ジャック・ミラーとは、オーストラリア・タウンズビル出身のオートバイレーサーである。
1995年1月18日生まれ。
2012年からMotoGPのmoto3クラスにフル参戦を開始した。
2014年にはmoto3クラスでランキング2位の好成績を収める。
2015年からは最大排気量クラスに参戦するようになった。
2017年はプラマックレーシングから最大排気量クラスに参戦している。
2021年にドゥカティワークスに移籍し、念願のワークスライダーとなっている。
ゼッケンは43番を使用している。
2011年にドイツ選手権(IDM)125ccクラスに参戦したが、そのとき43番を付けていた。
2011年のmoto3スポット参戦から2014年までゼッケン8番を付けた。
2015年に最大排気量クラスに昇格するとき、ゼッケン8番をエクトル・バルベラが使っていたので、
ジャックは43番を付けることにした。
ヘルメットはイタリアのAGV、ライダースーツはイタリアのDaineseを使っている。
この2社ともヴァレンティーノ・ロッシ御用達のメーカーである。
ロッシファンであることが伝わってくる。
ジャック・ミラーのミラーはかなり一般的でありふれた名前である。
ミラー(Miller)のmillというのは畑で取れた小麦を粉にする機械のことで、その動力は風だったり、
小川を流れる水だったりした。こんな感じの建物が昔はどの農村にもあり、このそばに住んでいる人を
Millerと呼んでいた。
ジャック・ミラーは1995年1月18日オーストラリア・タウンズビルの裕福な農家の家に生まれた。
2歳半からバイクに乗り始め、農場を走り回っていた。
ジャックの両親が、ジャックの4歳年上の兄貴であるファーガスにヤマハのPW50を買い与えたが、
先にそのバイクを乗り回したのはジャックだった。
少年の頃は勝手にトラクター(こういう形の牽引車。農場でよく見かける)を乗り回していた。
人の家でもそういうことをやっていたらしい。
Wikipediaに「クアッドバイクの走行、水上スキー、フェンシングを楽しんでいた」と記されている。
7歳の頃からレースを始めた。オーストラリアらしく、土の路面をオフロード車で走るレースである。
平坦な土の路面を走る競技を「ダートトラック」、
凹凸のある土の路面をジャンプしながら走る競技を「モトクロス」というのだが、
ジャックはダートトラックとモトクロスの両方のレースに出ていた。
土の路面を走るレースで4回オーストラリアチャンピオンを獲得した。
2009年頃まで、つまり14歳頃まで土の路面を走るレースをしていた。
2009年頃に足を骨折してしばらくレースを止めていたが、そのころに黒田一義さんに出会う。
黒田さんに「ロードレース(舗装された路面を走るレース)に転向しなよ」と言われて、
そこでロードレースに転向した。
ちなみに黒田一義さんは阿部典史のメカニックだった人である。
1993年から1994年途中まで、阿部はホンダサテライトのチーム・ブルーフォックスに在籍し、
全日本で走っていた。このときのメカニックが黒田さんだった。
2009年頃にはオーストラリアに移住していて、そこでメカニックの仕事をしていたらしい。
2015年時点での奥さんはオーストラリア人であるとのこと。
ジャックは「僕の最初のメカニックはクロダサン、ウエノサン、ワタベサンなんだ」と答えていて、
ロードレース最初期は日本人メカニックの世話になったと語っている。
黒田さんはジャックについてこう語っている。
「最初は、ロードレース初戦ということで緊張していたのか、悪さをすることもなく、普通の少年でした。
ロードレース2戦目からは悪ガキになっていました」
2009年にジャックが走ったロードレースはサザンダウンズ・チャンピオンシップと、
オーストラリア・スーパーバイクシリーズと、MRRDA。
このときは地元タウンズビルから南に1000km離れたブリズベンを拠点にしていた。
ブリズベンに輸送用のクルマを置いて、レースがあるとジャックと親父はブリズベンへ飛行機で行き、
ブリズベンからクルマでサーキットへ行くのである。2009年の1年だけで6万3000km走行したという。
