テイエムオペラオー
勝ち続けると、すべての馬が敵になる。
その馬は、完全に包囲された。
道は消えたはずだった。
テイエムオペラオー、お前はなぜ走れたのか。『年間全勝のレジェンド』
テイエムオペラオー(英語表記: T.M. Opera O、香港表記: 好歌劇)とは、1996年生まれの日本の競走馬。GⅠ7勝。長く世界最高獲得賞金記録を保持し、「世紀末覇王」と呼ばれた。北斗の拳は関係無い。あっちは世紀末覇者だ。
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については 「テイエムオペラオー(ウマ娘)」を参照して下さい。 |
父オペラハウス 母ワンスウエド。杵臼牧場(浦河)で生まれる。
4歳時(当時表記)では皐月賞を制覇し、1999年JRA賞最優秀4歳牡馬(当時表記)に選ばれている。この時点ではG11勝馬に過ぎなかったが、世紀末である2000年には主要な古馬王道(中央競馬の中~長距離芝GI競走)を全て制覇したことで、歴史的名馬へと駆け上がる。その業績と馬名、活躍した時期から後に世紀末覇王と呼ばれた。
2001年には、衰えと次世代の伸長もあって年末の有馬記念で引退。GI勝利はシンボリルドルフに並ぶも遂に越えられなかったが、獲得賞金額では当時の世界最高額18億3518万9000円を記録した。
父オペラハウス 母ワンスウエド 母父ブラッシンググルームという血統。
父オペラハウスは英国産馬でキングジョージなどGⅠ3勝。父が欧州の大種牡馬サドラーズウェルズなのだが、サドラーズウェルズの血統はぶっちゃけ当時は日本でほとんど成績が残せておらず、産駒デビュー前のオペラハウスもあまり期待されていなかった。
母は不出走で重賞2着馬を出していた程度。いちおう母父ブラッシンググルームはフランスで短距離~マイルでGI5勝を挙げた快速馬ではあった。
※以後、当記事では馬齢を、2000年までは旧表記、2001年以降は現表記で記述します。※
1996年3月13日生まれ。生産者の杵臼牧場(浦河)は、繁殖牝馬20頭足らずの小さな牧場だった。
当時、日本軽種馬協会の種牡馬であるオペラハウスの産駒の牡馬はセリ市に出す義務があったが、オペラハウスは上述の通りで、その産駒を高く評価しろというのも無理な話であった。しかし、ここでその馬体がテイエム軍団の総帥・竹園正繼の目に止まる。曰く「光り輝いて見えた」とか。竹園オーナーは1997年の10月に静内で行われたセリ市で、同馬をスタート価格の1000万円で落札した。
テイエムオペラオーの配合は、血統背景から母の産駒がことごとく短距離馬だったので「安くてスタミナのある牡馬をつけたい」という牧場の方針によるものだったという。更に余談だが、竹園オーナーはオペラオーの活躍の後、この時のオペラオーを理想の当歳の馬体としてそれに近い馬を値段にかかわらず購入するという方針を定めているそうである。テイエムプリキュアも言ってみればオペラオーのおかげなんである。
冠名「テイエム」・父から「オペラ」・サラブレッドの王になるようにと「オー」。テイエムオペラオーと名付けられた馬は、竹園オーナーの昔馴染みでもある岩元市三調教師(栗東)に預けられた。岩元師の第一印象は「普通の馬」だったというが、調教で抜群のタイムを出したことでデビュー前から早くも評判になった。併せ馬ではすでに勝ち上がっていた後の重賞馬ユーセイシュタインを1.6秒差とちぎり捨てる走りっぷりを見せる。
1998年8月15日、新馬戦は1.5倍の断然一番人気。だが、オペラオーはレース中に左後肢の飛節を骨折し、6馬身差の2着に敗れる。症状は軽かったが競走馬にとって重要な飛節を故障したことで治療に専念せざるを得ず、2歳シーズンを棒に振ることが確定。陣営は春のGⅠには間に合わないと判断し、クラシックの第2回登録(3万円)を見送ってしまった。
この新馬戦においてオペラオーの手綱を取ったのは、岩元厩舎所属・デビュー三年目の「競馬学校花の十二期生」が一人・和田竜二であった。初年度から同期の福永祐一に次ぐ勝数を上げ、12期生で重賞勝利一番乗り(しかも長距離のステイヤーズステークス)を達成した若手のホープである。和田騎手は以後3年間に渡る、オペラオーの全レースを担当することになる。
年が明け、1月にダート未勝利戦で再始動(4着だった)。2月にここを快勝すると、芝に戻ったゆきやなぎ賞(500万下)も勝利。重賞初挑戦となる皐月賞前の「東上最終便」毎日杯も、2着タガノブライアンに4馬身差で圧勝した。まさかの急成長で皐月賞が視野に入ってきたわけだが、竹園オーナーは「ダービー一本」と考えており、皐月賞出走には消極的だった。岩元師は「追加登録料を僕が立て替えてもいい」とまで言ってオーナーを説得し、追加登録料(200万円)を支払い皐月賞への参戦を決めた。
