スペイン内戦 単語

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スペイン内戦とは、1936年7月17日から1939年3月28日まで続いたスペイン内の内乱である。フラン将軍率いる右反乱軍(ファシストとも)と左共和軍(共和政府軍、人民戦線とも)が戦い、反乱軍勝利した。

概要

背景

第一次世界大戦後、スペインではミゲル・プリモ・デ・リベラによる独裁政治が敷かれていた。長期政権だったが、軍部や貴族の特権を制限した事から内では共和制を望むが強くなりつつあった。1930年3月16日にプリモが亡くなると「王政維持」か「共和制への移行」を迫られる事になり、1931年4月12日地方選挙を行って民意を問うた。すると共和制移行が圧倒的支持を受け、さっそく4月26日午後に首都マドリードで共和制が宣言された。こうしてブルボン朝の立君主制は終わりを告げ、スペイン共和として新たなスタートを切った。臨時政府を経て、12月に穏健カトリック教徒のアルカラサモラが大統領に、共和行動党のアサーニャが首相に選任された。

アサーニャ内閣には速課題が舞い込んだ。社会主義共産党トロキーアナーキスト(無政府主義者)がアサーニャ内閣に反発し、カトリック教会放火するなどの行を繰り返していた。アサーニャ内閣は厳しく弾圧して取り締まったが、アナーキストを恐れる地や資本家教会は対抗勢としてファシストに期待を寄せた。その結果、内には右ファシストが勢いを伸ばした。最も強だったファシスト団体は「ファランヘ・イスパニョーラ」で、独裁者プリモの息子ホセアントニオ・プリモ・デ・リベラが率いていた。政府は農地革といった民救済政策を実施したが、結実せず。スペイン内には左アサーニャ内閣、右アナーキストが混在するというカオスな状況に陥っていた。

1933年11月総選挙では右ファシスト勝利し、共和敗北アサーニャ内閣は退し、ファシストが入閣。共産党アナーキストだけでなく社会主義者、共和義者まで弾圧するというアサーニャ内閣より攻撃的な姿勢で臨んだ。1934年1935年は過な弾圧が行われた事で「暗い二年」と言われた。また左労働者が起こしたアストゥリア起に対し、政府植民地モロッコから抽出したムーア部隊を投入し、アストゥリアスを不法占拠する労働者とその家族機関銃で皆殺しにした。これによりファシスト政権と左労働者の対立が決定的になり、統一した反ファシズム運動を行うべく1936年1月15日に「スペイン人民戦線」が結成された。左共和党、共和同盟、カタルーニャ左翼党、社会党共産党労働者マルクス義党の連合軍であり、結成には退したアサーニャも協していた。こうして内ではファシストvsの構図が作られていった。

1936年2月スペイン総選挙ではファシスト政権vs人民戦線となり、ファシスト側は暴力的かつ露な妨を展開したが、人民戦線が勝利。議席258を獲得し、右の152よりも多かった。暗い二年は終わり、2月19日に再びアサーニャを首相とした内閣が成立した。政権を奪われたファシストは素く右や軍部と手を組み、くもクーデターの準備に入った。左が政権を取った事でファシスト応援していた貴族や資本家外逃亡し、一部の資本家は資本を海外に移転する形で人民戦線政府を攻撃した。選挙勝利した人民戦線政府であったが、連合軍ゆえにそれぞれのが異なっていて非常にギグシャクしたものとなっていた。このため、まんまと準備を許してしまった。ただクーデターを見越した人事異動や追放は行っており、これが功を奏した部分もある。

