タスサマ(生没年不詳)はコンモドゥス帝下(180~192年)の古代ローマ帝国において存在したとされる剣闘士(グラディエーター)である。
彼の経歴を記した史料は殆ど残っておらず、ミンメイヌス著『剣奴百覧』に唯一記述が見られるのみとなっている。
その内容から著者による脚色が多分に含まれていると解釈されるのが現代において一般的であり、当時信仰されていたヘラクレスを称える為のフィクションと捉えるのが通説である。
肌は白く、髪は栗毛であったと伝えられる。ブリタニア地方の出身であるとする説があるが定かではない。
剣闘士以前の経歴はそのほとんどが不明だが、かつては罪人であったとだけ伝えられている。
剣闘においては敵とともに味方までも躊躇なく殺すことが多く、他の剣闘士たちには疎まれていたという。
そのため、闘技は良かったが素行は悪かったとの説が有力である。
熱心なヘラクレス信仰者であったとされているが、自身をヘラクレスの化身と認識していたという説もあり、これが後述のコンモドゥス殺害説を裏付けていると主張する歴史家もいる。
当時、コンモドゥス帝は自身をヘラクレスの化身と主張し、神話の戦いを模すと称して剣闘士達を打ち倒していた。
剣闘士としての名声を高めつつあったタスサマは、コンモドゥス帝の対戦相手として選出され、負け役を演じる予定であった。しかし試合が始まると、タスサマは迷うことなくコンモドゥス帝を打ちのめし、殺害に至ったという。
(この時、コンモドゥス帝は頭部に刀剣が突き刺さったまま立ち上がり、衛兵にタスサマの殺害を命じたという伝説があるが、流石にこれが事実かどうかは疑わしい。)
駆け付けた衛兵達との死闘の末、彼は見事逃亡に成功したが、その後の消息は不明。
衛兵はタスサマよりも遥かに重装備であったにも関わらず、この戦いだけで犠牲者の数は百人は下らないという。
市民からは「稀代の罪人」と恐れられ、奴隷や剣闘士達からは「スパルタカスよ再び」と英雄視されたが、
ローマにとって大きな汚点となったタスサマの存在は、正式な記録には残されていない。
彼がこのような凶行に及んだ理由は不明である。腕の立つコンモドゥスは近衛兵による暗殺が難しかったため、何者かがタスサマを抱き込んで、剣闘の試合での謀殺を謀ったと考えるのが妥当ではある。
しかし、前述の通り彼が自身をヘラクレスの化身と信じて疑わなかったのなら、同じヘラクレスの名を語るコンモドゥス帝に対して制裁を加えるという目的があったかもしれない。
この説は他の資料と比べてあまりにも矛盾が大きすぎるため、これを事実と捉える歴史家は少ない。
”タスサマの用いる武器は千変万化にして自由自在であった。
見た目はトラキア闘士のそれに近いが、ある時はスパタを用い、またある時は両手にパルマを振り回して戦った。
彼は重厚な鎧を一切用いず、剣奴の間を風のように舞い、踊るように敵を倒し、その反撃を許さなかった。
獣骨の兜を好み、更にはその兜を手に携えて戦うことすらあった。
血に塗れた兜を両手に高く掲げる様は、三つ首の悪魔やヒュドラを髣髴とさせた”
”二十数余の戦いを経ても、タスサマの体には傷一つ無かった。
試合の賭けは最早成り立たず、タスサマがいつ敗北するかで賭けが行われるほどであった”
”ある時タスサマは五匹の猛牛を相手取った。
牛はタスサマを取り囲み襲い掛かったが、タスサマが一喝し殴り付けるとたちまち大人しくなってしまった。
その様はゲリュオンの雄牛を生け捕るヘラクレスの如きであった。
人喰い虎を相手取ったときも、タスサマは武器を持たず素手で殴り伏せ、蹴り殺した。”
”タスサマの剛力は他に並ぶ者が無い。
スクトゥムの一群をも軽々と跳ね除けてみせ、投げたピルムは奴隷の頭を貫くほどであった。
彼が雄叫びを上げればローマ中に響き、観客が瞬きを一つする間に、二十もの奴隷が地に伏していた事もあった”
”タスサマの勇猛は無類のものであった。
帝国の英雄が駆るチャリオットにも怯むことなくそれを奪い取り、向かう者を轢き殺した”
”ルドゥスでの鍛錬は型破りで、数々のラニスタを唸らせた。
またタスサマは肉を好み、専ら肉のみを食した”
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最終更新:2024/04/19(金) 13:00
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