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テイエムオペラオー

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2000年有馬記念

勝ち続けると、すべてのが敵になる。

そのは、全に包囲された。

は消えたはずだった。

テイエムオペラオー。お前はなぜ走れたのか。

『年間全勝のレジェンド

その戦いに、人はを見る。 さぁ、を見よう。

 -2013年有馬記念CMより

テイエムオペラオー英語表記: TM Opera O、香港表記: 好歌劇)とは、1996年まれの日本競走馬。GⅠ7勝、長く世界最高獲得賞記録を保持し、「世紀末覇王」とか呼ばれた名である。北斗の拳は関係い。あっちは世紀末覇者だ。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
テイエムオペラオー(ウマ娘)」を参照して下さい。

概要

オペラハウス ワンスウエド。杵臼牧場河)で生まれる。

4歳時(当時表記)では皐月賞を制覇し、1999年JRA賞最優秀4歳(当時表記)に選ばれている。この時点ではG11勝の名の一頭に過ぎなかった。だが、世紀末である2000年には、要な古王道中央競馬の中・長距離芝競争)を全て制覇したことから、歴史的名へと駆け上がる。その業績と名、活躍した時期から世紀末覇王と呼ばれた。

2001年には、衰えと次世代の伸長もあって年末の有馬記念引退G1勝利シンボリルドルフに並ぶも遂に越えられなかったが、獲得賞額では当時の世界最高収得賞額18億3518万9000円を記録した。

その後は種として過ごしていたが、2018年死亡

血統

オペラハウス ワンスウエド ブラッシンググルームという血統。オペラハウス英国キングジョージなどGⅠ3勝。欧州の大種サドラーズウェルズなのだが、サドラーズウェルズの血統はぶっちゃけ当時は日本でほとんど成績が残せておらず、産駒デビュー前のオペラハウスもあまり期待されていなかった。は不出走で重賞2着を出していた程度。いちおうブラッシンググルームフランスで短距離マイルでGI5勝を挙げた快速ではあった。

生涯

デビュー前

1996年3月13日生まれ。生産者の杵臼牧場河)も繁殖は20頭足らずの小さな牧場

当時、日本種馬協会の種であるオペラハウスの産駒のはセリに出す義務があったが、オペラハウスは上述の通りでその産駒を高い評価をしろというのも理な話であった。しかし、ここでその体が園正繼氏のに止まる。く、「いて見えた」とか。園は1997年10月に静内で行われたセリで同スタート価格の1000万円で落札した。因みに最大のライバルメイショウドトウ500万円の較的安値で買われており、結果的に両ともに購入時の184倍もの賞したことになる。

テイエムオペラオーの配合は、血統背景からの産駒がことごとく短距離だったので「安くてスタミナのあるをつけたい」という牧場の方針によるものだったという。更に余談だが、園氏はオペラオーの活躍の後、この時のオペラオーを理想の当歳の体としてそれに近いを値段にかかわらず購入するという方針を定めているそうである。テイエムプリキュアも言ってみればオペラオーのおかげなんである。

冠名「テイエム」にから「オペラ」、王になるようにと「オー」を合わせた名とされた。

新馬戦からクラシック戦線にかけて(1999年まで)

その後、東・岩元三厩舎に入厩。岩元の第一印は「普通」だったというが、調教で抜群のタイムを出したことでデビュー前からくも評判になった。併せではすでに勝ち上がっていた後の重賞ユーセイシュタインを1.6差とちぎり捨てる走りっぷりで、新戦は1.5倍の断然一番人気。しかし6身差の2着に敗れ、さらにこのレース中に左後肢の飛節を折。症状は軽かったが競走馬にとって重要な飛節を故障したことで治療に専念せざるを得ず、2歳シーズンを棒に振ってしまう。営はのGⅠには間に合わないと思って皐月賞を諦め、第2回登録(3万円)を見送ってしまった。