皐月賞はアドマイヤベガとナリタトップロードの2強対決というのが大方の予想で、オペラオーは11.1倍の5番人気。岩元師は前々での競馬を考えており、後方待機策を取った和田騎手とオペラオーをみて敗戦を覚悟した。しかし、和田騎手は当日の中山競馬場の馬場から外差しが決まりやすいと読んでいた。その読みは当たり、オペラオーは直線坂を上った辺りからワープするみたいな脚で差し切ってGI初制覇。「あいつ、ほんとにサドラーズウェルズ系か?」という末脚だった。
この勝利は史上初の「追加登録馬のクラシック競走制覇」となり、和田騎手と杵臼牧場にとってのGI初制覇でもあったが、和田騎手はレース後に岩元師から「馬の負担を考えろ」と叱責されたという。
続く日本ダービーでは、皐月賞の勝利がフロック視されたのか、2強に続く3番人気であった。本番では和田騎手の若さが出たのか、早仕掛けをトップロードに交わされ、さらにそのトップロードを交わしたアドマイヤベガの3着に敗れる。テイエムの和田、ナリタの渡辺薫彦という若手達が、天才・武豊に打ちのめされた。
秋シーズンの初戦にして古馬戦線への初挑戦となる京都大賞典では、スペシャルウィークをマークして進むも、当のスぺの仕上げがいまいちだったため、結果的に仕掛け遅れてツルマルツヨシの3着に敗れる。とはいえ初の古馬挑戦でこの結果は悪くない。
いざ菊花賞! ……と出走したのだが、今度は(やはり不調だった)アドマイヤベガをマークして仕掛け遅れる痛恨のミスを犯し、ナリタトップロードに届かず2着。和田騎手はこの敗戦を後々まで引きずり続けることになる。
同じような負け方を繰り返した和田騎手に、竹園オーナーはとうとう愛想をつかし、オペラオーの勝利のため「騎手を代えろ」と岩元氏に要請する。しかし岩元師にも、愛弟子をどうしても一人前に育てたいという願いがあった。師自身、師匠の布施正調教師に乗せ続けてもらい、遂にはバンブーアトラスと共にダービージョッキーとなった過去があったのである。岩元師は乗り代わりだけは勘弁してほしいと食い下がり、終いには「どうしても乗り替わりというなら転厩してもらうしかない」とまで宣言した。これには竹園オーナーも遂に折れ、和田騎手の続投を渋々了承した。
岩元師はなんとか弟子に勝ち星をあげさせてやろうと、菊花賞の次戦にステイヤーズSを選択するが、まさかのペインテドブラックの2着。急遽、出走予定のなかった有馬記念へ強行軍を決行するが、死闘を繰り広げるグラスワンダーとスペシャルウィークにはまたも僅かに届かぬ3着だった。とはいえ、ステイヤーズS経由で出走した4歳馬がグラスとスぺにタイム差なしのクビ差まで迫ったことはものすごいことであり、ファンからはこれからの成長が大いに期待された。
ただ彼だけが
勝ち続ける。絶対に負けない。
それがどれほど困難なことか
ただ彼だけが知る。重圧に耐え 剣戟を潜り抜け 包囲網を打ち砕いた
その先にある未踏の地をただ彼だけが知る。
2000年1月、最優秀4歳牡馬(しれっと受賞していた)授賞式後の食事会で、竹園オーナーは「今年は1回も負けてはいかん。全勝しろ!」という大号令を下した。和田騎手のみならず、彼を乗せるよう説得した岩元調教師以下厩舎スタッフにも、ほんのわずかな油断も許されない1年が始まろうとしていた。
そして2月。鞍上の気迫がオペラオーにも伝わったか、京都記念でナリタトップロード、ステイゴールドらを競り落として久々の勝利を挙げる。竹園オーナーは少し嬉しくなったのか、久しぶり(菊花賞以来)に和田騎手と言葉を交わしたという。……が、その内容は「今年はもう負けるなよ。全部勝てよ」という切なる願いの吐露であり、和田騎手は“もう負けられへん。負けたら終わりや”と覚悟を決めることに。
一か月後。天皇賞(春)の前哨戦・阪神大賞典では、ラスカルスズカ、トップロードら菊花賞の1着馬と3着馬を相手に2馬身半差で楽勝。あれ……なんだ? こんなに強い馬だったか……?と競馬ファンがそう思う間に、本番の春天もあっさり勝利。
1~3着は前走と全く同じテイエム・スズカ・ナリタの3強で決着。上がりの1000m58.1秒は春天史上最速、4Fの46.1秒も最速、ラスト2ハロン目で観測された11.2秒のラップも最速と、とにかく最速だらけの天皇賞(春)だった。「関西といえば春天」という岩元調教師は大喜びだったそうだが、和田騎手は「GⅠ一つくらいじゃ乗せ続けてくれた恩返しにならない」と心から喜べなかったという。
宝塚記念はグラスワンダーとの再戦が注目されたが、グラスはレース中に骨折。最早、他は相手にならず、ここも着差以上の強さで勝つ(2着メイショウドトウ)。なお、この時点でのメイショウドトウは重賞勝ちがG2金鯱賞とG3中京記念の2勝だけという伏兵扱いであったが、以後、GIの激突を通してオペラオー最大のライバルと目されるようになる。
