ジョアン・ミルとは、スペインの離島パルマ・デ・マヨルカ
出身のオートバイレーサーである。
2016年からMotoGPのMoto3クラスに参戦を開始した。
2017年にMoto3クラスで年間10勝を挙げてチャンピオンを獲得。デビュー2年目でチャンピオンを獲得したのはヴァレンティーノ・ロッシ以来20年ぶりの快挙だった。
2018年は名門プライベートチームのMarcVDSからMoto2クラスに参戦した。
2019年からスズキワークスに所属して最大排気量クラスに参戦するようになった。
2020年に最大排気量クラスのワールドチャンピオンを獲得した。
2023年からはレプソルホンダに所属して最大排気量クラスに継続参戦する。
ゼッケンは36を使用している。4歳年上の父方の従兄弟にジョアン・ペレロというものがおり、2009年から2011年までMotoGPの125ccクラスを走っていたが、そこでゼッケン36番を付けていた。従兄弟のゼッケンを受け継いだ形となった。
ヴァレンティーノ・ロッシの46番のフォントとそっくりのフォントで、黄色い蛍光色という点でも一致している。36は46から10引いた数でもあり、ロッシを強く意識している事が窺われる。
ヘルメットはイタリアのAGV、レーシングスーツはイタリアのダイネーゼと契約している。AGVの親会社はDaineseで、ロッシはDaineseの大株主なので、AGVとDaineseはロッシ御用達である。ロッシファンであることが伝わってくる。
名前の読み方はジョアン・ミルとホアン・ミルの2種類で表記揺れしている。前者はカタルーニャ語読みで、後者はスペイン語読み
である。本人は前者のカタルーニャ語読みを希望している。MotoGPでの名前の呼ばれ方は本人の希望に沿ったものになるのが通例である。
ちなみにホルヘ・ロレンソはJorge Lorenzoをスペイン語読みした呼び方で、これをカタルーニャ語読みすると「ジョルジェ・ロレンゾ」となる。
スペインは夫婦別姓で、子どもは両親の姓を名乗ることになっている。ジョアン・ミルの本名はJoan Mir Mayrataで、Mayrataは母親の姓である。
1997年9月1日にスペインの離島パルマ・デ・マヨルカで生まれた。
6歳の頃にバイクに乗り始めた。6歳の時にポリーニ(イタリアのバイク企業)のバイクに乗り、7歳の時にホンダのQR
という子ども向けミニバイクに乗った(記事
)。そのあとカワサキのKX65
に乗り、その次はイタリアのメトラキットというミニバイク
に乗った(記事
)。
2007年5月になって、あのホルヘ・ロレンソの父親チチョ・ロレンソの主催するレーシングクラブに入団した(記事
)。所属していた期間は1年半であり、2008年11月頃まで在籍した。チチョはブレーキとアクセルという基礎的なことを教えてくれた。
9歳の頃はもの凄く真剣にバイクレースに取り組んでいたわけではなかった。自分がなにをしたいのか明確に自覚できておらず、学校での勉強を続けるかバイクレースに打ち込むか、決め切れていなかったからである(記事)。
レースを始めたのは2007年9月頃の10歳で、これはかなり遅いスタートとなる。本人は「10歳でレースを始めたことが自分にとってはよかったと思う。自分のどこを改善すればいいのか、どうすればもっと速く走れるのかを理解できるような年齢なので」とコメントしている。
一番初めてのレースはポケバイのレースだった。あまり雨が降らないはずのマヨルカ島でレースをしたが、そのときに限って雨が降った。レインタイヤなど持っておらず、スリックタイヤで走ったので転倒した。しかし怪我をしなかったという(記事)。
チチョのレーシングクラブは、ソン・ヒューゴという地区にある小さな駐車場でバイクの乗り方を教えるものだった(航空写真)。チチョは教えるのが上手かったが、ジョアンは「このレーシングクラブで学ぶことは全て学んでしまった」と思い、父親に「他のレーシングクラブに行こう」と言った(記事
)。
チチョのレーシングクラブに通っていた頃のものと思われる動画がある(動画)。
2009年頃から在籍したのは、バレアレス諸島オートバイレース連盟が運営するクラブだった(記事
)。
2009年から2011年までの間、4歳年上の父方の従兄弟であるジョアン・ペレロがMotoGPの125ccクラスに参戦していた。12歳から14歳のジョアン・ミルは従兄弟の姿を見てレースへの関心を高めていった。
2010年7月にダニ・ヴァディーロという人に出会った。ダニから様々な教えを受け、バイクの乗り方を上達させていった。
2010年にバレスアス諸島のチャンピオンになり、2011年にCuna de Campeones Bancaja(バンカハ財団
が支援する『チャンピオンのゆりかご』選手権)で勝ち、2012年に地中海選手権PreGP125で勝った(記事1
、記事2
、記事3
)。
子どもの頃のジョアンは、バイクレースへの努力を優先していて、友達の誕生日パーティーに出ることを控えているほどだった。「他の子たちよりも激しい人生を送ってきたと思う」と語っている(記事)。
2013年、16歳になる年にレッドブルルーキーズカップに参戦し、ランキング9位に入った(資料)。この年の夏か秋にパコ・サンチェス
と初めて会った(記事
)。
2014年にレッドブルルーキーズカップでホルヘ・マルティンに次ぐランキング2位に入った(資料)。パコ・サンチェスは、MotoGPのMoto2クラスやMoto3クラスの全てのチームに「ジョアンを雇わないか」と営業して回ったが、どこのチームもジョアンを雇おうとしなかった。
バイクレーサーの中には金持ちの息子というものがいて、「息子のためなら●千万円払おう」という具合にお金を払う親父を持つ者がいる。代表例はレミー・ガードナーで、父親のワイン・ガードナーが1年につき30万~40万ドルをチームに支払っていたという(記事)。
しかし、ジョアンの実家にはさしたるお金がなく、ジョアンが売り込むことができたのはライダーとしての技能だけだった。このためパコ・サンチェスはジョアンをCEV(旧・スペイン選手権 2023年現在のFIMジュニアGP)の最も貧しいチームに押し込むことにした。
2015年はCEVのMoto3クラスに参戦した。所属したのはMACHADO-LEOPARD CAMEという弱小チームである。ペドロ・マチャド(Pedro Machad)という人物がオーナーで、ルクセンブルグの飲料メーカーのレオパード
とイタリアの侵入者感知システム製造企業のCAME
が支援していた。
ジョアンが乗ったマシンは、イオダ(Ioda-TR004)という名称のマシンである。イオダは、元ホンダF1技術者である後藤治のゲオ・テクノロジーがホンダのNSF250Rを独自チューンしたもので、基本的に2012年製のマシンで、3年落ちのマシンだった(記事
)。
一方で他の有力チームは2015年製の最先端のホンダマシンやKTMマシンを使っていた。この当時のCEVは、ホンダやKTMが最新版のマシンをCEVのチームに投入し、レースをしつつテストをしていたのである。CEVのMoto3クラスでマシンをテストして、そこで合格したマシンをMotoGPのMoto3クラスへ持ち込むのである。
有力チームよりも戦闘力が劣るマシンでジョアンは走ったのだが、なんと開幕戦で優勝した。さらに第6戦までに4勝した。これによりパコ・サンチェスはジョアンの才能を確信したという。最終的に4勝・2位1回・3位2回でランキング4位となったが、この結果は大健闘と言えた(成績表)。
ジョアンはこの2015年の走りについて「オール・オア・ナッシング(全か無か)で走りました。」と語っており(記事)、勝つか転倒かというリスキーなレースばかりしていたと言っている。
2015年のMotoGP第16戦オーストラリアGPでMoto3クラスにてワイルドカード参戦した。このとき「みんな、なんて速いんだ」と驚いたという(記事)。フィリップアイランドサーキットは平均速度が非常に高いサーキットなので、驚くのも無理はない。
2016年はMotoGPのMoto3クラスにレギュラー参戦することになった。
ジョアンは、18歳から19歳になる年にMotoGPにレギュラー参戦を開始した。これは近年の傾向からすると遅いデビューと言えるだろう。
所属するのはレオパードレーシングで、前年にダニー・ケントというチャンピオンを輩出した名門プライベートチームである。ただし、2015年はホンダを使用して、2016年はKTMに乗り換えていた。
