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ステイゴールド

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さずにいられない。

時代に新たな最強が生まれるたび、いつも果敢に挑んでいくあなたの姿がある。
黒鹿毛く小さな身体をいっぱい弾ませて、最後の直線にすべての勝負を懸けて、
先頭でゴールを駆け抜ける一頭がどのだったとしても、あなたのその姿にたくさんの援が送られるだろう。
ステイゴールド、もうもがあなたのことを、さずにいられない。

JRA「ヒーロー列伝」No.49 ステイゴールドexit

ステイゴールド英:Stay gold中:黄金旅程)とは、1994年まれの日本の元競走馬種牡馬である。

名の由来はスティーヴィー・ワンダーの楽曲から。香港での名表記は『黄金旅程』。

競馬ファンからは名を略して『ステイ』『ステゴ、勝ちから『』、ゴドルフィンの有勝利したことから『ゴドルフィンキラーあだ名されることが多い。

概要

サンデーサイレンスゴールデンサッシュ、ディクタスノーザンテースト1994年3月24日北海道老町の老ファームに生まれる。

な勝ち阿寒湖特別900万下1997年)、目黒記念GII2000年)、日経新春杯GII2001年)、ドバイシーマクラシックGII2001年)、香港ヴァーズ(GI、2001年)。条件戦である阿寒湖特別がここに表記されているのは、当該競争で三勝を挙げた後、約2年8カ・28レースって古王道で連敗を重ねる中で、その内重賞26競走中2着10回掲示板内22回、GI競走12回で2着4回掲示板内8回という成績を上げ、新聞にずっと「な勝ち阿寒湖特別」と表記され続けてきたためである。

目黒記念勝利して以後、日経新春杯GII2001年)、ドバイシーマC(G2、2001年)で勝利し、50戦にして引退レースとなった香港ヴァーズG12001年)でついにG1勝利を飾った。

生涯成績50戦7勝。特に、GI出走回数20、重賞連続出走回数36はナイスネイチャ記録更新していた。獲得賞推計10億3909万円(7億62993000円+120万USドル+800万香港ドル)。[1]

種牡馬入りした後、産駒からはドリームジャーニーナカヤマフェスタオルフェーヴルゴールドシップレッドリヴェールオジュウチョウサンなどを輩出した。

2015年2月5日、大動脈破裂により死亡

生涯

血統

言わずと知れた種牡馬サンデーサイレンスゴールデンサッシュは未勝利だが全マイルCSなどを制した「弾丸シュートサッカーボーイがいる。は日でGⅠを輩出したディクタスという良血にはノーザンテーストという日本競馬を塗り替えた大種牡馬。当時のザ・社台グループ血統といった血筋である。

からスピードを、からスタミナとパワーを、両者から旺盛な闘争心を受け継ぐことを期待できる血統であった。また、ノーザンテーストの産駒は「三度変わる」と言われており、結果的に、これらの血統的特徴は現役生活で示されることとなる。

現役時代①旅路の始まり(1996-1997年)

96年、旧3歳(現2歳)12月デビュー。2戦膜炎を発症したで出世が遅れ、6戦の4歳(現3歳)5月にようやく初勝利を挙げる。ちなみに3戦には右回り京都コースで左に旋回し落競走中止、調教再審という暴れっぷりを見せつけている。初勝利5月なため皐月賞は既に終わっていたし、ダービーへの出走もできるわけがなかった。

を現したのは4歳のから。初勝利に続いてすいれん賞(4歳500万下)を勝利。さらに1戦を挟んだ阿寒湖特別(900万下←ここ重要)を勝つ。ただ恐らく、ここから2年以上も勝利がないとはだれも思っていなかっただろう。

にもにも、この勝利で弾みをつけ、上がりの一としてクラシック最後の一冠・菊花賞戦線に挑む。トライアルGⅡ京都新聞杯では4着と好走、優先出走権は逃すも営や好みのファンに期待を抱かせる。 が、格上挑戦で出走した本番では、マチカネフクキタルの8着といいところなく敗れた。その後は97年から98年にかけて自己条件と格上挑戦で4戦し、4戦連続2着。この4戦の中にGⅢダイヤモンドステークスでの2着があったため、収得賞金が加算され晴れオープンとなる。その後、GⅡ日経賞での4着を経て、ステイゴールドは本格的に古G1路線へと駒を進める。

現役時代②善戦マンと呼ばないで(1998年)

天皇賞(春)では、クラシック冠で終えていた大器メジロブライトが遂に戴冠。メジロライアンが果たせなかった天皇賞制覇を成し遂げる。ステイゴールドはその陰で2着。初の古G1かつ勝ちが勝ちなので10番人気だったのを考えると大快挙である。

グランプリ・宝塚記念では本格化した稀代の快速サイレンススズカ優勝悪や急な乗り替わりに苦しみながらも、この年の緒戦から続く連勝街道G1勝利という大輪のを添えた。ステイゴールドはその陰で2着。何気に覚醒したススズを踏めた一のであったりする(ただしこの時はいつもの逃げスタイルではなく騎手が変わっており「引き付ける競馬」をしていたのだが)。また、この2着は前年度代表馬エアグルーヴに先着する2着であり、総合的には大善戦であった。

