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ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とは、イギリスのミドルセックス州ヘストン生まれのロックギタリスト

シカゴ 77

概要

フルネームジェイムズパトリック・ペイジ。

エリック・クラプトンジェフ・ベックと共に3大ギタリストと讃えられる、ポピュラー音楽史を代表する著名なギタリストの一人。1970年代パガニーニとも呼ばれた。

ロックバンドレッド・ツェッペリンリードギタリストでありバンドリーダーとして特に有名である。同バンドアルバム全作のプロデュースも担当した。

天国への階段」「女を愛し続けて」等での叙情的で美しいギターソロ、「移民の歌」「コミュニケーションブレイクダウン」「胸いっぱいのを」等でのパワーコードを用いた快なギターリフ、「アキレス最後の戦い」等での綿密なギターオーケストレーションなどの例があるように、優れた作曲を持ち、演奏においては変則チューニングや変則リズムの多用、アグレッシブ即興演奏バイオリンによるボウイング奏法、電子楽器テルミンを用いる、個性的で二ともいえるレジェンドギタリストである。

若き頃、ギブソンレスポールスタンダード下、膝の辺りまで低く下ろししいステージアクションで魅せ、弾きまくるその姿は、観る者にとって衝撃的な格好良さで、ロックダイナミズムと美を感じさせ、ロックギタリストアイコンであった。

70年代ロックファッションリーダーと呼ばれ、ドラゴンスーツに代表されるそのやかなステージ衣装は同年代のアーティストたちにを与えた。ストラップ限界まで下げてギターを構えるポジションは、けっして弾き易いものではないが、ロックというショービジネスにおいて視覚的な格好良さを演出した、プロフェッショナルした姿でもある。

に至ってから広く知られるようになった、その優しく慈に満ちた人柄は、エゴイストなくせ者いのロックスターの中でも異色の存在ともいえ、多くの者にしまれリスペクトされている。

ちなみに幼馴染ジェフ・ベック少年時代学校友人とは話があわず、一のより所は心優しいジミーだった。 辛辣な批評をしたイングヴェイ・マルムスティーンも会ってその人柄を知ってから何も言わなくなった。ロック様なのかもしれない…。

若い頃は女性たちをたちまち魅了した耽美で中性的な美青年ぶりを誇ったが、年々老ける度にルックスが日本人に似てきてしまい、しまいにノッポさんそっくりと言われてしまう始末であるが、笑顔が似合う素敵な老紳士である。

かつてマネージャーピーター・グラント「ジミー・ペイジをこの世から殺するなら簡単だ。ジミーのの前で、走ってくるロンドンバスに向かって2ペンス硬貨(4円くらい)を放り投げれば直ぐ様ジミーは拾いに飛び込んで轢かれることだろう」と評されたり、

レッド・ツェッペリン結成前、ロバート・プラントが連れて来たボンゾとジミー・ペイジが初顔合わせで、ちょうどおだったので食事にでも行こうとジミーが誘ったのだが、ボンゾらはどんなご馳走を奢ってくれるのだろうと喜んでついて行くと、頼んだのは豆の乗ったトーストコーヒーとか粗末なもので、しかもジミーは食後割り勘をし、二人はヤードバーズの大スターが奢ってもくれないのかと驚かされたという。不安に思ったボンゾは「おい、このバンドほんとに大丈夫なのかよ?」とプラントに尋ねてきて、結成する前からいきなり解散の危機であったり、パーティー残り物をタッパに詰めこんで持ち帰るなど、とても巨額のマネーを稼いでいる人とは思えない、財布ともいわれた貧乏性といえる尋常ではないケチぶりも伝説化してられている。

しかし慈善活動には積極的で、広島原爆被災者への多額の募や、荒れ果てた漁村の港を自費で修繕工事をおこなったり、ストリートチルドレンや難病に苦しむ子供たちを支援する財団のメインスポンサーであったりと生半可ではない。レッド・ツェッペリンの再結成ライヴは全てチャリティーイベントであった。

日本音楽記者の取材には「あなたはケチですか?」と聞かれてウルトラ激おこされたようで「はケチじゃないぜ、本当にケチならアンタダイエットペプシなんて出してないぜ、べつにでも良かったんだぞ。は締まり屋なんだ、この差は大きいぜ、の使いを知っているんだ」というようなお答えであった。

同じように某日本ギター雑誌の記者などが「あなたはテクニカルではいですね?」というような愚かな誘導尋問のような質問をして、察しの良いジミーに煙に巻かれていることに気が付かず、奏法的にろくな答えを得られずに終わっている。