政府軍を追い出された元参謀総長のフランシスコ・フランコが中心となり、各地の将軍と緊密に連絡を取って一斉起を計画した。クーデターの噂はに乗って広がりつつあった。

スペイン内戦

序盤は共和国軍優位に進む

1936年7月17日夕刻、植民地モロッコメリーリャ、セウタ、ヤグエで反乱軍起。モロッコにいる反乱軍3万は、実戦経験豊富なエリート部隊であった。彼らは政府軍の大佐を射殺し、労働組合と人民戦線の導者を逮捕してく間にモロッコを制圧した。その後、本に向けて「異常し」と打電。これがクーデター開始の合図で、翌18日に導者のフラン将軍カナリアからクーデターを宣言。マドリード、バルセロナ、セビリヤ、コルトバ、カディス、ブルゴス、パンプローナ、ヒホン、バリャドリッド、サラゴサ等の各都市反乱軍起した。ファランヘ党を始めとしたファシストも呼応して起したが、反政府運動を誘発する事は出来なかった。内において反乱軍を支持したのは王党派保守、地などの富裕層で、軍部では士官や将校が支持に回った。

人民戦線政府共和制支持者、左翼政党労働者兵といった貧困層や民が支持。またバスクとカタルニャ自治政府政府を支持した。こうして内を二分する大規模な内乱が発生した。しかし戦況は圧倒的に政府軍優勢であった。反乱軍スペイン海軍の協ど得られず、加担した艦艇はゼロという有様だった。士官は反乱軍を支持していたのだが、数の多い兵が政府支持だったため拘束されたり殺されるなどして多くの艦が共和軍に属したのだった。共和軍は反乱軍に好意的な市民逮捕し始め、貴族や富反乱軍の支配地域へ逃亡。残された邸は労働者組織の拠点となった。また二大労働組合であるCNTとUGT政府武器を配るよう要し、マドリードやバルセロナでは労働者武器庫や店を襲って銃器類を強奪。人民戦線政府もまた労働者に素武器を供与したため、武装した労働者からしい抵抗を受けて反乱軍は苦戦。「ノーパサラン(らを通すな)」を合言葉反乱軍を拒み続けたのだった。2~3日程度で人民戦線政府を倒すというフラン将軍の算段は見事に崩され、短期決戦の試みは失敗に終わった。全土で起したと言っても、反乱軍より共和軍の勢圏の方がかに広大であった。しかもマドリードとバルセロナ起は鎮圧されている。悪い事に反乱軍の総揮を執るはずだったサンフル将軍々に戦死し、他の補者も起に失敗して逮捕されたため、フラン将軍が総揮を執った。

共和軍は艦隊を使ってジブラルタル海峡を封鎖し、モロッコスペイン反乱軍は連携を断たれる。共和軍の速な展開により、マラガの反乱軍起を断念し、マラガは共和軍の拠点となった。更に共和軍は攻勢に転じ、反乱軍の拠点であるメリーリャなどを撃しようと試みた。しかし部隊駆逐艦「チュルカ」が反乱軍寝返り、またモロッコで取り残されていたスループ「ダト」も反乱軍に参加している。7月18日ジブラルタル海峡の本土側にある軍港カディスを反乱軍が制圧。軽巡レプブリカを鹵獲した。モロッコの精鋭部隊を本土に移送するため、チュルカが200名の兵員を運んでカディスに揚陸させた。

7月19日エル・フェロル軍港の地上施設を反乱軍が制圧し、停泊中の共和軍艦隊と睨み合いになる。最終的に艦隊は反乱軍に投降し、ここでようやくまとまった海洋を獲得。その中には工したばかりの新重巡洋艦カナリアスとバレアレスがあり、特にカナリアスは反乱軍勝利に導く英雄的活躍を見せる事になる。同時にエル・フェロルは大ドックや工を持つ有数の軍港で、反乱軍の重要な拠点となった。しかし入れ替わりにチュルカ兵が反逆し、共和軍に戻っている。エル・フェロルのような出来事を防ぐため、政府は洋上に展開中の艦隊に対しアフリカ北部の自由港タンジールへ集結するよう命。戦を結集させ、一気に反乱軍を粉砕しようとした。さっそく反乱軍拠点セウタへの撃が始まり、ジブラルタル海峡の封鎖も続行。反乱軍は精鋭をモロッコからスペイン本土へ送れなくなり、8月に共和軍は「反乱軍支配下の港湾を全て封鎖する」と宣言。反乱軍絶体絶命の窮地に立たされた。