天皇賞(秋)では絶対的な存在であったサイレンススズカレース中にまさかの故障発生、帰らぬとなる。
静かな会場に僅かな悲鳴と怒号が聞こえる中、兵の8歳(現7歳)オフサイドトラップが後味の悪い勝利を手にする。ステイゴールドはその陰で2着。

G1レースを3戦連続2着である。特に大本事故で消えた天皇賞(秋)は、言い方は悪いがG1を勝つまたとないチャンスだった。これをみすみす逃したことで、競馬ファンのステイゴールドに対する評価はほぼ決まってしまう。惜しいところまで行くが詰めが甘い善戦マンナイスネイチャロイスアンドロイスの系譜に連なるネタである。「名前ゴールドなのにシルバーコレクター」、「ゴールドの前でステイ」などと揶揄されながらもネット住民から、並みの小柄な体が可らしいと女性ファンから、大レースでかなりの割合で馬券に絡んだ馬券師からと、幅広い層に人気を博し始めた。

その後ジャパンカップでは10着と掲示板を外すも暮れのグランプリ・有馬記念では3着に入りシーズンを締めくくる。GⅠでの好走が立つも自己条件戦も含め勝利かった。これに「勝ちいがこの結果。やはりは有る」と翌年の飛躍に期待する者もいる一方で有馬で3着・・・やはりナイスネイチャ!?と別の意味で今後の活躍に思いを馳せる者もいたとか何とか。なお、G1レースで他のたちが重賞を勝ちあがってくる中、ステイゴールドはひたすら「な勝ち阿寒湖特別(900万下」だったことから、「アカン子」と掛けて「」「阿寒湖特別」とあだ名がついている。

現役時代③ねんがんの じゅうしょうタイトルを てにいれたぞ!(1999~2000年)

明けて99年。旧6歳となったステイゴールドは初戦の京都記念こそ着外となるも、ステップレースの日経賞天皇賞(春)では掲示板に復帰。その後は金鯱賞鳴尾記念(当時は初開催のG2)、宝塚記念3戦連続3着。ファンは惜しいレースにやきもきし、複勝馬券師は懐を温め、馬連馬券師は「どうして3着にこだわるんですか?2着では駄なんですか!?」と憤慨し(この年の宝塚で2着はキツいって)、ネット住民はネタ的な意味で予想をはるかえるポテンシャルに身震いした。

京都大賞典を経て挑んだ天皇賞(秋)ではレコード更新する勢いで末脚を発揮する強い競馬を見せるも、更に0.1速く駆けたスペシャルウィークを前にクビ差む。なおステゴはこの時12番人気で2着という走であり、スペ様は自身が勝ったレースで3度馬連万馬券を製造した。その後JC有馬記念掲示板外に敗戦。結局、99年シーズンも前年に続き惜しいところで勝ちを上げることはできずに終わった。

2000年にはステイゴールドも7歳(現6歳)。人間で言えばアラサーに当たる世代に突入していた。同期はおろか98世代の一部もターフを去っていた。彼も残された時間は少ない…と言いたいが衰えを見せる様子はとりあえずなかった。この年もAJCC2着、京都記念3着、日経賞2着、天皇賞(春)4着と惜敗を繰り返し、「もうステイは勝てないままなの? 重賞は取れないの?」「でもそれはそれで美味しい気がする」・・・そんなも囁かれだした中、営は苦渋の選択を行う。騎手の交代である。宝塚記念へのステップ・GⅡ目黒記念に挑むにあたり、これまでの戦だった熊沢重文から、トップジョッキー武豊へ乗り替わりを決断した。

乗り代わりについてはシビアな考えの武であったが、この時は流石に、これまでの戦であった熊沢を慮って複雑な心であったという。だが、レースでは見事期待に応えてみせた。
重賞勝利なのに最重量斤量を背負い、の降りしきる重馬場の中を後方待機で進むと、最後の直線で良血マチカネキンノホシを捉えて、そのまま突き放すこと1と1/4身差をつけて入線。ファンはついに、ステイゴールドが重賞で先頭に立ってゴールする間を撃したのだった。

レース数にして実に29戦、時間にして約2年と8カぶりの勝利であり、サンデーサイレンス産駒重賞100でもあった。このレースまでにGⅠの複勝圏内に6回入り、既に並のGIよりは稼いでいた。その額5億5466万円(例えばサイレンススズカの賞額は4億5,598万円) 。それにも関わらず、新聞に表記されていたのはずっとな勝ち:阿寒湖特別(900万下)」だった。だからこそか、この勝利に会場となった東京競馬場では土曜開催にも関わらずG1並みの拍手と歓が巻き起こり、レースを中継していた中京競馬場でも拍手を送る者が絶えなかったという。

この人気に押されて、JRAでも冒頭の文章が入ったポスター製作された。[2]だが、このポスターNo.49だったわけで、これが果たして翌年のNo.50として作られていたらどのような文書が書かれていたのだろうか。またこの年、JRAが開催した「Dream Horses 2000」において、GI競走未勝利ながらファン投票数34位に入っている。[3]

かしこの年は世紀末。そう、世紀末覇王テイエムオペラオーが古王道した年である。2着にはメイショウドトウが常にいて、更にステイゴールドは上がコロコロ変わったもあってか不振に陥り、宝塚記念以降はこれまでと打って変わってGⅠで馬券に絡むことが出来ずに終わる。

現役時代④~そして伝説へ~(2001年)

