シャルル=アンリ・サンソン(Charles-Henri Sanson,1739年2月15日 - 1806年7月4日)とは、フランス革命期の死刑執行人である。
パリの死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)を勤めたサンソン家4代目当主。
激動のフランス革命において、ルイ16世、マリー・アントワネットらの処刑に立ち会い、革命後の恐怖政治においても著名人を含めた多数の罪人の処刑を行った事で知られる。
当時の死刑執行人は人の死に携わる関係上、最底辺の身分として蔑まれていた。シャルルもその例外ではなく、幼年期にルーアンの学校に入学するも、身分が知れてしまい退学処分を受けている。その為自宅で神父による教育を受けて成長し、父の後を継いで15歳で死刑執行を代行、16歳で最初の処刑を行った。24年後に父が死去し、正式にムッシュ・ド・パリの称号を叙任。
出来るだけ死刑囚に苦痛を与えない方法としてギロチンが考案されると、これを導入。その僅か1年後にフランス革命が置き、敬愛する国王・ルイ16世の処刑に立ち会う事となった。更にその9ヶ月後、マリー・アントワネットの処刑を執行。
その後も反革命分子とされた王族・貴族の処刑に携わるが、マクシミリアン・ロベスピエール率いるジャコバン派が台頭、恐怖政治によって死刑囚の数はうなぎ登りとなる。多い時は1日で30人以上もの処刑を行ったという記録が残っており、ロベスピエールと対立して死刑に処せられたジロンド派の女傑・ロラン夫人が「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか!」という言葉を残して断頭台の露と消えたのは有名な話である。
その他にもマラー暗殺の実行者にして、その美貌から「暗殺の天使」と呼ばれたシャルロット・コルデー、かつての愛人であったデュ・バリー夫人の処刑にも臨み、その最期を日記に書き残している。
テルミドールのクーデターにより失脚したロベスピエールの死刑においても、シャルルは淡々と処刑に臨んだ。激動の時代をその目で見届けた翌年、家督を長男に譲って引退。
1806年、皇帝となったナポレオンに謁見し、同年ひっそりと世を去った。享年67歳。
恐怖政治下での処刑人数だけでも2,700名に及び、それ以前にも多くの刑罰・死刑を執行している。
「死刑執行人」という稀有な立場、フランス革命をその目で見届けた生き証人として、たびたびシャルルは題材となっている。
掲示板
17 ななしのよっしん
2021/05/25(火) 22:51:26 ID: ogP15ENM74
ちなみに死刑執行数1位の人はナチス党員だったので逮捕されたけど、「職務に忠実だっただけ」とされて無罪になってる
18 ななしのよっしん
2021/05/25(火) 22:56:55 ID: w5iuV8eLIV
ナチスの人はナチの戦犯を処刑するために再雇用されたとか
まあヴァイマル政府時代からやってたんで腕は確かだったろうし、なり手がいないだろうしなあ
19 ななしのよっしん
2022/04/03(日) 23:55:52 ID: BTkeM3sRvV
NHKの特集だと恐怖政治の頃は、貴賤問わず毎日10人以上を自分が処刑したり周囲が執行するのを見届ける日々が続く&民衆は「他の街が100人処刑?ならパリは1000人処刑して格上だってことを見せつけてやる!」「免罪の可能性?とりあえずギロチンで」って処刑が日常メンタルでサンソンのSAN値はゴリゴリ削れて幻覚みたりしたこともあったらしい
晩年は草いじりが趣味だったらしいけど、立派な赤いチューリップが咲いたときに「綺麗に咲いたけど、民衆はお前が血で育てたからだろっていうんだろうなぁ」って感じになってたらしい
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最終更新:2024/04/19(金) 05:00
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