しかし休み明け2戦2月の未勝利戦(ダート)を快勝すると、芝に戻ったゆきやなぎ賞も勝利し、皐月賞前の「東上最終便」毎日杯は2着に4身差の圧勝で重賞初制覇。営は皐月賞を視野に入れたが、園は「ダービー一本」と考えており皐月賞出走には消極的だった。しかし岩元が「追加登録料をが立て替えてもいい」とまで言って園をどうにか説得し、やっと追加登録料(200万円)を支払い皐月賞への参戦を決めた。

そして皐月賞。岩元は前々での競馬を考えており、後方待機策を取った子の和田竜二騎手とオペラオーをみて敗戦を覚悟した。しかし上の和田騎手は当時の中山競馬場馬場から外差しが決まりやすいと読んでいた。和田騎手読みは当たり、オペラオーは直線坂を上った辺りからワープするみたいな脚で差し切ってGⅠ初制覇。え?あれほんとにサドラーズウェルズ系か?という末脚だった。しかしダービーでは和田騎手若さが出たか、仕掛けを交わされて3着。

京都大賞典菊花賞ステイヤーズステークスと追い込んで届かず、抜け出して差されと惜しい負けが続き、年末の有馬記念ではグラスワンダースペシャルウィークに僅差の3着。この時点では勝ちきれない、良くいる善戦マンだなぁというでしかなかった。今思えば、4歳が古を押しのけグラスとスペ様にクビ差まで迫ったというのはものすごいことなのだが。

ただ、園氏は惜しい敗戦続きに相当な悔しさがあったようで、結果的に仕掛け遅れてナリタトップロードに届かなかった菊花賞後には騎手を代えろと激怒したそうだ。しかし幼なじみダービージョッキー岩元師は子の和田騎手をどうしても一人前に育てたいという願いがあった。また、岩元自身、師の布施調教師にに乗せ続けてもらいダービージョッキーとなった過去もあり、乗り替わりだけは勘弁してほしいと説得した。終いには「どうしても乗り替わりというなら転厩してもらうしかない」とまで言い放った。この説得に園も折れ、和田騎手の続投を渋々了承した。この後も2連敗と結果を出せなかった和田騎手が、翌2000年にかける思いは相当なものであった。

世紀末覇王の古馬王道制覇(2000年)

「もう一回も負けられない……」

その思いを感じていたのは和田騎手だけではなかった。2000年1月、最優秀4歳(しれっと受賞していた)の授賞式後の食事会で園から「今年は1回も負けてはいかん。全勝しろ!」という大号が下っていた。和田騎手のみならず、和田騎手を乗せるよう説得した岩元調教師以下厩舎スタッフにも、ほんのわずかな油断も許されない1年が始まった。

春、進撃開始

そして。上の気迫がオペラオーにも伝わったか、京都記念で先に仕掛けたナリタトップロード、後ろから差してきたラスカルスズカらライバルを競り落とす。

更に、阪神大賞典でも同じ展開でラスカルスズカ、ナリタトップロードら相手に楽勝の3身。あれ?なんだ?こんなに強いだったか?

そう思う間に天皇賞(春)もあっさり勝利。「関西といえば春天」という岩元調教師は大喜びだったそうだが、和田騎手は「GⅠ一つくらいじゃ乗せ続けてくれた恩返しにならない」と心から喜べなかったという。

宝塚記念グラスワンダーとの対決が注されたがグラスはレース中に折。最、他は相手にならず、ここも着差以上の強さで勝つ(2着メイショウドトウ)。は全勝。それでも競馬ファンは半信半疑だった。なお、メイショウドトウはこの時点では、ライバルどころか重賞の金鯱賞1勝の伏兵程度の扱いであったが、以後、GIの突を通してオペラオー最大のライバルされるようになる。

秋、ジンクスすらも粉砕

京都大賞典では同期ライバルナリタトップロードとの叩き合いを制して僅差圧勝

次は秋の天皇賞であったが、その秋の天皇賞にはあるジンクスがあった。1番人気必敗のジンクスである。秋の天皇賞において1番人気が勝ったのは1987年ニッポーテイオーにまで遡り、そこから、オグリキャップメジロマックイーントウカイテイオービワハヤヒデサクラローレルナリタブライアンサイレンススズカといった、当代最強と言えるたちが様々な理由で敗北していった。ニッポーテイオー以前は、シンボリルドルフですら敗北しており、1番人気勝利1984年ミスターシービー勝利以前では、更に1965年シンザンにまで遡らなければならなかった。

