ジェレミー・バージェス(Jeremy Burgess)
とは、かつてMotoGPの車両整備員だった人物である。
1989年から1999年までミック・ドゥーハンのクルーチーフを務めた。
2000年から2013年までヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフを務めた。
現在は引退して、故郷オーストラリアのアデレード
で隠居暮らしをしている。
1953年4月16日に、ジェレミーはオーストラリア・アデレード
郊外のアデレードヒルズ
で生まれた。
農場育ちで、エンジンの付いた乗り物に親しむ少年時代を送っていた。初めてバイクを運転したのが9歳、初めて自動車を運転したのが12歳である。農場の中で、そういう乗り物を乗り回していた。農場走行用のバイクは2~3台ほど持っていた。
学校を卒業した2日後に初めて公道を走るためのバイクを買った。それはスズキのT500コブラ(1969年型)
である。仕事場に行くために購入した。当時のオーストラリアはバイクを乗るのに免許が必要なかったので、バイクが安価な移動手段だったのである。仕事場に行くためのバイクにしては、ちょっと大型で本格的すぎるバイクだった。
そのバイクを買った後、すぐに自分と気持ちが通じ合うような集団と仲良くなり、その集団の中でレースが人気だったから、ジェレミーもレースへ気持ちが傾いていった。
1972年(19歳)から1979年(26歳)までオーストラリアでバイクレースをしていた。このとき一緒にレースをしていたのは、グレッグ・ハンスフォード
、ウォーレン・ウィリング
、ケニー・ブレイク
、ハリー・ヒントン
、といった面々である。
このうちウォーレン・ウィリング
はMotoGP業界の有名人で、各チームを渡り歩いた名物メカニックである。2000年にはスズキワークスに在籍し、ケニー・ロバーツ・ジュニアのクルーチーフとなって、最大排気量クラスチャンピオン獲得に貢献した。
1970年代はレース資金を稼ぐため、水の穴を掘ったりフォークリフトを操作したりという仕事をしていた。
※この項の資料・・・記事1
、記事2
、ヤマハワークス内情本
の211ページ
1980年2月になってジェレミーはヨーロッパに渡ってレースを観戦した。ジェレミーと一緒に走っていたオーストラリア人ライダーがヨーロッパに進出してレースを続けていることを知り、「自分もヨーロッパでレースを続けることができるかも・・・」と淡い願望を抱きつつ、ヨーロッパに行った。
ヨーロッパでレースを観たジェレミーは「自分は19歳でもないし、2500万ドルも持っていない(自分は若くないし金持ちでもない、という意味)」と気づき、バイクレースを辞める決心が付いた。
ヨーロッパ滞在中は、イギリス・ロンドン郊外のサービトン
にある友人の家にいた。その友人は、スズキ・イギリス(スズキのイギリス法人)で働いていて、グレーム・クロスビー
という名ライダーと親しかった。「グレーム・クロスビーがメカニックを探している」という情報を友人から受け取ったジェレミーはグレーム・クロスビーのところへ行って雇ってくれとお願いをした。
このときのスズキのチームの名称は「テキサコ・ヘロン・スズキ」という。テキサコ
はアメリカ合衆国の石油会社、ヘロン
はイギリスの不動産会社である。本拠地はイギリス・ロンドン郊外のペディントン
にあった。
このチームに所属するライダーは、グレーム・クロスビー
とランディ・マモラ
だった。クルーチーフはジョージ・ヴクマノヴィッチ
、メカニックはミック・スミスだった。
なんと、ジェレミー・バージェスはこの4人全員と面識があった。グレーム・クロスビーとはオーストラリアで一緒に何度もレースをした。ランディ・マモラは1976年にニュージーランドでレースをしたことがあり、そのときマモラのライバル・ライダーのメカニックとして手伝いをしていたジェレミーと会っている。
ジョージ・ヴクマノヴィッチとミック・スミスはオーストラリアでウォーレン・ウィリング
のメカニックをしていて、ジェレミーにとってはライバル・ライダーのメカニックであり、知り合いだった。
ジェレミーはオーストラリア時代、自分でスズキのRG500ガンマ
を整備して走らせていた。そのバイクの走りはちゃんとしたものだったので、メカニックとしての腕は十分だと知られていた。
そしてスズキのチームに入り、ランディ・マモラのメカニックとして働くようになった。
ランディ・マモラは若く、勢いのあるライディングをして好成績を残していた。1980年と1981年は2年連続でランキング2位だった。これを支えたのがジェレミー・バージェスである。