金曜日にジャックが学校を終えると親父はジャックを拾ってブリズベンへ行ってそこからクルマ移動。
クルマ移動の時はジャックが眠っている。
サーキットへ辿り着くとジャックがバイクで走り、その間は親父はクルマの中で眠る。
2009年の週末はずっとこんな調子だったという。
ジャックの父親のピーターはこう回想している。
「2009年はサーキットへ行くだけで6万3000km走って、サーキットで走ったのは1850kmでした。
ところがスペインの人たちは違う。スペインじゃ住んでいる所のすぐ側にサーキットがあり、
お金を払えば一日中サーキットで走っていられる。1週間で1450kmの走り込みができるんです。
オーストラリアの1年がスペインの1週間になるってわけです。スペインの環境は良いですねえ」
ジャックが15歳になった2010年に家族そろってヨーロッパへ移住した。
オーストラリアには「16歳の誕生日になるまで本格的なロードレースは禁止」という規制がある。
ジャックの参戦機会を増やしてあげるため、家族そろって移住した。
移住先はヨーロッパ大陸で、家族3人がモーターホーム(キャンピングカー)暮らしだった。
2010年から2011年はジャックをスペイン選手権とドイツ選手権で走らせるために、
ヨーロッパ中を移動していた。
こうした家族の献身的な支援もあって、2011年のドイツ選手権125ccクラスでチャンピオンを獲得した。
2010~2011年の頃は土の路面の走り方の癖が抜けきっていなかった。
しかしながらジャックなりに工夫と努力を重ね、徐々に舗装路面の走り方を習得していった。
2011年にドイツ選手権125ccクラスでチャンピオン争いするジャックの姿を見て、
MotoGPのフォワード・レーシングが声を掛け、シーズン後半の5戦に125ccクラスへスポット参戦した。
このスポット参戦の走りも上々で、ジャックは翌年からMotoGPのmoto3クラスにフル参戦した。
1年目の2012年は、フォワード・レーシングだった。
このチームはあまり良いチームではなかったらしく、ジャックは「無駄に金を使った」と言っている。
「1年目は文無し・金欠で苦しい思いをした。こんなに苦労してまでレースを続けていいのか、
とさえ思った。でも両親が『もう1年続けてみよう』と言ってくれた」と語っている。
2年目の2013年はチーム・ジャーマニーだった。
このチームは前年よりマシなチームで、ジャックの成績も上昇。シングルフィニッシュ10回を数えた。
ジャック・ミラーの回想によると1年目と2年目はチームから給料をもらえなかったらしい。
いわゆる支払いライダー(pay rider)だったのである。
2012~2013年において、冬の間のジャックはオーストラリアに帰国してバイトをして
金を稼いでいたという。
2013年の好成績を見て、若手を引き抜く眼力に定評のあるアキ・アジョ監督が、
「うちのKTMワークスに入らないか」と誘ってきた。この引き抜きは大正解だった。
ちなみに、2013年の途中まで、家族はジャックを支援するためキャンピングカー暮らしを続けていた。
2014年はKTMワークスのアジョ・モータースポーツから参戦した。
この年になって初めて、ジャックはチームからの給料をもらうようになった。
開幕戦からジャックの快進撃が始まった。開幕戦でキャリア初優勝、2戦目も優勝して連勝。
いきなりチャンピオン最有力候補に躍り出た。
シーズン前半を締めくくる第9戦ドイツGPでも優勝して、ランキング1位に立つ。
しかしながらこの時点でアレックス・マルケスも善戦しており、19ポイント差の2位に付けていた。
夏休みを終えての4戦でジャックはやや勢いが止まり、3位・5位・6位・3位と勝ちきれなくなった。
一方でアレックス・マルケスは6位・4位・2位・2位と差を詰めてくる。
第13戦サンマリノGPを終えてランキング首位ジャックと2位アレックスの差は9ポイントにまで縮まった。
そして迎えた第14戦アラゴンGP。この日は小雨が降り霧が立ちこめ、路面に濡れた部分が残っていた。
ジャック・ミラーは好スタートして先頭に立つがアレックス・マルケスも2番手に付ける。
なんとレース序盤の4周目に、バックストレートエンドの16コーナーでジャック・ミラーと