世紀は変わり2001年年齢表記は7歳で変わらず。JRAの制度革の一環として、齢を従来の数えから満表記に変更したため、2年の「7歳シーズン」になったのである。これで1歳若返った気にでもなったのか、前年の重賞制覇に気を良くしてか、ステイゴールドはこの年も現役を続けていた。

気楽に言っている少なくともステゴ自身は気楽なのだろうが、そろそろ種牡馬入りできるかどうか、出来たとして良いを付けられるかどうかが問題になる時期である。一部の例外を除いて、繁殖に関われない競走馬運命は決まっている。それ故、営は必死であった。

もう同期はおろか、98世代も多くがターフを去ったというのに、まだ走り足りないのか初戦のGⅡ日経新春杯藤田伸二の手綱で勝利重賞2勝を挙げる。そして勢いに乗って海外に遠征。ドバイシーマクラシックへの参戦を決定した。一応、突拍子のない話ではなく、トゥザヴィクトリーのドバイ挑戦の現地での調教併せとしての話もあったので「それなら一緒に」と考えた結果である。

ドバイワールドカップサポートレースであるドバイSCは高額賞もあってか欧州の強も参戦。出走面子は、最並のG1すら逃げ出しそうな様相だったが、中でも前年に英ダービー凱旋門賞を下すレコード勝利を上げ、この年の欧州年度代表馬アメリカの芝のチャンピオンにも選出されることとなるファンタスティックライトが連覇を狙って出走したのは、特筆すべきことであろう。前年度はオペドトウに負けているとはいえジャパンカップステイゴールドが作ったスローペース逃げに振り回された上にアウェーの勝負。このレースは前年度の勝利もあってホームというべきものだった。

当のファンタスティックライト調子が今一つだったものの、それ以上にステイゴールドはただでさえ小柄な体が、遠征による疲労で更に痩せ細ってしまっていた。そのため「せめて事で帰ってきてくれ」とまで心配され、苦戦が予想されると同時に、もしかししてステゴなら2、3着に入って笑いをとるのではと期待された。だが、群から抜け出したファンタスティックライトを凄まじい猛追で捉え、掲示板や2着どころか、ハナ差で下す大金星を挙げる。

これは、日本調教に限ればサンデーサイレンス産駒、初の海外重賞制覇である。[4]SS産駒に限らずとも、レーヌ賞を取ったフジノオーワシントンバースデーハクチカラ香港カップフジヤマケンザンに続く4頭の偉業であった。

これで、ステイゴールドもGI……となればよかったのだが、ドバイシーマクラシックがGIになるのは翌年の話。当時の格付けではまだGⅡだったのである。残念!だが、この勝利がGI相当であると見なされたことによって、日高種馬農業協同組合からステイゴールドにもようやく種牡馬入りの話が来た。社台グループ日高の組合に提示した額は3億。だが、後述する様々な理由によって、組合員が高すぎると判断したことでこの件はお流れとなってしまう。社台グループは自身らでシンジケートを組むこととなり、ステイゴールドの種牡馬入りが決定する。

なお、ごたごたやっているうちに全に繁殖時期を過ぎたことと、アグネスタキオン種牡馬入りして、同じサンデーサイレンス系のステイゴールドに需要が見込まれなかったため、この年は現役続行となる。

これが現役最後の年となったステイゴールド。このままの勢いでGⅠも制覇を、と期待が高まった。内復帰初戦の宝塚記念では4着。GⅡ京都大賞典では『あの』テイエムオペラオーから1位入線を奪うも、直線で例の左にヨレる癖を出して斜行し進路を妨していたため、審議の結果失格となる。この際に接触したナリタトップロード渡辺薫彦騎手は落トップロードもハ行を発症して天皇賞を回避するという後味の悪いレースとなった。
本番の天皇賞(秋)でも再び左に行きたがったで惨敗。ジャパンカップでは左への斜行癖対策を重点的に行い、まっすぐ走らせることには成功して初戦以来メイショウドトウに先着するも4着に終わった。

引退レース・旅路の果てに(01年香港ヴァーズ)

50戦の節にしてラストランとなったのは、年末の有馬記念……ではなく、香港国際競走GⅠ・香港ヴァーズファンタスティックライトを下したことが評価され、GIで初めての1番人気で出走したステイゴールドは、遂に悲願のGⅠ制覇へ到達する。左のヨレ癖が直ったと思っていたら右にヨれ内ラチにぶつかろうかというほどに寄っていったという。最後までネタに事欠かないである。

日本産の日本調教による初めての海外GⅠ制覇という快挙[5]。最、善戦マンどころか21世紀最初の名である。その上、その年(2001年)の香港際競争はエイシンプレストンアグネスデジタルによって4レース中3レース日本調教が制覇。当時実況に対応していなかった2ちゃんねる競馬鯖落ちする事態となった。なお、このレースでの中文表記である「黄金旅程」は、彼の異名となり、後々産駒の命名にまですることとなる。

その香港ヴァーズ動画競馬タグの最古投稿動画である。あえてそのレースの内容については多くをらない。是非とも動画上でその雄姿に触れてほしい。その後は奮のあまりに発走時と最終直線で別人のように変貌しているラジオ実況も聞いてみてね

……ステイゴールド! ステイゴールド追ってくる!
ステイゴールド! 差し切れ!
ステイゴールド! ステイゴールド! エクラー!
ステイゴールド! ステイゴールド……

ステイゴールドォォォーーーーッッ!!!