宝塚記念を勝ったあと、2000年のJRAヒーロー列伝のポスターがお披露目された(2000年8月)。ちなみにこの年選ばれたもう1頭は、当時GⅠ未勝利だったステイゴールド。共にGⅠ戦線を走っていたナリタトップロード
は2002年に、これからライバルとなるメイショウドトウ
はちょうど1年後の2001年に選ばれることになる。近年はGⅠ3勝が選ばれる基準と言われており、もしこの時にその基準があったら他の3頭は選ばれなかったかもしれない。
王者の賛歌。
衝撃のGⅠデビュー。その後の好敵手たちとの熱い勝負。
正攻法で、しかも堂々と戦いあうことで、
風格と威厳を身に着けてきたテイエムオペラオー。
完璧な勝利を重ね、歴史が認める英雄へ――
王者を讃える歌が、力強く、声高らかに聴こえてくる。
春は全勝。それでも大一番のG1では勝ち方に派手さがなく、負かした相手に目立った古馬が少ないこともあり、競馬ファンは半信半疑だった。とはいえ馬券人気は常に(そしてこの後も)圧倒的一番人気であったことからもわかるように、馬券師からすれば手堅く有難い存在であったのだが。
秋初戦、京都大賞典ではナリタトップロードを相手にムチすら使わず僅差圧勝。重賞5連勝で迎えた次の天皇賞(秋)でもオペラオーは当然のように1番人気に支持されたが、ここでの単勝倍率は2.4倍という年内では最も高い倍率となった。その要因としては、鞍上の和田騎手が秋天の舞台となる東京コースで一度も勝ったことが無いという経験不足への不安もあっただろうが、それ以上に秋天に「あるジンクス」があったからだろう。それは「1番人気必敗」のジンクスである。
秋天においては65年のシンザン以降、1番人気の馬が19連敗していた。84年にはミスターシービーが勝利を収めるも、翌85年にはシンボリルドルフでさえ「あっと驚くギャロップダイナ!」に黒星を喫し、更に87年ニッポーテイオーが勝って以降も、オグリキャップ、メジロマックイーン、トウカイテイオー、ライスシャワー、ビワハヤヒデ、ナリタブライアン、サクラローレル、バブルガムフェロー、サイレンススズカといった当代最強と言える馬たちが故障[1]や失格といった様々な理由で敗北していった。出走前、フジテレビの塩原アナはこう語った。
今世紀中に止めておかなければならない、不名誉な記録があります。
来るべき未来に繋いでおかなければならない、夢の開放があります。
第122回天皇賞秋。それぞれが乗り越えたい壁に向かって、2000mのスタート待つ16頭。
この1番人気12連敗中のジンクスを、オペラオーは歯牙にも掛けず快勝する(2着メイショウドトウ)。先行して、切れる上に息の長い末脚を繰り出すレーススタイルは安定感抜群だった。そしてオペラオーはこの勝利で史上初の中央主要4競馬場GI制覇を達成。なお、この後の秋天では1番人気は馬券に絡むことの方が多くなっていく。
この辺で競馬ファンもようやくこの馬の強さを認めた。ジャパンカップも1番人気はサクラユタカオー以降14連敗していたのだが、ここでは前走とうってかわってジャパンカップの単勝支持率レコードとなる50.5%の支持がテイエムオペラオーに集まった。レースでは次世代の代表馬達(二冠馬エアシャカール、日本ダービー馬アグネスフライト、NHKマイルカップ馬イーグルカフェ、オークス馬シルクプリマドンナ)も相手にせず、直線だけの競馬で後の世界王者ファンタスティックライトを蹴散らし、人気に応えてジンクスを完全粉砕した(2着メイショウドトウ)。この勝利で獲得賞金額はスペシャルウィークを抜いて日本競馬史上最高の12億円に達し、JRA重賞連勝記録も7に更新する。
年間無敗記録が掛かった有馬記念では、青い帽子に7番のゼッケンが与えられた。しかし当日の朝、近くの馬が暴れ出したのに驚いたオペラオーは壁に顔面を強打してしまう。オペラオーは鼻血を出し、顔は腫れあがり、左目は殆ど見えない状態になってしまった。
レースでは、逃げ馬ホットシークレットが出遅れた影響もあり、スタート直後からオペラオーは激しいマークを受ける。前は完全に塞がり、外に出そうにもアドマイヤボス鞍上の武豊が天才的な騎乗で左サイドをブロックしていた。あえて減速して外に出ようとしても、周囲はぴったりとペースを合わせてそれを許さない。その「包囲網」ぶりたるや、一週目のホームストレッチ前に入ってきた時点で一部の観客から怒号が飛び、1コーナー過ぎで各馬のポジションが明らかになるとスタンド全体がどよめくほどであった。中盤から和田騎手が必死に手綱をしごいて前に行くよう促すもオペラオーは動くに動けず、馬群後方に包まれたまま短さに定評のある中山の最終直線へ。堺アナウンサーは「テイエムはどうする!? 残り310メートルしかありません!」と絶望感たっぷりの実況を飛ばし、スタンドからは悲鳴が上がる。もう駄目か……!?