だが、この1番人気12連敗中のジンクスをオペラオーは牙にも掛けず秋の天皇賞を圧勝(2着メイショウドトウ)。先行して、切れる上に息の長い末脚を繰り出すレーススタイルは安定感抜群だった。この後、秋の天皇賞では1番人気勝利の方が多くなっていく。ついでに、オペラオーはこの勝利で史上初の中央要4競馬場GI制覇を達成している。

この辺で競馬ファンもようやくこのの強さを認めた。ジャパンカップでは堂々1.5倍の1番人気。次世代の代表達(二冠エアシャカール日本ダービーアグネスフライトNHKマイルカップイーグルカフェオークスシルクプリマドンナ)も相手にせず、直線だけの競馬で他のを蹴散らして人気に応えた(2着メイショウドトウ)。ジャパンカップも、サクラユタカオー以降1番人気が14連敗していたが、このジンクス全粉砕。JRA重賞連勝記録も7に更新する。

伝説の有馬記念、歌われる覇王の凱歌

そして年間敗記録が掛かった有馬記念帽子に7番のゼッケンスタート直後から群に包まれる苦しい展開。しかもスロー。そのままレースは進み、4コーナーへ。外にも出せず前にも行けず。レース後「騎手が出るほどかわいそうでした」と言った。直線を向いてもテイエムオペラオーの前にはが開けない。もう駄か!客席からは怒号すら飛び、中山競馬場が悲鳴で包まれた。次の間。

残り200を切った。テイエムは来ないのか?テイエムは来ないのか?

テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!テイエム来た!
テイエム来た!テイエム来た!抜け出すか!メイショウドトウと!

テイエムオペラオーが2度の切り替えで群のん中を縫うように突破。抜け切ったそこがゴール線。ハナ差、僅か20cm差の、奇跡勝利だった(2着メイショウドトウ)。

他のが弱いのなら、GⅠの舞台であんな絶望的なポジションから抜け出して勝った例はそれ以前も以降も例がいだろう。テイエムオペラオーはこの勝利2000年は年間のGⅠ5勝、重賞8連勝を達成。この年は20世紀最後の年。まさに「世紀末覇王」の名に相応しい成績であった。弱冠23歳だった和田騎手は「おかしくなるくらいのプレッシャーだった。あの年はオペラオーのことしか考えていなかった」と当時の心を明かしている。

また、この勝利によって、シンボリルドルフ以来4頭となる満票で年度代表及び最優秀4歳以上に選ばれた。季GI3競走による報奨1億円も獲得している。

猛将の逆襲、次々世代との対決、そして引退(2001年)

2001年の初戦となった産経大阪杯では、調整不足もあってか抜け出したところを後ろから交わされトーホウドリーム敗北。4着と久方ぶりの敗戦を喫した。

本番の天皇賞(春)では直線半ばで先頭に立ち、後続の猛追をしのいで意地の勝利(2着メイショウドトウ)。天皇賞が勝ち抜き制でなくなって以降、3勝はこのキタサンブラックのみ(1位入線ならばメジロマックイーンもだが)。

宝塚記念では4コーナー上が立ち上がる程の致命的な不利を受け、そこから猛然と追い込んだものの、今までと異なり先行に作戦を変えロス璧に立ち回ったメイショウドトウに、6度の対戦にして初めて先着を許す2着に敗れる。宝塚記念を制覇していたら海外遠征の予定だったのだがこの敗戦で幻と終わった。

になって京都大賞典ステイゴールドと追いべになって負け(ただしステイゴールド失格になったので優勝)。この時に以前のような切れがくなった事に気が付いた和田騎手め先頭の作戦を取るよう変更。