――ラジオ日本 加藤裕介アナウンサー

引退

海外重賞2勝の戦績が評価され、2001年JRA特別賞を受賞。これを手土産引退、繁殖入りする。生涯成績50戦7勝。

マチカネフクキタルの桁外れの末脚、メジロブライト悲願の戴冠、最速の逃げサイレンススズカの栄と最期、オフサイドトラップの不屈の快挙、世界飛翔するエルコンドルパサーの雄姿、怪物グラスワンダー復活王道を行くスペシャルウィークとの死闘、世紀末を制したテイエムオペラオーの凱歌とメイショウドトウの逆襲、アグネスデジタル解放後初の外国産馬によるの奪取、新世紀最初のダービージャングルポケットJC制覇による世代交代劇。ステイゴールドの現役生活は、多くの名たちが紡ぎだす伝説と共にあった。そして最後は自らも伝説を残して去っていく。その蹄跡の一つ一つが、名前の通り色褪せぬ色であった。

当初、引退式は予定されていなかったが、ファンの嘆願とJRAの要請により急遽開催が決定。名の由来となった名曲を背にターフを去った。エルコンドルパサーが何か言いたげだ。

この見事な大団円をもって、黄金旅程の第一幕は幕切れとなる。

引退後~それから~

海外重賞2勝とサンデーサイレンス産駒としての看を引っ提げ、種牡馬として彼のの第二幕は上がる。とはいえ、最初種牡馬としては期待されていなかった。であるサンデーサイレンス自身がいまだ健在であったことに加えて、サンデーサイレンス産駒からはフジキセキから4歳年下のアグネスタキオンまで後継種牡馬が既に多数存在したからである。その後継種牡馬の産駒からもGI勝利はこの時点では産まれておらず、加えてステイゴールド自身は小柄・晩成・ステイヤー(寄りの中距離)という種牡馬としては売れない要素を多く抱えていたのである。

ところが、香港ヴァーズ勝利で全てが変わった。これをに、「サンデーサイレンス産駒の際GI勝利に安く種付けできる」と人気急上昇。初年度産駒から、いきなりソリッドプラチナムが重賞勝利含め4頭の重賞を輩出する。これはともかく、次年度産駒のドリームジャーニー朝日杯フューチュリティステークスでGI初勝利を挙げ最優秀2歳を受賞。晩成と思われたステイゴールドの産駒から2歳GI勝利がでたことが驚愕であったが、このドリームジャーニー2009年グランプリを制したことで、ステイゴールドのラインが繋がることがほぼ確定。翌年にはナカヤマフェスタ宝塚記念勝利、凱旋門2着の成績を上げる。更に、その全オルフェーヴル三冠を取ったことで、ステイゴールドの種牡馬としての評価は決定的となる。翌年以降も、GⅠ6勝のゴールドシップ天皇賞連覇のフェノーメノなどGⅠ勝利重賞勝利を数多く輩出。史上5頭の産駒重賞100勝を達成して、種付け料も150万→100万250万→600万→800万と、ディープインパクトに次いで、キングカメハメハと並ぶまでに至り、サンデーサイレンス系の後継種牡馬の一頭として地位を確立した。産駒もやっぱり癖ばかりだなぁ…。

こうしてきに満ちた程を歩んでいた彼であったが、その終焉は突如訪れる。2015年2月5日午後に種付けをした後様子が一変。苫小牧市の社台ホースクリニックで診察を受け一度は房に戻ったものの、その後容態が急変し、ついに永遠の眠りに就いた。21歳。死因は大動脈破裂であった。種牡馬として活躍したサンデー産駒が20もいかず亡くなることが多いとはいえ、一般的な競走馬寿命(25歳前後)よりも数年く、半ばにして第二幕は閉じることとなった。

しかし、死後も天才オジュウチョウサンが障獲得賞記録JRA重賞連勝記録を塗り替えたり、中長距離産駒が多い中インディチャンプマイラーとして活躍しマイルGI連覇を達成したり、また(種付け頭数1頭のラストクロップ世代を除いて)実質的な最終世代のステイフーリッシュサウジG3→ドバイG2と海外重賞を連勝する中で譲りのゴドルフィンキラーっぷりを発揮するなど、まだまだ産駒は話題に事欠かない活躍をする。

また、彼の系統はオルフェーヴルドリームジャーニー兄弟ナカヤマフェスタゴールドシップフェノーメノレインボーラインウインブライトなどすでに多くの後継者に恵まれており、さらには孫世代も系ではエポカドーロ系ではラッキーライラックユーバーレーベンマルシュロレーヌなどの活躍が輩出されつつある。これからは彼らが、さらなる路を拓いていく。すでに上がった路の第三幕も暫く色褪せることはなさそうである。

評価

2400~2500mの競争で勝利を挙げつつ、2000~3200mの広い範囲のレースで賞を稼ぎ続け、GI競走出走20回。内2着4回。スペシャルウィークの2着だった第120回天皇賞()では、自身もレコード越えで駆け抜けており、GIとしてのは確かにあった。それでも、GIを取るまで20戦、重賞を取るには25戦かかっている。勝ちきれない性分を残念と思うか、それだけ出走しても壊れない体を褒めるべきか。一応言うと、王道路線を1年間走り切れるなんてそんなにいないのである。況や、2年3年と続けることをや。王道G1を2年完走した競走馬すら他にテイエムオペラオーしかいないと言えばどれ程の大偉業か分かるだろうか。しかも身体的に5年は完走できそうだから驚愕ものである。

