シービスケット 単語

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シービスケット

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シービスケット(Seabiscuit)とは、アメリカの元競走馬種牡馬である。
名は、ハードタック(乾パン)と祖マンノウォー(軍艦)から連想して海軍乾パンの意味。 

原石、放置される

は凄まじい気性難で知られたマンノウォー産駒Hard Tack、は不出走のSwing On、ハンデ戦で活躍したWhisk Broomという血統。
一応マンノウォーの孫に当たる血統の持ち(後に対戦するクソエリートウォーアドミラル世界ではあんまり言わないけど叔父にあたる)だったが、ひんそーでちんちくりん、膝にはの瘤があるなど見栄えが全くしない上に気性が悪かったため、牧場もがも期待しちゃいなかった。

三冠馬ギャラントフォックスを育成した名伯楽であるジムフィッツシモンズ師に預けられた本の管理は、初めはV.マーラという調教助手に丸投げされ、2歳1月デビューするが5戦して未勝利。2人のタッペン助手の元でも5戦して勝てず、結局フィッツシモンズ師の元に戻ってきた。これが転機に……はならず、シービスケット自身も競走へのやる気を見せなかったこともあり、フィッツシモンズ師はギャラントフォックスの子でクラシックオマハにかかりきりで半ば放置された。6月、実に18戦で初勝利を挙げたが、その後も顧みられず惰性でレースに出されいつも負けたりたまに勝ったりして、2歳にして35戦(!)を消化し5勝した。
ちなみにオマハフィッツシモンズ師の努のかいあって1935年三冠馬いた。子でアメリカ三冠過去にも未来にも達成ペアがいない空前絶後、二の記録である。

3歳シーズンに入ってもシービスケットは短い間隔で出走し続け、年明けから12戦して4勝した。しかしながら全て下位の条件戦で評価には繋がらなかった。
そんな中、馬主は売却を決定し、自動車販売業を営むハワード氏に8000ドルで売却となった。ちなみに現在通貨価値にすると10万ドルであり、下級条件で彷徨うを売る値段としてはかなりふっかけた額設定だったが、この価格設定をしたのはフィッツシモンズ師のアドバイスによるものだったという。放置気味だったとはいえ、やる気がないだけで素質はある程度あると思っていたということであろうか。
なんにせよ後の快進撃と大人気を鑑みれば、ハワード氏は損するどころかお値打ち品を買ったと言える。 

西海岸最強古馬、全米のスターへ

馬主が変わると調教師も変わり、4度の転厩で常識にとらわれない破天荒調教スタイルを持つスミス師及び、騎手となる右を失明した落ちこぼれ騎手ジョンレッド・ポラードと出会う。ここから、彼の快進撃は始まった。

スミス師の精面を中心にした破りな調教レースへのやる気を見せ始めたシービスケットは、レッド・ポラード上に据え3戦で転厩後初勝利を飾ると今までがのように好走を繰り返し、3歳の10月西海に拠点を変え、ほぼ休みなしでレースに出ずっぱり、勝利レコード更新を繰り返していく。
4歳になると最初の大標だったサンタアニタパーク競馬場最大の競走・サンタアニタハンデキャップに年明け2戦1勝で駒を進めるが、上の油断騎乗でハナ差2着に敗れる。しかし勢いは止まらず、失態を悔やんだラード騎手がお返しとばかりにサンタアニタハンデキャップに次ぐ大競走サンフアンカピトラーノハンデキャップを7身差で制覇。そのまま増える斤量にもめげず7連勝を挙げ、更に3着を挟んでレコード勝ちを含む3連勝も記録し、最終戦ハナ差2着で終える。この活躍でこの年の全最優秀ハンデキャップを受賞する。も期待しないひんそーでちんちくりんが、西海の代表格にまでのし上がったのである。
5歳になった1938年レッド・ポラードが再び落事故を起こし、騎手生命すら絶たれかねない重傷を負う。年明け初戦の後、名手と言われたジョージウルフ騎手を新たな戦に据えてサンタアニタハンデキャップに出走したが、スタートでの致命的な不利もあって30ポンド軽い3歳ステージハンドハナ差で敗れ、「スポーツマンシップはどこにあったのか」「最高のが不当に負かされたレースだった」などと波紋を呼んだ。
それにもめげず突き進み、勝ちを重ねた。ハリウッドゴールドカップなどさらに勲章を積み上げていく。そしてついに、伝説となったウォーアドミラルとのマッチレースを迎える。

