ストロベリーロード(Strawberry Road)とは、豪州生まれで豪州・仏国・米国で調教を受けた競走馬・種牡馬である。
世界の競馬大国をくまなく渡り歩いた、さながらロックスターのような馬生を送った豪州が誇る国際派名馬。
2009年にオーストラリア競馬殿堂入りを果たした。
主な勝鞍
1983年:ローズヒルギニー(G1)、ATCダービー(G1)、クイーンズランドダービー(G1)、 コックスプレート(G1)、フリーウェイステークス(G2)、センテニアルステークス(G2)、パワーホテルズクオリティハンデキャップ(G3)
1984年:バーデン大賞(G1)
1985年:サンクルー大賞(G1)、アルクール賞(G3)
1986年:アーケーディアハンデキャップ(G2)
父はその父がニジンスキー、母が米国競馬殿堂入りを果たした名牝、かつ弟にグロースターク・ヒズマジェスティ兄弟がいるボウルオブフラワーズであったがゆえに繁殖能力を期待され種牡馬になれた「ザ・親の七光りガイ」ウイスキーロード、母はニュージーランド生まれで7戦1勝のギフティザ、母父は日本にさらわれなかった数少ないプリンスリーギフト直仔でニュージーランドで活躍したリッチギフトという血統である。
ATCダービー(現在はオーストラリアンダービー)やジ・エベレストなどが開かれるシドニー近郊・ロイヤルランドウィック競馬場を擁するニューサウスウェールズ州で1979年9月に生まれた。
その後順調に成長した彼はドゥームベン競馬場が有名なクイーンズランド州ブリスベンに厩舎を構える調教師であるダグ・ボウゴーレ師に預託された。
順調に成長したと書いたが、入厩当初ボウゴーレ師は彼を見て「ポニーか何か?」と思うくらいのチビだったという。
しかしじっくり成長を待つことで体格は普通のサイズとなり、デビューにこぎつけることとなった。
1981/82シーズンも佳境に差し掛かった6月にデビューするが、2歳時には2戦して勝利できず。
年度が代わって3歳になった82/83シーズン初戦に選んだ8月のクイーンズランド州最高金額の未勝利戦というなんかよくわからん未勝利戦で初勝利を飾る。
幼さ丸出しでフラフラしつつ、仕掛けられると鮮やかに伸びて残り200で勝負を決めた脚を見たボウゴーレ師は「この馬でATCダービーを勝つ!」と公言した。8ヶ月しかないが大丈夫だろうか……。
一旦さらなる成長を期待してレースから離れ休みをとったが、83年1月に復帰すると1/6から2/5の約1ヶ月で4戦して4勝。未勝利戦から5連勝を飾る。
続いて出走した2/19のホヴァートビルS(G2)ではオーストラリアで一番重んじられる2歳戦の一つであるゴールデンスリッパーSを勝っていた後の大種牡馬マースケイを捉えられず2着に終わり連勝は止まったが、ここ1ヶ月強の連勝と善戦はATCダービー勝利に向けていいキャンペーンとなった。
え? 出走間隔が短い? オーストラリアではよくあることなんですよ。
その後、4月のATCダービーを頂点とするシドニー秋三冠開幕戦・カンタベリーギニー(G1)[1]で満を持してG1チャレンジに入るが、ジャパンカップに後年出走することになるニュージーランドのマイラー・マクギンティ[2]が快勝する中、逃げ潰れて6着と敗れた。
続くローソンS(G1)でも3着と敗れるが、ボウゴーレ師は様々な戦法や走法を試し、ATCダービーを勝つことのみを追求していたらしい。
シドニー秋三冠第2戦・ローズヒルギニー(G1)ではハナを切って気分良くいくと、迫ってきたマクギンティを二の脚で突き放し快勝。G1初勝利を飾る。
ちなみにカンタベリーギニーは3/5、ローソンSは3/12、ローズヒルギニーは3/19。怒涛の3連闘である。
