チャーリー・マニエル 単語

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チャーリーマニエル

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チャーリー・マニエルCharles Manuel、1944年1月4日-)とは、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手である。

日本ではヤクルトスワローズ近鉄バファローズの2球団で両チームの初優勝に大きく貢献する活躍を見せ、メジャーでもフィラデルフィア・フィリーズにて監督を務め、チームワールドチャンピオンに導いた。

概要

高校時代はアメリカンフットボール等の選手として活躍していたが、高校卒業直前に父親自殺したため、家族を養うために進学を断念してミネソタ・ツインズに入団する。

1969年メジャー初昇格を果たすも定着はわず、74年からはロサンゼルス・ドジャースに所属するもなかなか出場機会を得られないでいた。

転機となったのは1976年日本球界に1973年ヤクルトスワローズに入団したジョー・ペピトーンが様々な問題行動を起こし、このペピトーンの行動によって日本プロ野球界関係者、そして野球ファン全体に、「メジャーリーガーを排除するべき」という空気が生まれる。
このため多くのメジャーリーグ関係者が日プロ野球間の関係悪化を懸念。メジャーリーガーの信用を回復させるために、まじめで、尚且つ活躍が期待できる選手をヤクルト派遣することを決定し、かくして、マニエルはこの派遣選手に選ばれたことによってヤクルトスワローズへの入団が決まる。

ヤクルト1年1976年打率.243、11本塁打32打点と期待に応えたとは言い難い成績だったが、日本球界に慣れた1977年打率.316、42本塁打97打点と大活躍を見せチーム2位進出に貢献。

そして1978年若松勉大杉勝男と共に強クリーンアップを形成してチームを引っって、打率.312、39本塁打103打点という成績でヤクルトの初優勝に貢献。ヤクルトはこの年初の日本一も達成した。
ただ打撃タイトルにはいずれも届かず、MVPには若松勉が選ばれている。

以上のようにヤクルトではチームの躍進に大きく貢献したが、監督の広達郎には「守れない、走れない選手はいらない」と評価されていなかった。マニエルシーズン中に指名打者制のあるパ・リーグへのトレードを志願しており、シーズン終了後に「希望って」近鉄バファローズへのトレードが成立した(マニエル永尾泰←→部年男・佐藤秀・寺田吉孝)。

近鉄バファローズではヤクルトと違い、近鉄監督西本幸雄に高い評価を受け、そんな西本とマニエルはカタコトながら会話するほどの関係を築いている。

1979年パ・リーグ球団の近鉄ではDHの存在により守備のことを考えず打撃に専念できたためマニエルは開幕から長打を量産し、5月には間15本塁打を達成。だが6月9日ロッテ戦、5回裏に相手投手八木沢壮六のストレートに直撃する不運に見舞われ、戦線を離脱する。
この時点でマニエル51試合で打率.371、24本塁打60打点と絶好調の打撃でチームを引っっていたため、近鉄には大きな痛手となった。
実際、マニエル離脱前までは近鉄34勝13敗4分と圧倒的な強さを見せていたが、離脱後は12勝14敗3分と急失速してしまい、近鉄優勝も難しくなったと思われた。

しかし当初は後期も絶望と言われたマニエルはわずか2か後の8月4日、特注のフェーガード付きのヘルメットを着けて復帰すると、その試合でいきなり逆転の口火となる2点タイムリーを放ち、再び近鉄は息を吹き返してリーグ優勝を達成する。
結局1979年は97試合の出場に終わったが、打率.324、37本塁打94打点という成績で本塁打王MVPを獲得した

1980年は前年打率.200と苦手としていた対左投手打率.300にまで引き上げて全に
前年以上のペースで打ちまくり、打率.325,48本塁打129打点という自己最高の成績で本塁打王打点王を獲得し、近鉄の2連覇に貢献した。

だがオフには複数年契約めるマニエル側と単年契約を提示する近鉄側で交渉が折り合わず、結局マニエル近鉄を退団し、81年は再びヤクルトスワローズに復帰する。

当時ヤクルトで通訳を務めていた中島章氏は、近鉄の通訳から「マニエル愛人がいることがバレ、奥さんと相当揉めている」という情報を掴み、当時の武上四郎監督に獲得を思いとどまるように説得したという。しかし、武上はこれを聞き入れず、獲得に踏み切ってしまった。結局、本塁打12、打点36と前年の4分の1ほどの数字しか残せず、契約を1年残しながらも離婚問題を理由に1年で解雇された。

引退後

引退後はクリーブランド・インディアンスにて打撃コーチを務め、自身の経験から日本流の導を取り入れて結果を出し、2000年には監督に昇格。すると翌2001年にはアメリカンリーグ中地区優勝を達成したが、2002年シーズン途中で解任された。

2005年からはフィラデルフィア・フィリーズ監督に就任し、2008年には、リーグチャンピオンシップシリーズロサンゼルス・ドジャースを破ってリーグ優勝を達成・そしてワールドシリーズでは4勝1敗で当時岩村明憲が所属していたタンパベイ・レイズを破り、見事チームワールドチャンピオンへと導いた。
2009年ワールドシリーズに進出するが、先発ペドロ・マルティネスが絶好調の松井秀喜に打ち砕かれる等の誤算もあり、ニューヨーク・ヤンキースの前に2勝4敗で敗れ、2年連続のワールドシリーズ制覇は成らなかった。

その後もフィリーズを率い、2010年2011年は2年連続で東地区優勝を達成したが、ワールドシリーズまでは進めず、2013年8月16日チームが低迷していたこともあってかフィリーズより監督解任が発表された

2019年フィリーズの打撃コーチに就任。

人物・プレースタイル

日本では「赤鬼」の通称で知られ、フィリーズでは監督時代、選手たちから「レッドデビル」と呼ばれていた。

達郎、西本幸雄の二人に対してはそれぞれ「ヒロオカはあえて選手を怒らせる。いまではヒロオカのやり方も少しは理解できるよ。性格は合わないけどね」、「西本監督が選手に敬意を払って接する姿に心打たれた。のように尊敬していた」と話している。

打撃では右に引っる打撃で本塁打を量産したが、反面左に流す器用さも持ち合わせており、西本幸雄は「見惚れた、体が柔らかく、単なるじゃない巧さがあった」とっている。
反面足は遅く、守備面も常に不安を抱えた状態だったため、広達郎からは酷評され「守備を真剣にしなければ使わない」とまで宣告されたこともある。

成績

通算打撃成績

通算:12年 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
MLB:6年 242 432 384 25 76 12 0 4 43 1 0 6 40 2 77 7 .198 .273
NPB:6年 621 2440 2127 368 644 69 2 189 491 6 1 18 273 21 364 55 .303 .385

通算監督成績

通算:12年 試合 勝利 敗戦 勝率
MLB 1827 1000 827 .547 Aクラス10回、Bクラス2回

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