この項目をチャーチル(戦車)とチャーチルに分割する提案が出されています。 掲示板にて同意が得られると、作業は開始されます。 |
以下、4.について記述する。
1930年代~WW2末期までの英国軍の二大戦車区分「歩兵戦車」「巡航戦車」のうち、歩兵戦車の完成形と称される戦車である。英国歩兵部隊にとっての頼れる破城槌として、歩兵の征く所ならどこへでも追随できる不整地機動力と重装甲で高い評価を受けた。またソ連へのレンドリースで提供された車両の一つであり、ソ連軍においても高い信頼性と重装甲で優秀な戦車と認められている。ま、脚の遅さのことは忘れるんだ。
1939年のWW2勃発をうけ、英国陸軍では再びWW1のような塹壕戦が発生した場合に備え、それに適応した新型歩兵戦車の開発をスタートさせた。 ……というが、もともと英国陸軍が戦車を開発した理由も塹壕戦対策であり、その結果がMk.1戦車のような菱形戦車。20年を経た程度で英国紳士の思考回路が変わるわけもなく、同じ要求仕様に同じ思考回路で臨めば当然結論も同じになるわけで、おいおい1940年にもなってまた菱形戦車を作る気かよ……とさすがに誰かがツッコんだらしくこの計画は試作車どまりで一度ご破算と相成った。
…はずだったのが、フランス戦で大負けに負けた英国陸軍はダンケルクから泡くって逃げ出さざるを得なくなり、小銃から重火器までのことごとくの軍事物資を放棄することになってしまった。いつドイツ軍が上陸してくるかわからない、もうなんでもいいから早急に軍の再武装化を! という状況の中、上述の計画はちょっと手直しをうけて再起動することとなる。想定戦場とか要求仕様とかの不適合よりも、とにかく「試作車両つくれるくらいに計画がまとまってる」ことのほうが優先されるくらいに危機感抱いてたわけです。そして国内あちこちからあがってきた急造兵器のリストを眺めていた当時の首相、ウィンストン・チャーチルがこの戦車の計画を気に入って「これ素晴らしい、最優先で生産しろ」と指示を出したことから、このMk.歩兵戦車は「チャーチル」と愛称を持つこととなったという次第。
初期型は砲塔に2ポンド砲、車体に3インチ(76.2ミリ)榴弾砲を装備。とりあえずこれで「(歩兵に向けて撃つ)榴弾を撃てない歩兵戦車」と皮肉られることはなくなった。後に砲塔に6ポンド砲(これも榴弾撃てない…)、さらに75ミリ砲を積むようになり、車体の榴弾砲は撤去されている。また歩兵支援用にはほぼ同構造ながら、「砲塔に3インチ榴弾砲、車体に2ポンド砲」を積んだモデルを作ってみたり、砲塔に95ミリ榴弾砲を積んでみたり……とさまざまなパターンが作り分けられている。
防御力については菱形戦車もどき計画の頃から重点的にリソースが振り向けられており、チャーチルも初期型で正面装甲100ミリ超え、後期型では150ミリ超えを達成してドイツ重戦車と同等以上の防御力を持つに至った。
機動力については菱形戦車もどき計画の頃からあんまり考慮されておらず、初期型でも25km/h、装甲や武装の強化が行われた後期型については20km/hくらいしか出せなかった。まあ歩兵の駆け足よりちょい速いくらいの速度が出ればそれで充分というのが歩兵戦車なので、特に問題視はされてなかった模様。そのかわりに歩兵が行ける場所はどこにでも行けると言われた不整地機動力の高さは特筆モノであり、実戦では守備側が想定してなかったルートからの奇襲・強襲で敵陣地を突き崩す活躍をしばしば見せた。また、この時代の戦車では珍しい超信地旋回能力を持っていたことも特筆に値するといえよう。
1941年6月に配備が開始されたものの、本格的に実戦に参加するようになったのはかなり後のことであり、その期間を不具合の洗い出しと改修に向けることができたことで、大戦後期の頃には(英国戦車としては)あらかた不具合もなくなり、信頼できる車両・成功した歩兵戦車として歴史に名を残すこととなった。
初陣は1942年夏のフランス奇襲上陸作戦、通称「ディエップの戦い」。奇襲上陸して6時間で撤退するという意味の分からない作戦目的、「民間人を巻き添えにする」「奇襲攻撃の意味がなくなる」「駆逐艦以上の大型艦艇は喪失リスクがあるので作戦に参加させない」等々の理不尽な理由でほとんど皆無だった準備攻撃、挙句の果てに口の軽い英軍将校がこの作戦をパーティーで公言してしまいドイツ軍に作戦内容が筒抜けという、おおよそ考えられる限り最悪の条件が積み重なったこの作戦が首相の名を冠した戦車の初陣とか何の嫌がらせだ。投入されたチャーチルはもちろん1両も帰還することは出来なかったものの、砲撃で失われたのは30両中わずか2両だけでとりあえずの実戦テストは成功した? のか?
本格的な参戦は43年のチュニジア戦線からで、ノルマンディー上陸作戦には戦車タイプだけでなくさまざまな改造を施された陣地攻略用の戦闘工兵車両タイプ『AVRE』も参戦している。以降、ドイツ降伏まで英国歩兵部隊のお供として戦い続けた。制空権を連合国がほぼ掌握しドイツ軍に電撃戦を再演する余力はもはやなく、後は確実にドイツ軍を押し包んで圧殺していくことが望まれた戦況において、チャーチルの鈍足さと重装甲はむしろ戦況にマッチしていた、のかもしれない。
レンドリースでソ連にも250両ほどが渡り、スターリングラード戦以降各地を転戦している。上述の通りソ連軍からも優秀な重戦車として高く評価された。しかし反共主義者として知られるチャーチルの名前を冠した戦車をソ連史に載せることは許されず、長らくその真の活躍は歴史から抹消されていたことが冷戦終結後に明らかになっている。例えばクルスク戦時にドイツ軍のティーガー戦車を体当たりで撃破したとされるスクリプキン少佐率いる戦車隊の装備車両は、史実ではチャーチルであったがソ連史ではKV-1だったことにされてしまっている、等々。
WW2後もチャーチルは朝鮮戦争で実戦に参加、その後も長らく現役にとどまり最後のチャーチルが制式装備から外れたのは1965年のことであった。戦闘工兵車両タイプに改造された車両であるチャーチルAVREシリーズはさらに後年まで用いられている。
掲示板
25 ななしのよっしん
2019/12/04(水) 01:59:02 ID: IbPP+0+PzP
ティーガーやIS-2といった重戦車たちは山岳地帯では平地ほど活躍できなかったという話を聞くとチャーチルの登坂能力の高さは本当に貴重だったんだろうな
26 ななしのよっしん
2021/10/23(土) 10:02:34 ID: QYZsewwOYZ
>>21
希少なチャーチル作の風景画、A・ジョリー出品の競売で最高落札額記録
https://
>本人の作品としては過去最高額の約830万ポンド(約12億4000万円、手数料込み)で落札された。
大好きな風景画でも完膚なきまでに格差をつけられる伍長
27 ななしのよっしん
2022/07/18(月) 21:50:02 ID: vnvmgGpV3y
もしかして:チャーチル(競走馬:ガリレオ産駒、GI4勝含む重賞6勝、仏ダービー馬ヴァデニの父)
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最終更新:2025/01/20(月) 11:00
最終更新:2025/01/20(月) 11:00
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