こうして、大目標のATCダービー(G1)に本命格として出走することとなった。しかしあいにくの大雨で馬場も田んぼのようになっている最悪の不良馬場であった。色々模索してたどり着いた「大跳び走法での逃げ」を実行するには最悪のコンディションといえる。大跳びは雨では滑りやすくバランスを保つのが難しいので結果スピードが鈍りやすくなり、逃げも消耗が激しくなる雨の中実行する場合都合のいい蓋として後続に利用されやすいなどリスクが大きいものである。
しかしその不利を全く感じさせないほど伸びやかに逃げたストロベリーロードは、スイスイと逃げて二の脚を使うほど余裕綽々の走りで後続を完封。2着に5馬身半差つけて圧勝を飾った。
2着と3着の間は16馬身もの差があり、タイムも2400mとしては恐ろしい遅さである2:41.8。メートル法が導入された1972年以降では現在でも最遅タイムとして残っている勝ち時計で決着した雨中の大消耗戦であった。メジロブライトの新馬戦みたいだぁ……。
ATCダービー勝ち後はクイーンズランド州に戻り幾ばくかの休養を挟むと、3歳の締めくくりとして6月のG1・クイーンズランドダービーを目標に始動することとなった。
ちなみに休養中に150万ドルで買いたいという商談があったが、これは拒絶されている。
そしてG3・ザXXXXH(本当にこういうレース名)で復帰したが圧倒的トップハンデだったので流石に伸びず3着、翌週に出走したレースはハンデ戦じゃなかったので圧勝。
その半月後にクイーンズランドダービーの叩きで出走した短距離G3を快勝し向かった大目標のクイーンズランドダービーでは先行策を取り3番手を進み、直線で逃げ馬をスッとかわして先頭に立ったところで差し返しを受け苦戦したがクビ差先着し勝利。82/83シーズンを14戦10勝として年度代表馬、最優秀3歳牡馬受賞を決定づけたのであった。
このときにアメリカから170万ドルで買いたいという商談が持ち込まれ、前のものより実現に近づいたが結局破談となった。
古馬になった後は春の中距離G1最高峰・コックスプレートを大目標にムーニーバレー競馬場やフレミントン競馬場を擁するヴィクトリア州に殴り込みをかけることとなった。
叩き台として出走した1200m・1400m・1600mの重賞3連戦は2勝2着1回と順調な滑り出しを見せたが、G1戦線に参戦したアンダーウッドSでは突かれて4着、コーフィールドSではマクギンティにハナを叩かれて逃げられず6着とイマイチになってしまった上に感染症で戦線離脱の危機に陥ってしまった。
しかし獣医の尽力で感染症を治し、コーフィールドSから16日後のコックスプレートには無事参戦。人気こそ落としたが逃げ馬を見ながら前につけて進み、先頭に立つとそのまま押し切って3馬身半差付けて快勝。春の中距離王に輝いたのであった。
この勲章を持って種牡馬入りするプランが持ち上がったが、膝に故障があるので後ろ脚で立ち上がることのある種牡馬は無理なんじゃないか? など様々な思惑が乱れ飛び結局種牡馬プランは破談。現役続行となった。
が、一旦緩めた馬をもう1回レース仕様に作り変えるのはボウゴーレ師ほどの腕利きでも難しかったようで、再びトップフォームに戻すことはなかなか出来ず83/84シーズン後半、秋のニューサウスウェールズ州戦線では4連敗と年度代表馬の威厳を示せずじまいとなってしまった。
このさなかに馬主が交代、100万ドルで所有権が移動しプリンセスファームという牧場を所有するレイ・シュテール氏とジョン・シングルトン氏の所有となった。将来的に種牡馬入りを見据えての買取だったらしい。
しかしこの連敗で種牡馬価値が下がったと見た2人はシドニーに厩舎を構えるジョン・ニコルス厩舎に転厩させるととんでもない逆転策をぶち上げた。
「凱旋門賞を取るために欧州遠征じゃい!」というものであった。……え?