ステイゴールドが「社台レースホース」の保有するクラブであるということを考えると、これは「最高の特性」なのである。一口馬主になったことのある人の多くが経験しているように、そもそもデビューすらできない、デビューしても1戦2戦で不足で引退なんてことはザラである。を示したところで、間隔をけて使うしかないも多い。それがステイゴールドは6年間で50戦、しかも後ろの4年間は重賞ばかりり。GIで勝たないから引退しないし、勝てなくても高い賞を稼いて帰ってきてはまたすぐ次のレースに向かうから出資者はかるのである。ステイゴールドは95万円×40口で募集されたため、出資者は多くとも40人ということになるが、これだけ多くの人に6年間もの長い間じれったさと賞とそしてそれ以上のワクワクを与えたという、アーモンドアイすら及ばない日本競馬史上でも最高のクラブと言えるのではないだろうか。でもだったら「6歳引退」という規定のせいで本当に「な勝ち阿寒湖特別」で終わっていた可性が高い。

ただ、最後の引退レースであんな走りをしてもゴール後にまだ暴れる余があったそうで、最初から本気で走ったらどうなっていたのだろう。まあ、気性に関しては最何も言うまいか。

種牡馬としては一流を通り越して「一流」といっていい。当初はよい肌もつかず、他のSS産駒種牡馬も多数いる中で重賞、GIを生みだし、そこから、2010年代サイアーランキングに上位に乗り続けたのは立。自身に似ずい時期から走れる産駒も、自身に似て古でも長く結果を残し続ける産駒もいた。今後は彼の子孫が系統として確立するかが注される。

肉体面

ステイゴールドはサラブレッド均体重からするとかなり小さく、4歳日経杯の時点ですら408kg、最も重い時でも436kgだった。体つきがのようだとか、身体が出来上がったのが6歳後半ではないかとか言われたこともある。武豊く、引退レース時が全盛期

一方、両から受け継いだ身体は中々のもので、後ろ足二本のみで立ち上がってもフラつかない、小柄な体格にもかかわらず、調教時に体重60kg(レース時の騎手は大体50kg台、場合によっては40kg台)の人間が乗っても走ってのけたなど、の高さだけなら一級品である。こと、に関しては凄まじいものがあり、ドバイでは狭い所を抜け出すと強追い込みを見せてハナ差でしきり、香港では右に左に向きを変えながら、後にディープインパクトの走りを飛んでいるようだと表現をした上をして「羽が生えたようだった」と言わしめる末脚を発揮した。

も、このに関してはそれ以上に頑健さが特筆される。他のSS産駒には、フジキセキサイレンススズカアグネスタキオンといった、高速の足を持ちつつも、遂に走れなくなった競走馬も存在する。一方、ステイゴールドはデビュー直後こそ膜炎を発症していたが、それ以降は大きな病気も怪もなく、特段の休養もないまま毎年同じように王道路線を走って、結果6年で50戦GI20戦。古路線を4年も続けてどこかで掲示板に入って賞を獲得し続けてきた。これは、SS産駒は論のこと、競馬界全体を見ても極めてまれ。例えば、王道制覇を果たしてテイエムオペラオーでも2年の古路線(5歳)では衰えており、そんな中でなぜか7歳時に競走が上がっていくステイゴールドは破格の存在といえる。

なのだが、血統を遡ってもそこまで頑丈と言えるはおらず、果たしてこの頑健な体は一体どこから来たのかはよく分からない。伯父サッカーボーイもそれほど頑丈ではなかったしだから競走をいつも手抜いてたとか言われる。産駒もやたら頑丈なので遺伝子的な要素とは思われるのだが…。一応、

という要素は見て取れる。

精神面

彼は両から素晴らしい体を受け継いだ。但し、ステイゴールドはそれ以外のものも受け継いでしまった。

サンデーサイレンスは凄まじく荒い気性の持ちであり、その産駒もまた、優れたを発揮すると同時に、気性のしさが大きな特徴である。ディクタス産駒もこの点においては人後に落ちず、サッカーボーイはその代表格である。そんなわけで、この配合から生まれたステイゴールドは、SS産駒の中でも、特に気性難が予想されていた。

その予想にたがうことなく、幼いころは大人しかったステイゴールドも、人を乗せて調教し始めると気性の粗さを現していく。他に乗りかかろうとするは、噛みつきにも行こうとするは、あまつさえ人にも噛みつき、厩舎の中でも油断すると蹴りが飛んでくる。房の前を通っただけで突進して威嚇する。走行中はやたらと左にヨレるは、逸走するは、終には上の熊沢重文を振り落とすetc…とにかく気性面では問題点が目白押しだった。

ことに、ヨレ癖は生涯決して直らなかった。京都大賞典では左ヨレの癖が最悪の方向に働いたため、営が必死調教と左を隠すと言う合わせ技で、ついにしたと思ったら、引退レースでは右にヨレると言う何とも言えないことになっている。