残り200を切った、テイエムは来ないのか?テイエムは来ないのか?
テイエム来たッ!テイエム来たッ!テイエム来たッ!テイエム来たッ!
テイエム来たッ!テイエム来たッ! 抜け出すか!? メイショウドトウと!
テイエム!テイエムッ! テイエムかー!テイエムかー!僅かにテイエムかー!?
各馬がラストスパートに入り、馬群が僅かに開けた。首を必死に振りながら隙間を探していたオペラオーはそれを見逃さず、2度の切り替えで真ん中を縫うように突入。抜けきったその瞬間がゴール線。ハナ差、僅か20cm差の、奇跡の勝利だった(2着メイショウドトウ)。
他の馬が弱いのなら兎も角、レース前に負傷し、GⅠの舞台であんな絶望的なポジションから抜け出して勝った例はそうそうない。「ミスター有馬記念」こと堺アナは入線後に感極まって絶句し、謎の呻き声(ウッ)をあげた。ちなみに本競走は「社台包囲網」と揶揄されることも多いが、社台グループの馬は2頭しか出てない。色々やっかまれることが多い社台だが、根拠のない煽り・陰謀論はダメゼッタイ……。
和田騎手はレース後、オペラオーの脚が包囲された時に負ったであろう生傷だらけであることに気づき、涙した。その涙は最後まで勝負を諦めなかったオペラオーへの感謝と、反面オペラオーを最後まで信じられなかった自身に対しての情けなさだったという。実は和田騎手自身、レース終盤には「もうオペラオーの背に(何もせずに)しがみつく事しかできない」と勝負を諦めていた。勝利インタビューでも、和田騎手の笑みは最後までぎこちないままであった。竹園オーナーは「馬も騎手も涙が出るほどかわいそうでした」と語っている。和田騎手といえばレースの最後まで鞭を入れて追いまくる闘志あふれる騎乗スタイルが身上だが、それも最後まで諦めず馬を信じるというオペラオーからの教えを守り続けているのだ。
この勝利でテイエムオペラオーは2000年の競馬を年間無敗(重賞8連勝・内GⅠ5勝。春秋天皇賞・2大グランプリ・JCの古馬王道路線制覇)で完走。メイヂヒカリ、テンポイント、シンボリルドルフに続く史上4頭目となる満票で年度代表馬(および最優秀4歳以上牡馬)に選ばれ、秋季GI3競走による報奨金1億円も獲得している。この年は20世紀最後の年、まさに「世紀末覇王」の名に相応しい成績であった。弱冠23歳だった和田騎手は「おかしくなるくらいのプレッシャーだった。あの年はオペラオーのことしか考えていなかった」と当時の心境を明かしている。
翌2001年の初戦となったのは産経大阪杯。しかし放牧先が豪雪に見舞われ、ろくに調整が行えなかったこともあって、抜け出したところを後ろから交わされ、トーホウドリームの4着。久方ぶりの敗戦を喫した。
2001年4月1日、テイエムオペラオー破れています……。
エイプリルフールではありません、本当に、オペラオーが負けました!
