タコ部屋 単語

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タコベヤ

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タコ部屋とは、日本における強制労働のことである。

概要

なぜタコ部屋と呼ばれるのには諸説あるが、最も有名なのが中のタコが漁師が仕掛けたの中に入るとの内部に吸盤を吸いつけて絶対に出てこないことを逆手に取り、一度は行ったら出て来られないという意味でタコ部屋と呼ばれるようになった、というものである。

実際に中のタコを見かけると隠れにしようとして自分から入り込み、後は狭いのなかから出るまいと外から引っっても吸盤に吸い付いて出てこない。出てくるときはを放り込まれて苦しくなったときだけで、それは漁師に捕まるときで殺されるときである。つまり死なないと出られない仕事場という意味も含まれている。実際にタコ部屋に行った人が全て死んだわけではないが、生きて帰ってきた人の多くは生還後に殺される感覚を覚えたと多くの人が答えている。

タコ部屋の実態

まず第一に治安が行き届かない場所であることが多く、大っぴらに世間に知られたら大騒ぎになるようなことが知られにくい場所でタコ部屋労働が行われている場合がほとんどである。そんな閉鎖環境ゆえに立場が弱い労働者には人権日常であり、労務管理者による暴力虐待、過重労働が然と行われ、その対価が法外なまでに低賃金で、その低賃金ですら使用者の搾取の対になって全てを吸い取られる。ひたすら過重労働で労力を搾取し、支払った対価までも搾取して回収することで労働者には何も残らない。

過重労働

まず大前提に労働基準法などの労働者の権利などタコ部屋には存在しない。(もともと労働基準法が出来た戦後からはタコ部屋そのものが減ったが)前述したとおり世間からは隔離された閉鎖環境での職場なので使用者および管理者の力が絶対であり、労働者には一切の権利もなく従うしか生きて行く術はない。

そのため日の出から日深夜まで食事を除いて底的に労働を強いられ、サボればなどの暴力理やり働かされ、それでも拒めば反抗と見なされてリンチにかけられて他の労働者の見せしめに使われる、おおよそ近世黒人奴隷に相当する虐待と労働力の搾取が行われていた。

拘束

タコ部屋の労働者は作業中は木刀などで武装した見りに監視されながら働かされ、逃亡防止のために足かせが取り付けられて走ることが出来ないように拘束した。それでも逃亡することがいように作業場は有刺線で逃げを塞がれ、なおも逃亡しようとするなら番犬が放たれる。(逃げ労働者に噛みつくように調教されている)

労働が終わったら宿舎に一斉に歩かされ、宿舎の大部屋に入ったらドアの外からをかけられ外出が出来ないように閉じ込められ、就寝中の逃亡を防ぐために宿舎周りに見りが置かれ、に作業開始時間と共に叩き起こされて作業場に送り込まれるという日々が続く。もちろん見りは武装しており、過去の実例では木刀どころか本物の日本刀を持っていた者までいたほどである。

搾取

これだけ過酷な労働を課しているにもかかわらず低賃金、それどころか賃金いことも少なくない。

どういうことかというと、賃金労働者に支払う前に差し押さえて極力現金を渡さないのである。何でそんなことをするのかというと単純に労働者賃金を支払うのがイヤだからである。もはや雇用ですらない奴隷労働の現場がタコ部屋なのである。

具体的には宿舎と作業場の往復しか出来ない労働者環境を利用して宿舎の利用料、作業時の備品の使用料、労働者食事など必要不可欠なものを給料から引きしたり、こういった職場環境において全くない嗜好品などを販価格に輸送費などといった理屈を並べて法外な価格を上乗せして暴利をむさぼって給料を回収する方法が取られ、結局労働者には金が残らないシステムを強制する。

もともと労働者を作業場と宿舎に閉じ込めて閉鎖環境拘束すること自体が刑法上の監禁に相当するがタコ部屋労働を強いるような事業者は法律など最初から守る気はないので全く話にならないのである。