然し、それでもなお秋の天皇賞では外であったアグネスデジタルが差し切って勝利。外が出場可であった1956年以来となる外勝利を上げさせてしまう。天皇賞4勝はならず、またこれは1年半にもって中央競馬の中・長距離で上位を占めていたテイエムオペラオーとその世代の落日でもあった。ジャパンカップでも、ジャングルポケットに最後の最後で交わされて二着。もう、昨年見せていた僅差による圧勝はできなくなっていた。

引退レース有馬記念は如何にも疲れており、マンハッタンカフェ敗北。追走にも苦労して着順は5着。4着だった最大のライバルメイショウドトウと共に引退式を行いターフを去った。GⅠ勝利数はシンボリルドルフがかつて打ち立てた「7」に並ぶも遂に越えられずに終わった。

種牡馬時代

としては自身のを伝える事が出来ず現在も苦戦続きだが、それでも障害競走で活躍したテイエムトッパズレ、テイエムエースを出している。オペラハウス障害競走で活躍を出しており、この点だけは似通ったようだ。オペラオー自身は2018年5月心臓麻痺のため22歳で死亡三冠を分け合ったアドマイヤベガナリタトップロードはすでに世しており、彼らの後を追うこととなった。

評価

僅差圧勝ハナ差圧勝が至上命題

にもにも2000年の戦績は物凄く、この年の戦績だけで他の歴史的名ともり合えるのだが、レース振りが普通過ぎて見ているほうからすれば「こいつは凄い!」と思えるようなレースが最後の有馬記念しかなく、しかも有馬見て買い出したら翌年はろくに勝たなかった事でなんとなくどれくらい強かったのか良く分からない感じがするであった。後から思えば、展開や作戦馬場距離を問わず確実に結果を残していたとてつもないだったのだが。2004年には文句なしで顕彰馬になってるし。

2001年敗北が続いたが、戦績を通して2回以上先着を許したのがナリタトップロードメイショウドトウという同世代のしかおらず、その点では覇王の面を保ったまま引退したとはいえる。

肉体面について

2001年JRA競走馬総合研究所が1年をかけてオペラオーの強さを科学的に検証したことがあった。研究所でもバリバリのGⅠデータを取るのは初めてだったという。その結果、オペラオーは心臓の大きさが均の1.5倍、1回の拍動で送られる血液量は1.8倍という、大きく強い心臓が高い心肺機を生み出していること、上がった心拍数を元に戻す副交感神経の働きも均の2~3倍で、疲労によって体内にたまるの量は通常より20~30%少ない、疲れにくい体を持っていたことが判明した。研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久を持つであることが科学的に明された」とコメントしている。

オペラオー産駒ワダリュウジこと騎手、和田竜二について

普通競走馬は成績が向上するにつれて、より実績のある騎手に交替させていくものである。だが、岩元調教師の後押しもあって、テイエムオペラオーには若手であった和田竜二が最後まで乗り続けた。

当時名に近かった和田竜二騎手が乗り続けたことで、乗り方を色々批判された(代表的な批判の例として、シンボリルドルフを手がけた「競馬神様」野二元調教師はこの三冠を取れる器で古の連勝ももっと伸ばせていたと評している)。然し、実際には乗り方が悪くて負けたと思えるようなレースはそれほどく、特に2001年以降はに陰りが見え始めたオペラオーをよく導いている。和田騎手引退時に「オペラオーにたくさんのものをもらったが、あのには何も返せなかった。一流騎手になることでオペラオーに認められるようになりたい」と言った。

和田騎手は、オペラオーの引退後も何度かオペラオーに会いに行っているのだが、そのたびに嚙みつかれ追い返されていたらしい。

その後彼はコツコツと勝利を積み重ね、2012年ワンダアキュートでJBCクラシックを制覇しており、11年振りのG1Jpn1)勝利を収めている。2016年には区切りの1000勝も達成。そして2018年、テイエムオペラオーの死去直後に行われた宝塚記念ではミッキーロケットJRAG117年ぶりに獲得している。結果的には時代の最強競走馬と一流騎手という競馬史上に残る名コンビだったと言えるのではないだろうか。