本番の天皇賞(春)では直線半ばで先頭に立ち、後続の猛追をしのいで意地の勝利(2着メイショウドトウ)。天皇賞が勝ち抜き制でなくなって以降、3勝を達成したのはオペラオーが初めてのことであった[2]。
宝塚記念では前年の有馬記念もかくやの徹底マークに合い、4コーナーで鞍上が立ち上がる程の致命的な不利を受ける。そこから猛然と追い込んだものの、先行策をとりロス無く完璧に立ち回ったメイショウドトウに6度目の対戦にして初めて先着を許す2着に敗れる(むしろよく2着まで迫れたものである)。宝塚記念を制覇していたら海外遠征も検討される予定だったが、この結果に加えて、陣営に海外遠征のノウハウや伝手がなかったこともあり、お流れとなった。
秋初戦・京都大賞典では先に抜け出したステイゴールドを捕まえきれなかったものの、ステイゴールドがナリタトップロード落馬の加害馬と判定されて失格になったので繰り上げ優勝する。この時、以前のような切れが無くなった事に気が付いた和田騎手は早め先頭の作戦を取るよう変更する。ステゴ鞍上の後藤浩輝は産經大阪杯と宝塚記念でオペラオーを執拗にマークし、今回は馬を制御できず突っ込んできたため、ブチ切れた竹園オーナーに検量室前で締め上げられた。
然し、それでもなお秋の天皇賞では外国産馬・アグネスデジタルに差し切られ2着に敗れる。天皇賞4勝はならず。また、これはかつて外国産馬が出場可能であった1956年のミツドフアーム以来となる外国産馬の勝利となり、そして1年半にも亘って中央競馬の中~長距離で上位を占めていたテイエムオペラオーとその世代の落日でもあった。
ジャパンカップでは珍しく早め先頭の競馬をするも、ジャングルポケットに最後の最後で交わされて2着。引退レースの有馬記念は如何にも疲れており、優勝したマンハッタンカフェの追走にも苦労して5着。4着だった最大のライバル・メイショウドトウと共に引退式を行いターフを去った。
社台グループとの交渉(社台スタリオンステーション入り)が決裂し、竹園オーナーの個人所有として種牡馬生活に入る。「生産者に公平に血を提供したい」というオーナーの理想もむなしく、やはり集まる牝馬の質はそれほど高いものではなかった。まぁ、血統背景を鑑みると相当強気の価格設定だったのでそりゃそうなるとしか……。
結果、なかなか自身の能力を伝える事が出来ず苦戦続きだったが、それでも障害競走で活躍したテイエムトッパズレ、テイエムエースを出している。父のオペラハウスも障害競走で活躍馬を出しており、この点だけは似通ったようだ。
繋養中、心無い見学者に石を投げられたり、たてがみを抜かれたりするという憂き目にあったため、いくつかの牧場を移動した後、関係者以外には所在地を秘匿されることになった。タイキシャトルの件といい、いつの世も悪質な人間は存在するものである。
オペラオー自身は2018年5月に心臓麻痺のため22歳で死亡。三冠を分け合ったアドマイヤベガ、ナリタトップロードはすでに早世しており、彼らの後を追うこととなった。
凄まじいまでの末脚と追い込み、競り合いになったときの先頭を譲らない粘り強さは群を抜いている。さらにレース展開や作戦、馬場、距離も問わず、掲示板を外したことは生涯一度もない。00年JCで対決したファンタスティックライトの鞍上ランフランコ・デットーリは「Crazy strong!」と大絶賛し、翌年には「当時のあの2頭(オペ&ドトウ)に勝つとなると、サキーかガリレオ級の馬でもないと」と語った。その他競馬関係者からもその強さを評価する声は多い。
オペラオーの強さが分からない人は、競馬をあきらめて競艇や競輪をやった方が良い。一緒に走らせたくはないけど、私はあの馬のファンですよ。非の打ち所のない名馬です
―藤沢和雄(調教師・00年前後はマチカネキンノホシ等を担当)
テイエムオペラオーはすでに別格の存在です。パーフェクトの一言。どんな展開、馬場にも対応できる
その一方で、一度先頭に立つとソラを使いがち(手を抜きがち)になるため、強さのわりに着差がない勝負も多い。特に01年秋天ではアグネスデジタル陣営にまさにそこを突かれ、大外に持ち出したデジタルを見落として失速したのが命取りとなった。そこから生まれたのが僅差圧勝、ハナ差圧勝とか言う言葉。
負かせそうな気がするんだけど、負かせなかったね。本当に強かったあの馬は
テイエムとは二度と競馬をしたくない
競走能力への評価は別にして、現役当時はファン人気はそれほど高くなかった。アイドルというには何かが足りない存在だったのだろう。口さがない人たちからは「ラキ珍(ラッキー珍馬=運だけで勝った珍しいウマ)」とかいうどう聞いても負け惜しみな蔑称までつけられていた。
ナリタトップロードのジョッキーといっしょに、あるイベントに出た時、ファンの人に聞いてみたことがあるんですよ。成績は自分の馬の方がいいのに、応援の声は、同じか、下手をするとナリタトップロードのほうが上の時もある。どうして僕の馬は、人気がないんでしょうって
ナリタトップロードの人気と比較している当時の和田騎手の疑問への回答となるかは分からないが、オペラオーのファン人気が高くなかった理由としては以下のような事情が考えられる。
テイエム今年、8戦全勝! 素晴らしい記録を樹立しました! あのシンザン、ブライアン、ルドルフでさえねぇ、「年間の全勝」というのは出来なかったわけなんですからねぇ
