ダイヤモンドジュビリー(Diamond Jubilee)とは、1897年イギリス産まれの競走馬である。
イギリス牡馬クラシック9番目の三冠馬にして、セントサイモンの代表産駒の一頭。
父はSt. Simon(セントサイモン)、母はPerdita(パーディタ)、母父Hampton(ハンプトン)という血統。
父セントサイモンは個別記事を参照されたい。母パーディタは非常に優秀な繁殖牝馬で、6つ上の全兄フロリゼルは英愛露の3カ国でダービー馬を輩出し、4つ上の全兄パーシモンはダービー・セントレジャーの二冠を含めて数々のレースで勝利を収め、種牡馬としてもイギリスリーディングサイアーに4回輝く名馬である。
生産所有者は当時皇太子で後のイギリス国王エドワード7世となるアルバート・エドワード。
名前の由来はエドワード7世の母であるヴィクトリア女王の即位60周年記念式典(ダイヤモンドジュビリー)が本馬の生まれた年に行われたことに由来する[1]。
これだけのバックボーンを持ち、雄大な馬体と端正なルックスを持ち合わせた彼は生まれた直後から非常に期待されたのだが、彼には一つ大きな欠点があった。
「気性」である。
父セントサイモンは蒸気機関車に例えられるほどの激しい気性を持ち合わせ、母パーディタもまた神経質で気難しい馬だった。
中でもダイヤモンドジュビリーの気性は最悪と言われ、付いた呼び名が「悪魔の子」である。
2歳の7月にデビューしたのだが、緒戦からパドックで観客に蹴りを入れようと暴れてスタート時刻を大幅に遅らせる、レース中に騎手を振り落とそうと暴れるなどやりたい放題して着外に敗れる。続く2戦目もレース直前に騎手を振り落として放馬し、レースに出走したものの最下位。3戦目に2着になり、4戦目でようやく初勝利を挙げるもののその後は2戦連続2着で2歳シーズンを6戦1勝2着3回で終える。
3戦目から能力の片鱗を見せ始め、注目されるようになるものの相変わらず気性の悪さは改善されず、冬場の調教で初勝利の際のジョッキーを振り落として踏み殺しかける等オルフェーヴルが可愛く見えてくるレベルで暴れまくっていた。
この悪魔みたいな気性を改善しようと去勢が検討されたが、彼に去勢が施されることは無かった……いや出来なかったのだ。
通常牡馬の睾丸は産まれた直後はお腹の近くに位置し、成長と共に徐々に下がって陰嚢内に納まるのだが、検査の結果彼の睾丸は下がる途中で停滞してしまっていたのだ。当時の医学ではこの状態の金玉を摘出するのは困難で命の危険が付き纏う為、去勢は見送られることとなった[2]。
そんな中、彼は一人の男に出会う。
エドワード皇太子の障害馬を担当する調教師の息子であったハーバート・ジョーンズである。
彼は本業こそ厩務員なのだが、レースに騎乗して勝った経験もあり、馬に対する愛情の深さに期待し陣営は主戦騎手を任せたのだった。
最初こそいつもの如く暴れたが徐々にジョーンズに心を開いていき、翌年の躍進に繋がって行くこととなった。
3歳の緒戦に選ばれたのはイギリス2000ギニーだったが、これまでの暴れっぷりが嘘のように落ち着き払い、2着に4馬身差を付け完勝。続くレースも鞭を使わずに勝利。堂々1番人気でダービーに乗り込んでいった。
当時のダービーはレース前にパレードが行われるのだが、彼の気性に配慮しパレードには参加せず、ゲート前に直接向かう案が提案された。しかし思わぬ所から横槍が入ってしまう。
エドワード皇太子の妻アレクサンドラが「パレードで見たい!」とワガママを言ってしまい結局パレードに参加するハメになった。
アレクサンドラは後年のロンドンオリンピック(1908年)のマラソンにおいて、本来26マイル(42km弱)のコースであったが「スタート地点は宮殿の庭がいい」「ゴール地点は競技場のロイヤルボックスの前に」と注文を付けた結果、現在の42.195kmになったと言う逸話があるほどのワガママ王妃様であったのだ。
閑話休題。そんな中、彼は兄パーシモンが記録したレコードに並ぶ快走で1馬身半差を付け勝利。エプソム競馬場の観衆に祝福されながら二冠馬となった。
その後のプリンセスオブウェールズステークスでは同期のイギリスオークス2着馬相手に逃げ切りを許し2着に敗れたが(ただし斤量差は20ポンド=約10kg!)、続くエクリプスステークスではレースレコードで勝利。ちなみに2着は10ポンド差(約5kg)のハンデがあった。
休養を挟んで出走したクラシック最終戦のセントレジャーでは圧倒的1番人気に支持されたが、久々に彼はレース前に大暴れしてしまい落ち着かせるのに20分も掛かってしまった。それでもレース前半に10ハロン半を残して先頭に立つとそのままゴールまで押し切って優勝、史上9頭目の三冠馬に輝いた。