荒い気性の結果として闘争心だけは必要以上に持ち合わせており、2度の海外勝利はこれが功を奏した結果だろう。他に人問わず自身の弱いところを見せるのをとにかく厭う性格だったようでドバイ遠征で体調を崩し食欲が落ちても飼い葉を寝床に隠したり他のに与えたりして健康アピールをしていたとか。牧場鹿が迷い込んできた時他の逃げ惑っていたがステゴだけは逆に追い回していたという逸話がある。

ステイゴールドを管理する池江泰郎調教師の下で調教助手をしていた池江泰寿(後に調教師となりステゴの代表産駒ドリームジャーニーオルフェーヴルを管理する)にコイツやったら食うんじゃね?」と言わしめ、下級条件時代、後にコンビを組む武豊からは初騎乗時に競馬に集中できていない」とまで言われてしまった。更に小柄であるにも関わらず群れのボスであり、とにかく独尊を地で行く俺様っぷりだったそうな。

だが、池江泰寿氏のいとこでステイゴールドの担当厩務員だった山元重治氏は「とにかく自分が一番エラいと思ってる。自分の中のマイルールを絶対曲げようとしない(笑)とあきれる一方、「(面倒は面倒だけど)ではない」といい、熊沢も「何がOK、何がNGということをはっきり表現しているだから、それがわかってしまえばかえって扱いやすい」ともる。要するに、ステイゴールド自身の中ではしっかりとしたルールがあって、ただ意味もなく暴れるということはなかった。その意味では「賢い」であったとも言える。

賞金について

ステイゴールドが獲得した賞海外でのレース含めて10億3909万円と推定されている(為替率の関係でおおよその計算である)。較として、メジロマックイーンは10億1465万円、ナリタブライアンは10億2691万円(ボーナス含む)、スペシャルウィークは10億9262万円である。テイエムオペラオーに次ぐ5頭の10億円ホースであり、時代や物価の変動ということを加味しても名に並ぶ稼ぎ頭であったことは間違いない。

競馬にあまり詳しくない人の中には「1着が少ないのになんでこんなに稼げたの?」と疑問に思う人がいるかもしれない。これは日本競馬の「入着する=掲示板表示される5着以内に入る」と賞が貰える制度のためである(貰える額は1着を100とすると、2着40、3着25、4着15、5着10)。50戦という他のGI勝利較するとかに長い戦いの中でひたすらに善戦を続け、掲示板から外れることの方が少なかったステイゴールドは、着実に賞を積み上げ続けた「も積もれば山となる」を体現した存在であると言える。

加えて、実動期間6年で大きな休養もケガもないという、まさに「『事是名』を地に行くような、素晴らしい(池江泰寿氏評)」であった。

種牡馬として、産駒について

ステイゴールド産駒の記事も参照

先述の通り、種牡馬入りが見込まれたころはそこまで期待されていたわけではなかった。だが、香港ヴァーズ勝利以後、評価がうなぎ登りに上り続け、ついに三冠馬まで出してしまったのだから大したものである。

ステイゴールドの受胎率は高く、そのため、他の種牡馬で受胎しなかったがやってくる場合もあった。産駒は、ステイゴールドの特徴であった、体のバネによる、頑健な体、息の長さ、競走馬としての賢さ、そして気性難を概ね引き継いでいる。

ラストクロップであるハルナゴ[6]を除く全世代の産駒において重賞を輩出。重賞勝ちはサンデーサイレンスに並ぶ17年連続(第5位タイ)、116勝(第4位)を数える。とくに14年連続産駒G1勝利に並ぶ1位タイ記録となっている。

なお、サンデーサイレンスの「友」と評されたメジロマックイーン産駒のとの配合が「配合」として注されていた。→ステマ配合

GI, JpnI勝利馬

余談~善戦マン達のちょっとした言い訳~

――は確かにある。レースでも好走はする。だが、なぜか勝てない。人はそんな詰めの甘いたちが勝ちきれない訳を、勝負根性の四文字だけで説明しがちである。後一歩で勝ちきれないのは、根性が足りないから。闘争心が不足しているからだ、と。 ステイゴールドにもそんな評価が下されたこともある。

だがその通説には疑問が残る。

々は『勝負根性』という便利な言葉で、不可解な敗因を分かった気になっているだけではないだろうか。走の個性は千差万別で、その勝因も敗因も、十人(十?)十色であることを忘れていないだろうか。果たして、たった四文字の言葉で惜敗を重ねるたちの敗因を説明していいのだろうか。

例として、一頭のを挙げさせてもらいたい。ビワハヤヒデ三冠馬ナリタブライアンの半で、自身もG1レース3勝を誇る名である。だが、彼を評する言葉の中に、ある不名誉な言葉がある。

顔がデカイ勝負根性不足である。

なるほど朝日杯、皐月賞ダービーG1レースで2着惜敗を繰り返したビワハヤヒデは、確かに一見して
勝負根性が欠けて見える。だが、彼を預かった浜田調教師は後年、競馬雑誌『サラブレ』の取材にこう答えている。

『ビワには勝負根性は十分にあった。だから何度も2着に食い下がれた。
あいつに本当に欠けていたのはだった――』

ビワハヤヒデは先行抜けだしの、いわゆる横綱相撲と呼ばれる競馬を得意とする。抜かれまいとする逃げをねじせ、抜こうとする差しを封じ込めるための勝負根性がければ決して務まらない戦法である。そんなスタイルを貫くビワハヤヒデが根性しな訳はい。