このとき一緒に仕事をしたジョージ・ヴクマノヴィッチはかなり小柄な人だった。この記事
で、姿が見える。ジョージは煙草を吸いながらバイク整備の作業をしていた人で、夜通しでバイクをいじったときは床にタバコの吸い殻が散乱していた。※サーキットは全面禁煙のはずなのだが・・・おおらかな時代だったということだろう。
スズキには1982年まで在籍した。
ホンダグループの中のオートバイレース専門企業として、HRC(株式会社ホンダ・レーシング)が1982年9月1日に設立された。
そのとき、ジェレミー・バージェスがスズキのチームから引き抜かれた。
1983年と1984年はロン・ハスラム
のクルーチーフだった。
1985年にはフレディ・スペンサー
のチームに移り、メカニックとして働いた。この年のフレディは神がかった走りをしており、500ccクラスと250ccクラスにダブル・エントリーしてダブル・チャンピオンに輝いていた。このときはアーヴ・カネモト
というクルーチーフの部下として働いていた。アーヴ・カネモトは日系アメリカ人で、達人のメカニックとして知られる。ジェレミーは、アーヴの働きを間近で見て、メカニックとしての技量をさらに向上させた。
1986年はフレディ・スペンサーのチームメイトとしてホンダワークスに昇格してきたワイン・ガードナー
のクルーチーフを務めることになった。ワイン・ガードナーはオーストラリア出身なので、同郷のジェレミー・バージェスが担当するのがふさわしいと判断された。
1986年のガードナーはランキング2位、1987年はチャンピオン、1988年もランキング2位であり、まさしくホンダのエースとして君臨していた。この3年間をジェレミー・バージェスは支え続けていた。
1989年からはワイン・ガードナーのチームメイトとしてホンダワークスに昇格してきたミック・ドゥーハンのクルーチーフを務めることになった。
ミック・ドゥーハンは1994年から1998年まで最大排気量クラス5連覇を達成し、一時代を築き上げた。
1999年5月7日(金)、ヘレスサーキットで行われたスペインGPで、ミックは大転倒を喫して大怪我をした。この怪我の回復が思わしくなく、ミックは現役を引退することになった。
1999年シーズンの初期にミック・ドゥーハンが大怪我をしたので、ジェレミーは暇になってしまい、オーストラリア・アデレードの自宅で遊んでいた。
引退を真剣に考えていたが、1999年の夏にHRCの尾熊洋一
から電話がかかってきた。尾熊洋一は、1983年から15年あまりの間HRC総監督を務めていた人で、このときはHRC副社長になっていた。「ヴァレンティーノ・ロッシのために新チームを作るから、そのクルーチーフになってほしい。ヴァレンティーノは、『ジェレミー・バージェスが来てくれないならホンダと契約しない』とまで言っている」という内容のものだった。
この当時は、チームが用意するクルーチーフをそのまま受け入れるという選手が多数派を占めており、ヴァレンティーノのようにクルーチーフを直々に指名してくる選手は少数派だった。
引退するつもりだったジェレミーは、結局ヴァレンティーノに説得される形でMotoGPのパドックへ戻ることになった。
ヴァレンティーノとの相性は抜群で、2000年は最大排気量クラスランキング2位になり、2001年にはチャンピオン獲得。2002年と2003年も圧倒的な成績でチャンピオンを手にしている。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
の70ページ、ヴァレンティーノ自叙伝
の214ページ
2003年シーズンの初頭から、ヴァレンティーノはホンダを離れてヤマハへ移籍することを考え始めた。
ヤマハと秘密裏に交渉を進めていたが、そのときヴァレンティーノがヤマハへ望んだ条件が、「ジェレミー・バージェスとその部下のスタッフをまるごと受け入れて欲しい」というものだった。これにはヤマハも難色を示していた。ジェレミーたちを受け入れるにはヤマハのマシンを知り尽くしていたスタッフをことごとく解雇せねばならず、企業機密の流出につながってしまうのである。嫌がるヤマハ側に対して懸命に交渉し、やっと「ジェレミー・バージェスとその部下を受け入れる」とヤマハに返答させて、ヴァレンティーノは「これで大丈夫だ、ジェレミー・バージェスがいるならなんとかなる」と思った。
2003年9月19日のブラジルGP予選が終わった後、ヴァレンティーノは整備員全員を集めて、「ヤマハに移籍しようと思う。君たちにも付いてきて欲しいと思っている。返事は、2週間後の日本GPまでに用意して欲しい」と宣言した。ヴァレンティーノは翌日の決勝レースで優勝した。