このようにかつての日本メジャー音楽マスコミは、ジミーから有益な言を得られていない例が立つ。ネットでは彼らの低い質の取材を切り取って作られたTweetなどをが拡散されて立つが、ジミーなりツェッペリンを知るなら翻訳された書籍や伝記本が多くあるので、Wikipediaや本記事などのネットだけの聞はに受けず検証することを勧める。

ブートレッグなどの海賊盤音についてもファン同士による償のシェアは推奨しており、ペイジ・プラントではファンが録音し易いようにサウンドボードへの機材の接続や場所が提供されたこともあったという。業者から海賊CDを押収するのは、かつて自宅から盗まれた音の回収をはかったり、ライヴ記録の確認のためだと思われる。また提供を行った店舗には快くサインや記念撮に応じてその労に報いている。

女性の好みでは若い女の子がとにかく好きで(有名なガールフレンドに当時14歳だったロリ・マドリックスがいた)、アレイスター・クロウリー義に傾倒し70年代保守的な世情で物議を醸し出していた。かつては魔術専門書店を経営し、義の書籍の収集と復刻を行っていた。

Wikipediaにはその創生期にが書いたのか「ファッション的に魔術および魔術イメージを利用していただけである」とソースもなくあるが、ファンとしてはその方が色々都合が良いので放って置いている。関連書籍では実にアレな逸話も少なくない…。

あとWikipediaの同項にはレッド・ツェッペリンの楽曲使用料が高くと記述されているが、これはツェッペリンの楽曲がテレビドラマ映画で安っぽく使われるのを拒否して、天文学的な値段を提示しては断っていた伝説を悪くとらえて記述したものだと思われる。

バンドの解散後はメディアでの楽曲の使用には寛容となり、様々な番組や映画ツェッペリンの楽曲が使用されている。映画スクール・オブ・ロック」では上記の伝説を知るジャックブラックの頼みにより、ツェッペリン移民の歌無料で楽曲使用させた。

70年代コカインヘロインなどの麻薬ウルトラヘヴィな常習ぶりと、アルコールの過剰摂取も然と知られていて、ライヴ前に控室でジャックダニエルをラッパ飲みする姿は、危険ではあったが非常に格好良く絵になった。しかし現在ではタバコも吸わずそれらの依存症をしている。

このように普通の人物では全くない。

経歴

1944年1月9日ジミー・ペイジ誕生。

1953年一家サリー州のエプソムに引っ越す。引越し先に放置してあったスパニッシュ・ギターを与えられる。

1957年13歳、地元のスキッフルバンドに加入。英国TV番組 Wheldon Showに出演。

1959年15歳エルヴィス・プレスリーの「Baby Let's Play House」を聴いてロックンロール覚める。
ジェフ・ベックとはこの頃友人となる。

ベック談『初対面の時キラキラいて見えた。絶対友達になっておかなきゃとその時思ったんだ。あの頃のは凄く細くて、パイクリーナみたく細かった。物凄い速さギターを弾いていたけど、問題はまだも聴いていなかったってことさ。』

1962年中古ギブソンレスポールカスタムブラックビュティーを父親を保人に、分割払いで185ポンドで手に入れる(70年に盗難)。”ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズ”に加入、本格的に音楽活動を開始。

1963年、過労で体を壊し入院。バンドを脱退しアートスクールに進学する。この頃キース・リチャーズ、エリック・クラプトンらと知り合い、彼らはジェフ・ベックと共にエプソムのペイジの居間をギター練習場にする。

同年1月ジェットハリスとトミー・ミーハンセッションレコーディングに参加。初めてレコードクレジットされる。シングルDiamonds」は全英1位ヒットとなる。19歳であった。

1964年、アートスクールを辞め音楽活動に専念。トップセッションギタリストとなり、数多くのヒット曲を陰から支える。この頃、ミッキーモストが担当した全ての曲でギターを弾き、モストとは会社の共同経営者であったピーター・グラントと知り合う。

セッションギタリストは参加した曲には守秘義務がかせられる場合が多かったため全貌はであるが、一説によると英ヒットしたレコードの6割で弾いていたとも噂された売れっ子ぶりであった。

映画007 ゴールドフィンガー」のテーマ曲で弾いていたり、ニコジョー・コッカービリーフューリー、ルル、ディヴィド・ボウイ、フー、ローリング・ストーンズなどのアーティストの曲で弾いている。exit