タコ部屋の歴史

タコ部屋の起1880年代の北海道開拓で明治政府が行った囚人道路が始まりである。

囚人道路というのは明治時代前期の西南戦争を中心とする不士族の反乱や秩父事件、その後に盛んになった自由民権運動運動など、警察によって逮捕され有罪になった囚人を片っ端から北海道に送って刑務作業として北海道開拓をやらせ明治政府の方針が元であった。この方針を打ち出したのはと秩処分で不士族問題になった山縣有朋であり、山囚人による北海道開拓において盟友の金子太郎が説いた囚人苦役論に基づいた持論を展開した。

もともと囚人たちは暴戻の悪人であって、尋常では耐えられない苦役をもって死んでしまおうがも悲しまないし問題にはならない。むしろ囚人として食わせる費用が減って良いことだ。

人権も甚だしい、悪人レッテルれば何をしても良いと言わんばかりの暴言である。

しかし戊辰戦争から西南戦争まで内乱続き、西洋文明の輸入などで明治政府は極度の財政難に陥っており、ロシアの南下政策から北海道を奪われないために期の開拓が必要であったことから、囚人を食い潰す非の選択をしてしまう。なお北海道に送られた囚人は不士族だけではなく、当時の政府障りにしていた自由民権運動を推し進めていた自由義者の運動も多数含まれており、現在警報においては全く罪はない人たちも多かった。自分たちに不都合な人間は苦役の末に絞り殺されて死ねというわけである。

こうして囚人を食い潰して殺しながら進められた北海道の開拓方針は明治政府に付き従った族や大きな資本を持つ資本家らに大きなを与え、やがて開拓が進んだ北海道をはじめ政府が作った官営の大規模な工場や農場、鉱山などは民間の大資本家(政商)に払い下げられ、その際に爵位などを貰って事実上の族と認められたり、払い下げられた施設の運営などで政治的な特権を与えられ、資本が政府と強く結びついたズブズブの関係が作り出される。ココで得た特権をもって『政府がやっていたのだから』という理由で、北海道開拓における囚人労働の方式を取り入れ、人身売買された債務者、失業者、甘い内容の情報に騙された困窮者をタコ部屋送りにして、限りなく安い費用で労働力を搾取して大な利益を上げるようになったのである。

北見中央道路

現在網走市から旭川市まで約220kmに及ぶ道路であり、1891年、当時は人口600人余りの漁であった網走市1200人の囚人網走(旧網走刑務所)に集められ、原生の生い茂る未開の山を切り開いて道路を作ることが政府によって命じられた。作業期間は1年以内、当時の道路建設スピードの4倍のペースで開拓しないと間に合わない内容で、作業員がいくら死のうがやらなければ処罰するという酷い命であった。

人夫を使えば1日40銭かかるが囚人なら10銭で済むし死んでも問題にならない。(政府

政府がこんなヤクザじみた方針であったため労働環境は過酷を通り越して地獄絵図と化した。

作業内容は1200人余り囚人を13の作業班に分け、それぞれの班にノルマをかけてノルマが達成できなければ食事を減らすという過酷極まりないものであった。囚人は逃亡防止に2人1組で互いに足かせがはめられ、木刀からまで持った刑務官の監視の下でどころかも問わずに作業が進められた。

囚人は日の出前から叩き起こされ、間も松明を炊いて作業が行われ、疲労から少しでも手が鈍れば刑務官がやってきて木刀で殴り倒され周囲の見せしめにされ、逃亡する者もいたが足かせ付きで二人三脚逃げたところで周囲は未開の原生逃げなどく、ヒグマなどの野生動物の餌食になるだけであった。そのため逃げてもボロボロになりながら戻ってくる者までいた。2~3ヶもしないうちに囚人栄養不良と疲労で次々に倒れ、栄養失調からくる病気になっても作業場に送り出されて開拓作業を強いられたために死人が続出、死体は墓を作って埋める暇もなかったため死体に土をかぶせて何事もかったかのように作業が続けられる有様であった。