かくして生まれ育ったオーストラリアから旅立った彼は、環境変化で落ち着きがなかった時期もあったものの、馬房の扉を取っ払って外をすっきり見られるようにすると落ち着き始め、しっかりと調教を積む事ができるようになった。
そうして迎えた欧州初戦はバーデン大賞(G1)を見据えてステップとして選んだエッティンゲンレネン(G3)。豪州最終戦タンクレッドSで完敗を喫してから4ヶ月しか経っていなかったがかつての走りを欧州で取り戻したのかハナ差2着に食い込み、バーデン大賞に向けて上々なスタートを切った。
そして迎えたバーデン大賞では1番人気を背負って僅差ながらエスプリデュノールを撃破し早くもG1を獲得。豪州出身のブレット・トンプソン騎手とともに欧州のビッグタイトルを獲得したのであった。
こうして迎えた最大目標凱旋門賞では、スターアピールで勝利したことがあるグレヴィル・スターキー騎手を鞍上に据え万全の体制で臨む。
しかしメンツがまあやっぱトンデモなく
とまあ、いいメンツが揃っていたのでさすがに簡単には行かないだろうという感があった。レースは10月のロンシャン名物雨で渋った馬場、それも不良馬場に区分される中で行われ、スターキー騎手は積極策を取り逃げ馬について行く戦法を取ったが、馬場が悪い中ハイペース気味になったところを深追いした形になってしまい前は壊滅。
それでも彼は先頭でフォルスストレートを抜けてきたが後方待機していたサガス、ノーザントリック、オールアロング、エスプリデュノールに差されて5着となった。
着順自体は健闘と言えるが、ハイペースを深追いしたのが心証が悪かったかスターキー騎手はこれっきりで降板となった。
凱旋門賞後はアメリカに遠征。ワシントンDC国際(G1)に向かうがシアトルソング[4]らに屈し3着、そのままアメリカを転戦しブリーダーズカップ自体が初開催となったハリウッドパーク競馬場へ向かう。無論BCターフに挑戦するためであった。
余談だが父ウイスキーロードはBC登録は一切していないであろう馬なので、高額の追加登録料を支払ったと思われる。
そんな中、逃げて逃げてレースを先導し積極的に初代王者を狙ったが最後に力尽き4着。初代ブリーダーズカップ・ターフ王者の栄誉に輝いたのは最低人気のラシュカリ[5]であった。
クラシックも1.6倍の大本命スルーオゴールドがサンドイッチにあって伸びきれず3位入線2着繰り上がりに終わってブービー人気のワイルドアゲインが初代王者に輝いており、ダートと芝の最高峰がともに穴馬が初代王者となっている。
その後、そろそろ休養に入る頃合いかと思われたがジャパンカップに招待されこれを受諾。アメリカ代表マジェスティーズプリンス、ニュージーランド代表キーウイ、フランス代表エスプリデュノールらとともに府中に来襲し、迎え撃つ日本代表の3歳牝馬ダイアナソロン、宝塚記念馬カツラギエース、そしてなんと言っても2頭の三冠馬、怒涛の大まくりから末脚を武器に切り替えたミスター破天荒ミスターシービー、三冠達成の菊花賞から中1週の強行軍ながらやってきた皇帝シンボリルドルフを相手取ることとなった。
ストロベリーロードは出自もあってかちょっと軽視され、今まで走ってきた数がかなり多いからかあまり人気せず7番人気、レースでも馬場が向かなかったのかお疲れなのか持ち味の先行力を発揮できず体調不良のルドルフより後ろに陣取ってしまい7着に終わった。そんなに差はなかったものの、彼の得意戦法である「逃げを打って二の脚で封じきる」をやってのけたカツラギエースには完敗であった。
こうして1984年シーズンは暮れていった。
翌年は凱旋門賞を目指しフランスのアルクール賞(G3)から始動しここを完勝でスタートしたが、ここで馬主がサガスの所有者であったダニエル・ウィルデンシュタイン氏に交代。厩舎もサガスと同厩のパトリック・ビアンコーヌ厩舎へ転厩となった。
その後ガネー賞予定だったがサガスとの使い分けで回避。ちょっと間を空けてG1・サンクルー大賞(当時2500m)に出走。ここでは完勝でフランスでもG1勝利を飾る。
そして、その次に選んだのはキングジョージ。当時は掛け値なしにイギリス12Fの最高峰レースである。