アレックス・マルケスが接触、ジャックは転倒してしまう。
アレックスはコースのライン上を走っていたがジャックは無理して外に被せようとしてしまい、
接触してしまった。「ジャックは引くべきでした。アレックスがぶつけに行っているようには見えません。
無理せずに譲ればその後のバックストレートで抜けたでしょう」と坂田和人さんは解説している。
アレックスはコースアウトするライダーが続出する状況の中しぶとく走りきり、2位に入った。
これでとうとうランキングの首位がアレックスになった。
続く日本GPでもアレックス優勝でジャックは5位。2人のポイント差は25ポイント差にまで広がった。
オーストラリアGPでジャックは優勝するもアレックスはしっかり2位を確保。
2人のポイント差は20ポイント差にしか縮まらなかった。
この時点で残りわずか2戦。ジャックは絶体絶命の窮地に陥った。
ここでついに、ジャックはそれまで披露しなかった走法を見せることになる。
第17戦のマレーシアGPでジャックはアレックスに対して反則スレスレのきわどい幅寄せを繰り返し、
アレックスの焦りを誘う作戦に出た。レース中に少なくとも6回の幅寄せを行い、何回か接触している。
1コーナーの脇でカメラを構えていた遠藤智さんは、「マシンがガチンと当たる音がした」と
証言している。こちらの動画に接近したシーンが2つほど映っている。
この幅寄せ・妨害戦術が功を奏したのかジャックが2位、アレックスが5位となり、
2人のポイント差は11ポイント差になった。
最終戦バレンシアGPはコーナーが多く平均速度が低く、いかにもミスしやすいコースであり、
ジャックにも光明が見えてきた。
最終戦は見所満点のレースとなった。ジャックが何回か幅寄せを行うもアレックスが持ちこたえ、
アレックスが兄のマルク・マルケスと同時に世界チャンピオンを獲得することになった。
2014年の6月ごろから「ジャックがmoto3からいきなり最大排気量クラスに移るのでは」という噂が
パドックを駆け巡っていた。その噂の通り、2014年9月のサンマリノGPの直後に、
ジャックがHRCと3年契約を結んだことと2015年に最大排気量クラスを走ることが発表された。
この異例の飛び級については色々な憶測が流れた。
オーストラリアでの放映権販売のためにオーストラリア人ライダーが最大排気量クラスにいることを
MotoGP運営のドルナが望んでいるんだ、と言うものが多かった。
55馬力のMoto3マシンから260馬力のMotoGP最大排気量クラスマシンに乗り換えたジャック。
やはりこの乗り換えは無理があったようで、成績は低迷した。
カル・クラッチローが語るように、ホンダのマシンはヤマハのマシンに比べても乗りにくい。
最大排気量クラス初心者には厳しいマシンだった。
しかも、ジャックのマシンに搭載していた「オープンクラス向けの統一電子制御ソフト」の出来が悪く、
自分のマシンの場所を特定する機能が上手く働かずにマシンが迷子になる事がしばしばあった。
ジャックは「2015年はマシンに殺されそうになった」と語ったことがある。
2015年のシーズン中盤頃に中本修平HRC副社長がジャックを直接注意している。
このときの中本修平HRC副社長の言葉を紹介しよう。
「ジャックは結構怠け者でトレーニングを真面目にやらず、酒癖も悪かった。
『このままだと契約を切る』と警告を出すと、それが効いたのかジャックは生活態度を改めた」
ジャックのことをMotoGP公式サイトが「かつてはパドックで稚拙な行動が見られた」と書いているが、
それはこの時期のことを言っているのである。
中本修平HRC副社長はアルベルト・プーチをジャックのお目付役として任命した。
この人はダニ・ペドロサなど数多くのMotoGPライダーを育てた鬼教官といった感じの人である。
生活態度を改めて真面目になってもまだ成績は上向かずジャックは転倒の山を築き、所属していた
チームLCRを財政難にさせた。このためチームLCRは「もうジャックを抱えられない」と悲鳴を上げた。
そこで、仕方なくMarcVDSがジャック・ミラーを引き取ることにした。
MarcVDSに移った2016年になってもまだ転倒が多く、周囲からは「ジャックの抜擢は失敗だった」と
