ジョニー・ハーバート(本名、ジョン・ポール・ハーバート)とは、元F1ドライバーである。
1964年6月25日、イギリス・エセックスにて誕生。
10歳の頃に教育の一環として父親にカート場に連れられ、カートに夢中になる。ジョニーの才能は天性のものか、瞬く間にカートコースのラップレコードを塗り替えた。しかしジョニーは小柄であった為、レース参戦のライセンスを1年待つことになった。
ハーバート一家がジョニーをサポートし、1979年、15歳で国内のカート選手権で見事に制覇した。ジョニーはF1ドライバーとしての将来の夢を持つようになった。しかし前述の通り身長が低く、彼のF1ドライバーの夢を否定する者も少なくなかった。
1983年、ジョニーはフォーミュラー・フォード1600へとステップアップした。
1985年には伝統のフォーミュラー・フォード・フェスティバルで優勝、シリーズでもチャンピオンに輝いた。
1987年、エディー・ジョーダンがオーナーのチーム、EJRからイギリスF3000に参戦してチャンピオンに輝く。
またベネトンのテストに参加し、ブロンズハッチでレギュラードライバーを凌ぐラップタイムを叩き出して、ベネトンのスタッフを驚かせた。翌年、国際F3000にステップアップし初戦でデビューウィンを飾るなど、その速さを見せつけた。結果、シーズンの中盤には翌年の1989年、ベネトンからレギュラードライバーとしてF1へとステップアップするオファーを受けた。
その天才っぷりから、F1関係者からは「ジム・クラークの再来」といわれた。
1988年8月21日、国際F3000第7戦ブロンズハッチ。
大物と言われるジョニーを各F1チームの首脳陣が見に来たレースだった。キャリア絶好調だったジョニーを悪夢が襲った。それはレース中盤だった。
2位のジョニーと3位のグレガー・フォイテックが高速区間で接触、ジョニーはスピンしてコンクリートウォールに激突した。更に追い討ちをかけるかのようにオリビエ・グルイアールがジョニーに突っ込んだ。ジョニーは押される形となり、両足が剥き出しになった状態でコンクリートウォールに激突した。
ジョニーの両足は足首から粉砕骨折していた。しかし彼は意識を失うことなく家族を励ましながら病院に担ぎ込まれた。
奇跡的に両足は切断せずに済んだ。
数日後、ジョニーの見舞いに来たベネトンのマネージャー、ピーター・コリンズに対して、ジョニーは事故のビデオを見せてくれと要求した。
コリンズはジョニーがレーサーを辞める覚悟をしたのだと思い「ショックを受けるかもしれないぞ」と前置きしてから、ジョニーにビデオを見せた。しばらく見入った後、ジョニーが口を開いた。
「うん・・・・・・なるほど、解った・・・」
「何が解ったんだい?」
「僕のライン取りは間違ってなかった、つまり事故の原因は僕のミスなんかじゃないって事がさ」
その言葉に
「こいつはタダモノじゃない・・・きっといつかF1に乗せてやる」
コリンズはそう決意した。
ジョニーは、度重なる手術と地獄のようなリハビリの日々を送った。
両足首粉砕骨折という大怪我を負いながら、なんと従来の予定通りに1989年、ベネトンからF1デビューを飾った。
しかしジョニーは、歩行どころか立っていることすらできない状態(現在は歩行は問題ないが、走ることが出来ない)。
F1デビューができたのは、コリンズのチーム内の功績によるものが強かった。
そして開幕戦のブラジルGP、ジョニーは予選でベネトンのエースだったアレッサンドロ・ナニーニを一つ上回る10位を獲得して人々を驚かせた。だがそれだけではなく、決勝ではなんと4位でレースを終えたのである。
優勝したナイジェル・マンセルから10秒遅れ、3位のマウリシオ・グージェルミンからはたったの1秒遅れのタイムで、表彰台まで後一歩のところだった。
次戦のアメリカGPでも5位入賞をした。だが、カナダGPでは足の痛みが我慢できず、予選落ち。
チームはジョニーの事を思い、次戦からジョニーからエマヌエーレ・ピッロへ交代した。ジョニーはシートを失い、コリンズは責任を取り解雇された。
その後、ティレルからジャン・アレジの代役で2レース参加した。
1990年ジョニーはリハビリの為に、とにかくドライブすることを決意する。それは全日本F3000への参戦だった。