逆にビワハヤヒデを負かしたたちはトニービン産駒のウイニングチケットに追込ナリタタイシン、そして全身是バネ也ともいうべきトウカイテイオーと、恵まれタイプが多い。ビワハヤヒデ営が敗因を不足と捉えるのも、自然な発想だろう。事実日本ダービーの敗戦後は放牧を拒み猛特訓を積んでこの弱点を補強し、菊花賞を勝ち取っている。

話をステイゴールドを戻す。彼の場合はビワハヤヒデとは逆に、に秀でたタイプ競走馬だ。それだけに勝負根性の不足という論は、あるいはより説得を持ってしまうかもしれない。しかし、彼の血統を見れば、ノーザンテーストディクタスサンデーサイレンス・・・・・・。いずれも大舞台でこそよりけるを送り出してきた時代のトップサイアー達である。彼らの血の結晶であるステイゴールドが、果たして本当に勝負根性に欠けるなのだろうか。

前稿での解説した通り、ステイゴールドの最大の弱点は気性からくる斜行癖だった。このために最大の武器であるはその発揮が遅れ、本領がに見えるころには先頭ゴールしている。それこそが彼を苦しめていたの欠点ではないだろうか。考えれば、果たして闘争心に欠ける末脚だけのがあのエアグルーヴを抜きサイレンススズカをクビ差まで追い詰める、スペシャルウィークに0.1差の勝負を強いることが出来るだろうか。失格になったとはいえ、接触事故の起こったレーステイエムオペラオーに先んじることが出来るだろうか。ヨレて内ラチスレスレにも関わらず残り1ハロンで5身以上先を行くエクラールを差し切ることが出来るだろうか。

ステイゴールドの代表産駒オルフェーヴルは、不良馬場日本ダービーで他のに挟まれる不利を受けながらも、怯まず果敢に走り2冠を手にした。その快な末脚のみならず、旺盛な闘争心もまたステイゴールドから受け継いだものであると、私は信じたい。

まあ、勝負根性を競馬へのやる気と言い替えたら、明らかに足りてなかったかもしれないけど。
左に行きたがる癖は「騎手が追えなくなって楽できるようになる」と思ってたからって言うし。

その他

競走成績

日付 レース 格付 開催競馬場
・地域名)
距離 m 馬場 頭数 騎手 着順
1996年(旧3歳)
1 1996/12/01 3歳新 阪神 2000 14 ペリエ 3
2 1996/12/21 3歳新 阪神 2000 16 ペリエ 16
1997年(旧4歳)
3 1997/02/15 4歳未勝利 京都 1800 12 熊沢重文
4 1997/03/22 4歳未勝利 阪神 2000 13 熊沢重文 2
5 1997/04/19 4歳未勝利 京都 芝2400 18 熊沢重文 2
6 1997/05/11 4歳未勝利 東京 芝2400 18 熊沢重文 1
7 1997/06/07 すいれん賞 500万下 2500 10 熊沢重文 1
8 1997/06/29 やまゆりS 900万下 阪神 2000 13 熊沢重文 4
9 1997/09/06 阿寒湖特別 900万下 札幌 2000 14 熊沢重文 1
10 1997/10/12 京都新聞杯 GII 京都 2200 12 熊沢重文 4
11 1997/11/02 菊花賞 GI 京都 3000 18 熊沢重文 8
12 1997/11/30 ゴールデンホイップT 1600万下 阪神 2000 13 武豊 2
1998年(旧5歳)
13 1998/01/17 万葉S OP 京都 3000 14 熊沢重文 2
14 1998/02/28 籟S 1600万下 京都 芝2400 16 熊沢重文 2
15 1998/02/21 ダイヤモンドS GIII 東京 3200 16 熊沢重文 2
16 1998/03/29 日経賞 GII 中山 2500 12 熊沢重文 4
17 1998/05/03 天皇賞(春) GI 京都 2000 14 熊沢重文 2
18 1998/06/13 目黒記念 GII 東京 2500 13 熊沢重文 3
19 1998/07/12 宝塚記念 GI 阪神 2200 13 熊沢重文 2
20 1998/10/11 京都大賞典 GII 京都 芝2400 7 熊沢重文 4
21 1998/11/01 天皇賞(秋) GI 東京 2000 12 蛯名正義 2
22 1998/11/29 ジャパンカップ GI 東京 芝2400 15 熊沢重文 10
23 1998/12/27 有馬記念 GI 中山 2500 16 熊沢重文 3
1999年(旧6歳)
24 1999/02/14 京都記念 GII 京都 2200 16 熊沢重文 7
25 1999/03/28 日経賞 GII 中山 2500 13 熊沢重文 3
26 1999/05/02 天皇賞(春) GI 京都 3200 10 熊沢重文 5
27 1999/05/29 金鯱賞 GII 2000 15 熊沢重文 3
28 1999/06/20 鳴尾記念 GII 阪神 2000 10 熊沢重文 6
29 1999/07/11 宝塚記念 GI 阪神 2200 12 熊沢重文 3
30 1999/10/10 京都大賞典 GII 京都 芝2400 10 熊沢重文 6
31 1999/10/31 天皇賞(秋) GI 東京 2000 17 熊沢重文 2
32 1999/11/28 ジャパンカップ GI 東京 芝2400 14 熊沢重文 6
33 1999/12/26 有馬記念 GI 中山 2500 14 熊沢重文 10
2000年(旧7歳)
34 2000/01/23 アメリカジョッキーC GII 中山 2200 14 熊沢重文 2
35 2000/02/20 京都記念 GII 京都 2200 11 熊沢重文 4
36 2000/03/26 日経賞 GII 中山 2500 10 熊沢重文 2
37 2000/04/30 天皇賞(春) GI 東京 3200 12 熊沢重文 4
38 2000/05/20 目黒記念 GII 東京 2500 15 武豊 1
39 2000/06/25 宝塚記念 GI 阪神 2200 11 安藤勝己 4
40 2000/09/24 産経オールカマー GII 中山 2200 9 後藤浩輝 5
41 2000/10/29 天皇賞(秋) GI 東京 2000 16 武豊 7
42 2000/11/26 ジャパンカップ GI 東京 芝2400 16 後藤浩紀 8
43 2000/12/24 有馬記念 GI 中山 2500 16 後藤浩輝 7
2001年(現7歳)
44 2001/01/14 日経新春杯 GII 京都 芝2400 11 藤田伸二 1
45 2001/03/24 ドバイシーマC GII ナド・アルシバ
アラブ首)
芝2400 16 武豊 1
46 2001/06/24 宝塚記念 GI 阪神 2200 12 後藤浩輝 4
47 2001/10/07 京都大賞典 GII 京都 芝2400 7 後藤浩輝 失格
48 2001/10/18 天皇賞(秋) GI 東京 2000 13 武豊 7
49 2001/11/25 ジャパンカップ GI 東京 芝2400 15 武豊 4
50 2001/12/16 香港ヴァーズ GI 沙田
香港
2000 14 武豊 1