1965年、イミディエイトレコードプロデュース契約レコーディングプロデューサーとしてジョンメイオールブルースブレイカーズ・ウィズエリック・クラプトンなどを担当。後に著名なレコーディングエンジニアとなるエディー・クレイマーと知り合う。

同年、エリック・クラプトンが抜けた埋めとして”ヤードバーズ”に誘われるが、これを断り、ジェフ・ベック推薦する。しかし、1966年ヤードバーズからバンドの創立者でリーダーであったポール・サミュエルスミスが抜けてしまい、既にプロデュース業を手がけていたペイジに、再び誘いがかかり、ヤードバーズに加入することになる。最初はベーシストとして参加していたが、後にクリス・ドレヤと交代しジェフ・ベックとのツインリードギターを実現する。
しかし1968年7月バンド空中分解。これを期にロバート・プラントジョン・ポール・ジョーンズジョン・ボーナムと共にニューヤードバーズを結成。やがて”レッド・ツェッペリン”と名を70年代音楽業界を席捲する。

1980年9月25日USツアーリハーサル中にメンバージョン・ボーナム突然すぎる死去。

同年12月4日レッド・ツェッペリンの解散表明が正式に発表される。

ペイジは悲嘆に暮れ、ジョン・ボーナムの死去した自宅に篭り、健康状態の悪化を噂されながら々とした隠遁生活に入る。トレードマークだったギブソンレスポールも一時行方不明になり、「ギターを見れば亡くした友人を想いだしてしまう」と、音楽活動の断念を思うまで落ち込んだ。だが1981年3月10日ロンドンハマースミスオディオンでの旧友ジェフ・ベックライヴに招かれ、アンコールの『ゴーイングダウン』を共演。音楽活動に復帰した。

それから数ヶの間、自前のソルスタジオに篭り、エルトン・ジョンジョージ・ハリスン、ミック・フリードウッド、ビル・ワイマンアランホワイトらといったアーティストを迎えて過ごす。また、スーパーグループXYZ”の構想が練られデモテープが録音されたが、正式に発表されることはなく企画段階で終わる。レッド・ツェッペリン10枚アルバム、『最終楽章(コーダ』の為の音の選定作業が行われたのもこの時期。

1981年8月チャールズ・ブロンソンの映画ロサンゼルスサウンドトラック依頼される。1982年2月発売。

1983年5月23日ギルフォードタウンホールで行われたエリック・クラプトンライヴに招かれ、アンコールで『コカイン』『ファーザー・オンアップ・ザ・ロード』の2曲を披露する。

3ヵ後、クラトンから依頼されたペイジは、多発性硬化症患者の支援団体「アームズ」と、同病に苦しむロ二ー・レインの為に9月20、21日の2に渡って行われたチャリティーライヴアームズ・コンサートに参加する。スティーヴウィンウッドをヴォーカルに数曲を披露。アームズUSツアーも計9回行われ、ペイジはアメリカに同行。ツアーに参加出来なかったウィンウッドの代わりをポールロジャースが勤める。

1984年ロイ・ハーパーとTV番組『オールド・グレイトホイッスルテストの為に、スコーフェル山で共演。他にも”ビーチボーイズ”、”イエス”らとライヴで共演するなど、音楽活動が活発化。

同年ポールロジャースらと”ファーム”を結成、本格的にバンド活動を再開する。

1984年ジェフ・ベックロバート・プラントナイルロジャース、ピーター・シェイファー、ディヴ・マシューズらと、”ハニードリッパーズ”の名義で、ミニアルバムヴォリューム・ワン』を発表。

1987年麻薬不法所持で2度の現行犯逮捕をされ執行猶予処分となる。だが、このことで麻薬依存症とアルコール中毒の治療を始め、一般生活に支障を来すほど悪化していた健康状態が善。

1988年ファーム解散。同年6月初のソロアルバムOutriderアウトライダー)』をリリース

1993年ディヴィッド・カヴァデールと”Coverdale Page”(カヴァデール・ペイジ)を結成。
同年3月Coverdale Page』をリリース。長く封印されてきた、ZEP時代のノウハウが惜しみなくつぎ込まれた、このアルバム衝撃をもって受け入れられ、全チャート最高5位に食い込む健闘をみせたが、思ったほど長い間はチャートに留まらず、100万枚以上の売上げに留まるという、彼らからすると不本意な結果に終わる(累計でプラチナアルバムとは成った)。