チーム・ル・マンから全日本F3000に参戦したが、日本の特殊なタイヤに苦しみ、いい成績を残せなかった。
さらに全日本プロトタイプ・スポーツカー選手権に武富士ポルシェで参戦、その年のル・マン24時間耐久レースにもフォルカー・バイドラー、ベルトラン・ガショーと共にマツダ・787で参戦した。
その間にもロータスから、マーティン・ドネリーの代役でF1にスポット参戦した。1991年はロータスのレギュラードライバーとなったが、全日本F3000を優先した。
1990年の惨敗から1年。
マツダはロータリーエンジン最後の参戦となるこの年の為に、前年のマツダ787を改良した787Bを2台導入してル・マンに臨んだ。
ジョニーはその内の1台、チャージマツダ787Bを前年と同じメンバーとドライブした。
SWCへの参入によって新規定が定まり、排気量3500㏄、自然吸気エンジンに、最低重量750㎏の新規定(スプリントレース用車両と変わらない)の車両と前年のル・マンの規定のグループC車両が混走する状況だった。
旧規定の車両には燃料制限と重量規定が加えられ、燃料が2550Lまで、重量が1000㎏とハンデが与えられた。マツダは重量規定が830㎏、ポルシェは950㎏とされた。
予選では、ベルトラン・ガショー、フォルカー・バイドラーがハンドルを握った。決勝では、新規定の車両がタイムに関らず前方に、旧規定の車両は後方に並んだ。
スタートすると、新規定で参加のプジョーの2台が完走を狙わず、データー収集とファンサービスの一環の為に短期間だけ全開走行を行い、1時間半で1台目のエンジンを破損、2台目も6時間でトランスミッションを壊して両車リタイヤ。その後、ザウバーメルセデスの3台が3位までを独占する展開となった。
ザウバーメルセデスは前半から一気にジャガーとマツダ、ポルシェ勢を引き離して優勝を諦めさせる作戦、ジャガーは燃費が悪い為にペースを抑えて、他車がリタイアするのを待つ作戦だった。
しかし、チャージマツダ787Bはその軽量さと、ドライバーの達の努力によって順調に順位を上げた。夜になると、ザウバーメルセデスは2位と3位がトラブルで後退、チャージマツダ787Bが2位に浮上した。
2位を狙うジャガーを突き放すために賭けに出たマツダは、ピットイン時にドライバー交代をせずに、タイヤ、燃料補給をして再びジョニーがドライブする作戦をとる。
その賭けは大成功、ジャガーを引き離し、チャージマツダ787Bは単独2位となった。
賭けで運を呼んだのか、トップを走るザウバーメルセデスがクーリング系統のトラブルによりピットイン、最終的にリタイアした。独走するチャージマツダ787Bを追いかけたいジャガーだが、燃料に苦しみ、追いかける力はなかった。ラストにはガショーがドライブするはずだったが、コース状況を知っているジョニーが引き続きハンドルを握り、マツダをル・マン総合優勝に導いた。
表彰台にはガショー、バイドラーが上ったが、ジョニーは脱水症状によって、表彰台に立てなかった。
それから20年の歳月が過ぎた2011年、ル・マンのデモランでジョニーは20年振りにチャージマツダ787Bをドライブした。
デモランのあと、ジョニーは満面の笑みを浮かべながら表彰台の頂へと登った。
1992年、コリンズが買収したロータスで、ジョニーは本格的に復帰が決まった。チームメイトは、後にワールドチャンピオンとなるミカ・ハッキネン。
シーズンを通して、予選では9勝7敗と勝ち越したのだが、決勝でジョニーのマシンにトラブルが多く、ポイントではハッキネン11ポイントに対して、ジョニーは2ポイントとなり、ドライバーズではハッキネンが8位、ジョニーは14位と散々だった。
1993年、ハッキネンがマクラーレンに移籍し、ジョニーはロータスのエースとしてチームを牽引した。第2戦ブラジルGPで4位、続けてヨーロッパGPでも4位に入り、前半戦は好調だった。
チームは技術の遅れを取り戻す為に、アクティブサス、TCSなどのハイテク開発に資金を投資してきたが、FIAは93年限りでこうしたハイテクを禁止してしまった。これによって、ロータスは再びコリンズが買収する前と同じく、資金難に苦しむことになった。