諸外国の介入

焦燥したフラン将軍は、ドイツイタリアに救援をめた。独はこの要請を快諾し、速Ju52/3m輸送機1500名の義勇軍を送り込んだ。7月24日には装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊がスペインに到着。避難民の輸送に従事するとともに反乱軍支援を開始した。隣ポルトガルフランコ側につき、内を独の物資輸送路として提供した。そして8月5日フラン将軍は賭けに出た。貨客3隻と1隻に兵員2500名と装備を分乗させ、強行輸送に出たのである。独軍の航空機と共同で行われたこの作戦は見事成功し、駆逐艦ガリアーノの襲撃を退けてに本土へ到着した。賭けに勝ったフラン将軍はこれを「勝利団」と呼んで喧伝した。しかしその直後に冷やぶっかけられる事になる。共和軍艦隊は戦艦ハイメ1世を中心とした部隊派遣し、8月7日アルヘシラス港を襲撃。ダトと巡視船ケルトを撃沈し、ただでさえ少ない反乱軍の艦を更に減らしてしまった。ジブラルタル海峡導権は未だ共和軍にあった。

フラン将軍率いる反乱軍にはドイツイタリアが、共和軍はソ連フランスカナダ支援を開始。それぞれ義勇兵や艦隊、航空隊などを派遣した。スペイン内戦はいつしか、各の思惑がんだ兵器実験場と化していた。イギリスフランススペインの共産化を恐れ、不干渉政策を実施。9月には英導でスペイン内戦不干渉委員会が成立し、27ヶが参加した。

上での戦いは共和軍優位であったが、地中海の要衝バレアレスを巡る戦闘では反乱軍が圧勝。初めて大勝を得た。ハイメ1世もドイツ空軍(コンドル軍団)の攻撃で損傷し、共和軍艦隊の戦は減じた。9月6日反乱軍の支配下となったバレアレスマリルカイタリア空軍が進出、同パルマ港にも反乱軍の艦隊が進出して上輸送路を脅かす土台が完成した。一メノルカのみ共和軍の支配下にあったが、分厚い包囲網によって孤立させられた。人民戦線政府はバレアレスの救援を諦め、孤立するバスク自治政府を救援するため艦隊をビスケー湾に派遣した。しかし共和軍艦隊の動向は装甲艦ドイッチュラント率いるドイツ艦隊に発見されており、報告を受けた反乱軍は切り札の新鋭重巡カナリアスと軽巡セルベラを出撃させた。9月29日地中海からジブラルタル海峡に突入した反乱軍艦艇を共和駆逐艦アルミランテ・ファンフェラデスとグラビナが発見し、エスパルテルが生起した。共和駆逐艦は接近しようとしたが、2万mの距離からカナリアスの一斉射を受け、フェラデスが撃沈。グラビナも撃破されてカサブランカへ逃走した。まさかの敗北に驚いた共和軍は艦隊を呼び戻し、バスク自治政府の命運は窮まった。勝利を収めたカナリアスとセルベラはマリルカに帰投した。

その頃、地上では反乱軍が勇戦していた。モロッコから到着した精鋭部隊マドリードをして進撃、政府軍と武装労働者を蹴散らしてレオンガリシア地方を制圧。9月末には首都マドリードを包囲し、10月19日に総攻撃を命した。マドリー西部のカサ・デル・カンポと呼ばれる台地に大砲を設置し、連日連地を撃。対する共和軍には10月24日ソ連兵器軍事顧問が到着したが、11月4日マドリードのヘタフ空港を失陥。勢いに乗じて独軍の航空機も猛爆を開始し、マドリードの陥落は読み段階かと思われた。11月6日よりマドリード攻撃が始まったが、コミンテルンが諸外義勇兵(義勇軍)を尽蔵に送り込んできたため難航。政府首都バレンシアへ移したが、マドリードは頑強に抵抗を続けた。しかしソ連が送った義勇軍はドサクサに紛れて人民戦線政府内の共産勢を強めるという意図があり、実際に発言が向上。これがきっかけで、のちに政府内で不和が生じてしまう事に。11月18日、独フランコ政権を承認し、援助を拡大。しかしそれでもマドリードは耐え続けたため、11月下旬にフラン将軍攻略を断念。孤立させるための包囲に留めた。上ではソ連の輸送が共和軍に物資を供給していたが、地中海を支配する反乱軍艦隊とイタリア軍がこれを迎撃。熾通商破壊/保護が行われた。12月下旬、孤立中のバスク政府エル・フェロル軍港へ物資を輸送していたドイツプルートーとパロスを拿捕する戦果を挙げた。しかしこの事はヒトラー総統を怒らせ、ドイツ政府は報復を宣言。1937年1月1日軽巡ケーニヒスベルクなどが共和3隻を拿捕し、バスクに対して威嚇射撃を実施。慌てた共和政府は全軍に外への攻撃を一切禁じる命を出した。