堺アナが興奮して(ウッ)実況したように、兎にも角にも2000年の戦績が物凄く、この年の戦績だけで他の歴史的名馬とも張り合えると言っても過言ではない。99年と01年こそ勝ち切れないレースも多かったが、それでもGIを2勝しており、馬券に絡むことができなかったレースも4着2回に5着1回と一度として掲示板を外さなかった。戦績を通して2度の先着を許した相手もナリタトップロードとメイショウドトウという同世代馬2頭しかおらず、その点では覇王の面目を保ったまま引退したといえよう。
オペラオー引退から20余年が経つが、古馬王道完全制覇の達成馬はオペラオーの他には現れていない。秋古馬三冠ですらゼンノロブロイだけである。海外挑戦もあったとはいえディープインパクトですら成し得てはおらず、中~長距離のGIが6戦に増えて以降のキタサンブラックでも年間GI4勝に留まった。たとえ年間無敗にこだわらなくとも、古馬王道GIを年間5勝するという目標自体が至難すぎるのである。
また、古馬王道の全勝ではなく全連対(全競走2着以上)にまで条件を緩めてみても、達成馬はタマモクロスとスペシャルウィーク、年を跨いでのメイショウドトウのみ。ドトウはもっと評価されるべき。着順すら気にせず天皇賞・2大グランプリ・ジャパンカップ全てに皆勤しただけという競走馬ですら稀少であり、2年以上皆勤した競走馬ともなると、このテイエムオペラオーとステイゴールドただ2頭しかいない(ドトウは00春天は出走せず)。出走レースを絞ることが多い昨今、その過酷なローテーションをこなして結果を出し続けたことも評価されている。
ゴール目前、
目の前に立ちふさかるライバルたちの群れ。
そのわずかな隙間を異次元の末脚で抜け出した。
ハナ差で掴み取った年間無敗という奇跡。
この伝説にたどりつく馬は、いまだ現れない。
この広告が出された年には、オジュウチョウサンがオペラオーのJRA最多重賞連勝記録を18年ぶりに更新した。更に2年後には、アーモンドアイがGⅠ「7勝」の壁を遂に破り、新たな伝説を築く。しかし年間全勝・古馬王道完全制覇という、ただオペラオーのみが知る奇跡の地にたどり着いた者は、いまだに現れていない。果たして彼に並ぶヒーローは、今世紀中に登場するのであろうか?
2001年、JRAの競走馬総合研究所が1年をかけてオペラオーの強さを科学的に検証したことがあった。研究所でもバリバリのGⅠ馬のデータを取るのは初めてだったという。その結果、オペラオーは心臓の大きさが平均の1.5倍、1回の拍動で送られる血液量は1.8倍という、大きく強い心臓が高い心肺機能を生み出していることが分かった。また、心拍数も標準的なサラブレッドの36~40回/分に対してオペラオーは25回/分、上がった心拍数を元に戻す副交感神経の働きも平均の2~3倍で、疲労によって体内にたまる乳酸の量は通常より20~30%少ない、疲れにくい体を持っていたことも判明した。研究所は「テイエムオペラオーは傑出した持久力を持つ馬であることが科学的に証明された」とコメントしている。
賀張共同育成センターの槇本一雄センター長によれば、オペラオーは歯の生え替わりの時期が遅かったという。サラブレッドの多くは2歳から4歳にかけて体の成長にあわせて歯の一部[3]が乳歯から永久歯へと生え替わっていくが、オペラオーはダービーが終わった4歳夏の時点で歯の生え替わりが始まっていなかった。これは一般には「奥手(晩成)」とされる馬に見られる傾向だという。
先述した通り、競走馬は成績が向上するにつれて、より実績のある騎手を呼んで交替させていくものである。だが、岩元調教師の後押しもあって、テイエムオペラオーには和田竜二が最後まで乗り続けた。まだ若かった和田騎手は、オペラオーの勝利後にアントニオ猪木の真似をしてスタンドを煽っていたが、先述したオペラオー人気の低さを気にしてのパフォーマンスでもあったという。
オペラオーにはたくさん勝たせてもらいましたが、満足かと問われれば、まったく満足はしていません。
ただ、自分自身、あの時点(=オペ引退時)でもう限界だったのかもしれないなと。正直、疲れました。今思うと、あの頃の自分は気を張り過ぎて、競馬以外の時間は廃人のようでしたから。
当時無名に近かった和田騎手が乗り続けたことで、色々な批判があったことも事実である。代表的な批判の例として、シンボリルドルフを手がけた「ミスター競馬」野平祐二元調教師は「オペラオーは三冠を取れる器で古馬の連勝ももっと伸ばせていた」と評している。和田騎手の元にも批判の投書が多数届き、引退レースの翌日に騎乗しに行った名古屋競馬場でも物凄い野次を浴びたという。
しかし、実際には乗り方が悪くて負けたと思えるようなレースは初期を除けばそれほど無い。特に2001年の秋以降は能力に陰りが見え始めたオペラオーをよく導いている。結果的には時代の最強の競走馬と(後の)一流騎手という競馬史上に残る名コンビだったと言えるのではないだろうか。
和田騎手はオペラオーの引退時に「オペラオーにたくさんのものをもらったが、あの馬には何も返せなかった。一流騎手になることでオペラオーに認められるようになりたい」と語った。その後に何度かオペラオーには会いに行ったそうだが、そのたびに嚙みつかれ追い返されたらしい。
以後、和田騎手はコツコツと勝利を積み重ね、堅実に入着を拾う仕事人として成長。2012年にはワンダーアキュートでJBCクラシックを制覇し、11年振りのG1(Jpn1)勝利を収めている。2016年には区切りの1000勝も達成。そして2018年、テイエムオペラオーの死去一月後に行われた宝塚記念ではミッキーロケットでJRAのG1を17年ぶりに獲得している。なお、この時はメイショウドトウに敗れた2001年宝塚記念と同じ4番出走で、かつドトウのタイムを0.1秒上回っていた。和田騎手自身、勝利後のインタビューで「オペラオーが後押ししてくれた」と語っていたが、果たして…