2003年10月2日の日本GP予選のとき、ヴァレンティーノはジェレミーに「それで、どうするの」と尋ねた。すると、ジェレミーは「すまないが・・・私たちは、君についていかないことにしたんだ」「ホンダに残留した方がいい。ヤマハよりもずっと良い環境だ」と答えるではないか。ヴァレンティーノはこの返事に動転し、激しくうろたえた。
ヴァレンティーノはホテルツインリンクへすぐに戻り、ヤマハ関係者を即座に呼び出して、ホテルの一室で会談をした。極度に緊張した雰囲気の会談であった。その会談が終わった後も緊張が解けず、その夜はほとんど眠れなかった。
翌日の決勝はレースどころではなく、2位に終わった(それでも2位に入るのが凄いところである)。そして、ジェレミーに「僕は1人になってもホンダへ行く。ジェレミーが来てくれないとは、とても残念だ」と言った。
2003年10月12日のマレーシアGP決勝で優勝し、ヴァレンティーノは2戦残してチャンピオンを決めた。そのレースの後、ジェレミーはヴァレンティーノに対して「ヤマハと話をしてやってもいい」と言いだした。
これで大喜びしたヴァレンティーノは、ホンダとの祝勝会とアンヘル・ニエトとのお喋りを明け方5時まで続け、翌日昼まで爆睡し、「チャンピオンを確定してから契約します」といって待たせ続けたヤマハ首脳陣とのミーティングに大遅刻した。そのミーティングの後に飛行機に乗らねばならないので、ヴァレンティーノは契約書をほとんどみず、大急ぎでサインして、そして空港へ走って行った。
2003年10月18日、オーストラリアGP予選の夜、ジェレミー・バージェスはヤマハとの契約書にサインした。
このように、ジェレミー・バージェスをヤマハに連れて行くことに、ヴァレンティーノは大変な苦労をしたのである。
その苦労の甲斐あって、2004年から2010年までの7年間の中で4度の世界チャンピオンを獲得することができた。
※この項の資料・・・ヴァレンティーノ自叙伝
46~62ページ、ヤマハワークス内情本
191~209ページ
2010年8月16日にヴァレンティーノはドゥカティへの移籍を発表し、ジェレミーとその部下たちも移籍することになった。
絶大な期待が寄せられたが、ヴァレンティーノとジェレミーはドゥカティに合わず、一度も優勝できないまま、2012年8月14日にヤマハワークスへの出戻りを発表した。
2011年と2012年のドゥカティ暮らしでヤマハのマシンを走らせる感覚が鈍っていたのであろう、2013年のヴァレンティーノは次のような成績に留まっていた。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 2 | 6 | 4 | 12 | re | 4 | 1 | 3 | 3 | 4 | 4 | 4 | 4 | 3 | 4 | 3 | 6 | 4 |
4位の成績が多く、ランキングも4位に終わっていた。
ヴァレンティーノは環境を変えることを決意し、クルーチーフを交替させることにした。2013年11月8日(金)の夕方に記者会見を開いている。この記事
がそのときの画像で、ジェレミーがしょんぼりした表情になっているのが印象的。
ジェレミーの方はやる気があり、2014年シーズンもクルーチーフを続けるつもりだった。ところが、2013年11月7日になってそのことを知った。
どうやらヴァレンティーノ側からメディアの記者に対してリークがあったらしく、11月7日にイタリアのニュースサイトで「ヴァレンティーノがジェレミーを解任」というニュースが流れ始め、それを英語圏のニュースサイトが引用して報道し、ジェレミーは英語圏のニュースサイトを見て初めて知ったという。
ちなみに余談ながら、「契約中止を告げるときに直接本人に言わず、ニュースサイトやメカニックたちに情報を漏らす」というのはヴァレンティーノだけでなくイタリア人にしばしば見られる行動形態である。スズキワークスのダヴィデ・ブリヴィオ監督がアレイシ・エスパルガロに対して2016年にそうしたし
、アプリリアワークスのロマーノ・アルベジアーノ監督がサム・ローズに対して2017年にそうした
。やっぱり、直接本人にいきなり伝えるのはイタリア人にとって辛いのだろうか。
ジェレミーは「故郷のオーストラリアで、エビを捕獲して販売する食品企業に投資しているし、引退します
」と言いながら、MotoGP業界を去って行った。
引退した後は、故郷のオーストラリア・アデレードの自宅に戻り、テニスやゴルフをして過ごしている。家には芝のテニスコートがあり、友人たちが休みの日にやってくる。また、緑色の古いクルマ(Jaguar Mk II
)を整備している。
日本の雑誌「RACERS」の編集者が訪ねたときの様子を記すこの記事