獲得賞金について

テイエムオペラオーが長く保持し続けた世界最高獲得賞の記録だが、こちらは2017年米国アロゲートに破られ、日本記録としても2017年キタサンブラック2020年アーモンドアイに抜かれて史上3位となった。当時にべてGⅠの賞がずいぶん上積みされたし仕方ない。アロゲートなんてGⅠ2戦で14,5億円稼いでいるのである。しかし記録を抜かれても、テイエムオペラオーの偉大さが褪せることはない。年間8戦敗には2頭ともとうてい手が届かなかったし。

顕彰馬について

テイエムオペラオーが投票になったのは2003年なのだが、顕彰馬になったのは2004年である。今でこそ抹消から1年以上20年以内のが対とされているものの、2003年まではこの基準がなく、タケシバオーなどの昔のを推す古参記者がいたことが影しているとみられている。彼らが選出される理由も相応にあるのだが、流石に王道全勝を上げたテイエムオペラオーの落選に対しJRAへの抗議が殺到した。そういったこともあって、2004年から抹消後の年数の基準が設けられ、87.8の圧倒的な得票で顕彰馬となった(なお、2004年は特例で21年以上ので2票、1年以上20年以内で2票だった)。

戦績

日付 レース 格付け 開催競馬場 距離 m 天気 馬場 頭数 騎手 着順
1998/08/15 3歳新 京都 1600 12 和田竜二 2
1999/01/16 4歳未勝利 京都 1400 16 和田竜二 4
1999/02/06 4歳未勝利 京都 1800 10 和田竜二 1
1999/02/27 ゆきやなぎ 500万下 阪神 2000 14 和田竜二 1
1999/03/28 毎日 G3 中山 2000 14 和田竜二 1
1999/04/18 皐月 G1 東京 2000 17 和田竜二 1
1999/06/06 東京優駿 G1 東京 2400 18 和田竜二 3
1999/10/10 京都大賞典 G2 京都 2400 10 和田竜二 3
1999/11/07 菊花賞 G1 京都 3000 15 和田竜二 2
1999/12/04 ステイヤーズS G2 中山 3600 14 和田竜二 2
1999/12/26 有馬記念 G1 中山 2500 14 和田竜二 3
2000/02/20 京都記念 G2 京都 2200 11 和田竜二 1
2000/03/19 阪神大賞典 G2 阪神 3000 9 和田竜二 1
2000/04/30 天皇賞(春) G1 京都 3200 12 和田竜二 1
2000/06/25 宝塚記念 G1 阪神 2200 11 和田竜二 1
2000/10/08 京都大賞典 G2 京都 2400 12 和田竜二 1
2000/10/29 天皇賞(秋) G1 東京 2000 16 和田竜二 1
2000/11/26 ジャパンカップ G1 東京 2400 16 和田竜二 1
2000/12/24 有馬記念 G1 中山 2500 16 和田竜二 1
2001/04/01 産経大阪杯 G2 阪神 2000 14 和田竜二 4
2001/04/29 天皇賞(春) G1 京都 3200 12 和田竜二 1
2001/06/24 宝塚記念 G1 阪神 2200 12 和田竜二 2
2001/10/07 京都大賞典 G2 京都 2400 7 和田竜二 1
2001/10/28 天皇賞(秋) G1 東京 2000 13 和田竜二 2
2001/11/25 ジャパンカップ G1 東京 2400 15 和田竜二 2
2001/12/23 有馬記念 G1 東京 2500 13 和田竜二 5
  • 26戦14勝
  • G1 14戦7勝

その他

血統表

*オペラハウス
1988 鹿
Sadler's Wells
1981 鹿
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Fairy Bridge Bold Reason
Special
Colorspin
1983 鹿
High Top Derring-Do
Camenae
Reprocolor Jimmy Reppin
Blue Queen
*ワンスウエド
1984 
FNo.4-m
Blushing Groom
1974 
Red God Nasrullah
Spring Run
Runaway Bride Wild Risk
Aimee
Noura
1978 鹿
Key to the Kingdom Bold Ruler
Key Bridge
River Guide Drone
Blue Canoe

クロスNasrullah 4×5、Nearco 5×5

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最終更新:2021/05/11(火) 08:00

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