オペラオーと和田騎手の深い絆は競馬ファンにはとりわけ人気の高い題材であり、新たに競馬史に触れたファンからも「オペラオー調べてたら和田ファンになってた」という声がちらほら上がるほど。おかげで「テイエムオペラオー産駒ワダリュージ」だの「リュージと離れたくないから古馬王道を蹂躙した覇王」だの「ウマ娘のオペラオーは馬の擬人化ではなく和田の美少女化」だの、様々なネタでいじられ続けている。「和田は覇王お気に入りのリュックサック」「武や岡部の代わりに当時の和田をディープやルドルフに載せて7冠達成できんの?=覇王最強」という関係者各位に大変失礼な極論は最強馬論争の禁じ手である。
オペラオーの生涯獲得賞金額18億3518万9000円は当時の世界最高記録だった。テイエムオペラオーが保持していた世界最高獲得賞金記録は、世界的な賞金額の上積み傾向もあり、2017年に米国のアロゲート[4]に破られ、日本記録としても2017年にキタサンブラック、2020年にアーモンドアイに抜かれて史上3位となった。
なお、この総額計算は秋古馬三冠達成によるボーナス1億円(内国産馬は2億円)を含まないものなので、それを込みにすると今なお僅差ながらオペラオーが日本記録トップである。この三冠ボーナス制度が導入された年がちょうど2000年だったのが、運が良かったというべきか……。
単年の獲得賞金額に関しては、三冠ボーナスを含めずとも、2位のアドマイヤムーンに2億円近く大差をつけて1位を保持している。
因みに最大のライバル、メイショウドトウも500万円の安値で買われたものの9億2千万円稼いでおり、結果的に両馬とも馬主に購入時の184倍もの賞金を齎したことになる。
テイエムオペラオーは日本中央競馬会における26頭目の顕彰馬である。テイエムオペラオーが投票対象になったのは2003年なのだが、顕彰馬になったのは2004年である。今でこそ抹消から1年以上20年以内の馬が投票対象とされているものの、2003年まではこの基準がなく、タケシバオーなどの昔の馬を推す古参記者がいたことが影響しているとみられている。彼らが選出される理由も相応にあるのだが、流石に古馬王道全勝を成し遂げたテイエムオペラオーの落選に対しはJRAへの抗議が殺到した。オペラオーに対し否定的な競馬ファンからも「オペラオー程の成績で顕彰馬となり得ないのであれば、今後一体どのような馬が顕彰馬たりうるのか」というような意見があったそうな。
そういったこともあって、2004年から抹消後の年数の基準が設けられ、87.8%の圧倒的な得票で顕彰馬となった(なお、2004年は特例で21年以上の馬で2票、1年以上20年以内で2票だった)。
日付 | レース名 | 格付け | 開催競馬場 | 距離 m | 天気 | 馬場 | 頭数 | 騎手 | 人気 | 着順 | |
1 | 1998/08/15 | 3歳新馬 | 京都 | 芝1600 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 | |
2 | 1999/01/16 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 2 | 4 | |
3 | 1999/02/06 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1800 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 1 | 1 | |
4 | 1999/02/27 | ゆきやなぎ賞 | 500万下 | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 稍 | 14 | 和田竜二 | 2 | 1 |
5 | 1999/03/28 | 毎日杯 | G3 | 中山 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 3 | 1 |
6 | 1999/04/18 | 皐月杯 | G1 | 東京 | 芝2000 | 雨 | 良 | 17 | 和田竜二 | 5 | 1 |
7 | 1999/06/06 | 東京優駿 | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 18 | 和田竜二 | 3 | 3 |
8 | 1999/10/10 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 10 | 和田竜二 | 3 | 3 |
9 | 1999/11/07 | 菊花賞 | G1 | 京都 | 芝3000 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 2 | 2 |
10 | 1999/12/04 | ステイヤーズS | G2 | 中山 | 芝3600 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 2 |