1937年2月5日反乱軍イタリア軍の攻撃で共和軍艦隊の拠点だった南部都市マラガが陥落。共和の党員が大量に逮捕・処刑された。勝利に喜んだムッソリーニ総統は、フラン将軍マドリードを挟撃する案を提示。ところが3月マドリー北方のグァダラハラで行われた戦いでイタリア軍反乱軍が大敗北。共和軍が多数の捕虜を獲得した結果、イタリアが志願を募った義勇兵ではなく正規軍を投じていた事が判明。社会から非難され、ムッソリーニ総統激怒している。4月23日戦艦ハイメ1世を投入してマラガへの艦砲射撃を実施。しかし帰路で座礁してしまう。その事を知った反乱軍重巡カナリアスとバレアレスを投入してトドメを刺そうとしたが、ハイメ1世は素く離礁してアルメリアに逃亡していた。

ゲルニカ

一向に陥落しないマドリードの存在と、グァダラハラの大敗により戦線は着状態に陥った。反乱軍南部の攻勢を一度止め、形勢逆転のため北部の工業地帯であるバスク政府をやっつける方針に転換した。フラン将軍は独支援を要請し、コンドル軍団イタリア軍航空隊が投入された。攻撃標は軍事基地ではなく、後方にあるビスカヤ県ゲルニカ定された。表向きの理由はバスク政府軍の退路を断つためとされたが、本当は地を差別爆撃し、敵市民の戦意を阻喪させる狙いがあった。

1937年4月26日コンドル軍団バスクの町ゲルニカ爆撃。この日は農民が集まる日だった。ゲーリング将により新鋭のハインケルHe111爆撃機メッサーシュミットBf109が投入され、イタリア軍機も加勢。爆撃及び機掃射で住民7000人中1600人以上が死亡。約900人が負傷した。外部から人が集まっていた事もあり、正確な犠牲者の数は不明である。地の25が破壊され、70炎上。組織的な都市への差別爆撃ゲルニカが最初の例であった。

の従軍カメラマンによってゲルニカの惨状は全世界に発信され、当時パリにいたパブロ・ピカソはこの事に憤慨。町の名を題名にして絵を描き、差別爆撃の残虐性を訴えたのは有名な話である。一方で共和政府が描かせた説もあり、絵をパリ万国博覧会で展示してプロパガンダに使われたとも。差別爆撃お仕置きなのか反乱軍不幸が襲い、自らが敷設した機によって4月30日に旧式とはいえ一の戦艦エスパーニャを喪失してしまった。一方、共和軍も5月21日襲でハイメ1世を大破させられ、両軍ともに戦艦を失った。

ドイッチュラント号事件

5月29日18時40分、バレアレスイビサで停泊していたドイツ艦隊旗艦ドイッチュラントに共和軍のツポレフSB-2爆撃機が襲い掛かった。2機の爆撃機夕日を背にして接近、ドイッチュラントは対射撃を行ったが、2発の50kg爆弾が直撃して中破。乗員24名が死亡し、79名が火傷を負った。更に呼応した共和駆逐艦が出現し、宵闇の中で炎上する手負いのドイッチュラントに迫った。