批判を浴びる始末だった。
ところが第8戦のオランダGPであっと驚かせる初優勝を遂げたのである。
雨が降るなかでレースが始まったが雨脚が強くなっていったん赤旗中断となった。
周回数を12周に減らして再スタートしたところ、ジャックが見事に勝ったのであった。
このレースの後、表彰台の上でブーツを脱ぎ、ブーツの中にスパークリングワインを注ぎ込み、
それを飲み干すという、清潔好きの人が見たら目が点になるようなことをしている。
ジャックはこれについて「ブーツでスパークリングワインを飲むことはオーストラリアの習慣で、
シューイ(shoey)という。バーでジョークの1つとして誰かのブーツを使ってやるんだ」と言っている。
これを見たモータースポーツ関係者の間で一時期流行ってしまった。
2016年7月のF1ドイツGPで2位に入ったオーストラリア人のダニエル・リカルドがシューイを披露。
2016年8月のF1ベルギーGPではオーストラリア人のマーク・ウェバーがシューイの犠牲になった。
2016年9月のMotoGPサンマリノGPでヴァレンティーノ・ロッシがシューイをしている。
最大排気量クラスの3年目である2017年からはやっと転倒が減ってきた。
2017年はシングルフィニッシュ8回を重ねるまずまずの成績となった。
2018年はドゥカティサテライトのプラマックレーシングに移籍した。
「ホンダに比べてドゥカティは乗りやすい。こんなに自信を持って乗れるのはmoto3以来だ」と
コメントを残している。シーズン序盤のアルゼンチンGPとフランスGPで4位を獲得している。
その後はドライコンディションでも表彰台を狙えるところにまで成長し、地元のオーストラリアGPでも表彰台を獲得している。プラマックでの最終年となった2020年には優勝争いも幾度か経験し、あと一皮剥ければトップライダーとして覚醒するところまで来た。
最大排気量クラス参戦7年目にして、ついにドゥカティワークスに移籍することができた。
そして、4戦目のスペインGPにて5年ぶりの優勝。レース後のパルクフェルメでのインタビューでは涙をこらえる場面もあった。表彰式でも久方ぶりのシューイが見られるかと思われたが、それについては自重した模様である。
だが、翌5戦目のフランスGPでも優勝。ケーシー・ストーナー以来のオーストラリア人としての最大排気量クラス連勝を達成したときは、ついにシューイを解禁していた。
強いブレーキングに定評がある。
身長175cm体重70kgと大柄な体格のため、前後の荷重移動が容易であり、マシンコントロールが巧みで
スライドコントロールも上手である。
土の路面を走るレースの出身なのでマシンのリアタイヤを滑らせてコーナリングするのが大好きである。
また、リアブレーキを多用することも特徴の一つである。
リアブレーキを踏むとリアタイヤの回転が減り、リアタイヤの空転が減ってリアタイヤのスライドが減る。
リアタイヤのスライド量を調整するためにリアブレーキを使いまくっている。
リアタイヤのスライドが大好きで、スライドをコントロールするためにリアブレーキを多用する・・・
そういったところはケーシー・ストーナーと酷似している。
ちなみに平坦な土の路面を走るレースである「ダートトラック」では、
フロントブレーキが原則付いておらず、リアブレーキだけが付いている。
ジャック・ミラーもケーシー・ストーナーもダートトラック育ちなので、リアブレーキの使い方には
まさしく習熟しているのである。
体重の重いライダーは雨のレースに強い、とよく言われる。
ダニロ・ペトルッチ、カル・クラッチロー、スコット・レディング、ロリス・バズといった重い体重の
ライダーが雨のレースに強いことからも、その指摘の正しさがわかる。
ジャック・ミラーも身長175cm体重70kgと大柄な体格で体重が重い部類に入る。
ずしっとタイヤに荷重をかけることができ、滑りやすい雨のレースにもしっかり対応できる。
このためジャック・ミラーは雨のレースに強い。
2018年アルゼンチンGPの予選では雨が降り、その後晴れた。
ところがコースに不備があり、8コーナー周辺だけがびっしょり濡れてそれ以外は乾いた路面になった。