や、この記事
では、緑色の古いクルマを整備している写真が載っている。ちなみに2つ目の記事の写真には、West End Draught
やCoopers
という、オーストラリア・アデレードの地ビールの段ボールが映っている。ビールを飲みながら作業しているのだろう。
MotoGPのオーストラリアGPにやってきている。2018年オーストラリアGPでは地元メディアのTwitterに登場していた
。
ホンダやヤマハで数々の栄光を手にしてきた伝説的メカニックである彼の仕事ぶりには、いくつか特徴がある。
2003年11月の頃のジェレミーは「10年間で8回の最大排気量クラスチャンピオンを獲得したクルーチーフ」として栄光の絶頂にあった。ヤマハの古沢政生さんは「ジェレミー・バージェスは高飛車な態度でヤマハの欠点を指摘してくる高圧的な人物かもしれない」と思って身構えていたが、2003年10月15日にフィリップアイランドサーキット近くのアーサー・フィリップホテル
で会談が行われたとき、そういう想像とは全く別の人物であると理解することになった。ジェレミーは謙虚で、「技術者の皆さんは、ヴァレンティーノに直接話しかけたほうがいい。自分に気を遣わなくて良い」とまで言っていた。(ヤマハワークス内情本
206ページ)
ヴァレンティーノに対して「もっと上手く走れたはずだ」などと言ったように、ライディングスタイルに対して注文を付けてくることが一切無かった。自分のマシン整備の悪さを棚に上げてライダーに責任をかぶせてくることが無かった。(ヴァレンティーノ自叙伝
178ページ)
かなりの勝ちたがりで、負けるのを嫌がる。「2000年の我々は最大排気量クラスのルーキーイヤーでチャンピオンを獲得できたはずだ」と語っていた(ヴァレンティーノ自叙伝
178ページ)
2004年当時のヤマハは、バイクに気になるところがあると色んな人がやってきてあれやこれやといじくり回す悪習があった。ジェレミーはその悪習を止めさせて、一番大きな欠点を解消することに皆の意識を集中させることにした。一番ダメなところから一つ一つ問題解消する方法を取り入れていった(ヴァレンティーノ自叙伝
197~199ページ)
レース中はピットウォールスタンド(メインストレートとピットレーンの間にある屋根付きの小屋。走行情報を表示する機械がある)に座り、いつもニヤケ面で座っていた。険しい表情になることはほとんど無かった。
ヤマハの古沢政生さんは「ジェレミーが怒っているのは見たことがない」と語っている。(ヤマハワークス内情本
212ページ)
ジェレミーはオーストラリア人である。そのためか、彼の元にはオーストラリア人やニュージーランド人のメカニックが多い。
アレックス・ブリッグス
とゲーリー・コールマン
はオーストラリア人、ブレント・スティーヴンズ
はニュージーランド人。
どうでもいい余談だが、ジェレミーを始めとするオーストラリア人やニュージーランド人は抱擁などのスキンシップを好まない。イタリア人やスペイン人は平気で抱擁するが、それとは対照的である。イタリア人のダヴィデ・ブリヴィオが、ヤマハワークス内情本
の278ページでそのことを指摘している。
2006年中頃のヤマハワークスは、「2007年からはケーシー・ストーナーがヤマハワークス入り」で決まりかけていた。ところが、契約する直前になって、ジボ(ルイジーノ・バディオーリ
。ヴァレンティーノのマネージャーで、ヴァレンティーノの意向を伝える代理人)が猛反対して、その話は流れてしまった。そのときにジボが主張した内容は「ヴァレンティーノのチームにはオーストラリア人が多い。オーストラリア人であるケーシー・ストーナーをヤマハワークスに入れると、ヴァレンティーノのチームワークに悪影響を及ぼしかねない」というものだった。(ヤマハワークス内情本
53ページ)
ジボとヴァレンティーノは、「オーストラリア人のスタッフが、同郷のケーシーに対してセッティング情報を流すなどの親切をするに違いない」と思ったのだろう。オーストラリア人たちの横の連帯を恐れたのである。
ジェレミー・バージェスの父親はオーストラリア空軍に勤務していて、第二次世界大戦に参加し、日本軍の暗号を盗聴して解読する仕事をしていた。
ジェレミーの父は、トミーガン(トンプソン・サブマシンガン
。米国で開発された短機関銃で5kgぐらいの重量がある)も持てないような華奢な人だったが、頭脳で戦っていた。
ジェレミーの父は、日本占領軍の一員として日本に足を踏み入れたこともある。
空軍を退職した後は、ABC(オーストラリアの国営テレビ局)で働いた。
母親は教師を務めていた。