累計

1着 2着 3着 4着 5着 6着以下 失格 中止 合計
GI 1 4 2 4 1 8 - - 20
GII 3 2 5 3 1 2 1 - 17
GIII - 1 - - - - - - 1
重賞 4 7 7 7 2 10 1 - 38
OP以下 3 5 1 1 - 1 - 1 12
総計 7 12 6 8 2 11 1 1 50

その他

血統表

*サンデーサイレンス
1986 青鹿毛
Halo
1969 黒鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Cosmah Cosmic Bomb
Almahmoud
Wishing Well
1975 鹿毛
Understanding Promised Land
Pretty Ways
Mountain Flower Montparnasse
Edelweiss
ゴールデンサッシュ
1988 栗毛
FNo.1-t
*ディクタス
1967 栗毛
Sanctus Fine Top
Sanelta
Dronic Worden
Dulzetta
ダイナサッシュ
1979 鹿毛
*ノーザンテースト Northern Dancer
Lady Victoria
*ロイヤルサッシュ Princely Gift
Sash of Honour

クロス: アウトブリード

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関連項目・リンク

脚注

  1. *GI1勝としては当時最高。現在シュヴァルグラン更新
  2. *ヒーロー列伝はGI勝利+αの成績で作られるのが基本であり、ステイゴールド以前のGI未勝利の採用は、中央10競馬場を出走した(しかも重賞3勝、の獲得賞更新ヤマノシラギクのみであり、制作時点でたかが重賞1勝が列伝に採用されたのは現在に至るまで極めて異例である。
  3. *他に投票時点でG1勝利ナイスネイチャ(第71位)とツインターボ(第91位)。他にGI未勝利マルゼンスキー(第32位)がいるが、基本的に朝日杯3歳ステークス勝利が、1984年グレード導入時に以前に遡って、GI勝利相当であると扱われる。
  4. *なお、「日本調教の」と前置きをつけたのは、1999年日本産でフランス調教サンデーピクニックが当時のGⅢレオパトル賞を勝利していたからである。この快挙を、海外に輸出されたに先んじられるあたりもステゴらしいといえばらしい。
  5. *この日までに海外GIを勝利したシーキングザパールタイキシャトルエルコンドルパサーアグネスワールドアグネスデジタルエイシンプレストンは全て外国産馬
  6. *種牡馬の最終年度産のを「ラストクロップ」というが、ステイゴールドのラストクロップは死ぬ直前に種付けして産まれた2016年産のハルナゴリ(6戦0勝)ただ1頭であり、2015年産はラストクロップとは呼ばないので注意。
  7. *【密着!池江厩舎】(9)オルフェ食事中に発見!父&兄との共通点― スポニチ Sponichi Annex ギャンブルexit
  8. *2018牧場めぐり ゴールドシップ | スエコマのお出かけ大好きブログexit
  9. *GI出走記録コスモバルク更新
  10. *重賞連続出走記録ノボトゥルー更新
  11. *日本初のG1優勝トウカイテイオーによる1992年ジャパンカップ勝利
  12. *日本初の際GI勝利イギリス調教シーヴァによるアイルランドタタソールズゴールドカップ制覇。
  13. *日本調教で初めて海外GIを勝ったのがシーキングザパールによる1998年フランスモーリス・ド・ギース賞勝利
  14. *1995年フジヤマケンザン香港カップを勝っており、このレースは当時香港内でGI相当と扱われていたが、際的にはGIIだった。
  15. *出走記録では2021年キセキが並んだが、キセキは初出走時掲示板を外している。
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最終更新:2022/05/17(火) 16:00

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