びっしょり濡れた8コーナーを見てほとんどのライダーがレインタイヤを装着して出ていったが、
ジャック・ミラーだけはなんとスリックタイヤで出ていった。
案の定というか、8コーナー周辺でこんな風に滑りまくっていたが、ジャックは見事走りきり、
予選最速タイムを叩き出してポールポジションを獲得した。
2018年イギリスGPの予選で通り雨が降り、7コーナー(Stowe)の周辺は水たまりになっていた。
ほとんどのライダーがレインタイヤを装着して出ていったが、
ジャック・ミラーだけは懲りずにスリックタイヤで出ていった。
案の定7コーナーで止まり切れていなかった。
濡れた路面でもスリックタイヤを履いて出ていくことから分かるが、ジャックは無茶なライダーである。
「英語圏のライダーは無茶を平気でやる蛮勇の乱暴者」といわれることが多いが、
ジャックもそのご多分に漏れない。
このため、ジャックは負傷が多い。
3歳の頃からさっそく大腿骨を骨折している。家の前の水たまりにbikeでドリフトしつつ突っ込み、
滑って転んで骨折し、1ヶ月半入院した。(記事の原文はbikeなので自転車なのかオートバイなのか不明)
13歳までに26回骨折している。
2015年正月に放映されたG+座談会ではジャックへのインタビュー動画が流れた。
そのときジャックは「鎖骨は何度も折ってるよ。右が6回、左が4回かな」と言いながら、
服を脱いで深々とした手術痕を見せていた。
上の前歯2本を折っていて、入れ歯になっている。動画1、動画2
モトクロスをしていたときにこうなったらしい。
この動画の2分50秒あたりで右足の手術痕が映っている。
閲覧注意の手術痕画像はこちら。右足首にホッチキスがある。
鎖骨をチタンプレートで補強してチタンボルトで固定しているレントゲン画像はこちらとこちら。
ジャックの母親のソーニャは、ジャックが骨折するたびに「もうレース止める?」と訊いたというが、
訊くたびに返ってくる言葉は「骨折を治してくれればまたレースするよ」だったという。
チャド・リードやリッキー・カーマイケルといったモトクロス選手が好きだと語っている。
「ヴァレンティーノ・ロッシが大好きで彼は僕にとってのヒーローだ。夢はロッシのようになることだ」
と2014年5月のインタビューで答えている。
同じオーストラリア国籍のケーシー・ストーナーに対しては良い感情を抱いていないようである。
2014年5月のインタビューでは「ケーシーは上手くやってきたことも少しはあったが、
かなり多くのことが悪かったですよ」と答えている。
最大排気量クラスのチャンピオンを2回獲得した同郷の英雄に対してこの評価である。
2014年11月のインタビューで「ケーシーとは話したことがない。ほんのちょっと挨拶をする程度」
と答えている。
2015年2月のセパンテストの時のインタビューで「ケーシーとは釣りのことで少しだけ話しました。
マシンについては何も話していません」と言っている。
この記事では、わざわざ「ケーシーのことをあまり悪く言いたくないんだけども・・・」と言ってから、
ヴァレンティーノ・ロッシのことを賛美している。
ケーシー・ストーナーとは2015年に同じホンダ陣営の仲間となり、2018年には同じドゥカティ陣営の
仲間になっているのだが、ジャックのSNSにはケーシーと一緒に映る写真が一切上がっていない。
ケーシー・ストーナーはヴァレンティーノ・ロッシと激しい舌戦を繰り広げていたので、
ジャックはケーシーに対して嫌悪の感情を強く抱いているのであろう。
「意見なんてものは○○の穴と同じ」事件とは、ジャック・ミラーの舌禍事件である。
ホルヘ・ロレンソに対して英語圏の人間らしくキッツい皮肉を言った。
ジャック・ミラーの人間性を理解するためにこの事件を振り返っておきたい。
この事件の経緯を理解するには、2016年サンマリノGPまでさかのぼらねばならない。
2016年9月11日にサンマリノGPが行われた。このレースの2周目の14コーナーで、ロッシが
ロレンソをこのようにパッシングした。
ロレンソファンから見ると「ロレンソが避けてないと2人とも接触転倒だったじゃないか」となり、