チームメイトはファビオ・クアルタラロだった。ファビオは2015年にホンダ系の名門チームであるteam Monlauからデビューして、2016年からレオパードレーシングに移ってきたのである。ファビオは2014年にCEVのMoto3クラスで凄まじい勝ち方をしていたので2015年においてスーパールーキーとして見られていたし、2016年でも周囲の期待の目が多く集まっていた。
ジョアンもファビオも、そしてレオパードレーシングも、2015年にホンダのマシンを使って2016年にKTMを使うことになり、その点は多少の不安要素があった。
ファビオ・クアルタラロがチームを引っ張るかと思われていたが、蓋を開けてみるとファビオは低迷して一度も表彰台に乗れなかった。一方でジョアンは第10戦オーストリアGPでキャリア初優勝を飾り、2位1回・3位1回という結果を残し、ランキング5位となり、ルーキーオブザイヤーに輝いた。
2016年の18歳から19歳になる頃のジョアンは背が大きくなっていて、小さなKTMのマシンに乗ることが難しくなっていた。このためレオパードレーシングに「ホンダのマシンはKTMのマシンよりも少し大きいから、ホンダのマシンに変更してほしい」と要望を出したという(記事1、記事2
)。
2017年はレオパードレーシングで継続参戦し、マシンはジョアンの要望どおりにホンダになった。破竹の快進撃を続け、年間10勝で見事チャンピオンを獲得した。こちらがドルナ製作の祝勝動画。デビュー2年目でチャンピオンを獲得したのは1997年のヴァレンティーノ・ロッシ以来20年ぶりの快挙である。
125ccクラスやMoto3クラスで年間10勝以上をあげたのは以下の面々である。
年 | 名前 | 成績 | 勝率 |
1987年 | ファウスト・グレッシーニ![]() |
11戦10勝 | 90% |
1997年 | ヴァレンティーノ・ロッシ![]() |
15戦11勝 | 73% |
2010年 | マルク・マルケス![]() |
17戦10勝 | 58% |
2017年 | ジョアン・ミル![]() |
18戦10勝 | 55% |
2018年はMoto2クラスにステップアップした。2017年にフランコ・モルビデリというチャンピオンを輩出した名門プライベートチームのMarcVDSからの参戦で、クルーチーフはベテランのピート・ベンソンだった。
Moto3クラスで面白いように勝ち星を積み重ねたジョアンが常勝チームに所属したので期待されたが、この年の5月にMarcVDSで大規模な内紛が発生した。詳細はMarcVDSの記事の『2018年5月騒動』の項目を参照のこと。このときは9月のサンマリノGPまでジョアンへの給料が支給されなかったほどで(記事)、ここまで混乱するとライディングに集中するのが難しいだろう。
それに加えて、ジョアンとMoto2クラスのマシンの相性が今ひとつだった。2010年から2018年までのMoto2クラスはホンダCBR600RRのエンジンをワンメイクで使っていたが、このエンジンはパワーが弱いので優しく乗ってコーナーリング速度を高める乗り方をしなければならない。2015年~2016年のヨハン・ザルコや2017年のフランコ・モルビデリも優しい乗り方をするライダーだった。一方でジョアンはアグレッシブな乗り方をするライダーであり、ホンダエンジンとの相性が悪かった。ジョアンも「Moto2クラスのバイクは奇妙で、より公道車バイクに近く、レーサーのバイクではない。最大排気量クラスのマシンの方が自分に合っている。Moto2クラスのバイクのことを恋しいと思わない」と発言している(記事)。
最終的に2018年において優勝できず、2位2回・3位2回でランキング6位に終わった。
成績は今一つだったが、2017年にMoto3クラスで勝ちまくったジョアンには2018年の春の時点で最大排気量クラスから声がかかっていた。スズキワークスのダヴィデ・ブリヴィオ監督は、5月のスペインGPの時点でジョアンに声を掛けていた(記事)。ジョアンはMarcVDSと2018年から2020年までの3年契約を結んでいたが、最大排気量クラスのチームから声がかかったときにジョアンの希望があれば契約を解除できる条項があった。このためスズキワークスとの交渉がトントン拍子に進み、6月11日に契約を発表している(記事
)。
ジョアンには2017年の頃からホンダも声を掛けていた。ホンダとは2018年春に仮契約をいったん結ぶほどだったが、その仮契約は5月末に失効するもので(記事)、たいした意味はなかった。2018年春の交渉において、ホンダの代表のアルベルト・プーチは「ホンダと契約するが、レプソルホンダに加入する保証はなく、サテライトのチームLCRに在籍してもらうかもしれない」という提案をするばかりだったので(記事
)、ジョアンはスズキワークスを選んだのである。
2019年3月の開幕戦には、21歳6ヶ月で最高峰クラスのルーキーとして出場した。
この年の最大排気量クラスのルーキーは、ファビオ・クアルタラロ、フランチェスコ・バニャイア、ミゲール・オリヴェイラ、ジョアン・ミルの4人だった。そのなかのファビオ・クアルタラロは、3月の開幕戦の時に19歳11ヶ月という超の字のつく若手だったにもかかわらず、第4戦スペインGPでポールポジションを獲得し、第7戦カタルーニャGPで2位に入るという目覚ましい活躍をしていた。
一方でジョアンは、序盤の5戦でポイント獲得が1戦だけという苦戦となった。しかしシーズン中盤になって6位・8位・7位となって成績が上向いてきた。
8月4日にチェコGPが行われ、その翌日にブルノサーキットに引き続き滞在して最大排気量クラスの合同テストが行われた。その70周目において、1コーナーでマシンに技術的な問題が発生し(記事)、大転倒を喫して肺挫傷になった(記事1
、記事2
、記事3
、記事4
)。約1週間で退院したが、この転倒の恐怖は相当なものだったようで、1年以上経ったあとでも「あの転倒を思い出すと今でも息切れを起こす。本当に怖かった」と語っている(記事
)。
ちなみにこのとき、ブルノサーキットの所有者のカレル・アブラハム(父)と、その息子のカレル・アブラハム(子、MotoGPライダー)が見舞いに来てくれたという(記事)。
この肺挫傷によって8月のオーストリアGPとイギリスGPを欠場し、トレーニングができずに筋力も落ちた肺挫傷の影響は秋になっても長引き、11月のシーズン最終戦まで続いた。涼しいサーキットなら息が苦しくないが、セパン・インターナショナルサーキットのような暑苦しいサーキットでは息苦しくなったという(記事)。
肺挫傷の影響がありながらも、シーズン後半は堅調に走り、7戦を完走して5回でシングルフィニッシュした。第17戦のオーストラリアGPではシーズン最高位の5位に入っている。
2019年のルーキーイヤーのランキングは12位に終わった。ルーキーなのでまずまずの成績だったが、この年は同じルーキーのファビオ・クアルタラロが何度も表彰台にのぼる大躍進を遂げていたので、それに比べるとイマイチということになってしまった。ジョアンは「スズキのマシンは優しく乗らなければならないのに、自分のライディングスタイルがアグレッシブだったので、シーズン当初は合わなかった。もっと優しく乗らねばならない」などと発言しており(記事)、スズキのマシンへの適応に時間を費やしていたことがうかがわれる。
2020年もスズキで継続参戦。エースのアレックス・リンスがケガの影響で前半戦はもたつく中で、初表彰台を獲得する。その後も幾度もの表彰台フィニッシュを重ねて気がつけばランキング1位に上昇していた。「未勝利のチャンピオン候補」という奇妙な状態となったが、第13戦ヨーロッパGPで念願の最高峰クラス初優勝を遂げる。同GP終了現在残り2戦でランキング2位に37ポイント差を付け、タイトルに王手をかけた。
続く第14戦バレンシアGPにおいて、ランキング2位のファビオ・クアルタラロが転倒、3位のアレックス・リンスが4位に終わる中、確実に走りきって7位入賞。2020年の最高峰クラスワールドチャンピオンを確定させた。スズキのライダーがチャンピオンとなるのは、2000年のケニー・ロバーツ・ジュニア以来20年振りである。23歳75日の最高峰クラスチャンピオンは、史上7番目に若いものである。
この2020年シーズンは異様なシーズンであると同時にジョアンにとって記念すべきシーズンであるので、『2020年のジョアン・ミル』の項目でさらに詳しく記述する。
ジョアンはディフェンディングチャンピオンとして2021年に臨んだ。スズキワークスからはゼッケン1番を付けることを勧められたが(記事)、かなり長い時間悩んだ挙げ句、結局、36番を付けることにした。(記事
