スター誕生!とは、1971年~1983年に日本テレビ系で放送された歌手オーディション番組である。
日本のテレビ史はもちろんのこと、数多くのスター歌手を輩出したことから日本の歌謡界においても「伝説の番組」として語り継がれている。
一般視聴者から出場者を募り、予選会から本選、そして芸能プロダクションやレコード会社のスカウトマンが公開で交渉権を獲得して最終的にデビューさせるまで、新しいスター歌手の発掘の過程を番組化してしまうというコンセプトで始まった、当時としては画期的な番組であった。この企画を発案したのは、番組審査員としても参加し、デビュー後の歌手の楽曲の作詞を多く手がけた阿久悠である。
テレビ番組主導によってスターを育てようとする企画は「夕やけニャンニャン」(フジテレビ)、「ASAYAN」(テレビ東京)などでも登場したが、現在ではそれらの元祖的番組と呼ばれている。
この番組の初代司会者として抜擢されたのが、当時新鋭のコントグループであったコント55号の萩本欽一である。萩本の芸能生活において初めての司会番組となった「スター誕生!」は、それまでエネルギッシュすぎて一部の視聴者からは敬遠されていた萩本のイメージを大きく変えることとなり、後に「欽ちゃんのドーンとやってみよう!」「欽ちゃんのどこまでやるの!?」「欽ちゃんの週刊欽曜日」などの冠番組を抱えて『視聴率100%男』(この3番組の視聴率を足すと100%に達するまでの人気番組にしたため)とまで呼ばれるようになる下地を作った番組だと言われている。
じゃんけん遊びの一種である「あっち向いてホイ」はこの番組のゲームコーナーで行われたのを期に全国に広がり定着したとされている。
萩本は1980年に降板し、以降、谷隼人&タモリ、坂本九&石野真子、横山やすし・西川きよしが司会を務めた。
この番組の始まった1970年代前半、テレビ界においてはクレイジーキャッツ、ザ・ドリフターズ、ザ・ピーナッツ、沢田研二、キャンディーズなどを擁していた渡辺プロダクション(ナベプロ)が絶大な権力を握っていた。
しかし、1973年にかつては懇意としていた日本テレビとの間にトラブルが発生する。
日本テレビの看板歌番組であった「NTV紅白歌のベストテン」の裏番組に「スター・オン・ステージ あなたならOK!」(NETテレビ、現:テレビ朝日)というナベプロ主導のオーディション番組を始めるので、「紅白歌のベストテンを枠移動か終了させろ」という日テレ側には理不尽な話をナベプロ側から突きつけられたのである。
当然この話はこじれ、日テレが「紅白歌のベストテン」を続行した報復として、一部番組を除きナベプロ所属タレントを日テレ番組には出演させないという手段に出ることとなった。
ナベプロのスター歌手を出演させることができなくなった日テレがその対策として打った作戦が、当時新興芸能プロダクションとして設立されたホリプロ、サンミュージックなどとの 関係を強化して、「スター誕生!」でデビューした新人歌手を積極的に日テレがバックアップして売り出すというものである。
結果、山口百恵、桜田淳子、森昌子、ピンクレディー、中森明菜などがスターダムにのし上がるきっかけを作り、ナベプロ帝国とまで言われた同社の権力が低下し、ホリプロ、サンミュージックなどが今日まで続く繁栄の地盤を築くまでに至った。
なお、日テレとナベプロは1980年代初頭にこの事件について和解をしている。
なお、徳永英明や本田美奈子.など、後にスターとなった面々の中にも「スター誕生!に応募・オーディションを受けたが落選した」というケースも数多く存在する。後に声優として大成した佐久間レイも出場経験がある。
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1 ななしのよっしん
2013/08/16(金) 21:21:29 ID: LOqKK1h5no
このご時世こういう番組は無いよな
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