ティルピッツ(戦艦)とは、第二次世界大戦中のドイツの戦艦である。
ドイツ海軍の軍拡を目指したZ計画により建造された、ビスマルク級戦艦の二番艦。ドイツ海軍が建造した、最後の戦艦である。
1941年2月に就役。「ビスマルク」と共に通商破壊戦に投入される予定であったが、同年5月に「ビスマルク」が撃沈。長期間作戦に投じられることがなく、連合国側からは「孤独の女王」と称されていた。
1944年11月、イギリス軍の爆撃を受け大破着底、その後沈没。
ドイツは先の第一次世界大戦の敗戦により、連合国との間に軍縮を目的とするヴェルサイユ条約を締結していた。しかし1933年、反ヴェルサイユを訴えたナチ党が第1党となり、ドイツはヴェルサイユ条約を破棄。軍縮制限を無効とするドイツ再軍備宣言を行う。
その後、ドイツ海軍はシャルンホルスト級戦艦2隻、ビスマルク級戦艦2隻の建造を開始。さらにはビスマルク級を改良したH級戦艦を建造し、1945年に対英戦の軍備が整うスケジュールであった。
しかし1939年に第二次世界大戦が勃発。「ティルピッツ」は1941年、戦火が拡大する中就役することになった。
1941年12月22日から23日にかけてイギリス軍がノルウェーのロフォーテン諸島とモーレイを襲撃すると、ドイツのヒトラー総統は同軍によるノルウェーへの上陸を警戒するようになった。これに伴い、ドイツ海軍総司令官レーダー提督は「ティルピッツ」をノルウェーへ派遣するよう提案する。この提案にはイギリス軍に対する防備の他、ソ連向けの船団に対してより良い策源地に同艦を移動させる意図があった。最終的にヒトラーもレーダー提督に同意する。
こうして1942年1月12日、ポーランドのグダニスクを出航した「ティルピッツ」は1月17日、連合軍に察知されることなくノルウェーのトロンハイムに投錨した。
同年3月5日、哨戒機がPQ12船団を発見すると、ティルピッツは駆逐艦4隻を伴って攻撃に向かう。その意図は暗号の解読によってイギリス側に察知され、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、巡戦「レナウン」を伴う護衛部隊および戦艦「キング・ジョージ5世」と空母「ヴィクトリアス」を基幹とする本国艦隊が「ティルピッツ」の迎撃に回された。しかし双方とも視界不良により互いの標的を発見できず、イギリス側では軽巡「シェフィールド」が触雷して損傷した他、ドイツ側では「ティルピッツ」の護衛を務めていた駆逐艦、「フリードリヒ・イーン」がQP8船団から落伍した貨物船「イジョーラ」を撃沈したに留まっている。その帰投の最中に、「ティルピッツ」はイギリス空母の偵察機により発見され、雷撃機による初めての攻撃を受けるが損害はゼロであった。
次の機会が巡って来たのは、ドイツ空軍の哨戒機がPQ17船団を発見した1942年7月1日である。この時点で戦艦「デューク・オブ・ヨーク」と「ワシントン」を基幹とする警戒部隊がヤンマイエン島とビュルネイ島の間に展開していたことを、ドイツ海軍は察知していた。また、ヒトラーはそのように優勢な連合軍艦隊との交戦を禁止していた。それでもドイツ海軍軍令部部長、フリッケ提督は「レッセルシュプルンク作戦」の発動を命じ、戦艦「ティルピッツ」および重巡「アドミラール・シェーア」を基幹とする二群の水上部隊をアルタ・フィヨルドに移動させた。
イギリス側は7月3日には、「ティルピッツ」がトロンハイムに在泊していないことを確認していたものの、悪天候によりそれ以上の航空偵察を実施できず、その後の索敵でもドイツ海軍を発見できなかった。イギリスの第一海軍卿、パウンド提督は船団を近くで護衛していた戦力(重巡4隻、駆逐艦2隻の第1巡洋艦隊と駆逐艦5隻その他の第1護衛艦隊)が、接近中と思われるドイツ艦隊より劣勢であること、そして本国艦隊は船団から遠く離れ過ぎていて来援が間に合わないことを危惧し、巡洋艦隊の退避と船団の散開を発令した。
この時点でドイツ海軍は、まだアルタ・フィヨルドに留まっていたが7月5日、遂に出撃する。しかしソ連海軍およびイギリス海軍の潜水艦と哨戒機に相次いで発見されたことから、優勢な警戒部隊との接触を危惧したフリッケ提督は水上部隊の帰還を命じ、「ティルピッツ」も7月8日にはナルヴィクのオフォト・フィヨルドに戻っている。PQ17船団への攻撃は、航空機と潜水艦が担当することになった。