)。
しかし、この年は今一つだった。2位2回・3位4回・4位4回で、18戦中16戦で完走して全てがシングルフィニッシュであり、ランキングは3位であり、まずまず良好であるとも言えたが、ディフェンディングチャンピオンとしては今一つといえた。
1月にダヴィデ・ブリヴィオが電撃的に退任して、スズキワークスにおいて後任のチーム監督が1年間ずっと決まらなかった。技術的に重要な存在である佐原伸一監督がチーム監督を兼任する形となり、チームとして厳しい状態だった。たとえば、佐原伸一監督は2020年まで3戦に1回の頻度でチームに帯同するだけで、3戦に2回は日本にいて技術開発の面倒を見ていたのだが、2021年には毎戦チームに帯同するはめになった(記事)。これでは技術開発に影響が出てしまう。
それに加えてミシュランの新型リアタイヤも2年目に突入し、すべてのチームがタイヤに関するデータを積み上げてきていた。「新型タイヤを導入されて既存のデータが全て紙くずになり、データに頼った大胆なセッティングが難しくなり、マシンの素のバランスが良いスズキが躍進する」という2020年の状況が変化したのである。
スズキワークス自体も技術的にやや遅れを取っていた。2021年は各チームがライドハイトアジャスターを進歩させていたが、スズキのライドハイトアジャスターの開発は全メーカーの中で最も遅れていて、第8戦ドイツGPの時にも導入できず(記事)、第10戦スティリアGPでやっと導入されるという状況だった(記事
)。
2020年11月に最大排気量クラスのチャンピオンを獲得しても意欲が高いままだった(記事)。12月にオフシーズンになってからも「チャンピオンを防衛してやろう。そのためにハードなトレーニングをする必要がある」と張り切ってハードなトレーニングを続けていた。しかし結果が思うように出ず、肉体的にも精神的にも疲れがでてきたので、第14戦サンマリノGPが終わったあとにジョアンは1週間の休暇を取った(記事
)。このように、やる気は満ちあふれていたが結果がいまいちの1年となった。
この年のスズキは直線でのパワーを高めたエンジンを持ち込んでいた。開幕戦のカタールGPでは、ルサイル・インターナショナルサーキットの長い直線で、直線番長のドゥカティのマシンに抜かれずに耐えきっていた。スズキのマシンはコーナーで速いマシンであるのだが、それに加えて直線でも速くなった。このため開幕戦の勇姿を見たスズキファンは、ジョアン・ミルやアレックス・リンスの大躍進を予感したのである。
しかし、エンジンパワーを強くしたことによりマシンのバランスが崩れ気味になってセッティングが難しくなったのか、「勝って勝って勝ちまくる」というほどでもなかった。ジョアンは序盤のアジア・アメリカの4戦を6位6位4位4位とまとめつつ、「まだマシンの潜在能力を引き出し切れていない」と認めた(記事)。
そしてヨーロッパラウンド開幕戦のポルトガルGPでは2番グリッドから3番手を走行している最中、残り7周で、ジャック・ミラーに1コーナーで仕掛けられた。その次の瞬間、ジャック・ミラーがスリップダウンし、その巻き添えを食らってジョアンも転倒した(動画)。しかしジョアンによると、「すでにフロントタイヤが消耗しきっていたので他のコーナーで転倒していたかも」とのことである(記事
)。
続くスペインGPでも6位を確保した。ここまで4位~6位程度の堅実な成績でまとめていて、まずまず良好である。しかし、スペインGPの翌日の5月2日にとんでもないニュースが飛び込んできた。最大排気量クラスの全チームが参加する合同テストが行われ、そのテストが終わりになる夕方頃に、スズキワークスの首脳から「今シーズン限りでスズキ撤退」との宣告を受けたのである。
その次のフランスGPからオーストリアGPまで低迷の成績となった。そしてオーストリアGPの決勝1周目の4コーナーで大転倒して(動画)、右足首を骨折して靱帯を損傷し、4戦を欠場した。復帰したオーストラリアGPでもリアブレーキをうまく踏めなかったので(記事
)、痛々しさを感じる。さらにマレーシアGPでは腕上がりになり、「足首の負傷のせいでモトクロスのトレーニングがずっとできなかった。そのせいで腕上がりになったのだろう」とジョアンが分析していた(記事
)。結局シーズン後に腕上がりの手術を受けることを決断した(記事
)。
こういうわけで、2022年のジョアンは踏んだり蹴ったりの散々なシーズンになった。スズキの撤退によって、さすがのジョアンも精神的に動揺していたらしい。「モチベーションが下がった」「予想よりも影響が大きかった」「二度とチームとして一緒に仕事をすることはないと思うと悲しくなった」「気が滅入る」などという発言がある(記事1、記事2
、記事3
、記事4
)。ジョアンというと堅実そのもので、どのレースでも安定して良い成績を取るので、「精神力がもの凄く強いのではないか」という印象があるが、やはり過酷な体験だったようである。
ジョアンは「MotoGPの宣伝力は高いのになぜスズキは撤退するのだろうか」と、スズキファンなら誰でも思うことを語った(記事)。
この2022年にジョアンの2年契約が終了するので、スズキワークスを含めて様々なチームと交渉し、5月~6月頃にあらたな2年契約を結ぶものと思われていた。4月頃に行われたスズキワークスとの交渉は順調であり、スズキとの契約を結ぶ直前だったが(記事)、5月2日の撤退発表で全てが終わった。ヤマハワークスが絶不調のフランコ・モルビデリとの2022年~2023年の2年契約を破棄するかどうか確認したが、その様子が見られなかったし、ドゥカティワークスとも話してみたが「ジョアンを雇うような哲学を持っていない」と言われ[1]、レプソルホンダとの交渉に臨んだ。レプソルホンダに対して「スズキワークス時代のクルーチーフであるフランチェスコ・カルケディ
を一緒に雇ってほしい」と言いつつ交渉したが(記事
)、その希望をあきらめて契約し、8月30日に発表した(記事
)。
レプソルホンダにはあのマルク・マルケスがいる。しかしジョアンは「マルク・マルケスのことを怖いと思っていない」と頼もしい発言をしている(記事)。
MotoGPの2020年シーズンは、新型コロナウイルス(COVID-19)によるコロナ禍で非常に異様なシーズンとなった。
すでに1月の時点で世界各国に新型コロナウイルスが蔓延していたと思われるが、まだ2月25日の時点でMotoGP業界にはあまり影響が及んでいなかった。2月22日~24日にカタールのルサイル・インターナショナルサーキットで最大排気量クラスの合同テストが行われたのだが(記事)、そのテストのあとに各チームがヨーロッパの本拠地に帰国している。
2月28日~3月1日にカタールのルサイル・インターナショナルサーキットでMoto2クラスとMoto3クラスの合同テストが行われた(記事)。このときから一気に雲行きが怪しくなり、イタリアでの感染者の爆発的な拡大を受けて、2月27日にカタール政府が入国制限を強化し、イタリアや日本からの入国者に対して入国したら即座に体温検査をして、高温が測定されたら14日間隔離することを始めた(記事
)。3月1日にはカタール政府は「イタリアからの入国者は全員が14日間の隔離を必要とする」と規制を強化した(記事
)。
このため、3月8日のカタールGPは、最大排気量クラスが中止となり、Moto2クラスとMoto3クラスだけが開催されることになった。最大排気量クラスの各チームはカタールに入国しても14日間隔離されてサーキット入りできないのに対し、Moto2クラスとMoto3クラスの各チームはテスト後もカタールに滞在し続けていたからである。
カタール政府と同じように各国政府も入国制限を始めたので、アメリカズGPやアルゼンチンGPやタイGPなどのようなヨーロッパの外で開催される海外GPが次々と延期されていった。
イタリアでもドイツでもスペインでもサーキットなどのスポーツ施設が次々と閉鎖された(記事1、記事2
、記事3
)。特にコロナ禍が激しかったイタリアでは移動の自由が制限され、外出してのジョギングも禁止された(記事
)。
3月から7月までレースがことごとく延期されたので、暇を持て余したライダーたちに呼びかけてテレビゲームをやってもらってその様子をYoutubeなどで配信するということさえ行われた(動画1、動画2
、動画3
、動画4
、動画5
)。
2020年シーズンのもともとの開催日程は3月8日から11月15日までというものだった(資料)。