ジェレミーの他にも子供がいて、1人は医者になり、1人は弁護士になっている。
※この項の資料・・・ヤマハワークス内情本
の209ページ、記事1
1993年(40歳)の暮れに結婚した。お相手は、クローディーヌ(Claudine)さん。
クローディーヌさんは、ホンダワークスのスポンサーであるロスマンズ
(イギリスのタバコ企業)に務めていた。また、ニック・ハリス
(MotoGP公式実況として2017年まで活躍した人)とも仕事をしていた。まさしく、MotoGP業界の関係者である。
クローディーヌさんはベルギー出身である。ベルギーはフランス語圏なので、フランス語風にクローディーヌと呼ばれる。
ジェレミーとクローディーヌさんの間に娘ができたので、最初のうちは奥さんと娘をレースに連れてきていた。しかし、だんだんと娘が大きくなり、学校に通わせねばならない年齢になろうとしていた。ジェレミーは、奥さんと娘をオーストラリアに定住させ、自分一人がレースの現場に単身赴任するという過酷な決断を下すことにした。これが、1999年頃のことである。
1999年にミック・ドゥーハンが引退するときジェレミーも引退したがっていたが、その理由の1つは、娘である。娘と離れて単身赴任を繰り返すのは嫌だったのだろう。
ジェレミーとクローディーヌさんの間には2人の娘がいる。
時は流れて2011年6月、クローディーヌさんは病を患ってしまい、手術することになった。ジェレミーは休暇を取り、奥さんの手術に付き添うことにした。
※この項の資料・・・記事1
、記事2
、記事3
ヴァレンティーノ・ロッシはジェレミー・バージェスのことをジェリー(Jerry)と呼ぶ。人前できちんと喋らねばならないときだけジェレミー(Jeremy)と呼んでいた。
1999年にヴァレンティーノ・ロッシと仕事することを決めたとき「イタリア語を勉強しよう」と言っていたが、結局イタリア語を覚えず、ずっと英語だけで仕事していた。
ヴァレンティーノ・ロッシは宵っ張り(夜更かし常習犯)で、朝が弱い。モーターホームで爆睡するヴァレンティーノをジェレミーが毎朝起こしに来ていた(ヴァレンティーノ自叙伝
239ページ)
2003年10月15日にジェレミーは初めてヤマハ関係者と会った。そのとき、ヴァレンティーノがジェレミーを車に迎えに行って、それでヤマハ関係者が待つホテルに連れて行った。ヴァレンティーノの記憶では「あのとき、ジェレミーは酔っ払っていた」となっているが、ジェレミーは「道行くGP関係者に『誰を待ってるんだい』と話しかけられ、誤魔化すため『立ってるだけさ』と言っただけだ。それが『ジェレミーは酔っ払っている』という噂になり、ヴァレンティーノの記憶が歪んだのだろう」と語っている。(ヴァレンティーノ自叙伝
60ページ、ヤマハワークス内情本
20ページ)
オーストラリアはヨーロッパから見てとんでもない田舎であり、往復するのに長時間飛行機に乗らねばならない。飛行機に乗っている間は暇でしょうがないので、読書をしていた。同時に3冊の本を読み進めることができたという。
1999年当時のヴァレンティーノ・ロッシは20歳で、人一倍お洒落に気を遣う青年だった。ヘルメットは格好いいデザインのものを特注で作らせ、レース後のパフォーマンスにも目一杯の精力を傾ける。ところがジェレミーは決してお洒落ではなかった。1999年11月のヘレステストで初めてホンダのマシンに乗るとき、ジェレミーは私服でやってきたのだが、そのときの格好をヴァレンティーノは「ティンバーランド
のブーツと、どうしようもなくダサい格子縞のウールのジャンパーを着ていた。この世にまだ存在していたんだと思うようなジャンパーだ」「これがあの、偉大なる伝説のジェレミー・バージェスなのか・・・前時代からワープしてきたのではないかと思えるほど、超ダサダサのこのおっさんが」とボロクソに言っていた。
そのうえ、テストに持ち込まれたホンダのマシンは真っ黒なカウルに灰色のタンクで、それとは不釣り合いにオレンジ色の車輪がついている。色彩の調和に気を遣うヴァレンティーノは「安っぽく、つまらないマシンに見えた。怖気がした。とても信じることができず、動転してしまった」と語っている(ヴァレンティーノ自叙伝
219ページ)
2004年中頃までのヴァレンティーノの姿を克明に記している。
2010年シーズンまでのヤマハワークスの内情を記した本。古沢政生さんの記述が多い。
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最終更新:2025/12/09(火) 16:00
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