作業開始から半年近くになって政府から1年の期限を待たずに完成させよと命が来たため更にスピードアップを強いられたが、作業員は既に死亡者が続出して半ば病人囚人だらけになったため、武器をもって作業を見っていた刑務官さえも作業を手伝い、倒れた作業員を暴行するのを止めて励まして共に作業を頑る体制に変わっていった。そのため囚人どころか刑務官も労働に倒れて死者が出る始末であった。

地獄絵図となった工事は8ヶの歳163kmの北見中央道路が開通、それまでに刑務官数人を含む230人余り死亡工事中死亡者は葬式どころか墓すら作られず死んだその場に土を被せるだけの動物並みの扱いであったが、戦後遺体に取りつけられていた足かせの鎖が集められ、1970年代になってようやく供養碑が作られ、北海道の開拓の歴史の一部として保存されて世に認知されるようになった。なお北見中央道路は改修されて現在国道道道の一部として現存している。

こうして政府囚人を使って然と行ったタコ部屋労働は悪しき前例となり戦前から戦後に至るまでのタコ部屋のビジネスモデルになっていくのである。

財閥の追従

明治政府は富強兵を掲げて軍拡と工業化を最優先に進めていたため、ほとんどが幕末の志士で占められた伊藤博文内閣の閣僚らは財界と深く結びついており、伊藤博文から黒田清隆黒田清隆から山縣有朋松方正義と後年の元老たちの内閣が持ち回りで続いていくうちも、三井三菱安田、住友、古河といった独占的資本を握った財閥は政権と深く結びつき、タコ部屋の悪習は政府から財閥へと企業の払い下げとともに受け継がれた。

このスタイルが顕著だったのが北九州であり、設立当初から営であった八幡製鉄所は筑豊炭田のある現在北九州市八幡に作られた。炭田に恵まれ筑豊地域の炭鉱は三井三菱といった財閥に払い下げられ、製鉄のためのコークスの原料である石炭の供給先にすることで製鉄の際の利益を石炭の供給で財閥をけさせ、政府は当時産では独占生産であった製鉄の供給で互いに大けするウィンウィンの関係が作られた。

その政府と財閥のウィンウィンの関係を下支えしていたのが低賃金で過重労働にあえいていた製鉄所と炭鉱、それらを石炭輸送で支えていた三井三池鉄道労働者であった。その中でも特に劣悪と苛を極めたのが三池炭鉱であり、労働環境はタコ部屋そのものであった。

炭鉱のタコ部屋化

戦前の炭鉱は極めて労働環境が悪く、タコ部屋同然の労働環境であった。

強兵の策で八幡製鉄所の稼働と生産量は伸びて行ったことで石炭の需要も猛に増えたため、近隣の筑豊炭田の炭鉱は需要を満たすために石炭の生産量を増やし続けた。その労働力は多くを人力で頼ったため北海道の開拓と同様に安い労働力が掻き集められた。

当時の炭鉱労働は現在のような粉対策どころか深く掘った際の換気すら不十分で、もちろん機械などツルハシの掘削と人力移動のトロッコ輸送、坑内深くでの重労働は酸素不足もあって苛を極めたが、それでも手を緩めれば後ろで構えている見り役から竹刀木刀で殴られるため休みなく働かされた。見り役は鉱山会社に雇われた暴力団ヤクザであり、実質彼らが労働者を直接取り締まっていた。強制労働もいいところである。こんな労働環境だから数年でケガか病気、粉によるで体をやられるか、採掘中の落盤などの事故で大怪を負うかで動けなくなって死んでいく労働者が絶えなかった。あまりにも死者や重傷者が出たことから帝国議会でも取り上げられて大問題になり、1905年になって鉱業法、1911年工場法が作られて鉱山労働者の補償が法で定められたが、タコ部屋状態の改善には焼け石にであった。