しかし、2020年の最大排気量クラスの開催スケジュールは次のようなものとなった。3月8日のカタールGPは、Moto2クラスとMoto3クラスだけが行われて最大排気量クラスが行われなかったが「第1戦」と扱っている。
決勝日 | レース名 | 備考 | |
第2戦 | 7月19日![]() |
スペインGP | |
第3戦 | 7月26日![]() |
アンダルシアGP | 同一サーキットで2週連続開催 |
第4戦 | 8月9日![]() |
チェコGP | |
第5戦 | 8月16日![]() |
オーストリアGP | |
第6戦 | 8月23日![]() |
スティリアGP | 同一サーキットで2週連続開催 |
第7戦 | 9月13日![]() |
サンマリノGP | |
第8戦 | 9月20日![]() |
エミリア・ロマーニャGP | 同一サーキットで2週連続開催 |
第9戦 | 9月27日![]() |
カタルーニャGP | 3週連続開催 |
第10戦 | 10月11日![]() |
フランスGP | |
第11戦 | 10月18日![]() |
アラゴンGP | |
第12戦 | 10月25日![]() |
テルエルGP | 同一サーキットで2週連続開催、3週連続開催 |
第13戦 | 11月8日![]() |
ヨーロッパGP | |
第14戦 | 11月15日![]() |
バレンシアGP | 同一サーキットで2週連続開催 |
第15戦 | 11月22日![]() |
ポルトガルGP | 3週連続開催 |
決勝日にはTwitterの検索をするURLをリンクとして埋め込んであり、レースを振り返りやすくしている。
例年なら8ヶ月かけて19レースほどを開催するのだが、2020年は4ヶ月かけて14レースを開催することになり、3週連続開催を3回実施するという過密日程となった。
ライダーやスタッフはホテルに缶詰になり、PCR検査を受けてからサーキットに入る。陽性になったらレースに参加できなくなるのだが、ホルヘ・マルティンやヴァレンティーノ・ロッシが実際に陽性となって欠場になっている(記事1、記事2
)。ライダーやスタッフは自宅や本拠地にいるときも人と交流することが難しくなり、神経をすり減らすシーズンとなった。
レースの大半が無観客試合となり、観客の歓声が全く存在しない静かな環境でライダーが走ることになり、その点でも異様なシーズンとなった。
最大排気量クラスにとっての開幕戦は第2戦スペインGPだったが、ジョアンは2周目に転倒した。第3戦アンダルシアGPでは力強く走って5位に入ったが、第4戦チェコGPでは4周目にイケル・レコーナにぶつけられて転倒した。
3戦で得たポイントはわずか11で、ランキング14位である。一方、ペトロナスヤマハに所属するファビオ・クアルタラロは優勝・優勝・7位で59ポイントを稼ぎ出し、ランキング首位に立っていた。この時点で2人の差は歴然であった。
ジョアンが覚醒し始めたのは第5戦オーストリアGPである。好スタートを決めて3番手から4番手を快走している最中に、後方でヨハン・ザルコとフランコ・モルビデリが接触して大転倒し、マシンの残骸がコース上に散乱して赤旗中断となった(動画)。再開後のレースでもジョアンは好調で、3番手を走行し(動画1
、動画2
)、最終周の最終10コーナーでジャック・ミラーを抜き去って2位を確保した(動画1
、動画2
)。最大排気量クラスに上がってから初めての表彰台獲得となった。
同じレッドブルリンクで行われる第6戦スティリアGPでもジョアンは絶好調で、いいスタートを決めて先頭に飛び出し、2番手にジャック・ミラーが続き、3番手に中上貴晶が追いかけるという展開になった(動画1、動画2
)。しかし、残り12周になってマーヴェリック・ヴィニャーレスのマシンにブレーキトラブルが発生し、マーヴェリックが1コーナーでマシンを飛び降りて、空走したマシンがエアフェンスを破壊する事態となった(動画
)。このため赤旗中断となり、12周でレースが再開された。再開後のレースでは、ジョアンには「新品のミディアムフロントタイヤ」が残っておらず、「18周を走行した後の中古のミディアムフロントタイヤ」を付けて走る羽目になり、運良く「新品のミディアムフロントタイヤ」を残していた他のライダーよりも遅い走りとなってしまった[2]。結果は4位となり、つかみかけていた優勝を逃してショボーンとした表情を見せた(動画1
、動画2
)。
第7戦サンマリノGPでもジョアンは好走を見せた。序盤は8番手あたりを走行し、そこからじわりじわりと順位を上げていく。マーヴェリック・ヴィニャーレスを10コーナーで抜き、ジャック・ミラーを1~2コーナーで抜き(動画)、最終周の10コーナーでヴァレンティーノ・ロッシを交わし、3位表彰台を確保した(動画1
、動画2
)。後から振り返ってみると、衰えが見えてきたヴァレンティーノにとって、このレースが200回目の表彰台を獲得する最後のチャンスだったが、そのチャンスをジョアンがあっさりと奪い取っていった。これが世代交代というものだろうか。このレースを終えてジョアンは首位から16ポイント差のランキング4位となった。
同じミサノサーキットで行われた第8戦エミリア・ロマーニャGPでもジョアンは好走した。11番グリッドから8番手あたりを走行し、そこから面白いように順位を上げていく。残り3周の1コーナーでファビオ・クアルタラロを抜き、残り2周の1コーナーでポル・エスパルガロを抜き、2番手にまで順位を上げてゴールインした(動画)。このレースを終えて、ジョアンは「今シーズンはランキング3位以内に入れる」と思った(記事
)。
第8戦エミリア・ロマーニャGPを終えた後のランキング表は次のようになった。
首位 | アンドレア・ドヴィツィオーゾ |
-1 | ファビオ・クアルタラロ |
-1 | マーヴェリック・ヴィニャーレス |
-4 | ジョアン・ミル |
この年は、最大排気量クラスにタイヤを独占供給するミシュランが、リアタイヤの構造を大きく変更していて、リアタイヤが柔らかいものに激変していた(記事)。そのため、各チームが積み上げていた前年までの走行データが紙くずになり、すべてのチームが横並びの平等な状態になっていて、勝ちまくるライダーというものが存在しなかった。このため14戦中の7戦を終えた時点で大接戦となった。
それにしても、4番手のジョアン・ミルというのがなんとも驚異的な名前である。ジョアンはまだ2年目のライダーで、学習中のライダーであるはずなのに・・・
第9戦カタルーニャGPは3週連続の開催となった。ファビオ・クアルタラロが残り16周で先頭に立ってそのまま押し切るレースだったが、ジョアンはレース前半を5番手あたりで追撃し、レース後半に追い上げ、2位表彰台を確保した(動画)。ランキング首位に返り咲いたファビオ・クアルタラロと、ランキング2位に上昇したジョアンのポイント差は8になった。このカタルーニャGPで好走した頃から、ジョアンは「レッドブルリンクでの快走は、まぐれではない」と思うようになった(記事
)。
第10戦フランスGPでは雨が降り、ランキング首位のファビオ・クアルタラロとランディング2位のジョアンがそろって凡走する結果となった。ファビオが9位でジョアンが11位であり、2人のポイント差は10になった。
第11戦アラゴンGPではジョアンの好走が戻った。3周目に5番手になると、そこからじわりじわりと追い上げる。残り17周では16コーナーでペトロナスヤマハの2人(フランコ・モルビデリとファビオ・クアルタラロ)をまとめて抜いている。そして3位表彰台を確保した(動画)。ファビオ・クアルタラロは18位に終わるなど絶不調で、ついにジョアンがランキング首位に立ち、2位のファビオに対して6ポイントの差を付けた。
同じモーターランド・アラゴンで行われた第12戦テルエルGPでもジョアンは好走した。序盤で5番手になり、残り18周の12コーナーでマーヴェリック・ヴィニャーレスを上手に抜き(動画)、残り13周の4コーナーでヨハン・ザルコを抜き(動画
)、最終的に3位表彰台を確保した(動画
)。ランキング2位のファビオ・クアルタラロは8位に終わり、ジョアンとのポイント差が14に広がった。これで残り3戦となり、2年目のライダーがチャンピオン争いで抜け出すという信じがたい状況になった。