時期が悪いことに、このころ既に80年代半ばから始まったチャートの上位をHR/HM勢が独占するというブームは、とっくに終焉を迎えており、キッズたちのロックではなくラップ、ヒッピホップに向き、アンダーグラウンドでもヘヴィメタル駆逐され、新たにオルタナティブ・ロック勢が勃していたのだった。カヴァデールはバンドの存続を希望するが、チケットの売れ足の鈍いUSツアーキャンセルして日本演のみを行い、バンド活動に終止符を打つことにする。実はツアーの開催決定以前から既に、ロバート・プラントからMTV企画で一緒に音楽活動を行おうとの依頼を受けていた。この解散はアルバム収録後間もなく予定されていたことであった。

1994年MTV依頼で、人気番組アンプラグド内でジミー・ペイジとロバート・プラントセッションが実現。これを期に、二人でアルバムリリースするまでに至る。”ペイジ・プラント”はアメリカで96年までに100演をえるツアーを行い、アメリカでの音楽史における行収入記録を塗りかえる快挙を達成。

1996年レッド・ツェッペリンロック殿堂入り。”エアロスミス”らと共演。

1998年ペイジ・プラント解散。

1998年ヒップホップアーティストのパフ・ダディー(ショーン・コムズ)と組み、初のハリウッドゴジラ映画であった『Godzilla』にレッド・ツェッペリンナンバーカシミール』をヒップホップアレンジした『カム・ウィズ・ミー』を楽曲提供ニューヨークのパフ・ダディーと、ロンドンのジミーによるインターネットでの収録でも話題となった。

1999年ザ・ブラッククロウズを引き連れてチャリティーコンサート2000年まで全各地でツアーを行うが、ジミー・ペイジの健康状態の悪化が噂され、オーストラリア日本ツアーキャンセルされる。

2007年12月ロンドン一夜限りのレッド・ツェッペリン再結成ライヴを開催。故ジョン・ボーナム息子ジェイソン・ボーナムがの代役をつとめ02スタジアムに集まった観衆を熱狂させる見事なステージであった。

2008年64歳、英国サリー大学で名誉博士号を授与される。北京オリンピック閉会式で女性歌手レオナルイスと「胸いっぱいのを」を共演。

現在は様々なアーティストゲストとして呼ばれる他は、レッド・ツェッペリンヤードバーズ遺産未来に残すためのリマスリング作業をに行いつつ、本格的な音楽活動の復活が待たれている。

関連商品 ヤードバーズ

Yardbirds68」はヤードバーズ時代のライヴスタジオリマスター化して2017年に再発。驚異的な高音質と流れるような速弾きキメるマジックフィンガー】と讃えられた時代のジミー・ペイジのプレイファンなら必聴もの。「リトルゲームズ」はヤードバーズでの一のスタジオアルバムブルースを現代的な解釈で再構築した曲やインドケルト音楽的旋ハードロック的楽曲などを含むアルバム

関連商品 アウトライダー

サウンドトラックを除けば初のソロアルバムアルバムレコードのA面がロックサイド、B面がブルースサイドと呼ばれた。ロバート・プラント参加の曲などある。2008年リマスターされて再発されている。

関連商品 カヴァーデイル・ペイジ

ハードロックヘヴィメタルなどヘヴィ・ロックサウンドが炸裂されたアルバム。実は、まだ未発表曲などがあり、ボックスセットの発売が期待されている。

関連商品 ペイジ・プラント

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ブラッククロウズとのチャリティーライヴでの模様を収録したもの。発売当時まだしかったアルバムダウンロード販売がされた。レッド・ツェッペリンヤードバーズ時代の十八番を聴かせてくれる。

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  • 19ななしのよっしん

    2017/09/18(月) 08:46:21 ID: 1ZyvgKaHno

    音楽に詳しければ詳しい程メロディパクリ・・・もとい借用は別にしくもなんともない事はわかる。
    そもそもメロディ単体じゃ著作権も認められないしね。
    独創性がないという批判ならまあわかるけど、しかしやっぱり編曲にも才は必要だしなぁ。
    パクリだからといって偉大さが損なわれるというのは計にすぎる。

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  • 20ななしのよっしん

    2019/03/15(金) 16:09:35 ID: zOtB9yCc/s

    この曲の良い部分を繋げて曲を作ろうとして作曲されたとか本気で思っているならオイオイと思う
    あらゆる創作は模倣の積み重ねで、ペイジの作曲オリジナルだよ

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  • 21矢尾幸弘

    2021/08/28(土) 23:36:53 ID: JxpbEP/n/R

    ペイジさん、頼むから未発表ライブアルバムリリースしてください。

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最終更新:2023/02/07(火) 20:00

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