何でこんなところで働くのかというと、募集段階で高給を謳って騙しているからである。高給から出稼ぎのつもりで応募した者を全から集め、現地の炭鉱までの旅費を到着してから労働者に請することで借金を負わせ、その借金に暴利の利子を付けることで給料から引きするため全く金は溜まらず、その給料も現金で支払われることはかった。

現在も数多く残っている炭鉱札である。

これは賃金の現金払いの法律がないのを良いことに鉱山ごとに管理者が現金代わりに発行した私的通貨で、鉱山労働者が鉱山内で使える通貨として給料として労働者に手渡された。当時の炭鉱労働者の給料は取った石炭の重量で給料総額が変わる出来高制で、明治30年ごろの北九州の炭鉱での相場は600キログラム1円であり、1日の労働が終わると採炭量を計ったうえで給料日に炭鉱札が支払われた。なお明治30年ごろの1円2010年現在通貨価値にして約20000円である。明治30年当時の日雇い労働者の日給が40~50銭であり、これだけなら高給に見えるかもしれない。しかしこれにはカラクリがあった。

炭鉱札は炭鉱の宿舎の売店などで使用できるが、その売店の品物は軒並み輸送料、手数料と言った名販価格より割高でありココで使ってしまえば高給の意味がなかった。しかも宿舎で寝食する食費や施設使用料が差し引かれ、更に炭鉱まで移動するための旅費などでの借金および利子の返済といった具合に次々と額面の給料から差し引かれ、労働者の手元に来る頃には僅かな金額しか残らない。なおその僅かな給料さえも過酷な労働を癒したい心情を手玉に取るように、割高な嗜好品を買わせて吸い上げていくのである。

ココまで見れば大体想像がつくと思うが、カイジの地下帝国に出てくるペリカそのものである(;´Д`)

なぜこんな私的紙幣を発行したかというと、現金だと金を持ったら労働者が労働を放棄して逃げてしまうからである。そうさせないために私的紙幣で宿舎と鉱山の往復で労働者拘束し、あれこれ理由を付けて日本円には交換させずに鉱山に縛り付けたのである。

なお炭鉱札は一応は日本円に交換はできるが、北九州の三池炭鉱の場合は交換できるのは2日だけ。しかも換金の際には10~20の手数料が取られ、ココでも炭鉱労働者の収入は搾取される。しかし炭鉱札は鉱山の監督者が発行するものなので担当者が変わってしまったら前の炭鉱札は向こうとされてクズになってしまうので、なけなしの給料をピンハネされても日本円に交換して僅かに残った金を故郷のに送金しようとする者も少なからずいた。

なおこの搾取構造は炭鉱に限った話ではなく、政府から資本家に払い下げられた産業においては南大東玉置精糖をはじめとする財閥所有の産業で行われていた。特に離などで労働者物理的にも逃げられないようにの中に閉じ込めてしまうことで情報を遮断して世間に知られて社会問題になりそうもない場所は特にタコ部屋かする傾向が強かった。中でも極悪非を極めたのは上記の炭鉱労働の過酷さに加えてマラリアの蔓延が常態化して病死が絶えなかった沖縄県西表炭鉱である。

過酷な労働条件にくわえて見りの暴力団による殴打による制裁は強制労働も同然で、炭鉱札による賃金の搾取、苛を極めた鉱山労働者は力尽きたものから死んで行き、死体は荼毘に付されることはなく行動に埋められるか野山に捨てられて野生動物のエサになるかであった。そんな環境絶望した労働者たちは次第にやさぐれて自暴自棄になっていき、賭博やケンカに明け暮れて、監視の暴力団ヅテに麻薬が広まったりと荒どころか退廃した鉱山社会が形成されて行った。タコ部屋は資本家労働者から全てを吸い上げて心身ボロボロにした挙句にして殺して行く、人間使い捨てにした搾取構造なのである。