カタルーニャGPでは13年ぶりにスズキワークスの2人が表彰台を確保した。そしてアラゴンGPとテルエルGPでもスズキワークスの2人が表彰台を確保した。これにより、2020年におけるスズキのマシンの競争力が非常に高いと認識されるようになった。先述のように2020年2月になってミシュランがリアタイヤの構造を柔らかいものに変化させていたが、柔らかいリアタイヤというのはスズキのような直列型エンジンのマシンに向くのである。また、リアタイヤの構造が大きく変わったことにより、前年の走行データが全く参考にならなくなり、各チームが手探りでマシン設定をするシーズンになったが、そういう状況だと「バランスが取れていて素が良いマシン」というものが躍進しやすくなる。スズキのマシンはバランスが取れていることで定評があり(記事)、その点でも有利だった。
スズキワークスに所属するアレックス・リンスは7月18日の第2戦スペインGPの予選で転倒して肩を負傷しており(記事)、8月16日の第5戦オーストリアGPでも「肩が痛くてヘルメットの中で叫んだ」と訴えており(記事
)、9月27日のカタルーニャGPで「肩の骨は痛くなくなったけど、肩の怪我の後遺症なのか、すぐ疲れてしまう」というほどだった(記事
)。つまりアレックスはわずか4ヶ月で決まるシーズンにおいて非常に重大な影響をもたらす怪我に苦しんでいた。アレックスは2020年において最終的にランキング3位になっているので、もし肩の怪我がなかったらアレックスはジョアンにとって最大のライバルになっていたはずである。
第13戦ヨーロッパGPに臨むジョアンにはある1つの期待が掛かっていた。「このまま未勝利でチャンピオンになり、1999年の125ccクラスのエミリオ・アルサモラの再現を果たすのではないか」というものである。しかしジョアンはその期待を裏切ることになった。
第13戦ヨーロッパGPはウェットパッチ(濡れた路面)が残る難しい状況で行われた。5番グリッドから発進したジョアンは1周目を4番手で終え、17周目(残り11周)の11コーナーでアレックス・リンスを抜いて首位に浮上し、そこから誰も追いつけないペースで走りきって優勝した(動画)。MotoGPのレース振り返り動画は優勝者に焦点を当てることが多いが、やっとジョアンに焦点が当たる動画が作られた(動画1
、動画2
)。ランキング2位のファビオ・クアルタラロは1周目の8コーナーで転倒しており(動画
)、両者のポイント差は37にまで広がり、ジョアンのチャンピオン獲得が確実な情勢になった。
同じバレンシアサーキットで行われる第14戦バレンシアGPは、ジョアンにとって「このレースを終えると残り1戦になるのだから、ランキング2位の選手とのポイント差が26以上になればいい」という課題だけが課せられるレースとなった。12番グリッドから発進し、タイヤを温めて転倒しにくいような状況にすることに専念し、9ポイントを獲得できる7番手あたりを追走してそのままゴールインした(動画1、動画2
)。レース前にランキング2位だったファビオ・クアルタラロは1周目にオーバーランして20番手に落ち、8周目に6コーナーで転倒するという散々な走りであった(動画
)。優勝してランキング2位に上がったフランコ・モルビデリとの差は29となり、ジョアンの最大排気量クラスチャンピオンが確定した(動画1
、動画2
、動画3
)。シーズン序盤は下位に沈みながら着実にポイントを重ね、ランキング首位になってからもプレッシャーに負けずに走るという鉄の心臓っぷりを発揮するシーズンになった(画像
)。
タイトル争いが佳境を迎えたヨーロッパGPやバレンシアGPのときは新型コロナウイルスに感染して欠場させられることを警戒しており、彼女にも「2週間、消毒して、誰にも会わないでくれ」と要求していたという(記事)。ジョアン自身も外出を避けていて、神経をすり減らしていた(記事
)。
第15戦ポルトガルGPのジョアンは20番グリッドから発進し、ヨハン・ザルコと接触して順位を下げ(動画)、追い上げていくときにフランチェスコ・バニャイアと接触して電子制御の装置に不具合が発生し、残り10周でピットインしてそのままレースを終えた。しかし、レース後にはチャンピオン勢揃い記念撮影が行われている(動画
、画像
)。
本項目は、スズキの2020年振り返りウェブサイトやMotoGP公式サイトなどを資料にした。
ハードブレーキングを得意としており、きっちりぴったりとマシンを止めることができる。
ブレーキングが上手いためパッシングが非常に上手い。2017年のバレンシアGP(Moto3クラス)では残り22周の時点で先行ライダーの転倒に巻き込まれて19番手にまで順位を落としたが、そこからの追い上げは素晴らしかった。先行車を次から次へとパッシングし、2位にまで追い上げた。
2019年から2022年まで在籍したスズキワークスではアレックス・リンスとのペアとなった。アレックスはマシンに優しい乗り方をするのに対し、ジョアンはかなりアグレッシブな乗り方をしていて、対照的だという(記事)。特に加入当初の2019年は両者の違いがはっきりとしていた(記事
)。
「自分はアグレッシブな乗り方が得意であるが、スズキのマシンは優しい乗り方をすべきである」と語っている(記事)。
「2019年アルゼンチンGPの時の乗り方と、2022年アルゼンチンGPの時の乗り方は全く異なっている」と語っていて(記事)、スズキのマシンに合わせて優しい乗り方に変えてきていることを窺わせる。
2023年から乗るホンダのマシンはアグレッシブな乗り方が合うマシンである。2023年以降のジョアンは自分本来の乗り方に戻っていくものと思われる。
レッドブルリンクを得意としている。2016年にキャリア初優勝を飾っており、2020年のオーストリアGPでは最大排気量クラスで初めての表彰台を獲得した。レッドブルリンクはブレーキングの腕を試すサーキットなので、ジョアンのブレーキング能力が最大限に発揮される。
フィリップアイランドサーキットを一番好きなサーキットに挙げている(記事)。また、モーターランド・アラゴンも好きなサーキットだという(動画
)。
ヘレスサーキットやサーキットオブジアメリカズを好みではないサーキットとして挙げている(記事1、記事2
)。シルバーストンサーキットも自分のスタイルに合わないサーキットと発言している(記事
)。
Moto3クラスは集団走行の混戦になりやすく、10代の若いライダーが興奮気味に危ない走りをする。そういう混戦を乗り切るためには周囲の様子をしっかり観察する能力が必要なのだが、ジョアン・ミルにはその能力がしっかり備わっている。
2017年は全てのレースで完走し、ノーポイントとなったのはたったの1度だけだった。他者の転倒に巻き込まれるシーンも本当に少なく、安定感は抜群だった。
レースの最中にペースを一気に上げることができる。2017年のマレーシアGP(Moto3クラス)では残り3周で一気にペースを上げて後続を突き放して完勝した。
2017年のオーストラリアGP(Moto3クラス)では「雨が降っての赤旗中断、レース終了」となる事態を想定して、メインストレートでは必ず先頭を走るようにしていた。1~2コーナーでスリップストリームを使われ追いつかれて抜かれるがそれにもめげず、10コーナーで確実にパッシングして最終コーナーで先頭に立つ。その狙い通りに残り7周で雨が降り出しレース終了となった。
「ここは順位を上げるべきだ」と決めるとその通りに順位を上げることができる。高い集中力があるライダーだと言える。
決勝レースの走行中に、いったん落ちたペースを再び上げるのは非常に難しいことだという。ジョアン・ミルにはライダーとして非凡な素質があるのだろう。
2017年シーズンでMoto3クラスのチャンピオンになったときは、18戦10勝と勝ちまくったわりに予選のタイムがそれほどではなく、ポールポジションはマレーシアGPの1度きりだった。予選はそれほどでもなくポールポジションを獲れないが決勝になると速い、というのはヴァレンティーノ・ロッシを彷彿とさせる。
2020年に最大排気量クラスのチャンピオンになった時も同じで、ポールポジションを一度も獲得しなかった。ポールポジションを一度も獲得しないままチャンピオンになったのは1992年のウェイン・レイニー以来のことである(記事)。
身長181cm体重69kgで、MotoGPライダーのなかではやや大きめの体格と言える。
G+でおなじみの坂田和人さんは辛口解説で有名であり、ニコラス・テロルやブラッド・ビンダーなど彼の厳しい批判を浴びたライダーは数知れない。その坂田さんが2017年の頃のジョアン・ミルに対して「素晴らしい」「Moto2でもすぐ通用するだろう」などと激賞していた。坂田さんがこれだけ褒めるのは2010年のマルク・マルケス以来のことだった。2020年11月にジョアンがヨーロッパGPで最大排気量クラスの初優勝を飾ったあとも、Moto3クラスの時と同じように絶賛している(記事)。
