011
メイショウオウドウ 1995
アドマイヤベガ 1996
アグネススペシャル 1997
アグネスフライト 1997
|アッミラーレ 1997
||ハッピースプリント 2011
エアシャカール 1997
ニューイングランド 1997
||ネコパンチ 2006
アグネスゴールド 1998
アグネスタキオン 1998
||アドマイヤオーラ 2004
|||アルクトス 2015
||ディープスカイ 2005
サンライズペガサス 1998
マンハッタンカフェ 1998
ミスキャスト 1998
メジロベイリー 1998
|アドマイヤマックス 1999
||ケイティブレイブ 2013
ゴールドアリュール 1999
||エスポワールシチー 2005
||スマートファルコン 2005
||コパノリッキー 2010
||ゴールドドリーム 2013
||クリソベリル 2016
デュランダル 1999
オレハマッテルゼ 2000
ゼンノロブロイ 2000
||ペルーサ 2007
ネオユニヴァース 2000
||ロジユニヴァース 2006
||ヴィクトワールピサ 2007
スズカマンボ 2001
ダイワメジャー 2001
||カレンブラックヒル 2009
||アドマイヤマーズ 2016
ハーツクライ 2001
||ウインバリアシオン 2008
||ジャスタウェイ 2009
||ワンアンドオンリー 2011
||シュヴァルグラン 2012
||スワーヴリチャード 2014
||Yoshida 2014
ハットトリック 2001
ブラックタイド 2001
||キタサンブラック 2012
||タガノエスプレッソ 2012
レゴラス 2001
アドマイヤジャパン 2002
ディープインパクト 2002
||トーセンラー 2008
||リアルインパクト 2008
||ディープブリランテ 2009
||キズナ 2010
||エイシンヒカリ 2011
||トーセンスターダム 2011
||トーセンレーヴ 2011
||ミッキーアイル 2011
||リアルスティール 2012
||サトノダイヤモンド 2013
||シルバーステート 2013
||マカヒキ 2013
||アルアイン 2014
||Saxon Warrior 2015
||ダノンプレミアム 2015
||フィエールマン 2015
||ダノンキングリー 2016
||ロジャーバローズ 2016
||ワールドプレミア 2016
||コントレイル 2017
マツリダゴッホ 2003
マルカシェンク 2003

その他のニコニコ大百科に記事があるサンデーサイレンスを系に持つ競走馬についてはサンデーサイレンス系の記事を参照。

関連動画

関連商品

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関連項目

脚注

  1. *ケンタッキーダービー優勝にはバラレイがかけられる(そのため「Run for the Roses」という異名がある)。つまり「(ケンタッキーダービーを勝つような)一流になれるじゃない」というような意味。
  2. *これだけだとオグデン氏とその他の顧問が悪役に見えてしまうので彼らの名誉のため補足すると、彼らはハンコックの遺言で正式に委託され、正な観点からハンコック名しただけである。当時のアーサー三世は音楽に傾倒する典的なドラ息子で、信用が得られなかったのも仕方がない有様だったのだ。
  3. *フェミブタゾン。人間用で言うならイブプロフェンロキソプロフェンのような鎮痛剤に近い。通常の治療用としては問題ないが、競走前に「競走中の痛みを和らげて走らせ続ける」用途で用いられることが多く、制限がかけられている。
  4. *それまでの記録ノーザンテーストの10年連続、中央競馬11年連続が最高。
  5. *サンデーサイレンス以前の、例えば1991年ダービーでは出走20頭中10頭が外国産馬。更に前の1981年ダービーでは出走27頭中22頭が外国産馬
  6. *年齢換算は、前者はWow Horsesというサイトに掲載されている「齢4歳=人間の20歳、齢24歳=人間の70歳」に基づき、4歳以降の数式「10+齢×2.5」の数式を用いたものとして、後者は前者の数式人間寿命70歳が短く見積もり過ぎていることから、古となってからの加齢を1年につき3歳とみなし、「20+齢-4)×3」に補正して計算した場合の年齢年齢換算については諸説あるため併記している。
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