こんな地獄絵図環境がまかり通った理由は、政府から産業が財閥に払い下げられた際に政府から特権もセットで貰い受けており、なものとして工場や作業場内での自治権を握っていたからである。だから労働者の取り締まりのために暴力団を雇い、作業場内での暴力リンチもまかり通っていた。作業所内は警察そのものが不在だったり財閥に雇われていたりで、たとえ脱走して警察に駆け込んでも相手にされずに鉱山の暴力団に捕まって作業場に戻された。その後に待っているのは暴力団の見り役による見せしめのリンチであった。

戦時徴用工

この地獄絵図に変化が起きたのが太平洋戦争である。

太平洋戦争は年を追って戦況が悪化していくたびに大本営徴兵の範囲を拡大して徴兵失格者ですら徴兵して戦地に送る方針を進めたため、終戦間際までに陸軍だけでも500万人、陸海軍合わせて730万人の成人男子徴兵した。当時日本列島内、いわゆる内地の人口は7000万人で、そのうちの成年男性の割合を考えれば、内の男性の労働力の相当量を引っって行ったに等しく、労働力を人力に頼っていた日本では極度の労働力不足に陥った。その労働力を補うために大本営が考えたのが戦時徴用工という植民地からの労働力の獲得である。

戦時徴用工の概要は非常に長くなるので割愛するが、太平洋戦争の戦況悪化で徴兵範囲が拡大されて成人男子を大量に駆り出されたが、その対は成人男子が大半を占める鉱山労働者にも向けられ、地獄絵図のタコ部屋に閉じ込められていた労働者たちは徴兵という形で解放された。その埋めに朝鮮満州国、当時戦争中であった中国の占領地から中国人を大量動員してタコ部屋労働者の代わりをさせ、奴隷も同然の環境強制労働を強いた。

これが日本政府の黙認でまかり通っていたタコ部屋が終焉する引き金になるのである。

タコ部屋の終焉

1945年8月15日大日本帝国ポツダム宣言を受諾して無条件。同年9月2日に降文書が交わされて太平洋戦争および第2次世界大戦が終結、終戦と同時に連合の占領下に入り、アメリカ軍連合部、いわゆるGHQによる占領統治が始まる。

GHQによる統治の元、まず日本政府内の戦時体制をすべて解除させて民主化を命じた。その際にGHQが厳しく問題視したのが炭鉱労働などを強いられていた朝鮮人中国人の徴用工、および日本人労働者である。彼らの労働環境を細かく調べたGHQはタコ部屋を奴隷環境における強制労働と断じ、翌年の日本国憲法第18条に『何人もいかなる奴隷拘束も受けない』という条文を盛り込み、奴隷労働を禁じた。これによって直ちに徴用工はもちろん、炭鉱に残って働かされていた日本人奴隷同然の環境から解放されて、基本的人権を獲得した。その翌年の1947年で労働基準法が作られ、第5条に『強制労働の禁止』が盛り込まれ、使用者の違反には懲役最長10年と労働基準法違反では最も重い罰則がついた。

これまで政府から与えられた特権で黙認されてきたタコ部屋が明に違法になったのである。

現代も残るタコ部屋

終戦とともにタコ部屋は終焉を迎え、あらゆる強制労働が法で禁止されたにもかかわらず、戦後もタコ部屋労働は形を変えて世間から隠れる形で細々と行われた。

多くが地方にある山の工事現場で、戦前と同じ環境が整うような場所であれば、違法承知で地元の暴力団を利用することで従来のタコ部屋が作られていたのである。地元の暴力団を雇って使っていたのは暴力団と関わりのある地元の資本家であり、その資本家は地元有力者の政治家と結びついていた。政治家が資本家を守り、違法なタコ部屋労働をまかり通らせて、発覚しても政治家が権力を使って警察の捜を妨し、事件が発覚する前に引き払って逃げ拠を消してしまうのである。

こういった政治家暴力団を資本家の金で繋いだタコ部屋労働の構造は戦後どころか平成になっても残り続け、世間に発覚してタコ部屋労働が未だ残ることを明して世間を震撼させたのが朝日建設殺人事件exitである。

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