しかしまあ相手が良くなかった。後に英国牝馬三冠を2021年現在最後に達成したオーソ―シャープ、前年の凱旋門賞こそ惨敗したがG1を勝ってここに向かってきたレインボークエスト[6]らが相手だったのもあったが6着に敗れた。
勝ったのはニニスキ産駒の3歳ペトスキ。後で振り返るとここで全部を使い切った一発屋であった。
その後は凱旋門賞路線ではなくアメリカ遠征となった。BCターフが出来たことで秋の総決算を担っていたレースの日程変更がなされターフクラシックSなどが前哨戦的な時期に1984年から移動していた[7]こともあり、9月から行ってもレースに困ることはなかった。
……というのはあるが、サガスの凱旋門賞連覇の障害になりかねない彼をウィルデンシュタイン氏が実質厄介払いにしたと言われることもある。
特に母国であるオーストラリアでは買収したのはサガスの連覇を確実にするためで、彼はそのためにウィルデンシュタイン陣営に引き込まれた!……とまことしやかに噂されたとか。実際前年は不良馬場でハイペースを深追いしても5着に粘っていたので警戒するのはわかる。
なお、サガスは凱旋門賞連覇を達成した……かに見えたが、進路妨害をやらかし2着降着を喰らいレインボークエストに勝ちをかっさらわれた。ウィルデンシュタイン氏も無念であっただろう。
閑話休題、そのアメリカ遠征であったが初戦となったターフクラシックS(G1)では最低人気馬ノーブルファイターの激走に屈し3着。ここでウィルデンシュタイン氏が手放しアレン・ポールソン氏とブルース・マクナル氏の共有に代わった。所有権が転々とする。
本番とした大目標BCターフでは道中やや位置取りを下げてしまったものの外から伸びて強襲するも、最内から突き抜けていた名牝*ペブルスを差しきれずクビ差2着に敗れた。
その後どんどんBCに価値を奪われていく最中のワシントンDC国際に出走するが8着惨敗。1985年はこれで終了となった。
1986年は馬主こそ変わらなかったものの厩舎はビアンコーヌ厩舎からアメリカ西海岸のチャールズ・ウィッティンガム厩舎に転厩。
善戦するも勝ちきれず連敗を喫したが、3戦目のアーケーディアH(G2)で転厩後初勝利を飾る。そして向かったのが当時春の西海岸芝12FG1の代表格であったサンルイレイS。ん? と思ったあなたは察しがいい。
かつてジャパンカップで共に走った皇帝シンボリルドルフの紆余曲折あった末の半ば和田共弘の暴走めいた海外遠征の振り出しがこのレースだったのだ。意外と日本馬と縁がある。
このレースを先頭で引っ張ったのがこの馬であったが、*ダハールに差されて2着であった。一方のルドルフはというとレース中に故障して6着に終わり引退を余儀なくされていた。
その後の彼はG1で2連敗して1986年は5月で切り上げて長期休養、1987年に復帰したものの1月の重賞で3着に敗れるとこのまま引退。アレン・ポールソン氏所有のケンタッキー州ブルックサイドファームで種牡馬入りした。
通算成績は45戦17勝。オーストラリアで26戦13勝、ドイツで2戦1勝、フランスで3戦2勝、日本で1戦0勝、アメリカで12戦1勝、イギリスで1戦0勝。重賞11勝内G16勝。
とかく世界中でタフに走りまくり、豪独仏米で重賞を勝ってみせた。現代でも比肩しうる国際派はそうそういないだろう。
余談ではあるが、引退まで世界の名手といえる騎手に愛された馬であった。オーストラリアでの主戦であったミック・ディットマン騎手はアワウェイバリースターなどで来日することになる豪州屈指の騎手であり
欧州に渡ってからも前述のスターキー騎手、ジャパンカップではレスター・ピゴット騎手、ウィルデンシュタイン氏所有時代はイヴ・サンマルタン騎手、2回のBCターフではウィリー・シューメーカー騎手、スティーヴ・コーゼン騎手ら錚々たるメンバーが彼に跨った。
馬主の力もあるだろうが、大レースで彼に乗ってみたいという魅力にあふれていたのだろう。なかなか名手ばかり集めるというのは難しいことである。
種牡馬としてはニジンスキー系の退潮が始まる1990年代においても十分な活躍をした。自身の果たせなかったBCターフ勝利を達成した孝行息子*フレイズ、BCディスタフを勝った遅咲きのエスシーナ、牝馬戦線で大活躍しやはりBCディスタフを勝ったアジナらを輩出し大いに名を上げた。