ジョアンは「自分はメディア向けの性格ではない。名声を得ることにも興味が無く、バイクに乗ることが好きなだけだ。モナコのF1のレースに行くことも興味が無い」と語っている(記事)。「モナコのF1のレースに行くこと」とは、「華やかなイベントに行ってそこでスター扱いされること」といった意味である。
その言葉どおり、ニュースサイトでの発言は、奇をてらったものがなく、「ごもっとも」と言うしかないようなことばかりである。
2021年カタルーニャGPでは、決勝レースにおいてファビオ・クアルタラロのレーシングスーツのジッパーが開き、胸部保護版(チェスト・プロテクター)が脱落した(動画1、動画2
)。ジョアンやケーシー・ストーナーは「あれは危ない、他のライダーが踏んだら危険だ」と言っており(記事
、ツィート
)、それに対してファビオが逆ギレ気味に「今日は、いくつかの人の本当の顔を見ることができてすごく良かったですよ」と反応していたのだが(記事
)、これはジョアンたちが正論を言っていると見るべきであろう。逆ギレされてしまったジョアンは「まるで映画の悪役になったみたいだ」と言っている(記事
)[3]。
ジョアンはCuna de Campeones Bancaja(バンカハ財団
が支援する『チャンピオンのゆりかご』選手権)、地中海選手権PreGP125、レッドブルルーキーズカップ、CEVのMoto3クラス、という選手権を走ってからMotoGPのMoto3クラスに参戦するようになった。
最初の3つは支度金を支給してもらえる選手権であり、ジョアンの実家から多額のお金を支払わずに参戦できたのだが、言い換えると、勝利という結果を残さないと他のライダーに参戦権をすぐに奪われてしまうという厳しい環境だった。
そんな環境でもジョアンは抜群の集中力と度胸で勝利という結果を残し続けてきた。「『勝たないとレース活動をあきらめなければならない』という背水の陣のような心理状態で戦ってきた。レースは娯楽ではなかった」という意味のことを本人が語っている(記事1、記事2
、記事3
)。
このためジョアンはプレッシャーに強いところがあり、2020年の最大排気量クラスでチャンピオン争いの首位に立ったあともプレッシャーに潰されることがなかった。チャンピオンを決めたバレンシアGPでも「スターティンググリッドでは緊張したが、レースでは落ち着いていた」と語っている(記事)。
2020年ヨーロッパGPで優勝してチャンピオン争いで大きく前進したあとに、ジャーナリストにプレッシャーのことについて問われたが「自分もプレッシャーを感じているが、良いプレッシャーというものであり、本物のプレッシャーではない。本物のプレッシャーというのは、コロナ禍で家賃を払えなくなった人に掛かっている」と返答した(動画、記事
)。こうした言葉からもプレッシャーに強い性格というものを読み取ることができる。
2020年スティリアGPでは首位走行中に赤旗中断となり、再開後のレースは中古のフロントタイヤしか残っておらず、最大排気量クラスにおける初優勝を逃してしまった。そのときは絵に描いたようなショボーンとした表情になっている(動画1、動画2
)。
2022年インドネシアGPでは決勝の前に大雨が降り、サーキットに巨大な水たまりができあがっていて、そこを走るセーフティーカーが水しぶきを上げていた。それを見たジョアンが「え~?こんなところ走るの~?」というような顔をしている(動画)。
母親のアナは、ジョアンに対し、バイクレースで失敗したときに備えて勉強をしてもらおうと思っていたが、ジョアンは勉強に全然興味を持たなかった。このためアナは「長年にわたって私は(勉強しなさいと要求してきたので)ジョアンの敵だったわ」などと語っている(記事1、記事2
)。
ジョアンは学校の授業で落ち着きがなく、話に集中することができず、じっと座っていることもできなかった。このため母親のアナは「ジョアンは多動症(ADHD)ではないか」と思って小児科医に相談したことがあるほどである。しかし、バイクのレースになるとジョアンは一転してキチッと集中し、何周も周回することができていた(記事)。
ちなみに、勉強嫌いとはいえ、ジョアンは地頭が良くて聡明な人である。スズキワークスのテストライダーでジョアンをよく知る青木宣篤さんは「ジョアン・ミルはすごく賢い。MotoGPの乗り方、電子制御、タイヤについてどういう風にすれば良いかかれなりに考えてくる」などと評価している(G+の2020年アラゴンGPの予選や決勝での発言)。
多くのMotoGPライダーが験を担ぐために「縁起の良い行動」を繰り返しているが、ジョアンもそのご多分に漏れない。
レースのたびに青い新品のパンツを履く。靴下やレーシングスーツは必ず右足から履く(記事)。
トレーニングは多様性を重視している。バイクで走る時はモトクロスで走る事が多い。その他にエアロビクスやスキーをすることもある。ジムでのトレーニングはあまり好きではないという(記事)。
トレーニングをするとき、スーパーモタードやモトクロスを走ることが多いが、カート(小型4輪)で走ることもある(記事)。
普段のジョアンはアンドラ公国に住んでいるが、マヨルカ島に里帰りすることもある。そのときはマヨルカサーキットで600ccの市販スポーツバイクを走らせてトレーニングする(記事
)。
いまどきのMotoGPライダーらしく、モトクロスやダートトラックでの走行に励む。Twitterにはオフロード車の画像がいくつも上がっている。
2017年11月にチャンピオン獲得を祝して地元リュグマジョーサーキットで行われたイベントにて頭擦りの走行を披露している。
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週に2回ヨガをして、マルク・マルケスのような体の柔軟性を維持しようとしている(記事)。これは母親の影響もあると思われる。
ジャック・ミラーとは3回ほど衝突している。
発端は2021年第2戦のドーハGPだった。決勝の残り10周で、ジョアン・ミルがやや強引に10コーナーでジャック・ミラーを抜いた(動画1、動画2
、動画3
)。このとき接触したので、ジョアンは右足を上げて謝った。この右足を上げて謝るジェスチャーが、ジャックには「どいてろ、邪魔だ」のジェスチャーに映ったらしく、最終16コーナーを立ち上がったあとにジャックがジョアンに対して幅寄せして体とマシンをぶつけている。レース後はジョアンとジャックの両方が憤怒していて、両者が和解することがなかった(記事
)。レース運営は両者に対して罰を与えなかった。
そして2021年第15戦のアメリカズGPでまたしても接触が起こった。決勝の最終周において、11コーナーを立ち上がったジャックが速さをみせ、バックストレートでジョアンを抜き、12コーナーを回った(動画)。そしてジャックはジョアンに抜かれたくなかったからか、13~14コーナーでかなりインを閉めて奇妙な走行ラインを通った。そしてジョアンが15コーナーでインに入ってパッシングしようとしたが失敗し、ジャック・ミラーに接触してしまった。ジョアンとジャックは外にはらみ、その隙にエネア・バスティアニーニが2人まとめて抜いていき、最終20コーナーになってもそのままの順位で終わった。レース後にジャックが憤怒しており、停止しているジョアンのすぐそばに停止して、ジョアンのヘルメットを掴んで引き寄せて猛抗議している(動画1
、動画2
)。今回のジョアンは平謝りと言ったところだった。レース運営はジョアンに「ポジション1つ降格」の裁定を下しており、それに対してジョアンは不満そうにしている(記事
)。
3回目の接触は2022年ポルトガルGP第5戦のポルトガルGPだった。決勝の残り7周で、ジャック・ミラーに1コーナーで仕掛けられた。その次の瞬間、ジャック・ミラーがスリップダウンし、その巻き添えを食らってジョアンも転倒した(動画1、動画2
)。転倒した直後にジョアンはジャックに対し「まったく、よくやってくれたよ」といった感じで拍手をしている。レース後にジョアンは「ジャックがミスから学んでくれればいいと思っている」などと妙に大人ぶった言い回しをしていて面白い(記事
)。
アレックス・リンスとは2019年から2022年までの4年間においてスズキワークスでチームメイトであった。しかし、この2人の中はあまり親しいものではなく、ほとんど口をきかない間柄だったという。