1994年、遂にロータスは破産寸前まで追い詰められ、コリンズは溺愛するジョニーをベネトンのマネージャー兼リジェオーナーであるフラビオ・ブリアトーレに売った。ジョニーは14戦をリジェで出走、残る15、16戦でベネトンに移って出走した。
1995年、ジョニーはベネトンと契約、チームメイトは前年チャンピオンだったミハエル・シューマッハ。ベネトンはチームシューマッハの待遇で、ジョニーは2ndドライバーと、冷めた待遇であった。
「ミハエルとも最初は上手くいってたんだ。でもシーズンが始まって少しした頃、僕がミハエルと違うセッティングでいいタイムを出すと、彼は口を聞かなくなったんだ。コリーナ(シューマッハ夫人)にも『レベッカ(ジョニー夫人)に口を聞くな』って言ったりしてた。理解できないよ。でも、おそらくその辺の事はフラビオが決めた事なんだ。彼らはチームシューマッハを作ろうとしてたんだ」
ついにはチームミーティングにも呼ばれず、更にスペア・カーや予選用タイヤに至るまで、シューマッハが全権を握っていた。
しかし、スペインGPではシューマッハに続く2位でフィニッシュした。そしてイギリスGP、ジョニーに幸運が起きる。
46周目、シューマッハはチャンピオン争いの相手、デイモン・ヒルと接触して両者リタイヤ。
ジョニーはアレジ、クルサードを抜いてF1で初優勝を果した。冷たいベネトンのクルーを他所に、ジョニーは両手でガッツポーズをする。アレジとクルサードがジョニーを肩車し、表彰台の下では元ロータスのメカニック達が泣いていた
彼らメカニック達、コリンズ、家族、そして本人が望んだ光景を母国で達成できたのだ。
「今日、こうして勝てたのも、妻とコリンズ、そして今まで僕を支えてくれた全ての人達のおかげだ。ありがとう」
ジョニーの初優勝パーティーは、ジョーダン・チームの主催で行われた。更に、ジョニーはイタリアGPでも優勝したのだ。
そして、シーズン4位となり、ジョニーはザウバーに移籍、シューマッハもフェラーリに移籍した。
1996年、第6戦モナコで3位を獲得、ランキングは14位。
1997年、チームはペトロナスエンジンを使って、コンスタントに入賞を重ね、ランキング10位となった。
1998年、ジャン・アレジの加入に伴い、ジョニーはスチュワートに移籍。
第14戦ヨーロッパGP、トップチームが脱落するレースでジョニーが3勝目、スチュワ-トにとって最後の年にチーム初優勝を飾り、チームメイトのルーベンス・バリチェロも3位となり、表彰台を白くした。
2000年、スチュワートはジャガーが買収し、ジョニーはアーバインと共にシーズンを戦うことなった。
「来年はアメリカに行こうと思う。現実的に、僕がF1のチャンピオンシップにチャレンジできる可能性はないと思う。長くF1でやってきたけど、そろそろ別の事でチャレンジしてみたいんだ。もちろんレース以外では考えられないけどね」
第16戦目の鈴鹿サーキットの終了後のスタンド、ジョニーへの歓声やコールは鳴り止まないほどだった。
そしてマレーシアGP終了後、ジョニーの別れを惜しむパーティーが開かれ、たくさんの関係者達が集まり、その別れを惜しんだ。
マーティン・ブランドルは最後のレースでのグリッドインタビューで、涙を流しながらインタビューを行った。ジョニーはパドックでは人気者であり、人望は計り知れなかった。
ラストレースはリア・サスペンションが壊れてクラッシュ、メディカルカーに運ばれるという結果に終わった。最後の最後まで、足を痛めることとなった。
アメリカン・ルマン・シリーズで活躍した。
2003年ル・マン24時間レースにマーク・ブランデル、デビッド・ブラバムとベントレーで参戦し、2位を獲得。
2005年、ジョーダンでスポーティング・マネージャーに就任、MF1でもスポーティング・マネジャーを行っていた。
2010年以降からは、レース・スチュワードでも活躍中
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最終更新:2024/03/29(金) 23:00
最終更新:2024/03/29(金) 23:00
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