3冠後のレースではまたもや大暴れしまくり大敗、翌年も現役を続行したが3戦して2着4着3着と1勝も出来ずに引退となった。
通産15戦6勝2着5回3着1回。
激し過ぎる気性と多くのハンデで、惜しいレースが多かった。
引退後はイギリスで種牡馬になったのだが、兄フロリゼルとパーシモンが既にイギリスのセントサイモンの後継種牡馬として大活躍しており彼の居所はほぼ無かった。
1906年にアルゼンチンの牧場に売られたが、セントサイモンの血が行き渡ってない南米では彼の需要は高く、たちまち人気種牡馬となり、4度のリーディングを獲得するなど大活躍。南米で一大父系を形成したのだった。
1923年7月に他界。
その後、アルゼンチンの彼の一族にはセントサイモンの悲劇と同様の現象が起こり、1950年頃には直系は途絶えてしまった。
ダイヤモンドジュビリーが3冠を達成した年のクラシックは、1000ギニーとオークスもセントサイモン産駒が優勝した為、イギリス史上最初で最後の「同一種牡馬による同一クラシック制覇」を果たしている。
エドワード皇太子の母ヴィクトリア女王も牝馬3冠馬ラフレッシュを生産しており(馬主は別)親子で三冠馬を生産した事となる。
更にラフレッシュの父もセントサイモンである為、牡馬牝馬両方で3冠馬を輩出した事となる。
更に更にラフレッシュは*サンデーサイレンスの牝系の祖でもある為、共に牡馬牝馬3冠馬を輩出するという繋がりがある。
南米に渡っても悪魔の気性は改善されず様々なトラブルを引き起こしている。
など暴走エピソードには枚挙に暇が無い。
幸い人を殺したエピソードは無いみたいだが、それでも彼と接触するには命がけだったのは想像に難くない。
さて、ダイヤモンドジュビリーの兄にはフロリゼル、パーシモンという活躍馬がいることを紹介したが、実はこの3兄弟日本の競馬に意外なところで大きく関わっている。
先述の*サンデーサイレンスの祖ラフレッシュといい、イギリス王室の生産した馬達が数十年、100年の時を経て日本の競馬に関わってくるとは血統の世界はつくづく面白いものだと教えられるのは筆者だけだろうか。
St. Simon 1881 鹿毛 |
Galopin 1872 鹿毛 |
Vedette | Voltigeur |
Mrs. Ridgway | |||
Flying Dutchess | The Flying Dutchman | ||
Merope | |||
St. Angela 1865 鹿毛 |
King Tom | Harkaway | |
Pocahontas | |||
Adeline | Ion | ||
Little Fairy | |||
Perdita 1881 鹿毛 FNo.7-f |
Hampton 1872 鹿毛 |
Lord Clifden | Newminster |
The Slave | |||
Lady Langden | Kettledrum | ||
Haricot | |||
Hermione 1875 黒鹿毛 |
Young Melbourne | Melbourne | |
Clarissa | |||
La Belle Helene | St. Albans | ||
Teterrima |
クロス:Voltigeur 4×5(9.38%)、Melbourne 4×5(9.38%)、Voltaire 5×5(6.25%)
ないです。
掲示板
12 ななしのよっしん
2023/12/06(水) 17:13:05 ID: B/r+9Uzkvb
逸話みるに大型草食動物の野性味が強い馬だったのかな
厩務員さんには心開いたの考えるとただの気性難・キチガイというより周りが家畜として扱ったことに反発しただけの気がする
殺されかけた関係者にしたら安全な外野がゴチャゴチャ言ってんじゃねえ!と言いたくなるだろうけど
13 ななしのよっしん
2023/12/21(木) 06:54:18 ID: l6nxKeZQoo
乗った厩務員、正確には見習い騎手だけどこの人も経歴が凄まじいことになるんだよな
14 ななしのよっしん
2024/03/10(日) 21:34:42 ID: l6nxKeZQoo
急上昇ワード改
最終更新:2024/03/29(金) 15:00
最終更新:2024/03/29(金) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。