スズキと関係が深い辻本聡さんは、G+のテレビ中継の解説において「聞くところによると、あまりこの2人は仲が良くない。最大のライバルはチームメイトと言いますからね」と語っていた(2020年ヨーロッパGP決勝残り16周)。アレックス・リンスも「ジョアン・ミルは自分と同じアンドラ公国に住んでいて近所同士だが、2022年9月まで2回しか会ったことがない」とか「2020年はジョアンとの緊張が激しく、お互いにほとんど話さないレースもあった」と語っている(記事1、記事2
)。お互いに「手強い」と思っていたからゆえの気まずい関係があったようである。
スズキワークスが解散したあとも2人揃ってホンダ陣営に移籍することになってしまい、ジョアンがレプソルホンダ、アレックスがチームLCRということになった。
ジョアン・ミルの家庭事情は少し複雑になっている。
父親ジョアン(Joan)はパルマ・デ・マヨルカでスケートボードの店を2つ持っていて、ずっと店番をしている。この記事の中で新聞を広げている人。
母親の名前はアナ(Ana)。
実は両親は離婚していて、父親ジュアンと母親アナは別の場所に住んでいる。ジョアンは父親の家に行ったり、母親の家に行ったりと、両親の家を往復している。父親にも母親にも大変に可愛がられていて、王様のように扱われていて、とても快適だと語っている。「でも、そろそろ、20歳になったからアパートで1人暮らししたいなあ・・・2つの家を往復するのも面倒だし」とジョアンは言っていて、レオパードレーシングのオーナーに「チャンピオンになったご褒美は車とかよりもアパートがいいですね」などと語っている(記事)。
父親ジュアンと母親アナは離婚した後に再婚し、再婚相手との子宝に恵まれた。父親ジョアンと再婚相手の息子がフィオナ(Fiona)であり、2008年生まれでジョアンの11歳年下である。母親アナと再婚相手の息子がマウロ(Mauro)であり、2006年生まれでジョアンの9歳年下である。ジョアン・ミルには弟が2人いることになる。フィオナやマウロとの関係は非常に良好だという(記事)。
2017年のマレーシアGPの表彰式の際にドルナの中継カメラに映った夫妻がいる。ジョアン・ミルが映った直後に映ったのだから、ジョアンの親類であるに違いない。ジョアンにとって父方かもしくは母方の祖父母ではないかと推察される。
ジョアンは「自分の一家はレーサー一家というわけではありませんでした」と語っている。ジョアンのおじの1人がジェットスキーをしていて、ジョアンのおじのもう1人がモトクロス(凹凸のある土の路面をバイクで飛び跳ねる競技)をやっていた程度である。「僕の一家で2輪レースをしているのは僕だけです」とも語っている(記事)。
父親ジョアンはパルマ・デ・マヨルカにおいてRoll and Rollというスケートボードの店を開いている(地図、公式サイト
、公式facebook
)。いつも店番をしているが、2017年に息子がMoto3クラスチャンピオンになりそうになったときはいても立ってもいられず、日本GPやオーストラリアGPに帯同した(記事
)。
スケートボードに乗っているジョアンの写真がある(記事1、記事2
)。
ジョアンの母親はアナ・マイラータ(Ana Mayrata)という。1976年頃生まれである(記事
)。
この人はちょっとした有名人であり、ヨガの先生であると同時にファッションスタイリストであり、テレビ番組のスタイリストも務めている。InstagramやTwitterのアカウントも持っている(リンク1、リンク2
)。
テニスのラファエル・ナダルはマヨルカ島出身であるが、アナ・マイラータの顧客でもある(記事1、記事2
)。
アナはサーキットにやってくることがなく、レースを生で観戦しようとせず、結果を見るだけである(記事)。それはなぜかというと、やはり不安で仕方ないかららしい。生観戦することができず、録画された映像を見るだけである。アナは毎日ヨガを行っているが、ジョアンがレースを走るときはいつもよりもヨガを多めにして、瞑想も多めにして、恐怖に圧倒されないようにする。ジョアンに万一のことがあるかもしれないので、兄弟にレースを生で観戦してもらい、その結果を教えてもらう(記事
)。
2019年8月4日まではヨガと瞑想で恐怖を紛らわすことができたが、8月5日に行われたブルノテストでジョアンが大転倒して肺挫傷の負傷をしたあとは、ヨガや瞑想でも恐怖を紛らわすことができなくなり、苦労したという(記事)。
しかし、さすがにジョアンの最大排気量クラスチャンピオンが決まりそうな2020年ヨーロッパGPにはやってきた。ジョアンがチャンピオン獲得を決めたあと、パルクフェルメでジョアンを迎えている(画像)。
ジョアンは「母親が美人なんで僕はハンサムなんですよ」とか「母親が美人なので、そのことについて友人たちは常に自分を挑発してきました」などと語ったことがある(記事1、記事2
)
先述のように、マウロ(Mauro)という息子がいる。マウロはジョアンと同じようにモトクロスを趣味にしている(記事)。
ジョアンが(おそらく2018年頃に)マヨルカ島で1人暮らしを始めたとき、アナの家のすぐそばで1人暮らしを始めたというのに、アナはそのことについて悲しんだという(記事)。ジョアンを溺愛していたことが窺われる。
ジョアンは2022年7月27日にアレジャンドラ・ロペス・ガロ(Alejandra López Garro)と結婚した。アレジャンドラもマヨルカ島出身で、かなり長い間交際してきたという。式を挙げたのはマヨルカ島のキャップ・ロカットというホテルである(地図
)。
Instagramのアカウントを持っている。
アレジャンドラもスポーツ選手であり、新体操の選手兼コーチをしている(記事)。「スポーツの現場にちょこちょこ交際相手が来ると気が散る」ということを知っているため、ジョアンがレースをするとき必ずやってくるわけではなく、アレジャンドラの都合が付いた日曜日だけやってくるという(記事
)。
2020年のバレンシアGPでジョアンがチャンピオンを決めた。このときレース後のパルクフェルメに2人の女性がいたのだが、片方がジョアンの母親のアナで、もう片方がアレジャンドラだった。
アレジャンドラはジョアンよりも2歳年上である。ジョアンは家にいるのが好きな子で、ナイトクラブのようなところに行きたがらず、社交的に振る舞うことも好まない。そしてアレジャンドラもそういう性格であるという(記事)。
2018年アメリカGPの予選が開催され、G+で放送され、このようなシーンが映った。
このとき上田昇さんが、「ジョアンの隣にいる人は、ジョアンがレッドブルルーキーズカップに参戦しているときからレースに帯同していて、チームに溶け込んでヘルパーメカニックになっていました」と語っていた。
ちなみにジョアンの隣に椅子を並べて腰掛けているサングラスの人は、ピート・ベンソンという人で、2006年にはニッキー・ヘイデンのクルーチーフとして最大排気量クラスチャンピオン獲得に貢献していて、かなりの大物クルーチーフである。そういう大物クルーチーフがライダーと喋っているのだから普通はちょっと尻込みするはずだが、堂々とジョアンの隣に座って話に加わっている。
ともあれ、このヘルパーメカニックの人は、ジョアンにとってまことに深い関係の人であるようで、レオパードレーシングのTwitterで頻出している。こちらは記念撮影でジョアンの真後ろに立っている。こちら
やこちら
ではパルクフェルメでジョアンを迎えている。こちら
ではスターティンググリッドに並ぶジョアンの傘持ちを務めている。
2018年アメリカGPでもオランダGPでも、決勝前のスターティンググリッドに並ぶジョアンの隣に寄り添うがごとく立っていた(画像1、画像2
)
このヘルパーメカニックの人は、ダニ・ヴァディーロという。
彼はジョアンの家族の知り合いで、バレアレス諸島オートバイレース連盟の教官だった(記事
)。
ジョアンはホルヘ・ロレンソの父親チコ・ロレンソが主催するレーシングクラブに2006年頃入団したが、その頃ダニはジョアンと出会った。このときから2018年までずっとトレーナーを続けている。ジョアンにバイクの乗り方をしっかり教えたのはダニである。
ダニ・ヴァディーロはヘレス・デ・ラ・フロンテーラ生まれ。本名はダニエル(Daniel)。
ダニの兄弟はアントニオ・ヴァディーロといい、スペインのフットサルの名選手であった。引退後はアントニオもマヨルカ島にやってきて、AEパルマ・フットサル
というチームの監督になった。(記事はこちら
)