11 | 1999/12/26 | 有馬記念 | G1 | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 14 | 和田竜二 | 5 | 3 |
12 | 2000/02/20 | 京都記念 | G2 | 京都 | 芝2200 | 晴 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
13 | 2000/03/19 | 阪神大賞典 | G2 | 阪神 | 芝3000 | 雨 | 稍 | 9 | 和田竜二 | 1 | 1 |
14 | 2000/04/30 | 天皇賞(春) | G1 | 京都 | 芝3200 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
15 | 2000/06/25 | 宝塚記念 | G1 | 阪神 | 芝2200 | 雨 | 良 | 11 | 和田竜二 | 1 | 1 |
16 | 2000/10/08 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 曇 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
17 | 2000/10/29 | 天皇賞(秋) | G1 | 東京 | 芝2000 | 曇 | 重 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
18 | 2000/11/26 | ジャパンカップ | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
19 | 2000/12/24 | 有馬記念 | G1 | 中山 | 芝2500 | 晴 | 良 | 16 | 和田竜二 | 1 | 1 |
20 | 2001/04/01 | 産経大阪杯 | G2 | 阪神 | 芝2000 | 曇 | 良 | 14 | 和田竜二 | 1 | 4 |
21 | 2001/04/29 | 天皇賞(春) | G1 | 京都 | 芝3200 | 雨 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 1 |
22 | 2001/06/24 | 宝塚記念 | G1 | 阪神 | 芝2200 | 晴 | 良 | 12 | 和田竜二 | 1 | 2 |
23 | 2001/10/07 | 京都大賞典 | G2 | 京都 | 芝2400 | 晴 | 良 | 7 | 和田竜二 | 1 | 1 |
24 | 2001/10/28 | 天皇賞(秋) | G1 | 東京 | 芝2000 | 雨 | 重 | 13 | 和田竜二 | 1 | 2 |
25 | 2001/11/25 | ジャパンカップ | G1 | 東京 | 芝2400 | 晴 | 良 | 15 | 和田竜二 | 1 | 2 |
26 | 2001/12/23 | 有馬記念 | G1 | 東京 | 芝2500 | 晴 | 良 | 13 | 和田竜二 | 1 | 5 |
*オペラハウス 1988 鹿毛 |
Sadler's Wells 1981 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Fairy Bridge | Bold Reason | ||
Special | |||
Colorspin 1983 鹿毛 |
High Top | Derring-Do | |
Camenae | |||
Reprocolor | Jimmy Reppin | ||
Blue Queen | |||
*ワンスウエド 1984 栗毛 FNo.4-m |
Blushing Groom 1974 栗毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Runaway Bride | Wild Risk | ||
Aimee | |||
Noura 1978 黒鹿毛 |
Key to the Kingdom | Bold Ruler | |
Key Bridge | |||
River Guide | Drone | ||
Blue Canoe |
クロス:Nasrullah 4×5(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)
掲示板
1609ななしのよっしん
2022/05/16(月) 23:09:12 ID: aeAIiJWHZi
1610ななしのよっしん
2022/05/17(火) 07:41:30 ID: hBdQtR2Hvi
京都大賞典ではスペシャルウィークに気をとられて仕掛けが遅れ菊花賞ではアドマイヤベガに気をとられて仕掛けが遅れ
そりゃ2戦続けて同じような負け方したらオーナーもキレるわ
1611ななしのよっしん
2022/05/24(火) 00:32:35 ID: oc9cL4Qjdd
>>1594
その辺の逸話を聞くと某馬なりでの扱いがすごくモヤッとする
ブロコレ入りして余計なプレッシャーが抜けたとか現実と正反対じゃねーかよと
急上昇ワード改
最終更新:2022/05/24(火) 09:00
最終更新:2022/05/24(火) 09:00
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