だがドイッチュラントは猛然と反撃を開始。あまりにもしい抵抗駆逐艦撃する事が出来ず、遠巻きに撃する事しか出来なかった。やがて共和駆逐艦は退散。ドイッチュラントは窮地を脱した。姉妹アドミラル・シェーアと4隻の魚雷艇応援に駆けつけ、英領ジブラルタルに向かって退避。翌30日に再度共和駆逐艦薄してきたが、ドイッチュラントからサーチライトを向けられると逃走した。

この事件は「ドイッチュラント号事件」と呼称され、日本でも報道された。共和政府は「カナリアスと誤認した」と弁明したが、この一件はヒトラー総統逆鱗に触れた。ドイツイタリアを誘って不干渉委員会を離脱し、ポルトガルもそれに同調。報復としてアドミラル・シェーアと独駆逐艦4隻をアルメリア撃に向かわせ、艦砲射撃を実施。200発以上の弾が撃ち込まれ、内のどが壊滅。被害額は数ポンドに上った。フランスはこの行為を非難したが、社会スルードイツ怒りの報復に恐れをなした英はご機嫌取りにし、ソ連スターリンは独艦艇への攻撃を禁じた。

共和国軍の反撃

6月14日、攻撃に耐えかねたバスク政府首都ビルバオを放棄。反乱軍によってバスクは占領された。共和軍はブルネテを攻撃して逆襲を論んだが、反乱軍の反撃で失敗。8月25日にはサンタンデルが陥落。共和軍はサラゴサを占領しようとアラゴンに進出。団も反乱軍を攻撃してキントとバルチナを奪取するが、決定打とはならなかった。10月21日に北部における共和軍最後の拠点ヒホンが陥落。反乱軍西部を、共和軍は東部を支配している形となった。12月30日カナリアス率いる反乱軍艦隊によって共和軍艦隊は壊滅。大西洋から一掃された。

1938年3月5日イタリアからの団を護衛するため反乱軍重巡カナリアス、バレアレス軽巡セルベラと駆逐艦3隻をマリルカから出発させた。時同じくして共和軍艦隊は軽巡ベルター、メンデスヌメス、駆逐艦5隻という大戦カルタヘナから出撃させる。、両軍の艦隊は反航戦の形で偶然遭遇し、スペイン内戦最大の戦であるロスが生起。まず共和駆逐艦が一斉に撃を仕掛けたが、命中せず。そのまま艦隊はすれ違って離れていったが、反乱軍艦隊が反転して追跡。翌6日午前2時15分に共和軍艦隊を捕捉し、二戦が始まった。しかしこの欲りな行動全に裏となった。巡洋艦同士が撃戦を繰り広げるが、反乱軍艦隊は戦闘前に護衛駆逐艦マリルカに戻しており、共和駆逐艦の接近を阻むものは何もかった。3隻の共和駆逐艦は約3kmの距離から12本の魚雷を発射、そのうち2~3本がバレアレスに直撃して撃沈。反乱軍のマヌエル・ビルエナ中将が戦死するという大敗を喫した。政府はこの勝利を大々的に宣伝、逆に大敗した反乱軍は警用の駆逐艦が不足している事を痛感。日本中古駆逐艦2隻を売ってくれるよう要請したが、日本政府は余剰がいとして拒否。新造艦なら提供すると返答したが、実現しなかった。

一方、陸での戦いは反乱軍が優位に進めており、3月18日から三日に渡ってバルセロナ襲。石油の備蓄施設を破壊し、共和軍の作戦行動に制約を課した。4月15日地中海の港町ビナロスを奪取。これにより共和軍は北東部(カタルーニャ地方)と南東部(バレンシア方面)に分断され、政府内に失望感が広がる。また4月18日襲で軽巡ベルタードが大破。より苦戦する事になる。4月26日、要衝ビナロスを奪還しようと共和軍は機甲兵を投じてきたが、反乱軍の迎撃で失敗。もはやビナロスの奪還は困難だった。それでも共和軍は攻勢を続け、政府が健在である事を内外に示すべく7月22日よりカタルーニャ方面から攻撃開始。エブロの戦いが生起する。陸軍に呼応して海軍空軍も出撃し、ビナロス港に停泊していた輸送カラ・ミーリョを撃沈。反乱軍に大打撃を与えたが共和軍も2倍の損を受け、8月初旬に攻勢は停止。11月半ばにエブロの戦いは共和軍の敗北で終わった。敗勢は決定的なものになり、義勇兵を集めた団も11月15日に解散。以降、共和軍は大規模攻勢に出られなくなった。今度は反乱軍が攻勢を開始し、カタルーニャ地方して北上12月より首都バルセロナを巡る戦いが始まった。