ロッシファンから見ると「ロレンソがインをガバガバに空けて走るからアレはOKだろう」となる。
決勝レースの後、記者会見が行われた。その席上のやりとりは、こんな感じ。
ロレンソ「いろんな意見があると思うけど、僕の意見としては、ロッシのパッシングは強引だったと思う。でも、その強引さは彼のやり方なんだ。他の選手はもっとクリーンだよ」
ロッシ「(肩をすくめて嘲笑してから)それは真実じゃないね」
ロレンソ「もし僕が避けなければ一緒に転倒していたよね?」
ロッシ「マルク・マルケスはイギリスGPであんなのを10回くらいやっていたんだ(騒ぎすぎだ)」
ロレンソ「それは君の意見だ。今回のレースのビデオ見てみなよ」
ロッシ「君だって強引なパッシングをするじゃないか」
ロレンソ「いつ?いつの話だよ」
ロッシ「(嘲笑しつつ)憶えてないけどビデオ見れば100回くらいやってるでしょ」
ロレンソ「笑うなよ これは僕の意見なんだ」
ロッシ「ビデオ見てみなよ」
ロレンソ「ビデオは後で見るけど・・・今回のレースは僕が避けなければ一緒に転倒していた」
ロッシ「同意できないね」
ロレンソ「彼はレース序盤の2周目で抜く必要は無かったし、レース中盤には抜けたと思う
だからあそこまで強引になる必要は無かったと思う でも彼は違う意見があるようだね」
この様子の動画はこちらやこちら。
ホルヘ・ロレンソが意見(opinion)という言葉を繰り返すのが印象的。
この記者会見を見て、ジャック・ミラーの胸中にはロッシと口論をするロレンソに対する嫌悪の情念が
せり上がっていたと容易に推測できる。
いつかロレンソにキッツい皮肉を浴びせてやろう・・・このようにジャックは考えたはずである。
そしてそれは、8ヶ月後に実現することになる。
2017年5月19日金曜日に安全委員会(セーフティ・コミッション)が開かれた。
この安全委員会は、最大排気量クラスのライダー20数名とレース運営の責任者数名が集まり、
レースの安全性について議論をしたり取り決めをしたりする場所である。
この日はフランスGPの初日なので、ル・マンブガッティサーキットの施設の一室で行われた。
議題は、ミシュランのフロントタイヤだった。2017年型フロントタイヤは柔らかめだったが、
このタイヤは多くのライダーから非難の声が上がっていた。「2016年型フロントタイヤの方がいい」
という声が多く上がっていて、とうとうこの安全委員会で投票が行われることになった。
2016年型の固めフロントタイヤに戻すことを支持したのはジャック・ミラー含めて20人。
2017年型の柔らかめフロントタイヤを支持したのはホルヘ・ロレンソ、マーヴェリック・ヴィニャーレス、そしてあと1人の、合計3人だった。
そしてこのとき、ジャック・ミラーはホルヘ・ロレンソに向かってこんなことを言ったのだ。
「意見なんてのは○○の穴と同じ・・・誰でも1つずつ持っている」
「Opinions are like arseholes, everybody has one」
これは映画『ダーティハリー』のセリフらしいが、それを引用して言ったのである。
意味としては、「お前の意見なんて○○の穴と同じさ」といった程度の意味となる。
この失礼極まりない言い回しにホルヘ・ロレンソは当然のように怒った。
ホルヘは怒りの頂点に達するとお説教マシーンとなり、教師みたいな感じで叱ってくる。
翌日土曜日の練習走行でジャック・ミラーはこのような激しい転倒を喫したが
「あんな転倒をして命拾いしたのは神様の助けのおかげだろう」というようなことを言い、
「彼はMotoGPバイクに乗る危険性をよく認識していない。MotoGPってのはジョークで済まないんだ」
とお説教をして締めくくった。
※この事件を報じた日本語版記事はこちら、英語版記事はこちら
2017年5月7日にヘレスサーキットでスペインGPが開催された。
その決勝の6周目の1コーナーで、アルヴァロ・バウティスタがジャック・ミラーに追突してしまう。
2人揃って1コーナー外のグラベル(砂)に投げ出されてしまった。
ジャックは激高し、アルヴァロを突き倒した。そして同時に、アルヴァロのマシンに蹴りを入れている。
こちらの動画は2コーナーからの映像で、突き倒す様子とマシンに蹴りを浴びせる様子が映っている。