1938年11月1日、3度にわたり企画されながらそのどれもが流れた「西海叩き上げシービスケットVS東海三冠馬ウォーアドミラル」のマッチレースが、ついにピムリコ競馬場、第2回ピムリコスペシャルで実現した。
ピムリコ競馬場は立錐の余地もない大観衆で埋まり、ついにスタートが切られた。スタートでシービスケットが一気にハナを奪い、ウォーアドミラルを制し先行する。中、ウォーアドミラル三冠馬の意地にかけ負けられないと並びかけに行くが抵抗もここまで、再びリードを奪うとシービスケットが4身差をつけ、全レコード叩き出してゴールに飛び込んだ。
采がピムリコ競馬場を包み、ここにシービスケットの人気は不動のものとなった。そしてウォーアドミラルはずっと過小評価されることに(ry 

重傷からの再起、そして

しかし6歳の始動戦で左前脚の靭帯を断裂してしまう。西海の大レースでたった一つ取りこぼしたサンタアニタハンデに向けた始動レースでのアクシデントに、競馬ファンは皆引退覚悟した。
しかし営は現役続行を選択。サンタアニタハンデキャップ制覇をし休養することとなった。
そして、かつてのレッド・ポラード絶望的な負傷とそのさなかで陥ったアルコール依存症からの再起をかけ、シービスケットと共にリハビリをしていた。

かくして、いつかの名コンビはシービスケット悪夢の負傷から1年後、人って復帰した。結果こそ3着だったが、もうだめだと思われた人の復帰戦としては全く順調なものであった。
そして、3戦サンタアニタハンデキャップ戦でついに復帰後初勝利レコードで挙げ、迎えた本番。
レース群の中で包まれ絶望的な展開。しかし最内から鋭く抜け出し1身半差をつけ勝利。ついにサンタアニタハンデキャップタイトルを獲得したのだった。このレースの後シービスケットは引退した。通算成績は89戦33勝。

種牡馬となった彼は、ライバル(?)のウォーアドミラルとは違いぱっとせず、1947年14歳死亡した。根性で走っていたタイプのため上手く遺伝しなかったのだろう。
今ではいろんなの血統をつぶさに探すとようやく名前が見つけられる程度の存在である。 

1958年米国競馬殿堂入りを果たし、ブラッドホース誌「20世紀のアメリカ名馬100選」では第25位。

シービスケットは、勝率や勝ち数で特筆すべき点はない。もっと沢山走ってもっとタイトルを取ったや、もっとの高いは探そうとすればアメリカだけでもなんぼでもいる。
しかし、世界恐慌の暗い世相にあって、どん底から這い上がり、致命的な傷を負いながらあきらめなかったこの人気が集まったのは、なんとなくわからなくもない。今の日本もこういうがいたら競馬すごい盛り上がる気がする。
マスコミが作った偶像だ! なんてかれそうだけど。実際そうやってこの腐す人いるけど。 
そんな彼の鮮な生涯は、小説に何度もなり、映画も2回作られた。2003年開されたトビー・マグワイア演の「シービスケット」は見たことある方もいるんじゃなかろうか。
また、しいところだと英語教科書にも彼の生涯が取り上げられたこともあるらしい。確かに道徳教育向きな生涯だしねぇ。競馬自体が道徳教育的にどうなのという意見は却下。 

血統表

Hard Tack
1926 栗毛
Man o' War
1917 栗毛
Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Tea Biscuit
1912 栗毛
Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Tea's Over Hanover
Tea Rose
Swing On
1926 鹿毛
FNo.5-j
Whisk Broom
1907 栗毛
Broomstick Ben Brush
Elf
Audience Sir Dixon
Sallie McClelland
Balance
1919 鹿毛
Rabelais St. Simon
Satirical
Balancoire Meddler
Ballantrae
競走馬の4代血統表

クロスRock Sand 3×4(12.5%)、St. Simon 5×4(9.38%)、Hindoo 5×5(6.25%)

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