シリウスシンボリ 単語

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シリウスシンボリ

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シリウスシンボリとは、1982年生まれの競走馬1985年東京優駿日本ダービーの勝ちである。

の活躍よりお家騒動が有名だったり・・・。

な勝ち
1985年:東京優駿(GI)

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
シリウスシンボリ(ウマ娘)を参照してください。

ダービーまで

まぁ、まずこのの生産者にして馬主の、和田共弘氏の事を言わないと始まらないよね。

和田共弘(1922年〜1994年)氏はオーナーブリーダーでシンボリ牧場の代表。非常に革新的な考えの持ちで、産の中心地が日高に一極集中していく中で千葉にも牧場がある地の利を活かし、現在では当たり前になっている短期放牧を取り入れたり、スピードシンボリ以来所有馬海外遠征を積極的に推し進めたりした。大種牡馬パーソロンを輸入し、その産駒からシンボリルドルフが出てシンボリ牧場の最盛期を築き上げた。社台グループ総帥、そしての仲とも言われるライバル吉田善哉と共に、日本競馬史上屈の名である。

・・・反面、こういう成功者にありがちなわがまま、独尊、切れ易い人であった。自分のを預けた厩舎に介入し、このレースを使えだのこの騎手じゃ駄だのうるさい事この上なかったのである。しかも自分の言う事を聞かなければ切れる。怒る。トラブル続発。当時から屈の問題オーナーとして名を馳せていたのであった。

シリウスシンボリは、モガミ スイートエプソム パーソロンというシンボリ牧場の集大成ともいえる血統であった。やんちゃ坊主っ気のきついであったそうだが、かなりの期待であった。

シリウスシンボリは美二本柳俊夫厩舎に入厩。戦を所属の加藤和宏騎手が務める事になった。

デビュー戦を出遅れながら勝利。期待勝利に厩舎関係者はもちろん和田オーナーもご満悦であった。何しろその年、シンボリルドルフ三冠馬になっており、これはもしかしたら二年連続でダービーが・・・。そう思ったのかもしれない。

しかし、次の特別では一着入線も斜行で失格。いちょう特別では追い込み切れずに二着。・・・さぁ、和田オーナーが怒った。

加藤騎手を降ろして岡部幸雄騎手を乗せろ」というお達しが下ったのであった。しかし、二本柳調教師はこれを突っぱねる「には騎手を乗せる」

「何言ってんだ!シリウスだ!を乗せるかはが決める!」

の厩舎の方針に従えないのなら、どうぞ引き取って違う厩舎に面倒見てもらって下さい」

・・・売り言葉に買い言葉というである。怒り狂った和田オーナーは本当にシリウスシンボリを転厩させてしまうのであった。ところがこれには厩務員組合が大反発。「今までこんな気性の悪いを頑って育て上げた厩舎関係者の努をなんと考えるか!」

それまでの和田オーナーの素行もあり、美の厩舎関係者の間に「反シンボリ」感情が急速に醸成されていった。この雰囲気には流石和田オーナーまずいと思ったのか、二本柳調教師話し合いが持たれ「次は岡部騎手を乗せるが、その次は加藤騎手を乗せる」ということで決着。シリウスシンボリは二本柳厩舎に戻ったのであった。

そんなゴタゴタのせいか既に年は明けており、若葉ステークス約束通り岡部騎手が乗って優勝。こうなると加藤騎手はもう負けられない。しかもレースは、皐月賞トライアルNHK杯を脚部不安で回避し直行するダービー

この年はミホシンザン皐月賞に勝ち「三年連続の三冠馬」を期待されながら骨折。本命が不在だった。そのためか、重賞勝ちもいのにシリウスシンボリは一番人気に支持されるのである。なんという試練。しかし加藤騎手は極めて冷静だったという(この人は強心臓で有名な人だった)。

レースでは4コーナーで先頭に並びかけて、外ラチ近くを強く抜け出して優勝。なんというか、人間のゴタゴタなんて知らん、と言いたげなレース振りであった。優勝インタビュー加藤騎手は開口一番「ゆかりちゃんのおかげです!」と妻の名を言って周囲を然とさせた。神経太いわぁ