なんというか、もう迷いもなく、アルヴァロに飛びかかっている。
MotoGP公式の動画でもネタにされる始末。
ジャックには1000ユーロ(約12万円)の罰金が科せられた。
ジャックは裕福な農家に生まれた。家族の金銭的支援があったからレース活動を続けることができた。
スポンサーもなければヨーロッパの知り合いもいない状態でヨーロッパへ行った。
オーストラリア企業のスポンサーもヨーロッパの企業のスポンサーも付かない。
オーストラリアのライダーがスポンサー不足で苦しむことはよく語られることである。
ワイン・ガードナーもそのことをよく愚痴っている。ケーシー・ストーナーもスポンサーが無かった。
ジャックがたった1つ頼れるのは家族の財力だけだった。
裕福な農家であったがジャックのレース活動によって資金が尽き、やがて家や農場を抵当に入れて
借金することになった。2015年時点で、いまだに抵当に入っているとジャックが言っている。
「両親の支援がなければMotoGPライダーになることができなかった。両親には感謝している。
なんとか両親の借金を返したい」というのがジャックの思いである。
このためジャックは、自分の給料は両親の口座に振り込まれるようにしていると2015年に
語っている。お金が必要になったら母親に電話を掛けて「僕の口座にお金を振り込んで」と言うらしい。
両親からそうするように頼まれていないのだが、自発的にそうしていると語っていた。
こちらが一家勢揃い写真。左からお袋、ジャック、妹、兄貴、親父。
ジャックの親父。この動画の4分03秒あたりに登場。
ジャックのミドルネームはピーターで、ジャックの正式名称はジャック・ピーター・ミラーだが、
これはつまり親父の名前を受け継いでいることになる。
バイク大好きで、家の中にバイクを持ち込むほど。
ジャックのお袋。この動画の0分29秒あたりに登場。
ジャックがレースをしているときは、危なっかしくて見ていられないのでレースを観ていないという。
ジャックの4つ上の兄貴。
ジャックと両親がヨーロッパ大陸に移住したとき彼はオーストラリアの実家に残り、農業をしていた。
ジャックの2つ下の妹。この動画の1分14秒あたりに登場。
「ジャックがバイクに乗ってないときは私をいじめてましたね」とぼやいていた。
2010年には両親・ジャックとともにヨーロッパに連れて行かれ、「嫌だ、帰りたい」と言っていた。
このときの彼女は13歳ぐらい。
結局、3ヶ月経ったときに、ソーニャの両親(マギーにとって祖父母)がやってきて、
マギーを引き取ってオーストラリアに帰国させ、オーストラリアの学校に通わせることになった。
2015年から大学で看護学を学んでいる。
2013年にチームジャーマニーという弱小チームでなかなかの好走を繰り返しているジャックの姿を見て、
moto3クラスにおける実質的KTMワークスであるアジョ・モータースポーツを率いるアキ・アジョ監督は
ジャックを引き抜くことを決意した。
それと同時に、アキ・アジョはジャック・ミラーの個人マネージャーを務めるようになった。
2018年アルゼンチンGPにおいてポールポジションから発進するも4位に終わってガッカリする
ジャックの元に、アキ・アジョがやってきて励ましていた。
ドゥカティサテライトのプラマックレーシングのピットに、KTMワークスのシャツを着るアキ・アジョが
堂々と入りこんでいてビックリした方も多かっただろうが、それはこういうことである。
アキ・アジョ監督はフィンランドの自宅にライダーを招いてアイスレース(凍った湖の上を走るレース)
をするのが大好きで、ジャックも招かれている。画像1、記事1
マーヴェリック・ヴィニャーレスとはアキ・アジョを個人マネージャーとしている点で共通していて、
すぐに仲良くなった。両者の誕生日はたったの6日しか離れていない。
2014年頃から、両者は同じモーターホーム(キャンピングカー)でサーキットに通っていた。
ジャックがソファで寝て、マーヴェリックはベッドで寝ていたという。
このため2人が仲良くしているシーンは多く見かける。
2015年オーストラリアのアフターザフラッグで同時出演。2016年ジャック初優勝で祝福。