反乱軍の凱歌

1939年1月26日バルセロナ反乱軍によって占領。政府は徒歩でフランスに脱出し、これを機にアサーニャ首相は辞任した。1月31日にはカタルーニャ地方に残留していた共和軍艦隊もフランスに脱出、2月10日をもってカタルーニャ全土は反乱軍に制圧された。同日中にバレアレス一の共和だったメノルカも降した。カタルーニャを追われた50万人以上の共和党員、難民兵士を越えてフランス逃げ込んだが、フランコ側に替えしたフランス当局によって捕虜収容所へ送られた。

残されたマドリードやバレンシアには連日しい襲に曝され、共和軍を囲む包囲網は日に日に縮まっていった。外から見ても勝敗は明らかだった。2月27日、英フランコ政権を承認。反乱軍ではなく、正規軍となりつつあった。3月4日、共和軍の本拠地カルタヘナでフラン市民が武装起。これに呼応してイタリア空軍襲を行い、駆逐艦ガリアーノバルカイステギが大破航行不能に。残存艦艇はアフリカ方面に脱出し、共和海軍の戦はほぼゼロになった。3月28日には遂にマドリードが陥落し、31日にカルタヘナが陥落した事で共和軍は崩壊。スペイン内戦はフラン将軍率いる勝利したのだった。戦いに敗れた労働者市民は沿部へ逃れ、共和軍艦隊の救援を待った。しかし現れたのは反乱軍艦隊で、機掃射が加えられた。慌てて内陸部に逃げ出す難民たちであったが、既に反乱軍の地上部隊が展開し終えた後だった。「ノーパサラン(らを通すな)」を合言葉反乱軍を攻撃してきた者にも罰が下され、多くが死亡するか逮捕された。

4月1日フラン将軍は内戦の終了を宣言。日本アメリカフランコ政権を承認し、スペインフランコ政権によって取りされる事になった。

その後

決着までに反乱軍ドイツから約5億4000万マルクを、イタリアから約68億リラ経済援助を受けていた(ちなみに借は踏み倒されている)。戦果を挙げたコンドル軍団はヴィゴ港でヴィルヘルム・グストロフに乗り込んで帰ドイツで絶大な歓迎を受けた。このスペイン内戦は第二次世界大戦の前戦とも言われ、様々な実験兵器が投入され、あらゆる戦術が確立された。

スペインファシスト国家となり独と緊密な関係となったが、第二次世界大戦では中立の立場を取った。ただ独の立場は貫き、ドイツに対して港を提供東部戦線反共義勇兵を派遣、損傷して逃げ込んできたFw200コンドル修理イギリスの非難をかわしながら内に逃げ込んだUボートをかばう等、受けた恩義に報いようと様々な便宜を図った。しかし戦況が枢軸国不利になるとスペインも冷淡になり、再度逃げ込んできたUボートFw200を抑留している(ただし乗組員はドイツに送還された)。フランコ政権は異例の長期政権となり、1975年フランコが亡くなるまで存続していた。

1997年ドイツ大統領ロマンヘルツォークはゲルニカ被害者手紙を書き、「全てのドイツ市民名前和解と友好の手を」と差し出した。議会では爆撃に参加したコンドル軍団員の名をドイツ軍基地から削除する法案が成立した。2007年ゲルニカ際的な平和集会が開かれ、ドレスデン、ワルシャワ、広島など都市爆撃被害者が招かれた。この集会でゲルニカは「世界平和のための首都」と宣言された。

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