ちなみに和田オーナーはこの日「風邪」とのことで競馬場に来ていなかったそうである。

海外へ

さてさて、シリウスシンボリはこの後、海外へと向かう。というのは、一年上の三冠馬シンボリルドルフ凱旋門賞して海外遠征をすることになっており、そもそもはシリウスはその帯同として一緒に行く事になっていたのであった。

ところが、ルドルフは脚部不安を発症。行けなくなってしまう。せっかく準備したし、ということで、シリウスシンボリはただ一頭ヨーロッパ立ったのであった。まぁ、が収まらなかった和田オーナーが「海外なら文句ねぇだろ!」と連れて行っちゃったという噂もあるが……。

ぶっちゃけ、この時代の海外遠征は今からすると「とりあえず連れて行きました」みたいなものであった。なにせ、二本柳厩舎関係者は帯同していないのである。遠征と言うより海外に転厩だ。厩務員の賃金補填とか受け入れ側の体制もあるので難しい問題ではあっただろうが、現代の関係者総出でしっかり課題を詰めていく遠征とべるとどうしても粗雑に見える。
ただでさえシリウスは気性に問題がある。いきなり新しい環境に放り込まれ、見知らぬ外人さんに囲まれて、芝が長いボコボコした競馬場で走らされてでは実なんて出せない……と思われていたが、1985年から87年初までの二年間、今からしても気壮大と言える長期ヨーロッパ遠征で14戦した結果、バーデン大賞 (G1) 4着、ロイヤルオーク賞(G1)で3着。シーシック賞3着(一番人気)。フォア賞(G3)で2着と好走しており勝つことはできなかったものの一定の成果は出している。
厩務員他も守るもののない中、後進国からやってきたシリウスがどんな扱いをされたかを考えたなら、G1掲示板に届いたのは日本ダービーの意地であっただろう。

海外転戦中で一番有名なレースダンシングブレーヴが勝った凱旋門賞で(14着)、このレース映像で良く知られている事もあり「シリウスシンボリの遠征は大失敗だった」というイメージを強く持たれているが、この年の凱旋門賞は、ベーリングシャーラスタニ、 シャーダリ、トリプティクアカテナンゴ、ダララ等出走15頭中11頭までがG1競走優勝メンバーが非常にっていた事も付け加えておく。

帰国。そして回し蹴り。

五歳の、シリウスシンボリは帰した。いやいや、お疲れ様である。英国西ドイツフランスイタリアで走った日本ダービーはもちろん史上初。当地に「ああ、日本にもダービーがあるのね」という事くらいは知らしめたに違いない。ちなみに、日本ダービーが次にヨーロッパに上陸したのは2006年ディープインパクト遠征時である。

日本では元の二本柳厩舎、加藤騎手に戻る。が、正直言って全盛期は終わっており、性格もやさぐれてしまっていて、まぁ勝てない。そもそも同期たちはみんな引退しており、すっかり時代は変わっていた。シリウスシンボリ?誰?扱いであった。

後年、騎手に戻った加藤和宏SNSで明かしたところによると、が強くわがままでゲート試験に半年かかる暴君シリウスではなくなり、人間に怯えるほどになっていたという。
跳びの大きい雄大フォームは向こうの環境に合わせてか小さく変わっていたがそれはまだマシなもの、舌が半分千切れていたりとあからさまに雑な扱いをされて萎んでいったのを想像するに難くなかったようで、二本柳厩舎の担当厩務員ともどもどうしたものか……とたいそう悩み試行錯誤を繰り返したという。優先義を実践していたのは一部の上位厩舎だけだったのだろうか。

そして6歳。この年はいわゆる「オグリキャップクラシックに出られなかった年」で、オグリキャップが古に混じって重賞荒らしていた年であった。

毎日王冠オグリキャップ威風堂々。既に王者の貫すら漂わせて圧倒的な一番人気。対するシリウスシンボリはというと、4番人気だった。ダイナアクトレスにも負けている・・・。

これにぶち切れたのか、シリウスシンボリはゲート前で突如暴れ、レジェンドテイオーダイナアクトレス続けざまに回し蹴りを放ったのである。レジェンドテイオーはかわいそうに発走除外。後で厩務員同士で喧嘩になったそうな。シリウスシンボリはというと、晴れ晴れしたのか2着に突っ込んでいる。