こちらの写真で一番左に映っているのは体力トレーナーのトマス・コマス(Tomás Comas)である。
トマス・コマスとはジョアンが13歳の頃からの付き合いで、つまり2012年頃から面倒を見てもらっている間柄である。
マヨルカ島のテニス選手というとラファエル・ナダルであるが、その彼の体力トレーナーにジョアン・フォルカデスという人がいる。トマス・コマスはジョアン・フォルカデスと長期にわたって一緒に仕事をしてきたという(記事
)。
最大排気量クラスに昇格したあとのジョアンがスターティンググリッドに並ぶときには、トマス・コマスがそのそばにいる。同じ時期に先述のダニ・ヴァディーロはMoto3クラスのレオパードレーシングのコーチになったので、トマス・コマスが役割を引き継ぐようになった。
2023年現在、ジョアン・ミルの個人マネージャーはパコ・サンチェスという人が務めている。
個人マネージャーとは契約交渉の代理人で、ジョアン・ミルに何か商業上の契約を申し込みたいのなら、パコ・サンチェスと接触しなければならない。
パコ・サンチェスは弁護士で、2012年のシーズン途中にマーヴェリック・ヴィニャーレスがチームと揉めたとき仲介し、ゴタゴタを上手く収拾した。その縁でマーヴェリックと親しくなり、2016年から2021年までマーヴェリックの個人マネージャーになっていた。
パコ・サンチェスという人はマスコミに対して大言壮語する人である。2018年のシーズン中にジョアン・ミルの移籍が話題となったとき、マスコミに向かって「ジョアンには色んなワークスから次々と話が来ている!」と機嫌良く喋りまくっていた。2022年にも同じ調子で「自分はドゥカティやヤマハと接触した」とペラペラと喋ってくれている(記事)。
パコはかつてポル・エスパルガロの個人マネージャーを務めていた時期があり、そのときに撮影された動画がYoutubeにアップロードされている(動画)。いかにもお調子者といった感じの印象を受ける。
TwitterやInstagram
のアカウントを持っていて、積極的に発信している。
2022年にはレミー・ガードナーのマネージャーも兼任していて、KTMとの交渉をしていた。そのときパコ・サンチェスは「KTMがレミー・ガードナーに提示している契約は最低なもの」と発言した(記事)。これに対してKTMのピット・バイラーが案の定というか憤怒して「一部のマネージャーというのは新型コロナウイルスよりも悪いペストのようなもの」とボロクソに罵り(記事
)、結局、レミーはKTMサテライトのTech3との契約を延長できなかった。
このとき、レミー・ガードナーの父親のワイン・ガードナーは「レミーが、馬鹿げたマネージャーのせいでMotoGPにおいて出走できなくなるのはとても悲しい。レミーはマネージャーを変える必要がある」といったが(ツィート)、レミーは「父親がパコ・サンチェスに言った言葉について申し訳なく思っている。パコ・サンチェスはKTMと契約延長できなかったことについて責任はありません」と擁護した(ツィート
)。
パコ・サンチェスは、ライダーに対して親身に世話をすることに定評があるので、レミーからの信頼も厚いようである。
2022年の時点でパコ・サンチェスが担当するライダーというとレミー・ガードナー、ティト・ラバトである。このため2022年7月27日のジョアンの結婚式に彼らも招待されている(記事)。
マネージャーが共通だとライダー同士も仲良くなるという法則がある。ジョアンは特にティト・ラバトと仲が良い。レミー・ガードナーはスペインのシッチェスに住んでいるのだが(記事
)、ジョアンとティトはどちらもアンドラ公国に住んでいて、しかも近所同士だという。このためジョアンのSNSにティトが出てきたり(画像
)、ジョアンがチャンピオン獲得を決めた2020年バレンシアGPでティトがパルクフェルメなどにやってきたり(画像1
、画像2
)、一緒にモトクロスのトレーニングをしたりしている(記事
)。
ティトにはペイントボール弾で撃たれたことがある。そのお返しとしてジョアンがティトのスーツケースを窓から投げ捨てたことがある(記事)。
ホルヘ・マルティンとはレッドブルルーキーズカップの頃からのライバル同士である。
マヨルカ島出身のホルヘ・ロレンソとは同郷であり、ホルヘの父親チチョ・ロレンソ主催のクラブ出身という縁もあるが、ジョアン・ミルとホルヘ・ロレンソはそれほど交流があるわけではない。2017年11月の時点でホルヘと一緒にトレーニングしたことはないという(記事
)。
ホルヘ・ロレンソとホルヘ・マルティンは、どちらもアルベルト・ヴァレーラを個人マネージャーとして
雇っていて、その縁で仲がよく、一緒にトレーニングしている。ホルヘ・マルティンが2017年のバレンシアGPで初優勝したときは満面の笑みを浮かべていた(動画)。そういうわけでホルヘもちょっとジョアンに声を掛けづらいのかもしれない。
マヨルカ島出身のルイス・サロムとは親しく、一緒にトレーニングしたこともあったという(記事)。
マヨルカ島のテニス選手というとラファエル・ナダルと一緒に写る写真がある(画像)。
ファビオ・クアルタラロとは2016年にMoto3クラスのレオパードレーシングでチームメイトになったこともあり、仲が良い。ファビオのことを悪くいうことができない(記事)。
実家の部屋にはライダーのポスターを貼ってあるわけではない。ただし、父親はヴァレンティーノ・ロッシのモデルのバイクを持っている(記事)。
尊敬して手本にしたのはヴァレンティーノ・ロッシとアンドレア・ドヴィツィオーゾである(記事1、記事2
)。このどちらもブレーキングが上手い選手である。
2017年のアラゴンGPの最終ラップでバックストレート走行中に蛇行運転したジョアン。後続を走っていたファビオ・ディ・ジャナントニオ
に「蛇(snake)のような走行だ」と厳しく糾弾され、レース運営にも「次戦日本GPのスタート位置6つ降格」の罰を与えられてしまう。この罰も響いて日本GPでは17位に終わり、シーズン初のノーポイントとなってしまった。その次のオーストラリアGPでチャンピオン獲得するのだが、そのときに蛇の模型を首に掛けていた。また、レースの前には本物の蛇を首に掛けている(画像1
、画像2
)。彼なりの自虐ジョークだったのだろう。
先述の通り、父親ジョアンはパルマ・デ・マヨルカでスケートボードの店を2つ持っている。いわゆるエクストリームスポーツの競技用道具の店である。そのせいでジョアンもスケートボードを楽しんでいるが、さすがにトニー・ホーク
のような大選手を目指して努力しようと思っているわけではない(記事
)。ジョアン・ミルも「君もX Games
(世界的に有名なエクストリームスポーツの大会)に出るのかい?」と尋ねられているが、ジョアンは「とんでもない!X Gamesに出るような選手たちはぶっ飛んでますよ!あんなジャンプは真似できません」と語っている(記事
)。
父親ジョアンの店にはサーフボードも売っているのでパルマ・デ・マヨルカでサーフィンを試してみたこともある。しかし「どうも自分が住んでいる所に近い海岸は、波が大きくなくサーフィンに不向きで、イマイチ楽しめない。マヨルカ島の反対の海岸に行けば波が高いのかもしれませんが、そこに行くには20分ほどかかる。オーストラリアの海岸なら波が高いのですが」と語っている(記事)。
2020年の時点ですでにアンドラ公国に住んでいる。ブルドッグを3匹飼っていて、ダコタ(Dakota)、カービー(Kirby)、ブルーノ(Bruno)という名前である(画像、記事
)。
息子ができたらバイクレースをさせず、勉強をやらせようと思っている(記事)。
ダンスはあまり上手ではなく、妻にダンスを教えてらう立場である(記事)。
私生活は堅実で、60%を不動産投資に回し、20%を銀行預金にして、残りの20%で暮らしている。アウディのRS6とフォードのラプターという車を持っているが、あまり見せびらかさない(記事)。
コロナ禍の時は家に引きこもっていて、自宅の中のミニジムで調整し、Netflixで映画を見ていた。一方でテレビゲームは好きではなく、あまりしていなかった(記事1、記事2
、記事3
)。
音楽はColdplayとRed Hot Chili Peppersという英語圏のロックバンドの曲を聴く(記事)。
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最終更新:2025/03/17(月) 13:00
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