生まれ故郷のオーストラリアでも種牡馬活動、つまりシャトル種牡馬になる案もあったが体調不良などが重なって結局実現はしなかった。
その後、種牡馬としてもまだまだこれからであった1995年に腹膜炎と肺炎を併発し大いに弱りきり150kgも体重が減り、体力を著しく失い立つことすら至難となって右大腿骨骨折を発症。安楽死となった。15歳の若さであった。
オーストラリア馬の海外遠征の先駆けとして、インフラで今より劣る80年代に世界を駆け巡ったストロベリーロード。
その後にはオセアニア悲願のジャパンカップをオーストラリア馬として初めて勝ったベタールースンアップ、短距離王国オーストラリアの世界クラスのスピードを世界で見せつけたショワジール、ブラックキャヴィアらが続き、繁殖としてもエクシードアンドエクセル[8]、ファストネットロックが欧州で大活躍し、ハイランドリールにはオーストラリアで育った牝系が息づいている。後輩であるオーストラリア馬の価値や格は彼の活躍後、彼の時代からは信じられないほどに上がってきた。
そして彼の血も未だ絶えてはいない。直系の後継こそ日本に輸入された*フレイズが案の定コケてしまったこともあり絶えたが、アメリカで上級から中堅の間で活躍したこともありまあまあ牝馬の中では息づいている。
代表例は代表産駒アジナの全妹コブラの子で今をときめく種牡馬(2021年現在)、種付け料20万ドルに達したクオリティロードの母父として大いにその名を轟かせている。
日本絡みではクオリティロードの半姉にあたる*マウントコブラが社台ファームで繁殖生活を送っている。代表産駒は父ステイゴールドで2021年都大路Sの勝ち馬マウントゴールド(初版執筆時現役)。
他にもリバティアイランドの母父All Americanや、ドウデュースの母父Vindicationらの母父としても彼の名前を見ることができる。
彼らを見かけたときは、ストロベリーロードの世界ツアーにも思いを馳せてもいいのかもしれない。
Whiskey Road 1972 鹿毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaming Top | |||
Bowl of Flowers 1958 栗毛 |
Sailor | Eight Thirty | |
Flota | |||
Flower Bowl | Alibhai | ||
Flower Bed | |||
Giftisa 1974 鹿毛 FNo.18 |
Rich Gift 1959 芦毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Riccal | Abernant | ||
Congo | |||
Wahkeena 1963 鹿毛 |
Red Jester | Red Mars | |
Climax | |||
Royal Souci | Regal Diamond | ||
Carefree | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 5×5(6.25%)、Hyperion 5×5(6.25%)
掲示板
3 ななしのよっしん
2022/02/27(日) 09:07:47 ID: dRU0S8I3/s
サウジカップ制したエンブレムロードもクオリティロード産駒、つまりこの馬の曾孫だな
4 ななしのよっしん
2022/05/29(日) 21:07:54 ID: QekfmLRfsS
5 ななしのよっしん
2022/08/31(水) 10:07:17 ID: dRU0S8I3/s
クオリティーロード産駒コーニッシュが引退、種牡馬入りとのこと
この見切りの早さがアメリカ特有の世代交代の早さ(ミスプロ系やストキャ系でも五代内にミスタープロスペクターやストームキャットの名前がないとかザラ)に繋がってるのだろう。
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最終更新:2024/04/24(水) 06:00
最終更新:2024/04/24(水) 06:00
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