シリウスシンボリは続く天皇賞(秋)で7着に負け、同時に骨折が判明。引退した。ちなみにレジェンドテイオーダイナアクトレス天皇賞(秋)シリウスに先着している。だからもう許してやれ。ちなみにこの年の天皇賞を制覇したのはタマモクロスであり、芦毛スターホースが猛威を振るった年でもあった。

結局、ダービー後20走もして一度も勝てないという戦績を残す事になってしまったシリウスシンボリだったが2年間の海外遠征の中で数回は好走し、海外遠征がのまただった頃の日本競馬にとって重な財産となった。決してこの挑戦は駄ではなかったのである。
帰ってきたシリウスの姿を見るに反面教師的なところが強かったようにも思える。このあとは二ノ宮厩舎が組織したチームエルコンドルパサーに代表されるように馬主調教師騎手、生産牧場ガッチリスクラムを組んで計画的に遠征しを守りつつやるのが常識となったのはせめてもの救いだろうか。
後進国から来やがったな扱いだった向こうでの扱いもホースマンの尽で徐々に地位を上げ、トドメにJRA海外馬券発売と開催競馬場へのキックバックを開始すると日本様ぜひ来て下さい!お金ちょーだい!と優先出走権の付与など至れり尽くせりの扱いをするようになった。時代は流れたのである。

同期には二冠馬ミホシンザンがいたのだが、一度も対戦する事はかった。重馬場が苦手なミホシンザンと重馬場ダービーを勝ったシリウスは対照的であったため、どこかで対戦は見たいところであったが。

引退後は種牡馬入りするも京都4歳特別2着のオーシャンカレント、北斗優勝ベストファーザーを出した程度で結果をあまり出せず引退種牡馬として引退した後は功労として余生を過ごし2012年4月8日に老衰で30年の生涯を閉じた。32歳ミホシンザンといい、この世代はクラシックホースが長生きであった。

早すぎた名馬

80年代日本競馬界は、本来を持ちお金を出すはずの馬主よりも調教師の方が関係が強いとされる社会であり、シンボリルドルフ海外遠征時にローテを巡って騒動を起こして、故障引退に追い込まれたり、シリウスシンボリの転厩騒動や長期の海外遠征は、シンボリルドルフ三冠を取り天狗になっていたオーナーの暴挙と見做され、和田は長い間競馬サークルからで見られる結果となった。

おかげでシンボリ牧場生産は美でほとんど預かってもらえなくなり、千葉シンボリ牧場を外厩とするシステムが機しなくなってしまい、更にパーソロン以降の種牡馬失敗した事もあり、ルドルフシリウス引退後からは、長い暗期に突入していくことになる。ようやく再途がたったのは和田オーナーの死去から数年後、からオーナー職を受け継いだ孝氏が美の関係者に謝り倒し、あるいは関係者として当時を知らない厩舎関係者のルートを構築、そしてシンボリインディシンボリクリスエスといった外国産馬を導入してからの事だった。

時代が代わり、今となってはオーナー導での騎手乗り換えや外厩でのトレーニング海外遠征など和田オーナーの起こした行動は、有オーナーブリーダーとして結果を出すための手段としては寧ろ当然の物となっている。シリウスの件で和田氏に立ち向かった美慢心があったのか、坂路建設などを行い関東に美に勝つと闘志を燃やした東に90年代に入る辺りであっという間に追い抜かれの時代を迎えたが、かつてオーナーブリーダーの暴虐と反駁した行為を許容することで西高東低をしつつある。なんという皮

一方で、マティリアルでは外厩がなかなか結果を出さなかったり、実質的な転厩に近い長期の遠征など、ノウハウ試行錯誤の時代であり、結果的に生を狂わされたも多く、時代がすぎた名と言えるのかも知れない。

血統表

*モガミ
1976 青鹿毛
Lyphard
1969 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Goofed Court Martial
Barra
*ノーラック
1968 黒鹿毛
Lucky Debonair Vertex
Fresh as Fresh
No Teasing Palestinian
No Fidding
スイートエプソム
1976 鹿毛
FNo.13-e
*パーソロン
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
*シレトコ
1970 栗毛
*タカウォーク Native Dancer
Ampola
Pochette Worden
Diplomatic Bag
競走馬の4代血統表

クロスNative Dancer 4×5(9.38%)

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