こちらは一緒にジムでトレーニングしている画像。
2016年4月にマーヴェリック・ヴィニャーレスは個人マネージャーをパコ・サンチェスに替えた。
そのあとも両者は仲が良い。
2018年オランダGPmoto3クラスにて、両者が一緒にレースを見に来ていた。
ジャック・ミラーの愛称はJackassで、検索するとその手の商品が多くヒットする。
レース中に提示されるサインボードにもJackassと書かれている。
ジャックのInstagramにもJackassが出てくる。画像1、画像2
Jackassというのは雄のロバという意味で、さらに「馬鹿、マヌケ、グズ、トンマ」という意味がある。
米国や英国やオーストラリアといったアングロサクソン系の英語圏の国では、
「お前は○×(蔑称)だ」と罵られるとその蔑称を名乗って周囲の笑いを取る、
そういう現象がときおり見られる。
古い例だと、16世紀イギリスの改革派キリスト教徒が「お前らはpure(純真すぎて馬鹿正直のアホ)だ」と言われたら、その人達は「だったら我々はpureな人達という意味でPuritanと名乗ろうじゃないか」
と言い出した。このPuritanが起こしたのが「ピューリタン革命(清教徒革命)」である。
最近の例だと、2016年アメリカ大統領選挙でヒラリー・クリントンがスピーチで
「トランプ陣営の半分は嘆かわしい人たち(Basket of Deplorables)だ」と罵ったら、
トランプ陣営が「我々は嘆かわしい人たちだ!」と言い始め、選挙のスローガンに採用してしまった。Deplorablesで画像検索してみるとトランプ陣営の画像ばかり出てくる。
Deplorablesとプリントされたシャツを着る人たちの姿の画像も見られる。
こんな調子で、アングロサクソン系の人たちがわざと蔑称を誇らしげに名乗る姿はちょくちょく見られる。
スターティンググリッドで聞いているのはロック音楽で、AC/DC、モーターヘッド、ピンク・フロイド、
ジミ・ヘンドリックスがお気に入り。
AC/DCはオーストラリア出身のロックバンド、
モーターヘッドやピンク・フロイドは英国のロックバンド。
ジミ・ヘンドリックスは米国の名高いロック・ギタリスト。
2014年まではスペインのタラゴナに住んでいた。アーサー・シッシスやレミー・ガードナーといった
若いオーストラリア人と同居していた。ここは30分ぐらいで行くことができるサーキットが10ヶ所ほど
あり、サーキットで走り込みをする環境が整っている。
2015年はスペインのバルセロナに住んでいた。バルセロナにはHRC(ホンダの2輪レース専門企業)の
ヨーロッパ拠点があるので、その近くに引っ越したことになる。
2017年以降はバルセロナに近いアンドラ公国に住んでいると報道されている。記事1
2015年にチームLCRでチームメイトだったときからカル・クラッチローと仲が良い。
カルとの画像はSNSに多く投稿されている。画像1、画像2、画像3
MotoGPライダーには「レースの前はホテル・サーキット・空港にしか行かない」という修行僧タイプと、
「レースの前は近くの街へ行って買い物や外食を楽しむ」という遊び人タイプがいる。
マーヴェリック・ヴィニャーレスは前者であり、ジャック・ミラーは後者だという。
釣りが好きらしい。画像1、画像2
モトクロスが大好き。画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6、画像7、画像8
自転車トレーニングが好き。アレイシ・エスパルガロやカル・クラッチローと一緒にトレーニングする。
(彼ら2人とも自転車大好き)画像1、画像2、画像3
ブルドッグを飼っている。(ちなみにヴァレンティーノ・ロッシもブルドッグを飼っている)
画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
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最終更新:2024/04/25(木) 02:00
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