小集団に分散したPQ17船団は潜水艦9隻および航空機39機から繰り返し攻撃を受け、商船33隻のうち24隻、14万2518トンと9万9316トンの物資、車輌3350輌、戦車430台および航空機210機を失った。
ドイツ側の損害は航空機5機に留まっている。この後、1942年9月にPQ18船団が同様の攻撃によって45隻のうち13隻、7万5657トンの損害を出して以降、12月のJW51船団まで援ソ船団の出航は見送られた。
「レッセルシュプルンク作戦」の後、1942年10月23日に「ティルピッツ」は改修のためトロンハイムに戻り、翌年3月12日まで在泊した。そして13日にはナルヴィクに戻ると24日には同地から出航し、7月まで訓練任務に就いた後、 アルタ・フィヨルドに移る。
続いて1943年9月、ドイツ海軍は作戦名「ズィツィーリエン」のもと、ノルウェー領スピッツベルゲン島の攻撃を計画した。これに伴い、「ティルピッツ」は戦艦「シャルンホルスト」および駆逐艦9隻とともに出撃する。
同艦隊は第349擲弾兵連隊から抽出した1個大隊、600名の上陸部隊を乗せていた。ドイツ艦隊はスピッツベルゲン島のバレンツブルクとロングイェールビーンを砲撃すると部隊を揚陸させ、防衛にあたっていたノルウェー軍に 後退を強いるとこれらの町を一時的に占領し、炭鉱施設を破壊した。この際、「ティルピッツ」も38cm主砲弾52発と15cm副砲弾82発を発射している。
バレンツブルクでは大規模な火災が発生し、ロングイェールビーンも甚大な 被害を被った。同地のある採掘施設では、最終的に1963年まで鎮火できなかった火災がこの時に発生している。ドイツ側ではノルウェー軍の砲撃により、駆逐艦3隻が損傷した。一連の作戦行動を終えると、艦隊は上陸部隊を 回収し、9月9日に泊地に帰投した。
イギリス軍は上記のように、ドイツ海軍の戦艦を潜在的脅威として恐れ、かなりの戦力を戦艦にあてていた。
「ティルピッツ」に対しても同様であり、イギリス軍は1943年9月に小型のX級潜水艦による攻撃作戦「ソース作戦」を敢行、「ティルピッツ」は2000kg爆弾を船底に受け、大破航行不能の損害を受ける。
この損害により「ティルピッツ」は修理に約半年を要し、その後もドイツの戦況悪化によりアルタのフィヨルド内から出港することができずにいた。
ノルウェー北部に配置された「ティルピッツ」は、連合国にとって脅威的な存在であり、作戦に大きな支障を生じさせていた。また、前作戦による損害が修理されたという報告を受け、1944年4月、イギリス海軍は次なる攻撃作戦「タングステン作戦」を敢行する。
この作戦は空母6隻、戦艦2隻を中心とした艦隊により、航空攻撃で「ティルピッツ」を撃沈させるというものであった。
「ティルピッツ」への命中弾14発、対空兵器・機関部損傷、船体中破という戦果に対し、イギリス側は航空機3機損失のみであったが、撃沈には至らずさらに数回の攻撃作戦を行うこととなる。
1944年9月、イギリス軍は超大型爆弾トールボーイを使用した「パラヴェーン作戦」を敢行する。
トールボーイは、通常爆弾で破壊できない建築物や、防空壕などと言った強靭な建物を破壊するための爆弾であり、重さは約5000kgと艦載機では搭載できない重量であった。
「ティルピッツ」は煙幕を張り被弾を防いだが、1発が命中。右舷前部に大穴が開き、さらに爆発の衝撃波により機関部が損傷。外洋航行、修理不可能に陥り、浅瀬で浮き砲台として固定されることが決定した。
しかし、その後もイギリス軍によるトールボーイ爆撃が続き、1944年11月の「カテキズム作戦」によりトールボーイ3発を被弾。「ティルピッツ」は完全に転覆し、孤独な女王は短い生涯を終えることとなった。
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最終更新:2024/04/20(土) 15:00
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